カラサデ幻燈

蓮乗十互

【本文】カラサデ幻燈

 水槽には少女がゆらめいている。先ほどまで無頼に騒いでいた酔客たちも、今は息を飲んで水槽を見守っていた。かすかな青い照明がおだやかな波に細く乱れて、薄暗いテントの内部全体をあたかも水の底に沈めてしまったようだ。

 少年は、チケットの半券を左手に握りしめて、じっ、と水槽の少女を見つめていた。ゆらり、少女が顔を巡らせると、水中に長い髪がふくらんでそれが少年をどきりとさせる。少女は胸と腰に茶色の薄布を巻いており、その狭間で真っ白な腹が闇に浮かぶように揺れていた。ゆうらり、ゆうらり、少女の臍が笑っている、と少年は思った。

 少女が水に沈んでもう五分がたつ。普通の人間なら息が詰まって死んでしまう時間だ。けれども少女は、半開きの目をして少うし笑っている。このまま彼女は絶命してしまうのではないか、という微かな恐れと、透明な青い光の中にゆらめく少女のこの世ならぬ美しさに、観客は息を飲んでその場の光景を見守っている。

 ふいに水中に小さな影が現れた。最初それは少女の肌に浮かぶ小さな黒い染みのようだったけれど、次第に成長して青白い空間を浸食し、やがて巨大な蛇の陰影となって少女の頭上に浮かんだ。

 一人の女性客が悲鳴に似た小さな声を上げた。水の少女は、はっ、として影を見上げる。大蛇の視線に射すくめられ恐怖に顔がこわばるさまが、観客たちには手にとるように分かった。影の蛇は邪悪な舌をぴるぴる出し入れし、少女にからみつく。ごぼ、がば、と少女の口から大きな泡があふれ、顔には苦悶の表情が浮かぶ。いつしか、どぅどぅどぅどぅどぅと小太鼓が低く速いリズムを刻み、場内の空気が不安に揺れだした。波打つ薄青い光と漆黒の闇、その狭間で恐怖し身もだえる少女。

 少年は、ごくり、とつばを飲んだ。心臓が次第に速く、大きく、脈動を始める。握りしめた両の拳はひどく湿っていた。呼吸が浅くうわずった。闇の中に世界の神秘をのぞき見ているような、奇妙な羞恥と興奮が少年を揺さぶる。

 くあっ、と影の蛇が大きな口を開けた。邪悪な牙が一瞬に現れ、少女の喉に襲いかかる。

「ああーっ」

 鋭いソプラノの悲鳴が場内を切り裂き、観客は皆、背に氷を当てられたように硬直した。ふっ、と照明が消える。場内は完全な闇になる。小太鼓のリズムが地の底からうねるように這い上り、少年はもう、自分が立っているのか、座っているのか、どちらが上か右かもわからず空中に放り投げられたようで、くらくらと頭が回って思わず両手で顔を覆った。

 どしゃうーん。

 チャイナ・シムバルの金属的な音を合図に小太鼓がぱたりと鳴り止み、同時にオレンジ色のまばゆいライトが一筋照らされる。観客たちは水槽を凝視したが、もはやそこに少女の姿はなく、ただ水がゆるやかに揺れ、少女の哀れな落命を予感させた。

 ふいに光の中に白い手が浮かんだ。手の主は光の外にあって姿は見えない。細くしなやかな指、ふくよかな掌。水槽の背後の白幕に映る巨大な手の影までもが繊細だ。両の手指が大きくしなり、奇妙な形になる。あっと誰かが叫んだ。白幕に映る影、それは確かに、先ほどの少女の影であった。人々は瞬時に悟った。影の蛇に喰われ、少女も影の存在になってしまったのだ。

 いつしか音楽は心楽しげなメヌエットだ。次々と、まるで魔術の印を結ぶように手指が蠢く度に、影の少女が舞い踊る。爪の先ほどの小さなゆらめきも影の少女の躍動になる。少女は影になって、むしろ生気を取り戻したかのように笑いさざめく。

 更に一筋、白く淡い光の輪が天井からそそいで、手の主の姿を浮かび上がらせた。男。歳の頃は五十を越した辺りか、口ひげには白いものが混じっている。しかし体躯はがっしりとして、山高帽に燕尾服の黒づくめの衣装が体の大きさを一層際だたせている。そう、プログラムはいつしか「水棲少女」から「影絵幻想」に移っていたのだ。してみると先の黒蛇も、この男の創り出した影絵であったに相違ない。

 観客たちから大きな拍手が湧いた。やがて舞台の端にもうひとつ光の輪が浮かび、袖から先程の少女が現れ手を振ると、拍手は一層大きくなった。

 男のしなやかな指は次々に形を変え、その度に、驚く程に豊かな表情をした影の存在が白幕に映し出される。少年は、じっ、と影を見つめた。ああ、あれは犬だ。仔犬が野原を駆けている。ふいにその背から翼が生え伸び、ペガサスとなって天空へ舞い上がる。巨大なドーム型テントの丸い天井は、いかなる投光器の精妙な細工か、本物と見紛うばかりの星々がまたたく、冬の夜空だ。影の馬が天空を駆けてゆく。その姿を追って少年は頭上を仰ぎ見る。オリオンの輝きが、闇夜に縫いつけられた宝石のように、少年の魂を捉えて離さない。

