裸体

帆尊歩

第1話 裸体


「それでは奥様、ご準備の方はよろしいでしょうか」

「いえ、まだ迷っています。本当にそれでいいのか」

「いえ奥様、死の恐怖はどなたにもあります。それを楽しい思い出で軽減する。これはご本人だけの問題ではありません。残されたご家族にも心に平穏をもたらします」

「それは本当かしら」

「もちろんでございます」

「良いでしょう。分りました。あなたがそこまで言うなら」

「ありがとうございます。では後はお任せを」初老の男は深々と頭を下げた。




「ちょっと光一、寒いんだけれど」狭い部屋には、今時めずらしい灯油ストーブがあり、上に置いてあるヤカンから盛大に湯気が出ている。

それだけ見ると、この部屋はとても暖かいようにみえるが、隙間だらけの家では、暖気なんてあっという間に消えてゆく。

「モデルは動くなよ」

「動いていないでしょう。要求をしているだけよ。寒いから何とかしてって」

「口が動いている」そう言う光一の顔は、キャンバスに隠れて分らない。

あたしはすでに三時間、裸でこの椅子に座りポーズをとっている。

足を組み、体を少しよじって、片方の腕を背もたれに置き、窓の外を見つめる。

じっとしているのも意外と疲れるんだ。

プロのモデルの人達は、大変だなと思う。

光一もあたしのモデルをしているから、それは分っているはずなのに、なんの配慮もない。

「暖房強めてよ」

「売れない画家には、無理な相談だ」

「いやいや、自分は服を着ているから良いかもしれないけれど,こっちは裸なんだから」

「だから、ストーブを焚いているだろう」

「だけど、寒いって言っているでしょう。さもなくば全額とはいわないけれど、少しはモデル代ちょうだいよ」

「しょうがないな」と言いながら孝一は、灯油のストーブの火を強めた。

モデル代はくれないと言うことか。

光一がストーブの火を強めるために席を立ったので、私はポーズを崩して裸のままキャンバスをのぞき込んだ。

進んでいない。

まだ輪郭の状態だ。

連作の裸婦像。

ここ最近の光一の仕事だ。

本人はライフワークと言っている。

三時間何していた?

