壱章-⑧

 *



 巴家本邸の一室にて。

 夜も明け切らない中、巴家当主・巴雄一郎は一人の男を執拗に殴っていた。


 その男というのは、巴家の分家筋の次男、古谷勝己だ。顔面が原型をとどめていないくらい腫れて見るも無惨だが、それでも雄一郎は殴るのをやめない。それは、勝己がそれだけのことをやらかしたからだ。


「ごとう、しゅ」

「うるさい、黙れ!」

「や、め、やべてぐださ、」

「お前が、お前さえいなければこんなことには!」


 治まらない怒りを拳に乗せて幾度となく殴りつけていると、ふと部屋に誰かが入ってくる。


 巴家次期当主・巴弓乃だ。彼女はこんな朝方にもかかわらずしっかりと振袖を着込み、化粧までしている。その後ろには彼女の侍女である鏡子がぴたりとついていた。

 雄一郎の暴挙を一瞥した弓乃は、呆れたように言う。


「お父様。そんな屑を殴っていたところで、事態は何も変わらないと思うわよ?」

「……何?」

「今必要なのは、琴乃のことを犯そうとしたその屑男への罰ではなく、琴乃をどのようにして取り返すか、でしょう。無駄な時間を取らせないでくれない?」


 その言い方に喉元まで言葉がでかかったが、すんでのところで抑え込む。弓乃の言うとおり、時間がないのだ。そのため雄一郎は、勝己の胸ぐらから手を離して血に濡れた拳を彼のシャツで拭う。

 そして立ち上がると、腕を組んだ。


「その通りだ。琴乃を早く連れ戻さねば、巴家は呪いの反動を受けることになる……」


 巴家の呪術は、双子を媒介にして幸と不幸の差をつけ、不幸を一人に押し付けることで家そのものを豊かにするというものだ。当たり前だが、押し付けていた人間が屋敷からいなくなったり、幸福になってしまえば、今までの反動がそのまま家そのものに返ってくる。呪い返しだ。

 呪い返しに合えば、巴家は没落の一途を辿る。巴家当主として、それだけは避けなくてはならない。


 これもそれも、琴乃を手篭めにしようなどと愚かなことを考えた甥のせいだ。そう、雄一郎は舌打ちをする。


 二度と屋敷に入るなと言った当日の真夜中に屋敷に足を踏み入れたことですら度し難いのに、それ以上のことをしでかしてくれるとは。つくづく使えない。

 そしてことの重大さ自体は理解しているらしい勝己は、ぶるぶると震えながら情けなく座り込んでいる。


 ため息混じりに、雄一郎は言う。


「弓乃、琴乃の場所は分かるのだろうな」

「は? 誰にものを仰っているの? あたしたちは双子よ、分かるに決まってるでしょ。……というよりそもそも、あんたたちがたった一人の男にしてやられて見失うほうがどうかしてるでしょ。なっさけない」


 はん、と。弓乃が鼻で雄一郎を含めた一族の術者を嗤う。ぴきりと、雄一郎の額に青筋が立った。

 我が娘ながら、本当に人の癪に障る言い方しかしない女だ。


 そもそも、巴家の財政状況が崩れる原因の一端は、弓乃なのだ。

 弓乃には浪費癖があり、着物や化粧品などにことさら金をかけたがる。西洋文化に染まり出してからはさらにひどい。やれ帽子だのワンピースだの、ネックレスやブレスレット、とにかく買う。その上、馴染みの呉服屋が新作を出したと言えば軒並み買い込んでしまうのだから、手に負えなかった。これらがなければ、巴家にはもう少し潤沢な資金があっただろう。


 何度も止めるように言おうと思ったが、弓乃ほど上手く妖魔――禁忌を犯したあやかしや怪異を払える人間は巴家にはいない。巴家は退魔師を主な生業として生計を立てている。そんな巴家の稼ぎ頭に、文句を言える人間はいなかった。

 そのため、雄一郎は弓乃の言い方に苛立ちながらも問う。


「それで、どこだ」

「孤月院家よ」

「………………は?」


 雄一郎は思わず、口をあんぐりと開けて絶句してしまう。それは勝己も同じで、ガクガクと体を震わせながら奇声を上げ始めた。しかしそれを叱りつける気力すら湧かない。


「は? あの孤月院家? 神族血統のかっ?」

「むしろそれ以外に、孤月院なんて名前あるわけ?」


 今回ばかりは、弓乃の嫌味に溢れた言葉すら気にならない。それくらい、雄一郎は絶望的な心境に陥っていた。


 終わった――


 孤月院家と言えば、皇国にとっては名家中の名家。なくてはならない存在で、一、二を争うほどの富、名声、霊力を持つ家柄だ。彼の家系の前では、巴家など塵芥の一つでしかないだろう。