(夢だ、これはほんとうに夜空の夢だ)

 少年は興奮で身体の奥が震えた。舞台はクライマックスを迎えようとしていた。


        *


 サーカスがこの町に来る事を知ったのは、今から半月ほど前、秋も深まった学校帰りのことだった。役場の掲示板に張られた見慣れぬポスターが、沈んだ心持ちで一人歩いていた少年の目を引いた。薄く黄色味がかった皺紙に艶やかな黒一色の版画で、マントを纏った人間とも鳥ともつかぬ影が、地上から今しも星空に飛び立たんと伸び上がっている。少年はその版画を、じっ、と見つめた。どこか哀しくて、淋しくて、魂が吸い込まれてしまいそうな気分になる。「アナタヲ夜空ノ夢ヘツレテユキマス」。ポスターはそう詠い、サーカスが来る事を告げていた。

 敗戦からもう何年も経っているとはいえ、少年の住むこの安来やすぎの町にサーカスが来るなぞ、そうあることではない。たたら製鉄の盛んであった出雲地方で、安来はかつて、鉄の積み出し港として栄えた町だった。しかし県都・松江と商業都市・米子よなごに挟まれた地の不利から、今では必ずしも勢いのある土地ではない。ヤスキハガネを産出するH金属の製鋼所が、ほとんど唯一の大きな産業である。この人口の少ない町に珍しいサーカスが来るのはH金属が従業員家族の慰安の為に招致したからだ、と大人たちが口にするのを、少年はしばらく後で耳の端にした。

 夜空の夢。ヨゾラノユメ。少年はこの言葉を呪文のように何度も口の中で繰り返した。それはどんな夢だろう。暖かだろうか、淋しいだろうか。眠って見る夢よりも優しいだろうか。ポスターの星空は心をゆっくりと巻き込むようで、軽い昂揚を覚えながら、少年は家路を駆けた。

 サーカスを見に行きたいという少年に、しかし、母親は首を横に振った。

なしてどうしていけんのだめなの

あぎゃんあんなのは、大人の見いもんだ。子供の行くもんだねものじゃない

「なして子供が見たらいけんだ」

「なしてもだ。それよおもな」

 母親は中腰になり、少年の顔を睨むように見つめた。

「先生から連絡があったで。また学校で悪さしたげながしたそうじゃない

「なんもしちょらん」

しちょらんだねだらがしてないことないでしょ。キヨシ君を粘土板で叩いて泣かせただらが」

 少年は押し黙った。

「なんでいっつもいっつも、そぎゃんそんなことすうだね。弱い子をいじめて、可哀想だとは思わんか」

 少年は口を開かない。ただ地面を見ながら、小刻みに膝を揺すり始める。

 この数ヶ月、少年は度々友人に暴力を振るっては叱られていた。理由を問うても何もいわない。周りの友人にその時の状況を聞いても、取り立てて何があったわけではないらしいのだ。それまでは喧嘩なぞする事のないおとなしい子であっただけに、母親はひどく困惑してもいた。

「明日ちゃんとキヨシ君に謝っちょきないよ」

 少年は少し上目遣いで母親の顔を見上げた。

「……謝ったら、サーカス行かしてごす?」

だらず馬鹿、そぎゃんこととは関係ないがね!」

いいがんいいでしょ。ちゃんと謝あけん、行かして」

「いけん。それにな、その日はカラサデさんだがね。家でじっとしちょらんと、神様にさらわれてしまあで」

 あっ、と少年は思った。そういえばサーカスが来るその日は、ちょうどカラサデの日に当たっていたのだ。

 この時期に吹く強い風を、土地の言葉でカラサデといった。旧暦の十月、一般には神無月かんなづきであるこの月を、ただこの出雲地方のみ神在月かみありづきと呼ぶ。全国から神々がこの地に集い、翌年の人々の幸と縁組みを話し合うのだ。その神々が自分の土地にお帰りになる際の祭式をカラサデ神事といい、「神等去出」の文字を当てる。風は、神々が帰りゆく印なのだった。

 カラサデの風の吹く日に騒ぐと、神様が帰り際に見つけてさらっていってしまう、外便所に入っても冷たい箒のような手で尻を撫でられる。だからこの日には、赤飯を炊いて門口になすりつけ、神様がそれを食べて飛び去るのを、じっ、と静かに物忌みし待たねばならない。それがこの地方の昔からの風習だった。

 無論今では、そうした古い風習をそのままに信じ守る家庭は少なくなった。しかし子供たちに対しては今だに物忌む事が求められ、家で、あるいは歳神の社に集団で籠もって、静かに夜を過ごすのが常であった。

 子供たちにとって、タブーを犯すとトイレで尻を撫でられたり神隠しにあうのだという想像は、とても恐ろしい事なのだ。少年はこれまで、カラサデの夜の物忌みを欠かした事がなかった。かつてカラサデの日に、近所の子供たちと社に籠もって年寄りから夜話に聞いた土地の怪異譚の数々は、年長となり家で物忌むようになった今でも、少年の心を怯えさせる。それは、暗い闇の奥底に幽かな温もりとひそやかな息づかいを聞き取るような、敏感な想像力のもたらす恐怖だった。

