【短編小説】鏡の中の蜂

T.T.

【短編小説】鏡の中の蜂

 私は鏡の中の世界に住んでいる。鏡の中の世界は、鏡の外の世界とほとんど同じだ。同じように空が青く、雲が流れ、太陽が昇り沈む。同じように人々が暮らし、笑い、泣き、愛する。同じように戦争が起き、病気が蔓延し、災害が襲う。鏡の中の世界と外の世界の唯一の違いは、鏡の中の世界には蜂がいないということだ。


 私は蜂が好きだ。蜂は小さくて勇敢で、美しい花から花へと飛び回り、甘い蜜を作る。蜂は人間にとっても大切な存在だ。蜂が花の受粉を助けることで、多くの植物や果物が育つのだ。しかし、鏡の中の世界には蜂がいない。だから、鏡の中の世界には花も果物も少ない。鏡の中の世界は、外の世界よりも少し寂しい。


 私は鏡の中の世界に住んでいるが、外の世界を見ることができる。鏡の中の世界には、外の世界と繋がる鏡があるのだ。鏡はどこにでもある。家の中にも、学校の中にも、街の中にも。鏡を見れば、外の世界の様子が映し出される。私はよく鏡を見る。鏡を見れば、外の世界の蜂を見ることができるからだ。


 私はある日、鏡の中の世界と外の世界の境界にある鏡を見つけた。その鏡は、鏡の中の世界の端にある小さな家の中にあった。その家には、老人と猫が住んでいた。老人は鏡の番人と呼ばれる人で、鏡の中の世界と外の世界の間にある鍵を管理していた。鍵とは、鏡の中の世界と外の世界を行き来できるようにする道具だ。鏡の番人は、鏡の中の世界と外の世界の平和を守るために、鍵を厳重に保管していた。


 私は鏡の番人に会いに行った。鏡の番人は、私が来るのを知っていたようだった。鏡の番人は、私に鍵を渡した。鏡の番人は、私にこう言った。


「君は蜂が好きだね。蜂は素晴らしい生き物だ。私も昔は蜂が好きだった。でも、鏡の中の世界には蜂がいない。蜂は、鏡の中の世界と外の世界の間にある壁にぶつかって死んでしまうのだ。だから、私は鏡の中の世界に住むことにした。鏡の中の世界には蜂がいないけれど、鏡を見れば蜂を見ることができるからね。本当に好きなものには触れてはいけないんだ」


「でも、君は違う。君は蜂に会いたいんだね。君は蜂と触れ合いたいんだね。君は蜂と一緒に飛びたいんだね。だったら、この鍵を使って外の世界に行ってみなさい。外の世界には蜂がいるからね」


 私は鏡の番人に感謝した。私は鍵を受け取った。私は鏡の中の世界と外の世界の境界にある鏡の前に立った。私は鍵を鏡に差し込んだ。鏡が開いた。私は鏡の中から外に出た。


 私は外の世界に来た。外の世界は、鏡の中の世界とほとんど同じだった。同じように空が青く、雲が流れ、太陽が昇り沈む。同じように人々が暮らし、笑い、泣き、愛する。同じように戦争が起き、病気が蔓延し、災害が襲う。外の世界と鏡の中の世界の唯一の違いは、外の世界には蜂がいるということだった。


 私は蜂に会った。蜂は小さくて勇敢で、美しい花から花へと飛び回り、甘い蜜を作っていた。蜂は私に優しくしてくれた。蜂は私に花の名前や色や香りを教えてくれた。蜂は私に蜜の味や匂いや作り方を教えてくれた。蜂は私に自分の話や仲間の話や敵の話を教えてくれた。私は蜂と仲良くなった。私は蜂と一緒に飛んだ。私は蜂と一緒に笑った。私は幸せだった。私は蜂が好きだった。私は蜂と一緒にいたかった。


 しかし私は気がついてしまった。鏡の外の世界には、鏡の中の世界にはあった、ある重要なものが無い、ということに……。


 無くなったもの。

 それは「自分自身」だった。


 鏡の中の世界では、私は常に自分を鏡の投影を通じて認識していた。

 私が笑うとき、私の投影は笑った。私が泣くとき、私の投影は泣いた。

 しかし、鏡の外の世界では、私は自分自身の投影を見ることができなかった。私の笑顔も、私の涙も、もう私が見ることはできなくなったなかった。それは私の心に深い悔恨を残した。私は常に自分がどう見えるか、自分がどう感じているか知りたかったのだ。


 やがて私の体は透明になり始めた。透明になり始めた指は鍵をつかむことができなくなった。鍵は指をすり抜け、地面に落ちた。

 私は鏡の中の世界には帰れなくなった。


 私はさらに透明になった。

 やがて私は空になった。

 空になった私の中を、蜂たちはこれまで変わらない様子で飛んで行った。


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編小説】鏡の中の蜂 T.T. @shirosagi_kurousagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