 張られている結界の強度や護衛の数が一体どれくらいなものなのか、考えるだけで頭が痛い。その屋敷の中にいるとなれば、連れて帰ることなどほぼ不可能だ。巴家の術者が侵入者を見失ったのも、仕方のないことだった。


 どうしてそんな家に保護されているのかは不明だが、事態は圧倒的に悪い。

 そもそも、琴乃には戸籍がないのだ。戸籍の中に琴乃を入れれば、後々面倒なことになる。琴乃が屋敷から出なければそれで事足りたが、彼女が外へ出てしまった今、それは逆に巴家の人間だということを証明できず、巴家側を不利な立場へと追いやっていた。


 思わず頭の中が真っ白になってしまった雄一郎をさすがに不憫に思ったのか、弓乃が猫撫で声で言う。


「安心しなさいな、お父様。考えはあるわ」

「あ、あるのか!?」

「もちろん。……まあそのためには、そこの駄犬の献身が必要なのだけれど、ね?」


 そう言ってから、弓乃がつかつかと勝己の前に立つ。そして首をがっと掴むと、無理やり顔を近づけた。


「勝己、良いこと? お前はあたしの言う通りに動きなさい。上手くできたら、今回の不祥事は全部無かったことにしてあげる」

「ほ、ほんとうですかっ!?」

「ええ、もちろん。そしたら家から勘当されず、今までと同じ生活が送れるわ。悪い話じゃあ、ないでしょう?」


 くつくつくつと、弓乃は悪い顔をして笑った。その顔に含みがあることに雄一郎は気づいたが、肝心の勝己は気色ばんだ顔で弓乃の言葉を待っている。


 そんな勝己の唇に指を当てながら、弓乃は甘い砂糖菓子でも喰ませるような声で作戦内容を告げた。その一句一言を噛み締めるように聞いた勝己は、何度も頷いてから言う。


「分かりました、言う通りに動きます!」

「良いわ。分かったなら、あたしの指示があるまで自分の屋敷で待機してなさい。いいわね?」

「はい!」


 まるで犬のように従順に返事をした勝己は、何度も土下座をしてから転がるようにして部屋から出て行った。

 そんな勝己を見送りながら、弓乃は侍女の鏡子からハンカチーフ渡され、それで両手を拭っている。その顔には嫌悪が滲んでいて、先ほど説明をしたときとは真逆だった。


「ああいうのは扱いやすくていいわね、お父様。惨めで愚かで、むしろ可愛らしいくらいだもの」

「……わたしの予想が正しければ、勝己が生きて帰れる可能性はないのだが、それで間違いないか?」


 すると、弓乃がきょとんと目を丸くした。そして肩を竦めながら満面の笑みを浮かべる。


「そんなの、当たり前じゃない。あんな屑、惨たらしく死ぬのがお似合いよ。――むしろ、最期まで家を守るために使ってあげるあたしは、この世で一番優しい女だわ」


 そう言う顔に失踪した妻の面影を見出し、雄一郎は改めて思う。


 女ほど、怖い生き物はいない、と。


 妻・瞳子ひとみこもそうだったが、女ほど何重にも顔を持っている生き物などいない。特に弓乃は、その顔の下に悪鬼を飼っていた。でなければこんな人でなしの作戦を考えつくはずもなかった。

 しかしそれと同時に、弓乃の作戦で琴乃を手元に戻せる可能性を見出し、わずかながらも希望を見出した。


 そう、琴乃は巴家のものだ。巴家の――雄一郎の玩具だ。壊れても問題ない玩具。瞳子の代わり。

 その玩具が、外に出ていい謂れは、ないのだ。


 ああ、戻ってきたなら、もう二度と屋敷から出たいと思わないよう、そんな気すら湧かないように再教育をしなければならない。光すら入らない座敷牢に閉じ込めて、痛めつけていたぶって、自身が人間なのだと、そう思わせないようにしなければ。ああ、そうだ。分家の人間と話していた例の儀式・・・・をやるのでもいいかもしれない。

 そして最期の最期まで妻の代わりとして、虐げて愛してあげなくては――


 そう思いながら、雄一郎は恍惚とした顔をして目を細めたのだった。

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くちづけの花嫁 しきみ彰 @sikimi12

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