 けれど今、まだ見ぬサーカスのヨゾラノユメへの憧れが、少年の心を強く強く捉えていた。その一方で、タブーを犯す恐怖は霧のように薄く淡く、視界から失せていた。

「カラサデさんは、もういいがね。コウちゃんだって、去年はカラサデさんの日に米子に行っちょったとね」

「人は人だが」

「夜にじっとしちょりゃいいがん。暗んなあくなる前にちゃんと帰って来うけん、なあ、行ってもいいが? 行ってもいいが?」

 少年は母親の裾をつかんで揺さぶり、甘えた声を上げ続ける。母親はしばらく無言で少年の顔を睨んでいたが、しまいには、

「いい加減にしないっ! いけんっていったらいけん。身勝手ばっか言う子に道楽させえやな余分な金は家にね!」

と一喝した。

 途端に少年の胸は悲しい気持ちで一杯になる。顔がくしゃくしゃになって、喉からひきつった空気が溢れそうになる。母親は背中を向ける、そうすると余計に悲しくなる。その背中を思いきり叩きたくなって、大声で怒り泣き喚きたくなって、でも何か心の中で邪魔するものがあって、叩かない、喚かない。黒い気持ちがざわめき膨れる。母親は背中を向けている。少年は小さくしゃくり上げながら台所を後にした。

 居間に入ると、姉が裁縫をしていた手を休め、顔を上げた。

「どげしたね、またお母ちゃんに怒られただか」

 狭い家のことだから、先程のやりとりは彼女にも全部聞こえていた筈だった。少年は応えず、涙を溜めた目でじっと姉の顔を見つめた。三つ編みにした髪を後ろに垂らして、姉は大きな瞳で優しく少年を見つめ返した。

 二人きりの姉弟という事もあってか、彼女は九つ年下の少年をよく可愛がっていた。地元の旧制高等女学校を卒業してはや二年、来春には近所の幼なじみの青年に嫁ぐことが決まっている。

「こっちない」

 姉に促され、少年はゆっくりと歩み寄る。彼女は軽く少年を抱き寄せ、そっと頭に手を置いた。暖かな香りが少年にはくすぐったい。

「え子にしちょらないけんがね。お母ちゃん胸が痛しいだけん、いたわってあげな」

 少年は何もいわない。洟が垂れそうになって、ずるっ、と吸い上げる。姉が袖から花紙を取り出し、少年の鼻に当てた。洟をかむと、少し気が晴れた気がして、小さな声で少年はいった。

「お母ちゃんが、サーカスに行かしてごさんくれないて」

「そげか。姉ちゃんがお金持っちょりゃ、坊を連れてっちゃるだあもんなあ。姉ちゃんも、あんまお金ないだがん」

「うち、貧乏なんか」

「そげだなあ……姉ちゃん嫁に行ったら、坊にもお小遣いあげられえやになあかも知らんだあもん」

 少年は、姉が膝元に置いた、縫いかけの着物に目を落とす。絣の生地は素朴な柄が深い藍色に染まり、姉にとてもよく似合うように思えた。嫁ぎ先の家から嫁入り支度にと贈られたものだと、耳の端で聞いている。

 姉の嫁ぎ先は安来の町でも旧家に数えられる。当主も、結婚相手であるその長男も、戦争から無事に戻ってきた。戦前から営んでいた布問屋は再び軌道に乗り、家全体に勢いがあった。

 姉に結婚の申し込みがあったのは、今年の夏のはじめの頃だった。仲人による挨拶の数日後、両親と共に家を訪れた青年の顔に、少年は見覚えがあった。彼が物心ついた頃、いつもは一緒に遊んでくれる姉が自分を置いて外に遊びに行く時は、大抵ひとりの年上の少年と一緒だった。その少年が今、青年になり、姉を迎えに来たのだ。

 その時の、廊下の隅で叔母が母親にいった言葉を、少年は耳の奥底に閉じこめている。これであんたんとこも少しは楽になあわね、向こうは金持ちだけんなあ……。

 少年は急に、睨むような強い目を姉に向けた。

「じゃあ、俺がサーカス行かんっていったら、姉ちゃん嫁に行くのやめるか」

なしてどうしてそげなあそうなるかね」

「なしても」

 姉は困った眼をして、首を横に振った。この子は最近よくこうした無理難題をいうようになった、と彼女は思う。自分がいなくなるのが淋しいのだろう、とは想像するのだけれど、聞けることと聞けないことがある。

