菊子の万華鏡

いすみ 静江

菊子の万華鏡

 万華鏡を覗くと、あたしのお母さんが見えた。

 どこかの穴で暗く寒くて震えていた筈だが、一瞬で桃色に包まれる。


菊子きくこちゃん、菊子ちゃん……。明日には十歳になったのにね」


 あたたかい空気と優しいお母さんの笑顔が、指先までともしびをくれる。

 お母さんの双眸は後悔を流して訴えてきた。

 話したいことが山ほどある。


「お母さん。お誕生日には、しまっておいたお芋をふかそうって言ったよね。お父さんも帰ってくるからって」

「あのさつま芋は菊子ちゃんにお願いするよ。それから、この子にも甘く煮込んであげてね」

「約束する。もっと近くにこれないの?」


 万華鏡の中で小さな飾りがカラカラと回っている。

 お母さんは小さなつぶてとなって、巻き込まれてしまった。


「笑顔が崩れてしまうよ。お母さん! 痛いでしょう?」

「お願いよ。菊子ちゃん……」


 声がこんなに短い万華鏡なのに遠ざかってしまった。

 不思議だが、これはきっと夢に違いない。

 お日さまが顔を出したら、笑い合っているのが本当のあたし達だ。


「待っているからね」


 万華鏡の向こうに声を掛けると、ぼんやりと遠くにいる筈のお父さんが浮かんだ。

 とても久し振りなので、あたしの方がうるうるとする。


「菊子は、こっちにきたらいけない。絶対にいけないからな。弟も頼んだぞ」


 こちらを向いていたのに、背を向けながらキラキラした飾りの中へと散って行った。

 万華鏡は、あたしの大切を飲み込んで行く。

 喜んだのは束の間で、酷なことをされた。


「お父さん! お家はこっちだよ……! 間違えないでよ」


 会えないのかとがっかりしたときだった。

 小さすぎる弟が、もう喃語なんごを口にした。


「あぶう……。ねえね」

「お芋はどうしたの? お腹一杯食べるんだよ?」


 弟までも儚い魂の光となって、万華鏡の奥底へと飛び去った。


 ◇◇◇


 どうしてこんな暗がりにいるのだろう。

 お母さんは、お腹を大きくしていた。

 昨日までは。


「お母さん、しっかり。男の子が産まれたよ」

「お乳を含ませてやって、菊子ちゃん……」


 その子は細く小さかった。

 栄養が足りなかったのか。


「それから、名前を――」

「うん、弟をありがとう。お母さん、名前はどうしたいの?」


 乳を含ませてやりたかったが、吸い付きが悪い。

 それとも出ないのか。


「菊子ちゃんはお姉さんなんだよ。つけてあげてね。この子に相応しい名前を」


 殆ど出ないお乳にむしゃぶりつく姿に、あたしは生きる望みを託した。

 横顔からは、微笑んでいるように見える。

 そうだ、朗らかなんだ。

 おうちを明るくするいい子なんだ。


「朗らかを志すと書いて、志朗しろうちゃんはどうかな。にこにこしていて、可愛いよ」

「志朗ちゃんか……。菊子ちゃんは立派なお姉さんになったね」


 お母さんは、眠るようにお腹に弟を抱えて果てた。

 周りの大人は、産褥さんじょくだと囁くが、あたしには難しい。


「お母さん! お母さん! お母さん……!」


 哀しみのあまり、連呼するしかなかった。

 泣きつかれて、涙も出ない。


「志朗ちゃん……」


 弟のことを考えて前を向くしかない。

 

「お父さんはね、遠くの戦争に行っているんだよ。帰ったら、志朗ちゃんを可愛がってくれるからね。一本しかないさつま芋も山のように抱えて、お土産だってくれるんだから」


 もう、親指ほどしかないさつま芋をあたしは食べる訳には行かない。

 芋をとろとろに煮て、志朗ちゃんの口へ運んだ。

 いつも通りにやわらかくしたのに、口の端から零れてきた。


「これしかないから、拾うね。ごっくんだよ」


 口から零れたのではなかった。

 あたしの腕に重みがぐっとかかる。

 白目をむいていた。


「志朗ちゃん! 志朗ちゃん! 志朗ちゃん……!」


 お母さんの遺してくれた志朗ちゃんが、お父さんに会えない内にこんなことになるなんて。

 助けてくれる大人なんていない。


「こんな所に万華鏡が――」


 お父さんが戦争へ行く前に、寂しいときにごらんなさいと渡してくれたものだ。

 暗い空へ向かって覗くと、大好きな家族の笑顔が見えた。


「菊子もあっちに行っていいかな?」


 笑顔がひとつ。

 笑顔がふたつ。

 笑顔がみっつ。


「平和になる日が待てないよ……」


           【了】

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