わたしは、雪の結晶のように
間川 レイ
第1話
こつこつ、と。
どっしりと、根を張ったように重い足を前に動かすたびに、ローファーが地を打つ音が木霊する。中途半端に伸びてきた髪の毛が、風に煽られ頬にまとわりつくのも鬱陶しい。
予備校からの帰り道。すっかり日も暮れ、吐く息は白く。しんしんと、空気は差し込む様に冷えていて。身震いを一つ。カイロ、持って来れば良かったな。舌打ちをするも身体は冷え切ったままで。冬は別段嫌いじゃないけれど、こうも冷え込むと若干腹が立ってくる。苛立ちをぶつけるように一層大地を力強く蹴るけれど、別段身体が温まることもなく。ただ足の親指が痛いだけに終わる。あーあ、踏んだり蹴ったりだ。普段より一層重く感じる学校指定のスクールバック。それを担ぎなおしながら内心ぼやくのだ。あーあ、と。
私がこんなに憂鬱な理由は簡単だ。今日、返ってきたばかりの模試の成績表。最大でもC判定、残りはE判定が行列をなしている成績表。センター試験まであと一年を切っているというのに、私の成績は低空飛行のままで。このままでは第一志望の国立医学部どころか、私立の看護学科ですら合格は難しい始末。唯一のC判定は半ば戯れで出した東京の私大の文学部のみ。また怒られるんだろうなあ。そう思うだけで、胸の中に氷水を流し込まれているかのように心が冷えていくのを感じる。まるで外気に比例するかのように、しんしんと。
私の家系は親子二代そろって医者の家系だった。祖父が開業し、父が後をついだ。いわゆる地域密着型の開業医というものだった。男子に恵まれなかった私の家では、当たり前のように、長女の私が家を継いで、ゆくゆくは婿を取ってその婿養子とともに病院を存続させていくと見なされていた。そしてそれが、当然のことであると教え込まれていた。ここの人達の面倒を見るのが、私たち一家の役目だ。幼いころから何度言われたことか。それこそ、耳にたこができるぐらいは聞いたはずだ。
だけど私は、医者になんてなりたくなかった。医者になるなんてまっぴらごめんだった。それは幼いころに生みのお母さんをがんで亡くし、お母さん一人救えぬ医療になんの意味があると、医療の無力さを知った経験によるものかもしれない。あるいは生来反骨心が強く、強制されると反発してしまう、私の性格によるものかもしれない。とにかく、私は医者になんてなりたくなかった。医者にだけはなりたくなかった。
むしろ私は、文学を勉強したかった。幼いころから小説が好きで、小説好きが高じて自分でもいくつか作品を書くようになっていた私は、小説の技法や小説の歴史を勉強したかった。それもできれば、こんな地方の田舎なんかじゃなくて、東京の大学で。
でもそれは、認められなかった。認められるわけがなかった。文学部になんか入ったところで、いったい何の役に立つと嘲笑った継母。小説なんかで食べていけるものかと馬鹿にされた。小説なんて趣味はいい加減卒業して、もっと将来の役に立つ趣味を身につけろと言われた。
お前は家業を放棄するのか、父母の恩を裏切りこの地域を見捨てるつもりなのかと激高した父。誰が文学部などに金を出すものか、お前の学費や予備校代にいくらかけたと思っていると私を罵倒するに飽き足らず、この恩知らずめと何発も殴りつけた。髪を引きずり壁に打ち付け、鍛えている筋力を総動員して私を痛めつけた。殴られるたびに比較的小柄な私の体は勢い良く何度も壁に激突した。私はそんな子供みたいな夢を追うことは諦めて、もっと真面目に将来を考えるよう説得された。私はもっと将来のための勉学に励むよう約束させられた。
だけどそんな約束、果たそうと思うわけがない。さんざんに罵られ殴られたからといって、そう簡単に夢を諦められるものか。それに壊れたテレビじゃないのだから、殴れば言うことを聞くと思われるのもしゃくだった。結果的に私の好きな英語、歴史、国語ばかり勉強するようになり、苦手な理系科目は父母の目が光っているときのみおざなりに、勉強しているポーズとして努力するにとどまった。
そうして得意な文系科目だけは理解できて問題も解けるから楽しくてますます勉強し、成績も上がる。一方でもとより苦手な理系科目は、理解できず解いていても楽しくないから勉強したくないし、両親への復讐という大義名分を得た私は意図的に勉強をさぼったものだから、いよいよ成績は低迷する。そして授業にもついていけなくなる。それがまた楽しくないものだから、鬱憤を晴らすように文系科目にのめりこむ。その結果、文系科目はそこそこできるけれども理系科目は壊滅的、志望校判定はE判定の行列という羽目になる。