「なしてもっ」

 姉は黙って少年を見つめる。

「なーしーてーもー、ていっちょるがね!」

 少年は叫ぶようにいうと、激しい勢いで姉の腕を叩いた。

「あ痛っ、何すうかねこの子は」

「姉ちゃんのだらず!」

 少年はそのまま部屋を駆け出した。姉は「だらずはわあだらお前だろうが!」と強い口調で少年の背中に投げたけれど、その顔がとても悲しげだったのを、少年は知らない。


        *


 去りゆく観客の満足そうなざわめきが消えてしまうと、先ほどまでのきらびやかな喧噪が嘘のように、テントの中は静かになった。外はもう夕暮れの時間だろうか、大きく開け放たれた入り口から差し込む陽光は、うっすらと淡い橙色でテントの中を染めている。ライオンを意のままに操る猛獣使い。十メートル離れた少女の頭上のリンゴを射抜く投げナイフ師。暗闇を激しく焦がす火吹き男。ステージの上で多くの人々を魅了したサーカス団員たちは今、その輝きを密やかに隠して、黙々と舞台の撤収作業を行っている。その様をぼんやりと眺めながら、少年は入り口の細い柱に寄りかかるようにして佇んでいた。

 家には帰れない。そう少年は心に決めていた。母親の禁止に背いてサーカスを観に来たのだし、ましてや、木戸銭のための金を水屋の引き出しから黙って抜き取ったのだから。

 家の金を盗るなぞ初めての事だった。それだけに、どんなに怒られるか想像もできなかった。普段は温厚な母親だが、怒る時は鬼のように怖くなる。戦争で死んだ父親代わりに、間違った事をした時には無理にも厳しく叱りつけようと考えての事なのだが、少年にそんな母の内心まではわからない。ただ、母親から強く叱責される場面を想像するだけで、幼い心は意気地なく震え傷ついてしまうのだ。それに……。

「坊や」

 ピエロの服を着た男が少年の姿に気づき、声をかけた。荒く化粧を落としたその顔は、ステージでおどけていた子供たちの仲間のそれではなく、分別ある大人のものだった。

「もう暗くなるよ。家へお帰り」

 仕方なく少年は外に歩んだ。

 中海なかうみ沿いの広い空き地に設営されたテントを出ると、目の前はすぐ安来港だ。弧を描いた港の反対側には、十神とかみ山が海に張り出して木々の緑をまとい、水面に根付いたような重たい存在感を持っている。港の水面が鏡のようにその姿を映して美しい。地元の民が「逆さ十神」と呼ぶ景観である。

 十神山は本来、出雲国風土記に「祗神嶋」と示されるように、中海に浮かぶ島だった。海峡を埋められ陸続きになったのは江戸時代の中頃、山陰道の関所を迂回する不法通行を防ぐためだったと伝えられる。今でも十神山は島であった頃の面影を残し、その三方を中海に向けている。標高百メートルにも満たない小さな山だが、美しく神秘的な二等辺三角形の山容から、神々有縁の体と考えられたのだろう。

 少年はしばらく歩いてテントから離れると、所在なく岸壁に腰を下ろした。

 帰れない。俺はもうどこにも行き場がない。

 少年は心細い気持ちを抱えて泣きそうになる。夕暮れの風は冷たく少年の首筋を通り過ぎてゆく。ちゃぷちゃぷと波の音が不規則にはじけて、辺りは潮の香りに満ちている。

 今頃母は何をしているだろう。お金がなくなっているのに気付いてかんかんに怒っているだろうか。今頃姉は何をしているだろう。嫁に行く日を指折り数えて顔をほころばせているだろうか。仲良しだった友達も、俺が叩くから遊ばなくなった。自分を暖かく迎え入れてくれる場所はもうどこにもない。少年は足下の石ころを拾うと、思い切り海に投げた。石は小さな音を立てて海中に沈み、後には波紋が円を描いて十神山の姿を歪ませる。

 ひょう、と風が耳元で唸った。そうだ、いっそカラサデの風にさらわれて、どこかに行ってしまえたなら……。

 少年は十神山を見上げた。既に日は没しかけ、暗い青色をした空を背に、山は深く重たい緑色で泰然としている。そういえば、カラサデの日には十神山に登ってはいけないのではなかったか。少年は、今よりもずっと幼い日にどこかで誰かに聞かされた、十神山にまつわる怪異譚を思い出していた。


        *


 十神山は、神在りの月に出雲に集いまたお帰りになる神々の御旅所(宿泊所)である。だから、この月の、特にカラサデの日に人間が十神山に入る事は禁じられていた。この禁忌を犯した者は、神隠しにあうか、運良く里に戻れても、気が触れてしまうのが常であった。

 昔、安来の町に一人の漁師の若者がいた。町一番の力自慢であった若者は、自分の剛胆さを皆に示そうと、ある年のカラサデの夜に十神山に足を踏み入れた。

 険しい山道をよじ登り頂上に至った時、誰もいない筈の場所で賑やかな話し声がする。不思議に思って近寄ると、十人の男女が車座になって酒盛りをしていた。星明かりが地面に映す影を見ると、それは人のものではなかった。

 一人がふいに振り返ると、木の陰に隠れていた若者を呼んで輪の中に招き入れた。若者は恐ろしい気持ちになって、夢中で酒をしこたま飲んだ。ぐるぐると頭が回る。一人が笑って、これは不老長寿の神酒だ、そんなに飲んだら、お前も人間ではなくなるぞ、という。

 やがて、夜空の底がうっすらと白み始めた頃、意識を失いつつある若者に長老らしき一人がいった。カラサデの日ににこの山に入った者は命がないのだが、今日の所はお前の剛胆さに免じてゆるしてやろう。けれどこの事は誰にも話してはならぬ。話したならその時は……。

