「私、中卒だから」という娘と親密になり、俺の人生は変わった

春風秋雄

きっかけは、1枚の100円玉だった

まいった。100円足りない。小銭入れには700円と1円玉が3枚。札入れは、千円札は使い切って1万円札しか入っていない。駐車料金は800円と表示されている。車の中を漁ったが、まったく小銭はなかった。この精算機は5千円札、1万円札は使用できないとなっている。クレジットカードも不可だ。どこかで両替しないと車を出すことが出来ない。この辺にコンビニはあっただろうか?それとも店に戻るか?

「おじさん、どうしたの?」

髪を金髪に染めた女性が声をかけてきた。

「清算しようとしたら、100円足らなかったんだ。両替したいんだけど、この辺にコンビニはないかな?」

「100円くらい、私がカンパしてあげるよ」

女性はそう言って財布を出し、100円玉を取り出した。

「はい、これで車出せる?」

「いいの?」

「いいから出してるじゃん」

「ありがとう。じゃあ借りておく」

「借りておくって、返す機会はないでしょ?」

「じゃあ、連絡先を教えて」

「それ新手のナンパ?」

「いや、そういうことじゃないんだけど」

「そしたら、おじさんの車で家まで送ってよ。それでチャラにしてあげる」

「家は遠いの?」

「歩くとそこそこある。いつもは自転車なんだけど、朝乗ろうとしたら、チェーンが外れていて、今日は歩きにしたの」

「わかった。じゃあ家まで送って行くよ」

俺は女性から100円玉を受け取り清算した。車のところへ女性を連れて行くと車を見た女性が驚いた。

「おじさん、ベンツに乗ってるの?お金持ち?」

「親父の会社で働いているんだけど、これは会社の車」

「ベンツに乗っている人が100円に困るなんて、笑えるね」

女性の家は車で5分ほどの距離だった。年数は経っているが、小奇麗な単身者用のマンションだ。ついでに自転車のチェーンを直してあげた。

「サンキュー!おじさん、気を付けて帰りなよ」

女性はそう言って部屋に入っていった。


俺の名前は磯村慎吾。32歳の独身だ。父親が経営している会社は県内に3店舗の飲食店と、4店舗のスーパーマーケットを運営している。俺は大学を卒業してから、東京の流通業の会社で8年間経験を積み、2年前に地元に戻り、親父の会社に入った。俺は親父が38歳の時に作った子で、親父はもう70歳だ。そう遠くない将来に引退を考えなければならない。だから近い将来に会社を継ぐことになる俺は、ひと通りの仕事を把握するために統括部長という肩書で、各店舗を見て回っている。昨年までは飲食店を担当し、今年からスーパーを担当することになった。4店舗のうち、今日行った店舗だけは駐車場が狭いので、お客様のスペースがなくならないよう、俺は近くのコインパーキングに駐車していたというわけだ。4店舗のうち、他の3店舗は順調にまわっているが、今日行った店舗だけは、売り上げは他の店舗と変らないのだが、事務系の業務に、かなりミスがある。店長の中野さんがすべて事務はやっているのだが、店長は現場の回し方は得意だが、事務的なことは苦手なようだった。思い切って事務の人を採用してはどうかと言ったが、事務専属でやる仕事量ではないので、1日3時間程度のパートか、店舗業務と兼任でなければ人件費が無駄になる。以前募集したが、そういう条件で応募してくる人はいなかったということだった。だから自分が頑張ると店長は言い張った。


翌日、そのスーパーへ行くと、昨日の金髪の女性がいた。この店で働いている従業員だったのか。俺がジッと見ていると、相手も気づいたようで、俺に向かって笑顔で手を振って来た。俺は事務室に戻り、従業員の履歴書を調べた。あった。

名前は末岡望。24歳。前職は飲食店勤務になっている。学歴を見ると、商業高校中退となっていた。つまり中卒ということだ。勤務形態はパートではなく、正社員となっている。入社は2年前だから、俺がこっちに帰って来た頃だ。

18時になると正社員の女性従業員は退社時間となる。それ以降は遅番の男性社員と、遅番のパートが業務にあたる。俺は自転車置き場で末岡さんが出てくるのを待った。しばらく待つと私服に着替えた末岡さんが出てきた。

