紫陽花の花びら

第1話ミニシアターで恋をして

 その朝、母はいつもよりデカいびきをかいていた。

 毎晩遅くまで、何かの資格を取るとかで勉強をしていたが、俺はまったく興味がなかった。

 学校まで一時間。テーブルの上には、いつものように母親の頑張れと書かれたメモ書きと、二千円が置いてある。

 俺は、それを当たり前のように財布に入れ、七時から始まる朝練に間に合うよう五時半に家を出た。父親は夜勤明けなので、社食で朝食を済ませてから帰宅する。そこから、母親の一日はやっと始まる。それがうちの日常だ。

 午前九時。一限目の現国が始まると俺は睡魔に襲われ、気持ちよく眠りについていた。

 突然背中に痛みが走る。

 驚いて体を起こすと、現国の篠原先生が横に立っていた。慌てる俺を制止して、先生は耳打ちをした。俺は頷くだけで動けなかった。篠原先生は俺の肩を掴むと、

「鈴木! お母さんが緊急入院されたそうだ。すぐに津崎総合病院行きなさい」

 俺は、鞄に教科書を入れ始めた。

「鈴木君!」

隣の相原さんの声に、俺は反射的に立ち上がると、狂ったように走った。

 携帯を握りしめ、電車に乗ると父親からラインが入った。正面ではなく、救急搬送口に来るように。母さんは大丈夫だから、くれぐれも気をつけてと書かれていた。長い長い十五分だった。

 搬送口には、肩を落とした父親が立っていた。

「母さんは!?」

「運ばれて、すぐに息を引き取ったてしまった。父さんが、もう少し早く」

 俺は父親の言葉を遮った。

「息を引き取ったって、大丈夫って書いてあったじゃないか! そんなはずないよ。朝、いびきかいていたいたんだ! 嘘つくなよ!」

 俺は駄々っ子のように、父親にしがみつき泣き叫んだ。

「母さんが待ってるから、急ごう」

 父親は、俺の肩を抱きかかえ、歩き出した。

 ベッドに横たわる母親の頬が信じられないほど冷たくて、思わず手を引っ込めてしまった。

「……おかしいよ」

 俺を抱き寄せる父親の手は、温かかった。


 コロナ禍と言うこともあり、親族のみで葬儀を終えた。

 日常に戻って行く。生活のリズムは無味乾燥に時を刻み、何もなかったのような顔を見せる。それが苦しくて遣り切れなかった。

 きっと、父親も同じだろう。いや、家族と言えど、その悲しみは推し量る事はできない。ましてや、触れることなど出来るわけがない。

 母親が亡くなって半年が過ぎた。何も感じない。色も消えた家は、痛々しい気遣いだけが俺と父親の間を彷徨っていた。

 今日十一月五日は母親の五十一回目の誕生日だ。母親の好きなちらし寿司を作り、近所のケーキ屋でチョコレートケーキを買った。

「母さん、お誕生日おめでとう」

俺たちは仏壇に手を合わせ、静かな誕生日会を始めた。

 しばらくは、ちらし寿司が上手いとか、母親が酢を入れすぎて、べちゃべちゃにしたことなど、母親の失敗を、俺たちは面白可笑しく話していた。

 めったに家では飲まない父親が、ビールを飲み上機嫌だった。

 突然父親が、母親との馴れ初めを話し出した。

 俺は、なんとなく照れくさくて、適当に相槌を打っていた。

「母さん女優だったのは知ってるよな」

 俺は頷く。

「綺麗だったぞ。写真とか見たことあるか?」

 俺は首を横に振った。

 舞台も映画もテレビドラマもこなしたと、得意げに話す父親が可笑しくて思わず笑ってしまった。

「父さんの話しだと、待ち伏せしていたんだろ? 今なら即逮捕だよな」

「違う! 違う! 出待ちって言って一目会うために楽屋口とかで待っているの。ストカーとかじゃないから」

いつもは寡黙な父親が、顔を赤らめて言い訳をしている。

「それでな、昨日母さんの遺品を片付けていたら、アルバムやら、ビデオテープが出て来て、誠に見せようと思ってさ」

数冊のアルバムを否応無しに渡され、俺は仕方なく舞台と書かれているアルバムを開いた。

 俺は自分の目を疑った。そこには信じられないほど濃い化粧をして、意地悪そうに笑う母親の姿が写っていた。

 俺は思わず、怖っ!と口走っていた。父親は隣に来て一緒にアルバムを覗き、

「それは、母さんの初舞台だな。父さんは見てないけど。これの評判が良くて、次は準主役に抜擢されたんだ。それを父さんは見たんだよ。綺麗だったなぁ」

次を捲ると、これまた恐ろしい鬼の形相で写っている母親がいた。

 隣の女性は清純そのもの。俺なら断然こっちを選ぶ。

「誠はなんで、父さんは母さんの方選んだ? 隣の人の方が可愛いのにって思ったよな。

 でも、母さんは鬼の形相をしているのに、何故だか可愛く見えてくるんだ。だから、余計に素顔が見たくなってね。それで出待ちをしたんだ。随分待ったよ。諦めかけた頃、楽屋口から俯き加減で出て来た女優さんがいて」

「それが母さん?」 

 父親は頷く。

 俺は先が気になりだしていた。

「勇気を振り絞って声をかけたさ。桑原美奈子さんですか?って。そしたら母さんは、ちゃんと立ち止まってくれて、可愛らしい笑顔で頷いてくれた。その瞬間、父さんは恋に落ちた。

 それからは、もう押しの一手だったよ。熱烈ファンは、三年後恋人に昇格し、その二年後結婚。で、誠が生まれた訳だ」

 俺は、話しを聞きながらアルバムを見ていた。俺の知らない母さんが、生き生きと写っている。

「さっき、母さんの出てるビデオがあるって言ってたよね?」

 父親は、一本のビデオテープをデッキに入れると、部屋の電気を

消した。俺たちは並んで画面を見つめている。

 一人の男によって地獄のような人生を生きて行く女が、自分自身を叱咤し、倒れては立ち上がろうとするが、最後は病に勝てずにひとり死んで行く。

 その顔は何故か微笑んでいた。  

 エンドロールが流れ始めて、父親が嗚咽していることに気づいた。俺の前では泣いたことのなかった父親。

「母さん、また桑原美奈子に恋をしたよ」

 父親は途切れ途切れに呟いていた。 

 この八畳足らずのミニシアターで、母親へ二度目の告白をした父親の姿に、俺の心に彩りが戻って行く。

 

 







 

 

 

 

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紫陽花の花びら @hina311311

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