グッドバイ・グッドラック

真花

グッドバイ・グッドラック

 薄暗い店内は燻したような香りが漂っている。カウンターに横並びに藤本ふじもとと僕は座り、バーテンダーがアイスピックで氷を丸くするのを二人でじっと黙って見ていた。何度も突かれた氷はグラスにぴったりと収まり、そこに琥珀色したウイスキーが注がれる。バーテンダーは並行してトニックウォーターを作り、ライムを絞って一混ぜしたら、二つのグラスを僕達の前に並べた。

 藤本がウイスキーのグラスを手に取り、口を付ける。僕達は乾杯などしない。僕は僕でトニックウォーターを飲む。下戸であることとバーにいることの両立点にあるのがこのグラスだ。嫌いなのに飲んでいる訳じゃない、ちゃんと美味しい。藤本がグラスを置く。

「ありがとうと言うだけならタダだからな」

 僕のしたことに反対を表明するような声音だった。僕もグラスを置く。

「感謝して生きることは推奨されているように思うけど」

「それは、感謝する側に利得があるからだよ。される側には何もない。すぐに忘れちまう程度のものだ。分かっているだろう? 仕事で散々感謝されるだろう?」

 確かに、クライアントから感謝をされる。そしてすぐに忘れる。僕は小さくため息をつく。

「今回の場合、彼女の感謝には意味がない、そう言いたいんだよね。……その通りかも知れない」

 藤本はグラスを舐めるように一口飲む。

「この酒は美味いな。値段もそれなりだけど、それ以上の価値がある。感謝にはその差分を埋める力はないよ。だから、丸々、十万だっけ? 失ったと考えるのがいいんじゃないかな」

 脳裏に井沢いざわの顔が浮かぶ。十万円を渡したときの漏れそうになる笑みを殺したすまなそうな顔と順序が逆に、十万円を渡すと僕が言ったときの驚きよりも鈍い嬉しさが顔に滲む、そしてそれを押さえ込もうとする、きっと醜いのだけどゾクゾクするような顔が次に浮かんだ。平静な井沢の顔は思い出せない。笑顔も忘れた。

「実は、貸したと言ったけど、本当は違うんだ。昔、金を貸して返って来なくて嫌な想いをしたことがあって、だから、あげると言った」

 藤本はゆっくりと僕を見る。薄く、薄く笑う。スーツがくたびれている。

「なんだ。分かっているじゃないか。最初から失うつもりなら、問題ないだろう。何を相談したいんだ?」

「それは、その……、僕のやり方でよかったのかなって思ったんだ。十万円は大金だよ。それをあげるなんてやって」

 藤本は目を細める。酔いが回り始めたのかも知れない。

「俺が思うに、北尾きたおの判断は正しい。半分」

「半分?」

「過去から現在までは正しい。でももっと大事なのは未来だ。それをどう選択するかがもう半分の正しさがあるかを決める。つまり、次にせびられたらどうするかだよ」

 僕はトニックウォーターを飲む。飲みながら考える。

「次なんてあるのかな。相当、恥を忍んでいたよ」

「必ずある。借金はギャンブルと同じくらい中毒性が高い。いわんや、くれるなんて。それにはシャブ並みの中毒性があるに決まっている」

 藤本は目をカッと見開いて、そこから主張のビームが僕に向かって放たれるみたいだった。

「そっか。じゃあきっと次はあるね。でも、次はお金あげないよ。僕だって金余りでジャブジャブやっている訳じゃないからね。うん。断る」

「それを決めておくだけでも意味があると思う。実際にせびられたら、迫力が強いだろうからな。言われた通りに金を出していたらパンクするのは北尾だ。それの責任なんて絶対に取らない。ただ感謝されるだけだ」

「断るのが正解?」

「そう思うよ。そもそも金の貸し借りはしない方がいいんだよ。少額ならいいけど、それ以上はその相手との人間関係を金にすることになるから。その彼女との関係は、何なんだ?」