「末岡さん」

俺が声をかけると、彼女がこちらを見た。

「あ、おじさん。おじさんは本社の部長さんだったんだね」

「昨日はありがとう。100円、返しておくよ」

「家まで送ってもらったからチャラって言ったじゃない」

「それはそれ、借りたお金はちゃんと返さないと」

「だったら、100円はいいから、おじさん、夕飯おごってよ。私、今月ピンチなんだ。おじさんお金持ちだからいいでしょ?」

「わかった。じゃあ夕飯をおごるよ」

「やったー!じゃあ、お店にもどろう」

「どうしてお店に戻るの?」

「私、お店の弁当でいいの。うちの売り上げにもなるし」

この娘はいい子なんだなと思った。

「今日は特別、どこかへ食べに行こう」

「え?100円のことで、そこまでしてもらわなくていいよ」

「いいじゃない。せっかくだから行こう。食事をしながら社員から色々な話を聞くのもおじさんの仕事だから」

末岡さんは、一旦家に戻りたいと言ったので、先に自転車で帰ってもらい、着いた頃に車でマンションに迎えに行くことにした。


どこに行こうか迷ったが、若い子なら焼肉は好きだろうと思って、焼き肉屋に連れて行った。

「焼肉なんて久しぶり」

「そうなんだ」

「前はガールズバーとかスナックで働いていたから、お客さんとよく行っていたけど、今のところで働き始めて初めてかも」

「うちに来る前は夜の仕事をしていたんだ?」

「そうだよ。でも、そろそろ昼の仕事にしなくてはと思って、今のところへ来たの」

「履歴書を見たら、高校中退ってなっていたけど、どうして高校を辞めたの?家の事情?」

「家の事情じゃあない。私だって辞めたくなかった。2年生の時に、同級生がイジメにあっていて、それを担任に話したら、こんどは私がイジメにあうようになった。担任に助けを求めたけど、何もしてくれなかった。だから、学校へは行けなくなって、単位も足らないし、留年しようかとも思ったけど、もういいやって、辞めちゃった」

「何とか卒業できなかったのかな」

「そうだね。今考えると、色々方法はあったと思う。今は後悔している。高校だけは卒業しておけば良かった。昼の仕事に移ろうと思って、何社も面接したんだけど、中卒ではなかなか雇ってくれなかった。やっと今のところで雇ってくれて、とても嬉しかった」

「そう言ってくれてこちらも嬉しいよ。これから先は、何か目標はあるの?」

「私、商業高校だったから、簿記とかは好きで今も勉強しているの。今の業務も嫌いじゃないけど、出来たら将来的には経理とかの仕事をしたいなと思っている」

「いいじゃないか。今の店舗は事務系の業務がネックになっているから、末岡さんがそういう仕事をしてくれると助かるよ」

「でも無理だと思う」

「どうして?」

「以前うちの店、事務が出来る人を募集していたじゃない?その時、中野店長に私やりたいですと言ったの。そしたら中卒の娘には事務は任せられないって言われた」

まるで中島みゆきの歌のようだなと思った。

「今も勉強はしているの?」

「うん。高校は卒業していないけど、高卒レベルの知識は身につけておこうと思って、簿記だけでなく、数学も英語も勉強しているよ」

俺は頑張っているこの子を応援したくなってきた。


焼肉を食べに行って2週間ほどした頃、末岡さんが店を休んだ。どうも風邪をひいたらしい。俺は気になって仕事が終わってから、末岡さんのマンションに行ってみた。

「部長、どうしたんですか?」

「風邪をひいたと聞いたので、ちょっと寄ってみた」

「ありがとうございます。だいぶんよくなったので、明日は行けると思います」

「これ、お見舞い」

俺は店で買ってきたレトルトの雑炊やお粥、そしてプリンなどを渡した。

「うわー、ありがとうございます。ちょっと上がって、お茶でも飲んでいきませんか?」

俺は、自分の立場で若い女性従業員の部屋にあがって良いのかと迷ったが、末岡さんの笑顔に誘われ、少しなら良いかとあがってしまった。

独り住まい用の、正方形のローテーブルに腰を下ろし座っていると、末岡さんがコーヒーを入れてくれた。コーヒーメーカーで入れてくれたコーヒーは豆にこだわっているのか、とても美味しい。本棚を見ると、簿記の本をはじめ、会計関係の本がずらりと並んでいた。

「本当に経理関係の勉強が好きなんだね」

「あまりジロジロ見ないでくださいよ」

正方形のテーブルの角を挟んで座った末岡さんが照れ笑いしながら言った。

「学生時代に勉強しなかった反動なのか、暇さえあれば本を開いています。とても楽しいです」

「それだけ好きなら、事務の仕事というより、税理士を目指してみたら?」

「そんなの無理ですよ。中卒では試験も受けられないでしょ?」

「中卒そのままでは試験は受けられないけど、中卒でも試験を受けられる方法があるらしいよ。大学時代の友達が税理士になったけど、そいつが言っていた。中卒で税理士になった人がいるって」