あーあ。白い息とともに溜息をもう一つ。失敗したなあ、なんて。私にだって悪いところはあるってわかっている。もっと勉強するべきだった。特に理系科目。苦手だから勉強したくないところに、親への憎しみをサボる言い訳に使った。もっと真面目に勉強するべきだった。ポーズなどではなく、真剣に。そう今更後悔したところでもう遅い。鞄の中の成績表が今からもっとましな成績に書き換わるわけでもない。
それでも私のこの成績表の表示は何かの間違いで、実はもっとまともな成績だったという連絡がこないかと期待して、スマホを何となく弄ぶ。成績表を凝視して、文字が変化することに期待する。
とは言っても、待てども待てどもスマホが震えることもなく、文字が変化することもなく。成績表の表示はE判定の行列。偏差値なんてお察しだ。きっと死ぬほど怒鳴られる。なぜおまえはもっと努力しない。もっと真面目に人生を送らない。なぜ、なぜ、なぜ。
何故だなんて決まってる。医者になりたくないからだ。だけどそんなこと言える訳がない。答えようのない質問を投げかけながら私を殴るのだろう。またたくさん殴られる。サンドバッグみたいに。そう思うだけで胃の底に鉛を流し込まれたように、身体がズーンと重くなる。
人生って何だろう。そんなことを考えながら歩いていく。そんなもの、初めから私にはなかった。私には、敷かれたレールをただ走るという選択肢しか与えられていなかった。それを逸脱することなく走り抜ければ、真面目に人生を送っていると褒めてもらえるのだろうか。
ううん。私は首を振る。ちゃんと走ったら走ったで、当たり前のことを当たり前にこなしただけと見なされるだろう。超えなければいけないハードルの高さが上がるだけだ。そしてそのハードルを飛べなければまた殴られるだけのこと。ハードルを飛べる様になるまで、ずっと。ハードルを飛べればまた新たなより高いハードルが現れる。それの繰り返しだ。
そんなことを考えながら冷え切った世界の中を歩く。あまり早く家につかないように。かといってあまり遅くなりすぎないように調整して、少しばかりの回り道をして歩いていく。回り道のほうは街灯が少なく薄暗い。路地裏という表現がぴったりの道だ。
他人の家の明かりを眺めながら、誰もいない路地裏をコツコツと歩いていく。通り過ぎていく他人の家の窓から、いろんな声が流れてくる。お父さんと小さな子供たちの団欒の声。漫才にどっと笑うお母さんの笑い声。いろんな匂いも漂ってくる。美味しそうなハンバーグの香り。野菜炒めの香り。シチューの香り。他人の家の光というのは、無性に眩しく見える。他人の家の明かりは、無性に暖かそうに見える。私は他人の家の明かりを見るのが好きだ。他人の家から漂う香りを嗅ぐのも好きだ。
なんと言うか、生きている人がいるという感じがするから。自分の人生を生きている人もいると、実感できるから。そうした家族というのを見ていると、家族と言うものもそう捨てたものではないと実感させてくれるから。
そういう温かい家族を見ていると、どことなく胸がぎゅっと締め付けられるような心地になる。それでもその気持ちはただ不快なばかりではない。夜空にきらめく星を眺めているかのような、遠い星の異星人に想像の翼を広げているときのような、どこかきゅっと、切ない気持ちに襲われるのだ。そのどこか懐かしいような、焦がれる様な切なさが好きで、私は他人の家の光に惹かれるのだ。
香りにおいても同じこと。生活感溢れる香りを嗅ぐと、本当に他人というのは実在していて、私の作り出した幻想ではないんだと安心する。他人の家庭の香りを嗅ぐと、全ての家が私の家みたいなわけじゃないんだとホッとする。家族って、あったかいんだ。そんな感覚は私を慰めてくれる。
温かいお家。私の家とは大違いだ。何処までも無機質で、冷え冷えとしていて。そして何よりも辛いのは私を取り巻くあの視線。私がサボっていないか監視する敵意に満ち溢れたあの家とは違って、人間が生きているという感じがするから。だから私は、他人の家の生活臭を嗅ぐのも好きだ。
こつこつと、歩みを進める。ああどうか、不審者でも現れてくれないだろうか。私の成績表の入った鞄をひったくって逃げていかないだろうか、なんて。そんなことを考えながら。
あるいはいきなり家々のドアが開いて、私を内部に引きずり込んだりしないだろうか、なんてすら思う。乱暴されたってかまわない。汚されたって構わない。多少のケガなんて織り込み済みだ。その後無事警察に保護されるのであれば。病院に運び込まれた娘を、両親も警官や医者の前で成績のことで殴り飛ばしたりはしないだろうから。あるいは、ちょっとは大事にしてくれるかもしれない。それこそポーズにすぎなくとも、なんて。けれど不審者は現れず、突然家々の勝手門が開くこともなく。
