第12話
私が彼の顔を見る日は、思いがけずやって来た。
色が見えるようになったと電話で話しているとき、彼が明日お見舞いに行くよといってくれたのだ。
「仕事は大丈夫なの?」
すごくうれしいけど、私は「仕事と私、どっちが大事?」なんて迫るほどお子ちゃまではない。
「うん、大先生の方から行って来いっていってくれたんだ」
まだ大先生たちには電話していなかったけど、きっと香月先生から先に連絡が行ったのだろう。これでまた、大先生にいびられる。
「まだ一時間くらいしか目を開けていられないの。大半は検査に時間を取られちゃうから、見計らって来てもらってもいい?」
私は早く彼の姿が見たい。彼に、あなたと同じ色が見えると伝えたい。
「うん、そうするよ」
彼は電話を切った。
翌日、私の検査は思いのほか早く終わった。
「四時になったら包帯を巻きに来るから」と、香月先生は念のためアラームをセットして出て行った。
私は一人きりの時間を、鏡を見て過ごした。
私自身との、初めてのご対面。
近視や遠視とは違って、鏡を近づけたり遠ざけたりしてもピントは合わない。それでも近くにあるものの方が大きく見えるから、鏡を顔に近づけるとより見やすくはなる。
ふうむ、これが私の顔か。
彼が美人だといってくれていた顔とは、これなのか。
私にはまだ美人の顔というのがどういうものかわからない。でも魅力という点では、香月先生の顔の方がずっと上のような気がする。
これは、彼が来たら問い詰めなければなるまい。
そんな風に自分の顔をためつすがめつしているところへ、おずおずと彼が入って来た。
いまの、見られちゃったかしら。
「やあ、僕のこと、見えるかい?」
椅子に座るときまで、おずおずしなくてもいいのに。私が至近距離で鏡を見ている姿は、相当滑稽だったらしい。
「うん、見える。おみやげ持って来てくれてるのも。それは、ゴディバのチョコかな?」
「そうだよ。初めて見るのに、いい勘してる」
「袋の音がいつもと同じだもの。それに、そっちの手に持ってるのは、白杖?」
「うん」
「新しいのを買ってくれたの?でも私、もう白杖がなくても歩けるのよ」
「これは、僕の」
「あなたの?」
「うん、僕、目が見えないから」
一瞬、彼がなにをいっているのかわからなかった。
目が見えないのは私の方で、しかもそれは過去の話だ。いまの私はなにもかも見ることが出来る。
「なにをいってるの?」
私に色を教え、目が見えたらどんなにいいかを説いたのはあなたじゃないの。
「僕は、目が見えないんだ。君と同じで、生まれつきの全盲」
あ、君はもう違うか、といって彼は笑う。
「そんな、だって、じゃあどうして空の色とかイチョウの葉の色を私に教えられたの?」
「聞きかじり。僕は以前から色に興味があってね。目が見える人たちとたくさん話をして教えてもらったり、僕のイメージを聞いてもらったりしてたんだ」
「私に、嘘をついたの?」
どうせ嘘をつくのなら、彼の目が見えないということが嘘であって欲しい。
「嘘はついてない。僕は一度も、目が見えるなんていわなかったよ」
「そうだけど、どうして見えないっていってくれなかったの?」
「それをいってたら、君は手術を受けたかい?」
私は黙り込んでしまった。
それは、正直なところ怪しい。
意固地な私は、目が見えない人に「見えた方がいい」といわれても、はいそうですかとは聞かなかったはずだ。かといって見える人にいわれて、素直にしたがったとも思えない。
私は目が見えないことを不満に思ってはいなかったし、それを憐れに思われるのも嫌だったのだから。
「僕は、目が見えない君にいちばん近いところにいるような気がしたから」
僕にはわかるとでもいいたいのだろうか。
「どうして、こんなこと」
「君には、見えるようになって欲しかったんだ」
僕には君のことがわかるとでも?
「だから、どうして?」
「君はよっぽど僕を信用していないか、忘れっぽいかのどちらかだね」
彼は笑っていた。
「前にもいったと思うんだけど、君は目が見えた方が素敵なものをたくさん見つけられると思うんだ。君と話していて、そう思ったんだよ」
あなたは本当に私のことがわかっているつもりなの?
「もちろん、それは君だけじゃない。目が見えない人が見えるようになれば、たくさんの素敵なことを見つけられる。実際の生活の面でも、ずいぶん助かることが多くなると思う。だから本人が望むなら、出来るだけたくさんの人に見えるようになって欲しい」
松浦さん、あなたが私のことをわかっているだなんて思っているのなら、
「でも僕は、誰より君に見えるようになって欲しかったんだ」
大当たりだ。
あなたは、悔しいくらい私のことがわかってる。
他の誰かに説得されていたとしたら、きっと私は拒否していたと思う。
「あなたは、手術を受けないの?」
「僕は、外側膝状体が萎縮しちゃってて、だめなんだ」
「そんな…」
じゃああなたは、自分が永遠に手に入れられないものを、私にくれたというの?
あんなに楽しそうに色を語って、世界を広げて、私に恋をさせて。
「だから僕は、目が見えるようにはならない」
私はなんといっていいかわからず、黙って彼の顔を見つめていた。
「自分の顔は、もう見たかい?」
「ええ」
「どうだった?」
私はもう一度、そっと鏡を見た。
荒れた肌、ちぐはぐな眉、ゆがんだ唇。
こんなもの、ひとつも美しくない。
どこをとったって、美しさのかけらもない。
「どうだった?」
もう一度、彼はいった。
「美人だったわ。あなたのいった通り、私はとても美人なのよ」
私はうつむいた。
「あなたも、とってもハンサムだわ」
「知ってる」
そういって、彼は笑った。
私は、彼に信じて欲しかった。私が彼の言葉を信じたように。
私の目に、彼がどんなに素敵に映っているか、知って欲しかった。
「空は、どんな色をしているかな」
私はベッドを降りて、閉ざされたままの分厚いカーテンを開けた。
香月先生には、「まだショックが大きいから」と禁じられていたことだ。
窓の外には、街が広がっていた。
そこにある個々のものが、ビルや、木や、道路や、家だということは、もっとずっとあとになるまでわからなかった。
だけど空は、すぐにわかった。
冬の街の上に広がる、青い空。
あまりにも広くて、私の足は震えた。
目を閉じて、暗闇に戻ってしまいたかった。でも私は、いまこの空を見なくてはならない。
「空は、青いわ」
私は彼を振り返った。
彼は静かに微笑んでいた。
「それに、ハッカの味がするわ」
「そうか、よかった」
彼はとても満足そうだった。
あなたはその青を、私に教えてくれたハッカ味の空を、永遠に見ることは出来ない。
そのあなたに、私はなにが出来るの?
わたしがあなたの目になるなんていうのは、おこがまし過ぎる。
私の目は、彼がくれたものだ。
私の色は、初めから彼のものだ。
「屋上に行くと、もっときれいに見えるらしいけどね」
どこへ行こうと、あなたには見えない。
「景色よりなにより、君が色を見られないのが残念だな」
見られないのは、私じゃない。
「大丈夫、恋は盲目だから」
それは、恋のせいなんかじゃない。
「せっかく見えないんだから、きれいなところにいるって思っとこうよ」
きれいなのは、景色なんかじゃない。
私の手を握りもしなかったのは、あなたの目が見えないとわかってしまうからだったのね。
私は彼のところに戻って、彼の手を強く握りしめていった。
「私と付き合ってください」
Blind @wadadawa
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