「本当?」

「一度調べてみたらいいよ」

「わかった。調べてみる。なんか、やる気が出てきた」

翌日、末岡さんは元気に出勤した。俺をみつけると、傍に寄ってきて「昨日はありがとうございました」と丁寧にお辞儀をした。

それ以来、末岡さんは、店で俺の顔をみつけると、そばに寄ってきて、笑顔で挨拶してくれるようになった。俺も笑顔でそれに応える。俺は次第に、末岡さんをひとりの女性として意識し始めていた。


俺がいつもの駐車場で清算していると、自転車に乗った末岡さんが通りかかった。

「今日は小銭ありますか?」

「あの時みたいなミスはもうしないよ。ちゃんと小銭を用意しているよ」

「なーんだ。残念。また100円貸したら焼肉おごってもらえるかと思ったのに」

末岡さんが笑いながらそう言った。

「いいよ。今から焼肉食べに行く?」

「本当?いいの?」

「じゃあ、今からマンションへ向かうから先に行って待っているよ。慌てて自転車転ぶなよ」

「了解!」

末岡さんはそう言って、自転車をすごい勢いでこぎ出した。

一方通行があるので、車は遠回りをしなければならない。マンションに着くころに末岡さんも到着した。

焼肉と言っていたが、寿司でもいいよと言うと、末岡さんは満面の笑みで「寿司がいい!」と言うので、お寿司屋さんへ行った。

「回ってない寿司屋さんは何年ぶりだろう」

末岡さんは、そう言いながら美味しそうに寿司をつまんだ。

「税理士受験のことを調べたの」

「どうだった?中卒でもなれそう?」

「今年から受験資格が緩くなって、私でも受験できそう。ただ、大変なのは大変」

税理士試験は会計学に属する科目の試験と、税法に属する科目の試験があるが、そのうち会計学に属する科目の試験は受験資格が撤廃され、誰でも受験できるようになった。税法に属する科目の試験は受験資格が必要だが、日本商工会議所主催簿記検定試験1級合格をとるなど、中卒でも何らかの方法で受験資格を得ることができるということらしい。

「どんな資格でも大変だよ。肝心なのは、本人がどこまで本気かということ」

「うん、私本気で頑張ってみる」

寿司屋を出て、車でマンションまで送って行くと、コーヒーを飲んで行く?と聞くので、俺は遠慮なくあがらせてもらった。

この前と同じように正方形のローテーブルの角を挟んで座り、コーヒーを飲みながら、末岡さんがしみじみ話し出した。

「私、あの時、部長さんに声をかけて、本当に良かった」

「あの時というのは、駐車場で100円足りなくて困っていた時?」

「そう。普段なら知らないおじさんに絶対声をかけなかったと思う。でも、部長さんの困った姿を見たら放っておけなかった。あの時100円を貸してあげたおかげで、部長さんと親しくなれたんだもの」

「焼肉も寿司もおごってもらえたし?」

「もちろん、それも嬉しかったけど、何よりも部長さんは、私に夢を与えてくれた。中卒で、何もかも諦めていた人生だったけど、中卒の私でも頑張ればできることがあるって教えてくれたもの」

「僕も、末岡さんに出会うまでは、学歴に偏見をもっていたかもしれない。でも末岡さんと話してみて、人を見るのに学歴は関係ないなと思ったよ。その人の本質を見ないと、人として付き合うにも、仕事として付き合うにも、判断できないと思った。そう言えば、前の会社でも一流の国立大学を出ていても、人として尊敬できない人がいたし、仕事としても使えない人材もいたなと思い出したよ。そういう意味でも末岡さんは、仕事としても大切な人材だし、人としても大切に付き合っていきたい人だと思っている」

「ありがとう。お世辞でもそう言われると救われる思いです」

「本当だよ。僕は、末岡さんとの付き合いを大切にしていきたいと思っている。それは仕事としても、人としても、そしてひとりの女性としても」

末岡さんが「え?」という顔をして俺を見た。

「僕は、ひょっとしたら初めて会った時から、末岡さんのことを好きになっていたのかもしれない」

俺の目を見る末岡さんの目が潤んできた。

俺は、ゆっくりと末岡さんを抱きしめた。末岡さんの手がおずおずと俺の背中にまわされる。俺がキスしようとすると、途端に末岡さんは顔をそむけた。

「僕のことは好きになれませんか?」

「そうじゃないです。部長さんのことは好きです」

「だったら・・・」

「部長さんはうちの会社の跡取りではないですか。こんな私と変な関係になったらダメです」

「僕は末岡さんのことが本気で好きだよ」

「だったら、なおさらダメです。野崎チーフにも言われたんです」

野崎チーフとは、店のベテラン女性社員だ。

「部長さんは、将来社長になる人だから、変な期待をしたらダメだよって。いくら部長さんが本気になっても、あなたは中卒なのだから、社長のお父さんと、副社長のお母さんは絶対に許してくれるわけないからって」