 僕は目を瞬かせて、グラスを手に取る。一口飲んでから、藤本を見る。

「高校時代の友達。いや、友達以上恋人未満だった。十何年ぶりに同窓会で会って、また話すように会うようになって、半年くらい経ったときに金をあげた。だから今は、友人だね」

 ふむ、と藤本は顎に手を当てる。

「信頼関係のベースはある訳だ。それが今回金に換えられた。まあ、下心が透けて見えたんじゃないのか? そこに乗っかられた」

 僕は首を振る。

「下心なんてないよ。高校のときよりもずっと、フラットに友人だよ」

「そうか。それは失礼。まあ、だとしても、ちょっとは恋愛要素がある訳で、それと友情との両方が金との天秤にかけられている、と言う状態だ。関係を続けるのなら、絶対に次はあげちゃダメだ。と言うか、一回だけでも、もう大ピンチだよ」

 確かに、金を渡したときのあの顔を見てしまった以上は、元には戻れないだろう。

「修復出来るかな」

「可能だとは思うけど、時間も労力もかかるだろう」

 藤本はウイスキーを飲む。丸い氷がまるで畝っているかのように見えた。


 三日後、井沢から連絡があった。仕事中だったが、何通かやり取りをして、職場まで車で迎えに来てくれることになった。ライン上では、夕食を一緒に食べると言うことが会う理由だったが、僕の予感は金のことだと告げていた。

 仕事を終えたら職場の外に出て、黒いボックスカーを探すが、探すまでもなく職場の真ん前に車は停められており、井沢が車の傍に、迎車のハイヤーの運転手のように立っていた。やましいことはないが、目立つのは嫌だ。だが、無視をして他の場所に呼び出すほどではないから、僕は井沢に近付く。

 井沢はやつれてはいないが肌艶が悪く、目が、暗さを含みながらもギラギラしていた。

「北尾君、お疲れ様」

「お疲れ」

 僕はさっさと乗ってこの場を離れたかった。それを見て取ったように井沢が車の鍵を開ける。

「乗っちゃって。適当なところに動かすから、そこで話そう」

 僕は後部座席に乗り込む。モノが、ティッシュやら雑誌やら上着やらが散乱している。井沢はエンジンをかける。僕はシートベルトをしめる。

 井沢は何も言わずに車を走らせる。だが、後ろから見てもこれから何かをしようとしている緊張が漏れている。それは緑と紫を混ぜたような色をして、僕を侵食しようとして来る。僕は断らなくてはならない。窓の外の景色が一切脳に入って来ない。目の前の井沢だけが僕の意識を喰っている。僕は井沢の始まりの一言を待っている。それだけしか出来ない。

 車が停まる。どこかの駐車場のようだ。井沢がくるりと振り返る。

「お腹空いてる?」

「うん。何か食べに行く約束だったから空かせてある」

 井沢は頷いて、チョコレートを一粒僕に渡す。僕はそれを見て、包み紙を開いて、食べた。鏡映しのように井沢も食べる。僕は鞄からペットボトルのお茶を出して飲む。井沢も手元にある紙パックのお茶を飲んだ。

「先に、話したいことがあるんだ」

 僕は身構える。井沢がねっとりと広がる。

「何?」

「この前、くれた十万円、本当にありがとう。助かったよ」

「それはよかった」

 空間が重く、言葉も重く、時間も重くなってゆく。その中で井沢だけが自由だ。

「一生忘れない。ピンチを凌げた。感謝しても感謝し切れない」

「いいよ。あげたんだし。過去のことだし」

 井沢は黙って、一回車の正面を向く。僕は息を詰めながら座り直す。井沢の視線を追おうとしたら外が見えて、前には一台も車がいない。どこか遠くの人のいないところに連れ去られたのかと急に不安になり横と後ろを見たら、車はあって、ジョナサンの駐車場だった。

「あのね」

 一言でまた車の中だけの世界に連れ戻される。

「うん」

「また、さ……」

 僕は返事をしない。予測していたのに、底が抜けたようにがっかりしている。

「また、で、申し訳ないんだけど……」

 井沢がこっちを向く。だが視線が僕の目から微妙にズレている。そのズレは井沢の口元の笑みのズレと等しかった。いや井沢は笑ってなどいなかった。引きつりがそう見せただけだった。僕は井沢の目を見る、濁りの中に決意は見えた。僕は返事をしない。