 若者はふもとの寺の境内で目を覚ました。さては夢であったか、と思う一方で、腹の底に恐ろしい気持ちが重く残っている。若者は里に帰ってもこの話をしなかった。

 それから一年経ったカラサデの日の夜、若者は酔った勢いで、ついこの話を口にした。すると、仲間の目の前で、若者の体はスルスルと縮んでしまい、着物だけを残してそれっきり姿を消した。

 その後、十神山で小人になった若者がリスにくわえられてゆくのを見たとか、ふもとの池の蓮の葉に揺られていたけれど人が近づくと蛙のように飛び込んで消えたなどの噂が立ったが、定かではない──。


        *


 懐かしい匂い。懐かしい温もり。ああ、そういえばあれは、父に抱かれて聞いた話ではなかったか。

 少年は戦死した父親の事を思い出した。ごく幼い頃に出征した父親の顔はもう記憶から遠く、写真に残された生真面目な軍服姿しか分からない。でも、その膝に抱かれ、胸の匂いに眠った安らぎの記憶はぼんやりと残っている。母親によれば、父親はずっとずっと南の国で死んだという。そして、昔からの家の先祖の霊と一緒になって、お盆になると帰ってくるという。でも、お盆の日に仏壇をじっと覗き込んでも、そこにはいつも通りの薄暗い冷たさがあるだけで、肉親の温もりを感じることはなかった。

 少年は立ち上がった。山へ行こう。山で俺も神様にさらわれて、人間でないものになろう。どうせ家には帰れないのだし、それに、もしかすると山には父がいる。そうだ、父は仏壇などではなくて、あの神様の山にいるのだ。

 少年は捨て鉢な気持ちで歩き出す。怪異を信じる恐怖心がある一方で、そんなものはないに決まってる、という理性的な目もある。どちらが正しいのか、自分でも分からない。よしんば何事もなかったとしても、山の中で落ち葉をかき集めて眠ればいい。木の実を食べて、魚を釣って、原始人のような暮らしをすればいい。冬になって雪が降ったら、降らなくてもうんと寒くなったら……分からない。どうしよう。

 ぐるり、と海岸線をたどると、十分ほどで山のふもとに着いた。そこから見上げると、頂上はずいぶんと天に近く見えた。空には既に星がいくつかまたたき、西の端に目をやると太陽はもう半分姿を消していた。

 少年はかつて、一度だけ年上の友人に連れられて十神山に登った事がある。あの時は確か寺の本堂の裏から登ったっけ、と思いながら、少年はそちらに足を向けた。

 住持の暮らす気配のない寺の境内は、鬱蒼とした木々に覆われて急速に闇を濃くしつつある。聳える山肌はその闇の奥に続いていた。少年はなんとなく足音を忍ばせながら、本堂の背後に回った。そこには細い石段が山の上へ向けて延びていた。それを一歩々々登ると、すぐに小さな稲荷の祠があって、石段はそこで途切れていた。後は道らしきものもなく、足場を探して這い登る他はない。

 少年は岩と木の根に取りついて、ゆっくりと登り始めた。時折り顔のすぐ近くに湿った土の匂いが湧き立つ。何処かで烏が鳴いている。空は木々に阻まれて、すっかり夜より深い闇だ。汗を拭おうと首筋に手をやると、ざらっ、と土の感触が肌を撫でた。

 所々にむき出している岩や雑多な草木が障害になって、真っ直ぐ上を目指して登るわけにはいかない。少しずつ左へ右へ、時には下ったりして迂回するうちに、少年は自分が今、どの辺りにいるのか分からなくなった。ずいぶんと登ったような気もするし、実は見当違いの方向へ伝っているようにも思える。

 下を覗いて寺が見えれば位置関係が分かるだろう、と思って振り向いた途端、少年は下草に足を取られて転げた。

「あっ」

 横ざまに二回転ほどして、そのままの勢いで山肌を滑ってゆく。ふっ、とその先に木々の途切れ目を見て、少年は本能的に近くの枝にしがみついた。ざざあ、と砂が水に落ちる音が遠くで聞こえ、次の瞬間、少年は半身が宙に投げ出されているのを知った。

 枝にぶらさがったまま、おそるおそる下を覗く。足の下数メートル先には暗い海があった。山肌をぐるっと回り込んで、いつの間にか海側の崖に出てしまったらしい。少年は必死で枝に脚を絡め、どうやら山肌に這い上がった。

 とくとくとくとく……。

 心臓が足早に脈打つ。まるで耳元で小太鼓が鳴っているようだ。下を見ると、真っ黒な水が粘り気を帯びて波打っている。それはまるで、自分を引きずり込もうとする邪悪な意志のようで、岩に当たる波の音は化け物の舌なめずりにすら聞こえた。

 少年は黒い水面を覗きながら、神話の中でイザナギがイザナミに追われた黄泉よもつ比良坂ひらさかを思った。イザナギが禁を犯して目にした黄泉の国の忌まわしい風景は、丁度こんなではなかったか。そう思うと全身の毛穴が開いて汗が噴き出し、急に寒くなってきて、少年はその場で膝を抱えた。どうしよう、こんな所に来るのではなかった。辺りを見回すと、あちらの木の陰、こちらの岩陰に、何者かが潜んで自分を狙っているような気がしてきて、動けない。