野崎さんにそんなことを言われたのか。

「大丈夫。親父とお袋が何か言ったら、僕は会社を継がないし、家を出るから」

「そんなこと、ダメです」

「会社だとか、家だとか、そんなことは大したことではない。僕にとっては末岡さんの方が大切だから」

「部長さん・・・」

それから末岡さんは何も抵抗しなかった。

末岡さんはベッドの中で何度も俺に言った。

「もし、ご両親に反対されたら、その時は言って。私はすっぱり別れるから」

そう言われるたびに、俺は末岡さんの口をふさぐようにキスをした。


末岡望さんは俺と付き合い始めて、金髪だった髪を黒く染め直した。気づかれないようにしていたつもりだったが、2か月ぐらいすると、店のメンバーには俺たちの関係はバレているようだった。このままだと、親父たちにバレるのも時間の問題だ。俺は両親に末岡望さんを紹介しようと思った。ところが、両親に「紹介したい人がいる」と言った途端、「その女性とは別れなさい」と言われた。どうやら噂が両親の耳にも届いていたようだ。両親が反対する理由は簡単だった。望が中卒だからだ。俺は望が高校を中退せざるを得なかった理由を説明した。中卒がダメなら、高等学校卒業程度認定試験(旧 大学入学資格検定)を受けて高卒認定をとれば良いのかと聞くと、高卒認定をとっても学歴は中卒のままだからダメだという。確かに高卒認定は大学などを受験する受験資格を得るもので、学歴が高校卒業となるわけではない。彼女は税理士を目指しているのだと言うと、中卒で税理士になれるわけがないと相手にしてもらえなかった。


その日、望に両親に反対されたことを正直に話すと、望は「別れよう」と言って涙を流した。

「最初に言ったじゃない。ご両親に反対されたら、私はすっぱり別れるって」

「僕はそれに承諾した覚えはない。もう少し待ってくれ、絶対に説得してみせるから」

俺はそう言ったが、自信がなかった。

それから両親には何度も説得を試みたが、その都度「まだ別れていないのか」と言うばかりで、話も聞いてもらえなかった。

そうこうするうちに、3か月が経った。仕方なく、俺は行動に移すことにした。

「望、東京へ行くぞ」

「東京?」

俺は1か月前から、何度か東京へ行って準備を進めていた。住むマンションの手配もして、就職先もみつけた。さすがに以前勤めていた会社ほどの条件ではないが、二人で生活していくには十分な条件を提示してくれた。

「うちの会社はどうするの?」

「そんなのは、僕の知ったこっちゃないよ。親父がなんとかするさ」

俺は望に1週間後に東京へ行くから準備しておいてほしいと言っておいた。

翌日、望は店に退職願を出した。本来退職願は1か月前に出すことになっているが、退社日は1週間後で、退職日まで有給休暇を消化するという申し出だったので、中野店長から俺に相談があった。俺は本人の希望通りにしてやってくれと言った。俺の場合は退職願を出すと、親父とひと悶着があるのが目に見えているので、東京へ行ってから郵送で送るつもりだ。望の部屋に何度か行ったが、段ボールが積み重ねてあり、引っ越しの準備はすっかり出来ているようだった。


東京へ行く当日、望とは朝8時に駅近くの喫茶店で待ち合わせた。俺は気持ちが早って、15分前には喫茶店に着いた。モーニングセットを食べながら待っていたが、望はなかなか現れない。約束の8時を過ぎ、8時半になっても現れないので、こんな日に寝坊か?と思いながら電話をすると、電話は繋がらなかった。LINEをしても既読にはならず、メールをしても返事はない。俺は嫌な予感がして、望のマンションへ行った。ドアの鍵は閉まっている。中に人がいるのかどうかは外からはわからない。電気メーターを見ると、電気は止めてあった。望は忽然と姿を消した。確かに言えることは、望は俺と東京へ行くことを拒んだということだった。