「入金しないと、今の家を出なきゃいけなくなっちゃうんだ」

「どうしてそんなにお金がないの?」

 井沢は少し潰れた。

「それは、言いたくない」

「それでいいの?」

 井沢は苦しそうに目を瞑ってから、息を吐き、目を半分だけ開ける。

「彼が、使っちゃうんだ。事業にもだけど、ギャンブルとか、女とか、酒とか」

 僕も訊かなかったが、彼氏がいたのか。いてもおかしくはないが、そのために僕が金を払うのはバカバカしい。

「彼氏と別れればいい」

「それは出来ない。いずれ結婚するし。今さえ凌げれば、何とかなる」

 藤本の言った通り、僕にも下心があったようだ。それが今、急峻に冷めている。井沢とはまた元の他人に戻ればいい。

「その理由じゃお金は出せないよ」

「ごめんなさい。でも、もう少し考えて欲しい。必要なのは、五十万。くれとは言わない。貸してくれるだけでいい」

 そんな大金、ポンと出る訳ない。粘り着く気配に僕が覆われる、まさぐられる。預金にはそれくらいはあることを、知られている気がする。僕が黙っていると、井沢が運転席をリクライニングして、僕に迫って来る。甘い匂いが、こんな状況なのに、僕の性欲を刺激する。

「私、お金ないから、返せるものと言ったら、マッサージをしてあげるくらいしか出来ないけど、何度でもするから、ね? 貸して欲しい」

 そのマッサージが言葉通りでないことは明らかだ。僕の下半身にエネルギーが溜まる感覚、井沢の匂い、触れようと思えば今すぐにでも欲しいままに出来る。五十万円で。友達以上恋人未満が、抵当で手に入る。ここはもう密室で、外からは見えない。脳の奥がツンとする。

「どう?」

 井沢を買ったら、井沢との関係は終わる。だが、買わなくてももう終わるしかないところにいる。だったら、快楽を手に入れた方がいいのだろうか。違う。それは僕も何かを失うということに同意する行為だ。それに彼氏と言うのが明らかにおかしい人間なのだから、報復をして来るかも知れない。それ以前に井沢が彼氏に言うかも知れない。いや、そもそも彼氏の指示でやっているのかも知れない。迫り来る井沢に、僕は首を振る。

「五十万は出ないよ」

「いくらなら大丈夫なの?」

「いくらでも、ダメだよ」

 井沢は迫り出したまま右手を僕の左手に乗せる。柔らかくて、湿っていた。

「お願いします」

 僕の意識の半分が左手にある。それは具体的な肉感を僕に与えるから、欲望はさらに強くなる。だが、もう半分の意識がここにあるのは毒だと断じている。

「手を離して。ダメなものはダメだよ」

 言われて素直に井沢は手を引っ込める。

「どうしても?」

「どうしても」

「もう一回だけ、考えて下さい」

 僕は首を振る。それは井沢から投射されるものを振り払う動きだ。

「井沢さん。お金は貸せない。あげられない。ごめん」

 井沢の燃え盛っていたものが、消火されるように落ちて、その目から光が失われる。項垂れて、息を吐いた。僕はもう一度、ごめん、と言う。僕が悪いのだろうか。井沢は顔を上げる。さっきまで発していたものが全て枯れたような表情をしている。

「分かった。……駅まで送るよ」

「いや、ここでいいよ」

 井沢は少し考える。

「そっか。じゃあね」

「じゃあね」

 僕はドアを開けて外に出る。地面が硬い。駐車場には車と、僕だけが立っている。ドアを閉めたら、車がすぐに出発する。井沢は窓を開けたり手を振ったりしなかった。だが、僕は小さく手を振る。

――グッドバイ。きっともう会うことはない。

――グッドラック。でも、そう言っていいだけの道は残せた。


(了)

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