「なんか進捗が遅くない。三時間何していたの?」

「絵、描いていたに決まっているだろう」

言いながら光一が、椅子に戻れとでも言いたげにあたしを追い払う。

仕方なく、私はもう一度同じポーズをとる。

さらに時間が経つと、ストーブの上のヤカンのお湯がこぼれだした。

湯気は出していたけれど、火を強めたことによりこぼれたようだった。

光一がお湯を保温ポットに移し、また水からストーブに乗せた。

音が静かになると、部屋にはコンテがキャンバスを走る音しかしなくなる。

軽快なコンテの走る音が、あたしは好きだった。

「ああーダメだ、書けない。これはやめだ」と言って、光一が持っていたコンテをめちゃくちゃにキャンバスに這わす。おいおい、と私は思った。三時間も描いて今更か。

「ちょっと光一」

「あん」

「その絵、もう描かないって事」

「ああ」

「ちょっと待ってよ、じゃああたしの三時間はどうなるの。無駄って事」

「そうなるね」

「そうなるねってさらっと言うな。プロのモデルだったら、描けようが描けまいが、モデル料は払うんだよ」

「分っているよ」

「分っていない。気分が乗らないから止めるってどういうこと」

「気分じゃない、本当に描けないんだ」

「なら、あたしは用済みと言うことね。なら帰るけど良いの」と言って、あたしは横に置いてある服を着始めた。

「何だよ、今日は一緒にメシ食べようって約束しただろ」

「止め。じゃなければ、練り消しで綺麗に消して、画き直せるようにしてよ」

「イヤそれは鉛筆とちがって、コンテは完全には」孝一がブツブツ言うが、あたしはその孝一のぼやきを無視して服を着る。

孝一の裸婦モデルを散々やったので、服の脱ぎ着の早さには自信がある。

言い終わると同時に、あたしは服を着終わる。バックを持って、

「じゃあ、さようなら」と言って部屋を出ようとする。

後ろから、光一の「待てよー」と言う声が聞こえたけど、そんな光一の言葉を無視してあたしは部屋を出た。

これくらいの荒療治は必要だ。

別に本気で怒ったと言うことではない。

半分はポーズだ。

なぜなら、あたしは光一の才能を疑ったことはない。

でも光一は仕事にムラッケがあり、こういうことが、まま起こる。

デッサンは、三時間使った割に進捗はよくないが、決して悪い出来ではないとあたしは思った。

だからこそ、この絵はもう描かないと言った時切れたのだ。

この今回の絵に限らず、きちんと仕上げさえすれば、もう少し売れる絵が描けているだろうに。


光一は自称画家だ。

言うところの、売れない絵描き。

あたしと光一は、美大の同期だった。

あたしは光一のデッサンを見て、孝一の才能に打ちのめされた。

あたしも子供の時から絵が上手と言われ、市のコンクールでも一等なんて当たり前のようにとっていた。

そんなあたしが光一の絵を見たとき、電気に打たれたような衝撃が走った。

もし大学に入る前に光一の絵を見ていたら、美大に入ろうなんて思わなかったかもしれない。

光一は天才だ。

だからこそ光一は画家の夢を諦められず、就職もしないで絵を続けている。

さらに質が悪いのが、(売れない絵描き)という言葉が気に入っている節がある。

貧乏暮らし、何処か自分に酔っているのかもしれない。

ちなみにあたしは、絵の上手な凡人だった。

だから就職をした。

絵を辞めたわけではないので、自分でも描いているし、光一のモデルにもなる。

ここ最近の孝一のテーマは、裸婦だ。

モデルを雇うお金もないので、モデルはあたしがさせられる。