翌日、望からの手紙が届いた。消印は望のマンションの近くの郵便局なので、マンションを出る際にポストに投函したのだろう。


“ 磯村慎吾様

突然連絡を途絶えさせてごめんなさい。そして、せっかく準備してくださった東京での暮らしを、こんな形で立ち消えさせて、本当にごめんなさい。私は最後の最後まで迷っていました。東京へ行きたかった。慎吾さんと暮らしたかった。でも、会社のことを考えたら、それは出来ませんでした。職場にはお世話になった人たちがたくさんいます。あの店で、あの会社で、これから10年先も、20年先も働いて生活しようとしている人たちです。中野店長は住宅ローンがまだ20年残っていると言っていました。野崎チーフは小学生の息子さんが大学を卒業するまでは頑張るんだと言っていました。他の方々も、あのお店が、あの会社がなくなっては困る人ばかりです。今の社長はお年を召されています。慎吾さんが跡を継がなければ、あの会社の将来がないことは、誰が見てもわかります。そんな慎吾さんを、私のために会社を捨てて東京へ行かせるわけにはいかないです。職場のみんなの顔を思い浮かべると、私にはどうしてもできませんでした。

慎吾さんのお父さんと、お母さんに認められて、慎吾さんと一緒に暮らしたかった。今回ほど中卒だったことを悔しく思ったことはありません。東京へ行かないと決心したとき、どうして我慢して高校を卒業しなかったのだろうと、涙が止まりませんでした。

でも、そんな後悔は今回が最後です。二度と中卒だからということで悔やむことはしたくないです。慎吾さんが教えてくれました。中卒でも夢を持てると。私は、絶対に頑張ります。それが慎吾さんと出会った意味だと思うから。

くれぐれも、お体を大切に、お仕事頑張って下さい。

                         末岡望 “


親父は75歳で引退して、非常勤の会長になった。まだまだ元気だったが、階段を踏み外して足の骨を折ってから、気弱になってしまった。俺が社長職を引き継いで、もう2年になる。社長業は想像以上に忙しかった。それでも時間を見つけては現場を見に行くようにしている。報告書だけでは見えないことが現場に行けば見えてくる。あのスーパーへ行くときは、相変わらず近くのコインパーキングに車を駐めた。料金を精算するたびに望のことを思いだす。あれからもう7年になる。俺も39歳になった。いまだに独身だ。両親からは跡継ぎを作るためにも結婚しろと言われ続けたが、俺は望以外の女性と結婚する気はないから、生涯独身でいると宣言した。両親も老いて来るにつれ、望のことを反対したことに後悔しだしたが、いまさらどうすることもできない。


受付から内線が入った。会長職の親父が紹介してくれた税理士が来社したということだ。ずっと顧問をしていた税理士が高齢のため廃業することになり、後任の税理士を探さなければいけないと親父に言ったら、良い税理士の心当たりがあると言っていた。そして、今日その税理士が来社することになっていた。

ドアがノックされ、税理士が部屋に入って来た。俺はその顔を見て思わず立ち上がった。

「ご無沙汰しております。税理士の末岡望です」

「望、どうして?」

「先日、お父様が私を訪ねて来られました。新しい顧問税理士を探しているのだけど、引き受けてくれないかと」

「どうして親父が望の居場所を知っていたんだ?」

「何年も興信所などを使って私を探していらっしゃったそうです。少し前にようやくわかったけど、会いに来る勇気がなかったそうです。ちょうど新しい税理士を探さなければならないという理由ができたので、ようやく会いに来たとおっしゃっていました」

「親父はどうして望の居場所を探していたのだ?」

「慎吾さんが私以外の女性とは結婚する気はないと、独身を通しているからとおっしゃっていました。それを聞いて、私は本当にうれしかった。そしてお父様は、7年前は本当に申し訳ないことをしたと謝って下さいました。中卒の私でも良いのですかとお聞きしたら、何を言っているんだ、君は立派な税理士じゃないかと言って下さいました」

「望も独身なのか?」

「私も慎吾さん以外の男性と結婚する気はないので、生涯独身でいるつもりでした」

俺は頭がついていかず、何も言葉が出なかった。

「私を顧問税理士として雇って下さいますか?」

「いや、顧問ではなくて、僕の嫁さんとして会社の経理をみてほしい」

望は目に涙を溜めて、俺に抱きついてきた。

「税理士になったんだね。頑張ったね」

俺がそう言った途端、望は俺の腕の中で、堰を切ったように泣きじゃくりながら、何度も頷いた。

望が、どれほど苦労して頑張ったのかを、その涙が語っているようで、俺は抱きしめている腕をいつまでもほどくことができなかった。

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