壱章-⑦

 一口含んだ瞬間、琴乃は目を丸くした。


(とても、美味しい)


 普段冷え切ったごはんを食べていたせいか、温かいというだけで白飯がとても美味しかった。甘みがあって、噛めば噛むほどしみじみ美味しい。


 天ぷらも揚げたてで、衣はぱりっとしていた。琴乃が食べたことがある天ぷらはべちゃっとしたものなので、同じ食べ物なのかと驚く。

 山菜にはふきのとう、たらの芽、こごみが使われていた。どれもほろ苦くて、でもその独特の苦味が癖になる。揚げたてだからか、そんなに苦味も強く出ていなかった。海老も衣が薄く、身がぷりぷりで美味しい。


 筍は柔らかく煮えていて、芋のようなほっこりした食感とさっくりとした食感があって不思議だった。初めて食べる味だったが、香ばしさもあって美味しいと思う。絡んでいる鰹節も香り高くて旨味があり、それが筍とよく合った。


 ふきのおひたしは食感がよくシャキシャキしていて、いい具合に冷えているのがそれがまた味を際立たせている。合間にお味噌汁をすすれば、お腹の中から温まっていくのを感じた。


 ゆっくりゆっくり。噛み締めるように食べていったが、今まで生きてきてこんなにも食事が美味しいと思ったことはなかったと思う。

 甘くて、ほろ苦くて、それでいて温かくて優しくて美味しい。

 部屋の前にぞんざいに置いてある、冷え切った食事とは比べ物にならなかった。


 気づいたら全て完食していて、琴乃は目を丸くする。同時に、自分にこんな欲があったのかと驚きを隠せなかった。

 箸を置いた琴乃が自分の浅ましさを実感して猛省していると、食後のお茶を飲んでいた栄が笑みを浮かべる。


「良かった。食事、口に合ったみたいだね」

「あ……は、はい。とてもとても、美味しかったです」

「そっか。それならよかった」


 恥ずかしくなって俯いていると、使用人がささっと現れて食器を持っていってしまう。その素早さに感心していたら、栄が視線を向けてきた。


「……ところで、少し話をしてもいいかな?」

「も、もちろん、です」


 咎められなかったことに安堵しつつも、琴乃は居住まいを正して栄の言葉を待つ。栄は正座をすると、話を始めた。


「まず、だ。僕はずっと、君のことを探していた。それは、君が僕の花嫁だからだ」


 栄はとんとんと自身の胸元を指先で軽く叩く。


「神族血統の伴侶というのは特別でね。ここに自身の血統が掲げた花印かいんが刻まれている人でないとだめなんだ。しかも個人ごとに相手が決まっていて、その人じゃないとダメ。同時に、その相手とでないと子孫を残せないんだよ。だから神族は、印持ちを殊更大事にするんだ」


 その説明を受けて琴乃は、自身の胸に刻まれた赤い痣の意味を知る。あれは痣ではなく、伴侶を探し出すための目印だったのだ。

 自身の胸元に手を当てて琴乃が息を呑んでいると、栄は困った顔をした。


「でも、琴乃の印は本当に微弱でね。とてもではないけど、探し出せなかった。年を重ねるごとに大きくなっていったけど、それでも夢を使って渡るのが精一杯。その夢の中でも、下手に話したり近づきすぎると弾かれそうになったから、あまり声をかけられなかったんだ」

「そう、だったの……ですか」

「うん。……だから、助け出すのが遅くなってごめんね。あんな場所にいたことを知っていたら、無理やりでもどうにかしたのに……」


 栄がとても申し訳なさそうな顔をすることが意外で、琴乃は目を丸くした。


(どうして栄様がこんなにも、痛ましいお顔をされるのかしら)


 琴乃があのような待遇を受けていたのは、巴家の人間だからだ。巴家の双子の妹に生まれた人間の宿命だったからだ。決して、栄が探し出せなかったせいではない。

 しかしそれを上手く伝えることができなくて、でも命の恩人にそのような顔をさせるのが忍びなくて、琴乃はふるふると首を横に振る。


「栄様が、気になされるようなことではありません。むしろ、どなたも助けてはくださらないと思っておりましたから……助けに来てくださったこと、本当に本当に感謝しております。……だからどうか、気になさらないでください」

「それなら、いいけれど……」


 釈然としない面持ちで頷いた栄が、首を傾げる。


「勝手に連れてきてしまった手前、今更こんなことを聞くのはあれなんだけど。琴乃は、僕の花嫁になってくれる?」


 それを聞いた琴乃は、少しだけ考えた。


(つまりそれは将来、私が、栄様の奥方様になるということ……よね?)


 弓乃のように、華族間では未だに政略結婚が主流だ。自身が嫁ぐようなことはないと思っていたとはいえ、琴乃も巴家の娘。恋愛感情がない結婚に躊躇いはない。恩人に恩返しができるのだと思えば、むしろありがたいくらいの良縁だと思う。


 ただ、栄は本当にそれで良いのかという疑問はあった。

 琴乃はおずおずと口を開く。


「栄様は本当に、私で良いのでしょうか……?」

「むしろ、琴乃以外はいらないよ」


 琴乃が思っているよりもすっぱりとした言葉が返ってきて、驚く。しかし栄の目が本気だということは、火を見るより明らかだった。

 どのような形であれ、自分の存在が認められている。それは琴乃にとって、夢のようなことだった。


 それに、役目が変わったと思えば特に違和感もない。親不孝とそしりを受けることは明白だったが、家よりも恩人に身を捧げるほうが良かった。


 だから、決して期待してはいけないと自分に言い聞かせる。

 これは愛ではなくて、血筋的な呪いなのだから。


 ごくりと喉を鳴らした琴乃は、畳の上に手を添えてから深々と頭を下げる。


「不束者ですが……どうぞよろしくお願いいたします」


 それから少しして、栄が声をかけてきた。


「琴乃」

「はい」

「僕の花嫁になるにあたって、君には一つ役割が出てくるんだ。それをやってもらうと言っても、本当にいいの?」

「……役割、ですか?」

「うん。神族血統は特殊な体質だから、定期的に穢れが体に溜まってしまう。そしてそれを祓えるのは、花嫁からのくちづけだけなんだよ」


 くちづけ。

 思ってもみなかった言葉に、琴乃は目を白黒させる。

 しかしどうしてそんなにも栄が真剣な顔をしているのかは分からなかった。


(お互いの唇が触れ合うだけ、でしょう?)


 命を脅かされることも、痛みに耐える必要もない。

 何より、恩人である栄に対してできることがあるという事実が、琴乃には嬉しかった。


 だって琴乃は弓乃と違って、何も持たないちっぽけな存在だから。


「構いません」


 だからなんの躊躇もなく頷いたのだが、栄は困った顔をする。


「……分かった。じゃあ、遠慮なく」


 そう言い、栄が琴乃の目の前に移動した。

 そうして、彼が琴乃の顎を持ち上げる。まるで宝物にでも触れるような優しい手つきに、彼女はくすぐったさを覚えた。


 そうしてお互いの視線が絡み合う中、唇同士が触れ合う。


 やわらかい。


 しかしそれも一瞬、すぐに離れてしまう。

 きょとんと目を丸くしたまま見上げる琴乃に、栄は曖昧な笑みを浮かべ言う。


「……よろしく。僕の花嫁」


 ――そうして、琴乃が栄の笑みの意味を知らないまま、二人は婚約者となったのだ。

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