まあ付き合っているから、裸を見せることにはさほど抵抗はない。

そもそもあたしだって、光一の裸をモデルにして描いているのだ。


あたしの家は、光一の家と変わらない、木造のアパートの二階だ。

いくらあたしが安月給でも、普通に働いているから、もう少しまともな所に住めるけれど、出来るだけお金を貯めようと考えると、家はこんな感じになる。

光一の才能は信じているけれど。なんか売れて、画伯なんて呼ばれるようなイメージは、全然湧かない。

もし光一と一緒になったら、一生お金に苦労しそうだなと思う。

なら貯金だ。

帰るとまず着替えだ。

着ていた下着も、ユルユルの下着に変える。光一のモデルをするときは、高い下着を着けて行く。

そもそも裸になるから下着に凝る必要はないけれど、脱いでいるときに、ダサい下着と想われるのはイヤだ。

高かったから、大事にしないと。


着替えながら、一枚の絵が目に入る。

それは小さな部屋のリビングに、無造作においてある絵だった。

あたしの裸だ。

光一が初めて裸婦を描いたときの絵だ。

あの時は、まだ付き合い出してあまり日がないときだった。

まだ大学一年の時だ。

「君の絵を描かせて欲しい」そんな言葉を聞いたとき、光一の才能の片鱗を見た後だったので、私は二つ返事をした。

ところがなんと裸婦。全部脱げという。

いくら光一の才能を分っていたとはいえ、キスはおろか、まだ手もつないでいないときである。

それでも芸術のため、そして光一の才能を信じていたせいで、あたしは渋々裸になる決心をした。

いくら何でも学校で裸というのはとても恥ずかしすぎるということで、結局光一の部屋で、モデルになることになった。

でも考えてみれば、美大のデッサン室なら、絵のためと言う言い訳が出来るが、光一の家だから、芸術のためと言いながらも、何か言われそうだった。

ところがいざ書き始めると、そこにエロチックな雰囲気は皆無だった。

その時に描かれた物だった。

絵の中のあたしは、楽しそうに笑っている。

その場の雰囲気まで描けている。

楽しげに笑っている裸婦像なんて、あり得ないのに。

光一の才能を信じていた私は、大学を出るとき、就職はしないという光一の言葉にむしろ喜んだ。

これだけ本気になれば、必ず光一の才能は花開く。

あたしは、自分の裸を見ながら、祈るように光一の成功を想像した。



「絵、持って行ったの」そう言いながらあたしは、ハンバーガーにかぶりついた。

お金のない人間の唯一の味方は、ファーストフードだ。

光一にとっては、それすらも贅沢だ。

私は普通に就職したから、いくら安月給でも、光一の分の夕食くらいは出せる。

でも光一は、頑として聞かない。

自分の稼ぎでちゃんとした物を食べると言うのが、光一のポリシーだ。

「ああ、持って行った」

「何だって」

「インパクトが弱いって」光一は他人事のように言う。

「連作だって言った?裸婦「yoko」の人間的な成長記録だって」

「だからそれは分るけど、インパクトだって」

「うーん」と私は考え込んだ。

画廊をしている癖に、そんな事も分らないのか、と一人で悪態をついても何も変わらない。

「なんか作戦を考えないとね」

「まあ、良いよ」全く光一は他人事だ。だから売れない絵描きなんかをしている。


人間の成長、これは肉体的ではない。

精神的な成長を絵に込めることが出来る。

これが光一の才能だ。

裸婦「yoko」の精神の成長それが、連作裸婦「yoko」真骨頂なのに、それぞれ単体で見てインパクトが弱い?