 そのまま、しばらく時が過ぎた。

 ようやく心が落ち着くと、少年は立ち上がった。ここでこうしていても仕方がない。もう一度頂上を目指そう。そう思って歩みだした途端に、上から確かな人の声がした。

「おー、暗くて何も見えんなあ」

 どきっ、と心臓が破裂しそうに膨れる。反射的に少年は岩の陰に身を寄せた。

「電灯を持ってこないから」

「そう責めるな。電灯があったって、こう険しいんじゃあ、どっちみち迷うさ」

 そういったきり、声は途絶えた。

 大人の男と、まだ若い女の声。伝説にあった、出雲から帰る途中の神様だろうか。これから頂上で酒盛りをする所で、道に迷ったのだろうか。それにしては電灯といった。神様が電灯を使うなんて変だ。やはり普通の人間か。でも、どうしてこんな所に。

 少年がどきどきしながらそんな事を考えているうちに、落ち葉を踏みしだく足音は次第に近くなる。

「お、向こうが開けてるぞ。ふもとに着いたらしい」

 ふいに声がそういうと、滑るような音が少年の方角へ性急に近づいた。今しがた少年が落ちかけた崖を、ふもとの平地と勘違いしたものらしい。少年は思わず立ち上がって声を上げた。

「こっちは崖だけん、危ねえぞ!」

「うわあっ」

「きゃっ」

 突拍子もない声で男と女が同時に悲鳴を上げ、たじろいだ。その声に少年まで驚いて、一瞬、誰もが言葉を失った。

 少年は上を見上げる。大きな影と小さな影が、息を飲んでこちらを見下ろす気配だ。この暗さでは、顔形はおろか服装の具合も分からない。神様だろうか。人間だろうか。

 警戒心に満ちた沈黙を破って先に口を開いたのは、男の方だった。

「……向こうは、崖なのかね」

「そげだ」

「私たちは道に迷ってしまったらしい。ふもとがどちらの方角か、教えてもらえまいか」

「よく分からん」

「えっ」

「だあもん……」

 少年は頭の中で考えを巡らせた。ふもとから自分のたどった方角を考えると、ここは寺から安来港側を西へ回った所に違いない。そういえば海のすぐ向こうに、港の灯台の明かりが見える。ならば。

「多分、あっちだ。おじさん、安来のもんじゃねえな」

「そうだよ」

「じゃあ、また迷ってもいけんけん、俺が連れてっちゃる。ついてないなさい

 いうが早いか、少年は見当をつけて歩き出した。すまない、と男がいう声を、少年は背中で聞いた。

 一人だった先ほどまでの得体の知れない恐怖は消えていた。むしろ今は、なんだか妙に嬉しいような、心弾む気持ちだ。それが、山を下りる口実を得た喜びだと自覚できる程には、少年は大人ではない。

 男が途中、二言三言少年に声をかけた他は、三人とも無言のまま山肌を伝った。十五分ほども経った頃、三人はふいに平地に出た。寺からは少し離れた道路脇で、月明かりと民家の窓から洩れる光が、ぼんやりと空気を白くしている。

「あーあ、やっと着いたね」

 その時初めて女が口を開いた。

 少年は振り向いて、二人を見た。男は存外に大柄で、黒い帽子とマントを羽織っている。十神山の黒い森を背にして立つ様は、仁王様のように見えないこともない。(新町のヒデユキ君がいの家のお父ちゃんよりでかいな……)と思って見上げるうちに、あっ、と少年は思った。白毛混じりの口ひげを豊かに蓄え、異国人のように彫りの深いその顔は、紛れもなくサーカスで影絵を操っていた男だ。そして、彼の大きな背中に隠れるようにしながらそっと少年を覗いているのは、水槽に潜っていたあの少女に間違いない。

「お陰で助かったよ、どうもありがとう」

 男は腰をかがめ、少年に顔を近づけて、そういった。少年が思わず身を引くと、男は苦笑し、背を伸ばした。少女も笑って、ありがとう、といった。ポニーテールにした長い髪が夜風に揺れる。少年は、水中になびいていた少女の髪と白い腹を思い出した。

「おじさんやつ、サーカスの氏だが」

「おや、観てくれたのかい」

「十神山で、何しちょっただ」

「トカミヤマというのかい、この山は。いや、ちょっと散歩がてらに登ってみたくなってね。上から安来の町が見渡せそうだったし、あまりに美しい形の山だったからね。海の上に浮かぶ神体というか……ほら、まるでピラミッドのようじゃないか」

「ピラミッドって、エジプトのか」

 少年は、子供向け雑誌に載っていた遠い遠い異国の遺跡を思い浮かべた。そういえば、均整な錐型の山容は、確かに似ているといえる。時間を超え、空間を超えて、神様の世界がつながっている。そう思うと少年は胸がわくわくするような興奮を覚えた。

