⑧
日曜日、午後六時。俺は遂に一葉の居所を突き止めていた。
考えてみれば、最初からおかしかった。一葉の実家だ。やけに悠長だった。俺なら娘が失踪したら、一番原因として疑わしい彼氏に任せきりにはしないし、それどころか問い詰めるだろうし、警察にはすぐに行く。
一葉の実家は、一葉の居所を知らされていた。俺たちの家から程近いホテルに、この数日ずっと滞在していたのだそうだ。実家に直接足を運んで頼みこんだら、母親が教えてくれた。申し訳ないと謝罪を添えて。両親は俺からの電話の後、連絡くらいしなさいと一葉を説得してくれたらしいから、何も悪くはない。次に俺から連絡があったら居場所を言おうとも決めていたようだ。
どうやら一葉は、仕事をクビになってしまったから、再就職が決まるまで俺に合わせる顔がない、というような説明を両親にしていたらしい。多分、再就職をしようと早速奮闘していることは事実だろう。一葉はそういうやつだ。
部屋番号、七一三。間違いない。短く息を吸ってから、コンコンコンと、俺は扉を三度叩いた。
足音はすぐにした。しかし扉はなかなか開かない。多分覗き穴から俺の姿を確認して、
「一葉、開けて」
呼びかけてからも、しばし扉は開かなかった。だがもう居場所まで割れているのだから、これ以上粘っても仕方ないと観念したか、やがて薄く開かれる。
「悠大……」
一葉の顔が半分だけ現れる。ここに来る直前までは、話してくれなかったことで少し怒っていたが、一気に感情が迷子になった。気づいたとき俺は扉をさらにこじ開けて、一葉を腕の中に閉じ込めていた。
「ばーか」
本当はもっと言ってやりたい言葉があった気がしたが、全部忘れてしまった。だから小学生みたいな言葉だけ投げかけて、言葉にならなかった分を腕の力に変えて、一葉を精一杯抱き締める。
「親に聞いた?」
「うん」
「仕事、クビになって」
「辞めたんだろ」
「えっ」
「九月生まれの男に、俺が殺されるんだよな」
「そんなことまで知ってるの?」
「探偵ごっこやってた」
「すごいね。本当に探偵みたい」
「だろ。でも一葉って、占いなんて信じるキャラだったっけ」
「信じないよ……普通は、信じない」
応じるように背中に回されていた細い手から、その後、力が抜けた。
「占いの次の日、中途採用で入ってきた一つ下の人が、九月生まれの男の人で。それで、怖くなっちゃった。上の指示で教育担当になっちゃって、なんか、初日からちょっと気に入られている感じがしたから、余計に。占いごときで仕事まで辞めちゃうなんて、引くでしょ? なんて説明していいか分からなくて、それで、家に帰れなくなって。せめて新しい仕事を見つけてから説明しようって……」
一葉は俺の顔を見ないまま、喋り続ける。
「急にいなくなって、ごめんね。せめて連絡しなきゃいけなかった」
「ほんとそれな。俺、わざわざ有給まで取ったんだからな。三日も、無理やり。しばらく出世できなさそー」
言いたいことは言っておこうと思った。でも、できるだけ軽く聞こえるように気を付けはした。一葉は俯いたままだ。
「本当、ごめん……謝って済むことじゃないね」
「でも一葉は、俺のために仕事まで辞めたんだよな」
「私のためかもしれないよ」
一葉はやっと顔を上げて、俺を見上げた。ここで泣けない、あるいは泣かないのが一葉だ。
「悠大のためにどこまでできるのかって、私はちゃんと人を愛せているのかって、知りたかっただけかもしれない。実際……そこまでできて、私、ちょっと安心しちゃった。そんな自分に、自分で引いた、のと」
言葉を探すような間が、長く続いた。一葉が話し出してからも、いつもよりも言葉の接続に時間がかかっている。
「思ってたよりずっと、私は悠大のことが好きだったけど、悠大はどうなのかなって、知りたくなっちゃった。ここまでするつもりじゃなかったのは本当だけど、少しだけ、悠大に心配かけてみたい気持ちも、あったかも。勝手でしょ?」
「すげー勝手」
嘘は嫌いだから、俺は正直に言った。一葉は視線こそ下げたが、やっぱり泣かない。
「でも、一葉の勝手、初めてだな」
「そうだっけ」
「うん。お前、俺が仕事でしばらく放置しても、飲んで朝帰りしても、何も言わなかっただろ。誕生日忘れても笑って許されたときは、正直逆に寂しかったかもしんない」
「思うところはあったけど、それくらいで怒るの、子供っぽいかなと思って」
なんとなく交際だからという言葉で、これまでちょっとした引っかかりを全部受け流してきた。それは多分一葉も同じだろう。俺たちはもっとたくさん、こんな風に、事件を起こしてこなきゃいけなかったのかもしれない。失踪事件なんてものは、流石にもうごめんだけど。
「占い師のところまでは結構頑張ったけど、お前の居所を見つけたのは、親に聞いたからってだけだ。最後は恰好つけられてないけど、お前が俺のこと好きなくらい、俺ってお前のこと好きかな?」
「十分過ぎるよ。心配かけてごめん。探し出してくれてありがとう」
「じゃあ」
ごそごそと、俺は鞄をまさぐった。本当なら、一週間後のクリスマスに、俺にしては背伸びしたレストランでディナーをしながら渡すつもりだったものを取り出す。
「以降お互い失踪禁止ってことで、どうですか」
俺が両手で差し出した小箱を、一葉は同じく両手で受け取った。リボンを解いて、外箱から取り出して、内箱をゆっくりと開く。直径一センチ弱の小さなプレゼントだったけれど、俺にとっては人生で一番大きな買い物だった。あ、いや、車の次にか。
「ちゃんと三カラットあるから。指輪の土台はデザインの好みもあるからって、石だけにしたし……」
一葉がそれを俯いて見つめたまま、全然何も言ってくれないので、焦れて余計な言葉を長々足してしまった。一葉が笑った気配がする。
「ありがとう。嬉しい」
隣の棚に丁寧に箱が置かれて、今度は一葉から俺に腕が回される。頑張ってクール顔でいるのに、心臓が暴れてるの、ばれちゃうな。でも、それでいい気もした。
「よろしくお願いします」
世の中広いけれど、失踪事件の結末がプロポーズだなんてことになるのは、多分俺たちくらいじゃなかろうか。のちに結婚式で、康史と美優を始めとする知り合いたちから、動画まで作られていじられることになるのを、この頃の俺たちは知る由もない。ただもうとにかく幸せで、一年ぶりくらいに恋人繋ぎで街を歩きながら、互いの好きなものだけを買いまくって、二人で二人の家に帰った。
一人だと広すぎた家が、元通りちょうどいい広さになって、それがまた幸せでならなかった。
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