誰が評価しているんだ。

仮にも画廊だろう。

私の不満そうな顔を見て、光一が言う。

「それはみんな分っているんだよ。画廊のオヤジも良い絵だって言っていた。でもそれで売れるかどうか、そこだけなんだ」

「なんか、やだなー」

「仕方ないさ」


今日は、あたしが光一の裸を描く日だった。

光一の全裸だ。

でも、別に何も感じない。

ただ、光一の筋肉の凹凸をいかに表現できるか、それだけだった。

鉛筆で黒く塗りつぶした所に、練り消しで光を与えていく、光一の筋肉は美しい。

筋肉を美しくするために鍛える。

そういうのとは根本的に違う。

光一の生きてきた歴史が、そこに刻まれている。

これは光一だけではない。

でもあたしは、光一の歴史を描きたい。

体の筋肉の凹凸を写しとっていく。影と光のコントラスト、どの濃さで、何処に光を与えるか。

それが才能だ。

あたしにはその才能が乏しい。

乏しい才能を補うのは、完璧な写実だ。

でも、それは写しとったにすぎない。

でも光一は違う。

光一の才能は完璧だ。

そういうことを言うと光一はいつだって、笑いながら「ありがとう、でもそれは陽子だからそう思ってくれるだけだよ」と言う。

光一の姿を写しとりながらあたしは、あることに気付いた。

「ねえ光一」

「モデルに話掛けるな。絵を描くことは真剣勝負だ」

「うん。イヤなんかさ、少し痩せた?」

「筋トレのたまものかな」

「いや全体に。体重計とかに乗っている?」

「いや」

「今度、計ってみなよ」

「ああ、分った」


光一の体重が明らかに減っていた。

そして、体力が落ちていた。

ただ事ではない。

私は無理矢理、光一を近くの内科に診せに行った。

でもそこの先生は、ろくに診察もしない。

「申し訳ない。紹介状を書くので、大きい病院へ、と言うか出来れば大学病院が良い」そう言われた。

「何か深刻な状態なんですか?」

「その可能性があります。一日も早く行ってください」先生はろくに診察をしない。それだけ、誰の目にも明らかな症状だったのか。


「金がない」と言う光一を、あたしは首根っこをつかむようにして、一番近くにある大学病院へ連行した。そこで言われた病名は。

「ブロック症候群です」と先生が言う。

いくつもの検査をして、結果が出るという日。最初に診てくれた先生もいたが、明らかに上の先生とおぼしき、年配の先生が話す。

「何ですかその病気は」先生の話にあたしが質問する。

光一は黙ったままだ。

「ここ十数年で出てきた新しい病気です。細胞の中には細胞核があり、それがオモチャのブロックのように硬化していく病気です。悪化すると体中の細胞が硬化してゆきます」

「治療には、時間が掛かるんですか」

「いえ、効果的な治療法はありません。緩和治療がせいぜいです」

「それは」

「原因不明の奇病です。申し上げにくいのですが。根治は例がありません」

「どうなるんですか」やっと光一が口を開いた。

「よく分りません。硬化を起こすのは体全体です、でも進行は人により部位が違う。そしてその硬化を起こす部位により、障害が変ります。たとえば頭の血管なら脳幹系。臓器であれば、その臓器」

あたしはそこから先の先生の話は、頭に入ってこなかった。

でも話をぼかそうが何をしようが、この先に待つ結論にはなにも変わりがないと言う強い言葉だった。



光一は、私の裸体を一心不乱にキャンバスに写していく。それは、自分の感情をキャンバスにたたきつけるように。

そして自らの心に書き付けるように。

私の裸体の絵も十五枚目だ。

過去の十三枚は、まだ一枚も売れていない。

最初の一枚は、あたしが持っているあの絵だ。

大事な、大事な絵。

初めて裸で光一の前に座ったのに、全然モデルらしくなく、照れて笑い、その自分の姿がまたおかしくて笑い、そんなモデルにあるまじき姿に、光一が文句を言い、でも光一も楽しそうで、笑いの絶えない時の絵だ。

今にして思えば、一番何の心配事のない楽しい時だったのかもしれない。


全力であたしを記録しようとする光一に、病気を理由に絵を描くことを止めさせることは出来なかった。

もう寒いなんて、軽口が聴ける状態ではなく、一秒でも多くの時間を心に刻むように、あたしの姿をキャンバスに刻みつけていく。

そして私も、消えゆくだろう光一の肉体をその裸体を、あたしはキャンバスに刻みつけていく。それは光一の生きた証だった。


あたし達のお互いの裸体を書き連ねていく行為は、次第に凄みを増していく。それは何かに追い立てられるかのように。

当然だ。

あたしたちは死という悪魔に、追い立てられていたのだ。

時間がない。

いつ追いつかれるか。

回数を重ねる事に、あたしが描く光一は、段々に筋肉が落ち、痩せていく、でもその分、生への執着が増ていく。

そして光一が描くあたしは、生に満ちあふれている。

でもそれは、光一の生への執着ではない。

光一の芸術への執着だ。

もっと描きたい。

もっと描きたい。

そしてそれを体現させるために、あたしは光一にあたしの裸体を見せつける。

記録して!

心に焼き付けて!

そして記憶して!

決して忘れないで!