「サーカスは、エジプトにも行くのか」

「ああ、行った事もあるよ」

「ほかの、いろんな国にも行くのか」

「そうだね」

「すげえな」

 少年はまぶしいような目で男を見上げる。男は優しい顔で少年を見下ろしていたけれど、ふいに顔を上げて空を見た。

「この季節は、夜空が綺麗だ」

 少年は、はっ、とした。黒いマントを羽織り夜空を見上げる男の姿が、サーカスのポスターに刷られた版画の男を思わせたからだ。このままこの人は翼を広げて、星々のきらめく天空へ飛び去るかも知れない。女の子も一緒に、水に泳ぐように宙を舞うのかも知れない。サーカスはそうやって、神秘的な方法で世界中を回っているのではないか。やはりこの人たちは、カラサデの日に十神山に立ち寄った神様だったのだ。一瞬、そんな夢想に心を奪われた少年を、男はも、、一度見下ろして、いった。

「もしよければ、お礼に暖かいものでもご馳走しようか。私たちのテントにこないかね」

「いいのか」

「もちろん。でも、もう暗いから家に帰らなきゃいけない時間かな」

「……えわねいいよそぎゃんそんなのは」

 少年の表情が硬くなるのを、少しだけ男は見ていた。

「じゃ、おいで」

 男はそういうと、少年に手を差し伸べた。少年はその手を握る。大きな手だ。そして、暖かな手だ。

 男と少年は連れだって歩き出した。その少し後ろから少女がついてくる。小さな、しかし澄んだ声で、聞いたことのない美しい旋律を口ずさんでいる。

 少年はふと振り返って十神山を見上げた。夜の海に浮かぶ山は、星空を背に漆黒の姿を見せ、重苦しい沈黙を抱いて聳えていた。やっぱりカラサデの日の十神山は人間のいるべき所じゃないんだ、あのまま山に残っていたら、俺はどうなっていただろう。そう思うと少年は恐ろしい気持ちになって、テントのまぶしい明かりを目指して自然と足早になるのだった。


        *


 サーカスの舞台になった大テントの周りに、楽屋らしい小さなテントがいくつか張られている。少年が招き入れられたのは、そのうちのひとつだった。中には誰もいなかった。他の団員たちはきっと、別のテントにいるのだろう。

 テントの中は、電気が引かれてないためか、天井からさがった大きなオイル・ランプの光に照らされている。時折り炎が揺れると、人の影もそっとゆらめく。少年は椅子に腰をおろすと、テーブルの上に手を置いて、部屋を見回した。部屋のあちらこちらに、舞台で使うきらびやかな衣装や小道具らしきものが積まれて、猥雑な印象を与える。

「さ、どうぞ」

 少女が少年の前に、暖かな湯気を上げるコップを置いた。中に入っているのは、薄く茶色がかった澄んだ液体。なんだろう、と思って少年がコップを手にとり顔に近づけると、甘い香りが鼻をくすぐった。

「リンゴジュースだよ。あったまるから」

「だんだんね」

「え?」

 少女は聞き返した。

「ありがとう、て意味だが」

 少年はそういうと、一口、ジュースを口に含んだ。温かい甘みがじわじわと広がって、それを惜しむように飲み込むと、胸が、それから腹がほんのり熱くなる。病気の時に母親がすりおろしてくれるリンゴも美味しいけれど、これはもっと違う美味しさだ、と少年は思った。

「家はこの近くなのかね」

 テーブルの反対側に腰を下ろした男がそういった。彫りの深い顔と大きな体は、椅子に座っても独特の存在感を感じさせる。少年は道すがら、彼がこのサーカスの団長だと聞かされていた。

「うん、やぶちょうだ」

「それで、今日はサーカスを観にきてくれたんだね。家の人と一緒だったのかい」

「……いや、一人で来た」

「ふうん、それから山で暗くなるまで遊んでいたのかい」

「……」

「ちょっと団長、そんな問いつめるみたいな言い方しなくたって」

 少女はそういいながら、団長の傍らの壁にもたれかかるようにして少年を見た。

 少年は、少女が助け船を出してくれたのが嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、慌ててジュースを一口飲んでから、もう一度少女の顔に目を向けた。綺麗だ、と思う。大きくて黒い瞳、薄い唇。年頃は、姉と同じか、もう少し下くらいだろうか。

