とまります

柿月籠野(カキヅキコモノ)

とまります

 彼女は、少し変だった。

 見た目が、ということではない。

 和人かずとが彼女を見かける時にはいつも、よくいる三十代の会社員女性、といった格好をしている。

 変なのは、行動だ。

 彼女は通勤客で混み合うバスの車内で、ずっとうつむいているのだ。

 しかしもちろん、俯いていること自体は、さして変ではない。

 和人も含めた通勤客たちは大抵たいてい、眠いか疲れているかで、行きも帰りも俯いているものだ。

 しかし彼女は、行きも帰りも、「とまります」と書かれたランプの付いた降車こうしゃボタンを押すときにも、俯いている。

 朝は和人の方が早くりるので分からないが、夜、彼女だけが降りる「幣谷ぬさだに四丁目」のバス停のアナウンスが鳴ると、彼女は俯いたまま、手探てさぐりで窓枠や手摺てすりの表面をさがし、降車ボタンを押す。

 ただ、目が見えないということでもないようなのだ。「幣谷ぬさだに四丁目」にくと、彼女は下を向いたまま逃げるようにバスを降り、その後は普通に前を見て歩き始める。

 少し変な彼女を気にしたり気にしなかったりして過ごしていた和人はある日、一つの仮説に辿たどく。

 彼女は、降車ボタンが押された時に、車内の全てのボタンに付いている「とまります」のランプが赤く光るのが怖いのではないだろうか。

 考えてみればあれは、夜なんかは特に、暗闇で赤い目が光るようなホラー演出にも似ている。

 人や座席の形だけがうっすらと分かる暗い閉塞空間へいそくくうかんで、単調なチャイムの音と同時に、いくつもの赤い光が一斉いっせいに点灯する。

 その光は、赤い目の集団にも見えるし、何かの生き物のれのようにも見える。

 そう思ってみたが、和人には、「とまります」のランプを見られないほどの恐怖は感じられなかった。

 しかし、何をどの程度ていど怖く感じるかは、人によって全く違うものだ。

 飛行機が怖い人もいれば、パイロットになりたい人もいる。犬が怖い人もいれば、十年以上も犬と一緒に暮らしている人もいる。「とまります」のランプが怖い人がいるのも、当然のことと言えるだろう。

 和人は、毎日怖いものに囲まれて通勤しなければならない彼女を不憫ふびんに思いつつ、妻の待つ家に帰る。

「ただいま」

「おかえり」――の声は、想像の中でだけ、むなしく鳴った。

「……はるちゃん?」

 返事が無い。

 リビングルームに続く扉の隙間からは、明かりがれている。春乃はるの几帳面きちょうめんだから、電気をけっぱなしで外出するなどということはないはずだが――。

「春ちゃん? ただいま……」

 和人は中の様子をうかがいながら、ゆっくりと扉を開ける――。

かずくん……」

 その声に、和人はほっと胸をろす。

 春乃は、ダイニングテーブルの椅子に座っていた。その背中を見る限りでは、ひとまず、緊急の事態ではなさそうだ。

 しかし、その肩が小刻こきざみに震え、両手は顔をおおっていることからして、泣いているようだ。

「春ちゃん、どうしたの。変な人でも来た? 具合が悪い?」

 和人は春乃の斜め前に回り込み、屈んで目線を合わせようとするが、その目は青白い手に覆われていて、和人の目と合うことはない。

 春乃はすすくばかりで何も答えないが、やはり具合は良くなさそうだ。

「春ちゃん? お顔見せて。熱があるの? ねえ、春ちゃん……」

 和人が春乃の肩を少しさぶると、春乃はやっと手を退ける。しかしらした目は、固く閉じられたままだ。

「目が痛いの? 何か入った?」

 春乃が、ず、と鼻を啜って、目を開ける。

 和人は、叫んだ。

 春乃の目が、赤かった。

 ただ充血しているのではない。

 白目も、茶色ちゃいろだった黒目も無く、全てが赤かった。まるで、眼球があった場所に、腐った臓物ぞうもつを詰め込んだみたいだった。

 和人は汗臭あせくさいスーツを着替えもせずに、急いで春乃を病院に連れていった。

 診断はすぐに出た。

 突発性赤眼症とっぱつせいせきがんしょう

 百万人に一人がかかると言われる難病で、ある日突然発症し、初めは目の色が変わるだけだが、徐々に視力を奪われ、やがて全身に炎症が広がって、命を落とすこともある。原因は不明。

 薬はあるが、完治する確率は五十パーセント。目の色や視力、体の他の部分に異常が残る確率は四十パーセント。残りの十パーセントは寝たきり、または死亡。

 春乃はその日から、家でも濃い色のサングラスをかけて過ごすようになった。

 和人はその日から、バスの「とまります」のランプを見ることができなくなった。

 赤い光が自分を取り囲んでこちらを見ていると思うと、和人はあの日に戻ったような錯覚さっかくを覚える。それも、錯覚であることを忘れるほどに、生々しく。

 春乃の赤い目が和人を見る。

 和人が叫ぶ。

 春乃は何も言わずに目を閉じる――。

 春乃が一番、苦しくて、つらくて、怖くて、不安なのに。

 自分は何故、叫んでしまったのだろう。

 それに、自分は何と叫んだのだったか。

「うわあ!」だったか。

「ぎゃあ!」だったか。

「怖い!」だったか。

「気持ち悪い!」だったか。

「寄るな!」だったか。

 思い出せなかった。

 だから、それらの全てを言った気がした。

 小さな赤い光が無数にともると、和人はあの日に戻って、そこから進むことも、戻ることもできなくなった。

 止まった時間の中で、和人は自分を責め続けた。

 止まった時間の中では、和人は春乃を気味悪きみわるがり、拒絶し、殴りさえした。

 和人がすぐに病院へ連れていったおかげで、春乃の治療はゆっくりとだが着実に進んでいるのに、春乃は殴られてなどいないのに、時間が止まったときには、その事実は和人の中から消えてしまった。

 無数の赤い光に見つめられながら、和人は春乃を突き飛ばし、肩をつかんで床に顔を何度も打ち付け、包丁で真っ赤な両目をえぐし、泣き叫ぶ春乃に油をかけて火をけた。

「とまります」のランプが光るたびに、和人は春乃を殺さなければならなかった。

 だから和人は、「とまります」のランプを見ることができなくなった。




      『とまります』  完

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とまります 柿月籠野(カキヅキコモノ) @komo_yukihara

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