光一の描くあたしの裸体の絵は、枚数を重ねていく。

そして、あたしの描く光一の裸体も、枚数を重ねていく。

何かを残したいと言う思い。

イヤ違う。

執着だ。

そのための作業だった。


絵を描かない時に私達は、よく公園や河原にいた。

お互いの裸体を描くときは、戦いだった。

だからこそ、不意にやすらぎを求めた。

確実にやって来る死を前に、安らぎなど必要ない。

でも、あたしは光一との安らぎの時間を欲した。

それがあたしの心に、あの時なんでもっとたくさん、一枚でも多くの光一を残さなかったか、と言う後悔が生まれたとしても、光一との安らぎの時間は欲しかった。


動くのが辛くなった光一は、ベンチに座っている。

あたしは元気に走りまわり、たまに光一に手を振る。

そんなあたしを見る光一の目は、優しげでいながら寂しげだった。

もっと光一といられたら。

絵が売れなくてもいい。

一生貧乏でも良い。

二人で絵を描き合って、ここが上手だ、ここがダメだ、と言い合いながら、二人で生きていく。タダそれだけで良い。

何もいらないのに、何十年も二人で生きて、最後に言うの。

ありがとうって。

でもそのためには、まだこんな時間では足らない。

五十年なんて贅沢は言いません。

三十年でも良い。

いえ二十年でも、五年でも、一秒でも長く一緒にいたいのに。

光一の命は尽きようとしている。


光一の体がいよいよ動かなくなってきた。

細胞の核のブロック化により、体中の血管が硬化を起こし、どこに障害が出るか誰にも分らなかった。

「陽子、ありがとう」

「光一」

「僕は死ぬことを恐いと思った事はない。

画家としても大したことない。

でもどうしても心残りがある。

陽子の裸体をもっと描きたかった。

ここ最近の陽子の姿を、陽子その物を、この頭に、心に、目に、僕が陽子を愛したと言うこと全てをキャンバスに刻み付けるために。

でも今は、陽子の美しさを世に残したい。この手が動かなくなるその瞬間まで」

「良いよ、その瞬間まで付き合うよ」

「でも最後に、弱音を言ってもいい?」

「なに?」

「絵が売れなくてもいい。一生貧乏でも良い、二人で生きていく、タダそれだけで良い。

何もいらない、何十年も二人で生きて、最後に言うんだ。

ありがとうって、でもそのためにはまだこんな時間では足らない。五十年なんて贅沢は言わない。三十年でも良い。いや二十年でも、五年でも、一秒でも長く陽子と一緒にいたかった」

光一も同じ事を思っていた。

あたしは、光一の手を握った。

「陽子、最後に死んだ僕の裸体を、陽子が最後にデッサンしてくれ」

「なぜ」

「僕の生きた証に、その絵を陽子が持っていてくれ」

「うん、分かった」あたしは涙があふれた。

でも泣くのはこらえた。

あたしが泣いてしまったら、光一をもっと悲しませる。

でもこぼれる涙は、抑えることが出来なかった。

光一は、そんなあたしの涙を、動きにくい指で拭った。



それからもあたしは、手が動きにくくなった光一の前で、裸体になった。

日に日に光一の手は動かなくなり、最後のデッサンはあたしの輪郭だけになった。

そして最後の瞬間、光一はその手に持ったコンテを落とした。

裸のあたしがそれをひろい、光一に渡そうとしたとき、光一は息をしていなかった。

あたしはキャンバスとコンテを、二十三歳の光一の胸においた。そしてあたしは裸のまま、直立不動で、涙だけをこぼしていた。

あたしも、もうすぐ二十三才なろうとしていた。

同じ二十三才になれたのに、光一は待っていてくれなかった。

そこであたしの記憶も途切れた。





「奥様。奥様」あたくしはその声に起こされる。

目が覚めると、あたくしは様々な事を思い出す。

あたくしの体には、無数の管がつながっていたはずだ。

でも今は何もない。

あたくしが昏睡から覚める前に、みんなはずしてくれたようだ。

「あたくしは、どれくらい眠っていたのかしら」

「七日です」

「そう」

「お疲れ様です。奥様のご年齢では、昏睡睡眠はかなりお体にご負担がかかることは承知していたのですが、出来るだけ長く高田画伯との二十三歳のシナリオを過ごしていただくため、ギリギリまで伸ばしました。お体の具合はいかがですか?」

「かなり頭がぼーっとするけれど、大丈夫みたい」

「それは良かったです」

「主人は?」

「催眠のシナリオの中ではお亡くなりになりましたが、現実では、最後の昏睡に入っております。最後の時まで、あと数時間かと思われます。まだ少し時間があります、シャワーを浴びて、お着替えをなさってください」

「そうね。私も七日間眠っていたと言うことですよね」

「はい」

立ち上がると、少しめまいがした。

それはそうだろう。無数の管につながれて七日も眠っていた。

八十五才の体には、何処か無理がある。

今、目の前にいる医師は、夫の臨終が近づいた二週間前、一つの提案をして来た。

夫の光一が昏睡に入る前、催眠により、幸せな最後を経験させようと言うことだ。

夫の光一は、全ての名声を得た。洋画の大家だったが、ここ最近は、第一線を退き、それにともない、気力の低下など老いに勝てなくなっていた。

だから一番輝いていた二十二才の頃に記憶だけでも戻し、幸せな最後を送らせようという、そこには出会った頃のあたくしも催眠に参加して、共に若い頃を生きて、最後を迎えようと言う提案だった。