気が付けばあと一つ橋を超えれば私の家というところまで来ていた。あーあ。今日何度目かわからぬ溜息を吐く。橋の欄干にもたれかかり、ちょうど干された布団のように身を乗り出してみたりする。家に帰りたくなかった。帰れば、また殴られることなんてわかりきっていたから。
それにこう、回り道をして帰っていると、他の家の明るさを知ってしまうと、一層あの家に帰りたくなくなってくるのだ。それは、あの家というものが本質的に私の帰るべき場所ではないからかもしれない、なんて。そんなことを考えて苦笑する。
家出したかった。この閉ざされた世界の中から逃げ出したかった。私は自由が欲しかった。タンポポのように、風に吹かれて飛んでいきたかった。誰も私を知らない、見知らぬ土地へと。
だけど家出したところでどうやって生きていけばいい。学校は進学校だったからバイトなんかも禁止だったので、今更バイトで生きていけるとは思えない。そうなると身体を売って生きていくしか道はないが、何となくそれは嫌だった。というより、男の人が苦手な私が身体を売れるとは思えなかった。それに私はコミュ力がない。他人と話すのが好きではない。そんな私が身体を無事に売れるかといえば、答えは否だ。
それに、家出したとして。万が一見つかって連れもどされたら。どんな折檻を受ける羽目になるかを考えると恐ろしかった。家に恥をかかせたとして、手ひどく殴られるだろう。それこそ、殺されるかもしれない。家に恥をかかせるような人間は我が家にはいらないとかいって。そのまま失踪したように見せかけられて、殺されるかもしれない。十分あり得る話だった。家名に対する両親のこだわりは異常なものがあったから。
殺されるのは嫌だった。痛いのは嫌いだ。怒鳴られるのも嫌いだ。それに、人知れず土に埋められるか海に沈められるだなんて。私は人間として死にたかった。尊厳を持って死にたかった。
家出できるものは幸せ者だ。家出したところで安全が保証されているのだから。ちょっとした旅行の様なものだ、なんて思ってしまうのは私の僻みかもしれないけれど。私は家に縛られている。家から逃げ出すことさえできないのだ。
ならばいっそこのまま死んでしまおうか。欄干から身を乗り出し、干された布団の様な格好をして、遥か下の水面を見る。軽く地を蹴ってみる。両足は大地を離れ、ぶらぶらと。後もう少し身を乗り出せば水面まで真っ逆様。だけど、私にはそれ以上身を乗り出すことなんてできなかった。どっどっどと、こめかみを脈が打つ感覚。上半身は逆さまだけど、そのまま水面へ飛び込む勇気が私にはなかった。
きっと水は冷たいだろう。溺死は苦しいのだろう。そんな想像ばかりが頭をよぎる。以前プールで溺れかかったことを思い出す。肺は爆発しそうに苦しくって、世界から色が失われていく感覚。自分というものが徐々に薄れていくあの感覚。あの感覚をもう一度味わうのは嫌だった。それに私がもし仮に自殺したら、両親は白々しく泣くのだろう。どうしてあの子がと。そこまで追い込んだのはあなたたちの癖に。そんな茶番劇を見たくないからこそ、私は死ぬことができない。死んで楽になる事が許されない。
あーあ。馬鹿みたい。私はぼやく。どう転んでもお先真っ暗だ。私は鳥になりたかった。ここではない何処かへ飛んでいける鳥。こんな狭い世界から飛んで逃げられる鳥に。だけど生憎私の背中には翼がない。それに鳥には鳥なりの苦労もあるのだろう。そう考えると鳥になるのも考えものかもしれない。死んだら生まれ変わらず、ただ消えさることができたらいいのに。触れれば消える、雪の結晶のように。
私は鞄からヘッドホンを取り出し被る。流れ出すのはカラヤン指揮ヴェルディの怒りの日だ。ダン、ダン、ダンという荘厳な調べが流れ出す。こんな気分には似つかわしくもない、勇壮な曲だ。気分を上げようとヘッドホンを被ったけれど、選曲を間違えたかもしれない。うるさいとばかりにすぐに止める。でも、止めたら止めたで静寂も煩くて。苛立たしげにヘッドホンをカバンに収める。白い吐息を一つ。
ああ、帰りたくないなあ。内心呟く。いっそ成績表をバラバラに刻んで、川に流してしまえれば楽なのに。でもそこまで馬鹿になることは出来なくて。
欄干を掴んだ手に白いものが舞い落ちる。見上げればハラハラと舞う白いもの。雪だった。それは雪だった。どうりで寒い訳だ。内心呟く。
両手を差し伸べ、舞い落ちてくる雪のかたまりをそっと受け止める。ふっと息を吹きかけてみる。あらかたの雪は飛んで行ったけれど、いくつかの雪の結晶は残った。六角形の雪の結晶。
私の体温でジワリと溶ける雪の結晶が、なんとなく羨ましかった。
わたしは、雪の結晶のように 間川 レイ @tsuyomasu0418
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