シャワーを浴びて着替えを済ませて病室に戻ろうとすると、光一の弟子たちが集まっていた。

弟子と言っても、今ではそれぞれ巨匠と呼ばれる子たちだ。

一番若い子で五十三だったかしら。

「陽子さん」一番弟子のコウジが話掛けてくる。

彼も、もう七十になるはずだ。

光一の絵がやっと認められ始めたときだ。

まだ高校生だったかしら、アトリエにはじめて来たとき、連作「yoko」のモデルのあたくしを見て、顔が真っ赤になった。

可愛い男の子だったのに、今では七十のおじいちゃん。

現代裸婦像の巨匠にして、画壇に絶大な影響力を持つ影の実力者。

その他の子たちもみんな、光一を慕って来た子ばかり、ほとんど住み込みで、みんな私がご飯を作って食べさせた。

あの頃が、一番楽しかったかな。

年がら年中絵の話ばかり、乗ってくると光一は、スケッチブックを取り出し、さらっとデッサンを描き、一人ずつどう描くかやらせる。

そしてそれをみんなで批評し合って、腕を磨いていった。

「陽子さん、先生が」三番めの弟子のアキラが慌てたようにやって来た。

この子もグラフィックデザインの大御所だが、ここでのメンツの中では、まるで画学生のようだ。

みんなあたくしを「陽子さん」と呼ぶ。

みんなそれぞれの場所で、大御所と呼ばれる画家たちなのに、ここではみんな、光一とあたくしの可愛い弟子であり、子供たち。

「じゃあ、みんなパパの所へ」

「はい」

光一の病室に向いながら、一番弟子のコウジがあたくしに言ってくる。

「陽子さん、本当にこれでよかったんですか?」コウジが言わんとしていることは分っている。

「えっ」

「先生は意識の中では、ご自分がまだ売れない画家の時だったんですよね」

「そう、ここ一週間、光一は二十二歳の売れない画家だった。そして私はそれを支える恋人、催眠の中で光一は二十三歳であたくしの前で亡くなった。最後まであたくしの裸体を描き続けてね」

「でも先生は、やり残した事も、思い残すことはなかったんじゃなですか。なのに、過去の記憶の中で、人生の最後を迎えるなんて、先生の画家としての成功は疑いようがない。画家になって六十年、その蓄積をないものとして死んでいくのは」

「そうね、あたくしもちょっと思った。でもこの一週間は楽しかった。光一の死を目の前にしているのは今と変らないけれど、あたくしたちはたった二人きりで、お互いの絵を描くことに没頭出来た」

昏睡の中で、あたくしも光一も、もっと長く生きたいと強く願っていたことは忘れよう。

その事実はあまりに辛すぎる。この昏睡催眠自体が間違いだったと言うことになる。

「僕らもそこに入りたかったな」コウジが無邪気に言ってくる。あたくしたちが一秒でも長く生きたいと、昏睡の中で願っていた事は、墓場の中まであたくしが持っていけば良い。

「だめよ。あたくしたちだけの世界だったんだから」



「ご臨終です」医師は重々しく伝えた日本画壇の巨匠、現代裸婦像のパイオニア、高田光一画伯の命が尽きた瞬間だった。享年八十五歳。

今頃は、各モバイルやテレビに、テロップが流れているだろう。

おそらく、ここしばらくは、特番とかが組まれることだろう。


「先生。最後にお願いがあります」

「何でしょう、奥様」

「主人の裸体をデッサンさせてください」

「それはいったい」

「昏睡の中で主人と約束したんです。最後に主人の体を私が描くと」

「そんなシナリオありましたっけ」あたくしは医師のそんな疑問を無視して、続ける。

「時間は掛かりません二、三十分でかまいません」


二十二才の時と同じように、八十四歳の陽子は、八十五歳の光一の裸体を泣きながらデッサンをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裸体 帆尊歩 @hosonayumu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