 少年の視線が自分を真っ直ぐに捉えているのを見て、少女は、にっこりと微笑んでいった。

「ねえ、舞台のご感想は?」

 少年は少女の言葉に顔を輝かせ、

「サーカス観たのは初めてだあもん、えらいすごく良かった。おじさんの影絵もすごかったし、そおに」

と、一瞬言葉を切って、目を伏せる。

「お姉ちゃんも、綺麗だったで」

「あらら、お世辞でも、ありがと」

「お世辞じゃねえぞ。ほんとだぞ」

「ありがと」

 ごくり、ともう一口、少年はジュースを飲む。すっかり身体中がぽかぽかとあたたまり、気持ちがいい。

「俺な、最初、ポスター見ただがん。そおで観たくなって、来ただがん。ヨゾラノユメって書いてあった。あれ、ほんとだったなあ。すごかったなあ」

 残ったジュースを一気に飲み干すと、ふう、と息をついて少年はコップを机に置いた。それからあらためてコップを覗き込むようにしながら、

「うまいなあ、これ。もう一杯ごしない」

といった。

 それを聞いて、団長と少女は顔を見合わせた。

「……大丈夫?」

「なんがね」

 少年は不思議そうに、交互に二人の顔を見る。団長が「いいじゃないか」と促すと、少女は

「それじゃあ、ちょっとだけね。子供にはきついものが混じってるから。今度はもっとゆっくり飲みなさい」

といって、やかんから少年のコップに半分ほどジュースを注いだ。それから、まだ中身の残っていた団長と自分のコップにも注ぎ足した。

 少年はジュースを舐めながら、じっ、と二人を見つめる。

「ん、どうしたね」

「おじさんやつ、出雲からの帰りか」

「ああ、出雲でも先週公演したよ」

「そおで十神山におっただな」

「どういう意味だい」

「十神山はなあ、カラサデさんの時は、人間は入ったらいけんだ。出雲から帰る神様が泊まりなあだけん」

 少年は団長の問いに応えながら、神在月には出雲に日本中の神様が集まること、今日はその神様が帰られるカラサデの日であること、この日に十神山に入った人間は神隠しにあうことなどを口にした。

「おじさんやつ、ほんとは人間だなてじゃなくて神様の仲間だらが」

「ははは、どうしてそう思うんだね」

「だって、サーカスで不思議なことやっちょったがね。おじさんは、影を生き物みたいにしちょったし、お姉ちゃんだって、あんなに長く水の中に潜っちょられえ筈がねがな。人間だったら死んでしまあで」

「ふうん。なるほど。それで、私たちが出雲から帰る途中の神様だというんだね」

「違あか」

 団長は顎を引き、真面目な顔で、少年を見た。

「……そうかも知れないよ。私たちは人間じゃあないのかも知れない」

「ほんとか」

「ああ。この娘を見てごらん。彼女は実は、海の魚の神様と人間との間に生まれた子供なのさ。だからあんなに長く潜っていられるんだ。ほら、お化粧で隠しちゃあいるが、よく見ると分かるだろう? 顎の所に、水の中でも呼吸ができるように、えらがついてるのが」

 少年は思わず眼を丸くして、団長の傍らに立つ少女を見た。少女は可笑しそうな表情をしながら、それでも髪を掻き上げて、少年に首筋がよく見えるようにした。細い顎から白い首筋へ、なめらかな曲線が走る。少年は、何かに魅入られたように、眼が離せない。胸がどきどきする。気のせいか、少し体が熱っぽいように少年は感じた。

「どう、分かった?」

 少女がそういった瞬間、少年は確かに少女の首筋に一本の線が走るのを見た。

「あった! あったぞ!」

 その途端、団長と少女は同時に吹き出した。あはははは、と笑い転げて止まない二人を、少年は不思議そうにみつめる。

「馬鹿だねえ、そんな筈がないじゃない」

 少女は少年に歩み寄ると、間近で首筋を見せた。ふわり、といい香りがした。首の皮膚はなめらかで、さっき見たと思ったえらの線はどこにもなかった。

「あたしはね、海辺で育ったから、小さな頃から海女の真似事をしてたんだ。海女って、分かる? 海に潜って貝を採ったりする女の人のこと。だから、人より長く息が続くんだよ」

「でも、さっきちゃんと見たで。えらがあったがな」

 少年は納得がいかないように少女に頬を膨らませて見せる。

「それはね、君が見たいと願ったものが、見えたのさ」

と、団長が少年に応えた。

「人は何かを見る時に、一緒に自分の心を見ているんだ。私の影絵もおんなじだよ。ほら、これをごらん」

 団長は立ち上がると、ランプと壁の間で両手の指を巧みに組み合わせた。反対側の壁に、手の作り出す影が映る。

「何に見える?」

「犬だ。仔犬だな」

「じゃあ、これは」

 団長が指を組み替えると、たちまち影には大きな翼が生えた。

「鷲がはばたいちょる」

「ほんとうはこれは手の影なんだ」

 団長は指を離し、両手を広げてみせた。壁にはふたつの黒い掌が踊っている。それをもう一度組み合わせると、再び鷲が姿を現した。

「でも、こうやって似た形を作ってみせると、途端にいろんな物や動物が見えてくるだろう? それは、見ている人が自分の心の中にあるものを影の中に見つけているんだよ。もちろん私は、どうやればその動物に見えるような影が生まれるのか、何年も試したり、訓練したりしたさ。でも、サーカスに来た人たちが影からそれを読みとってくれるのでなければ、それはただの影でしかない。逆に、どんな小さな影に過ぎなくても、見る人がそこに強く気持ちを引きつけられたなら、それはその人にとっての真実なのさ」

 団長は指を動かしながら、ゆっくりとランプの方へ手を近づけた。それにつれて壁の黒鷲はむくりと巨大になり、部屋を浸食してゆく。実体のない筈のものが、とてつもない圧力を伴って現れる。少年は、自分が飲み込まれそうな気持ちになって、思わず眼をそらして団長を見上げた。ランプの光に濃い陰影を浮かばせた団長の顔は、どこか人間ではない、恐ろしいものに思えた。

「私たちのサーカスが見せるヨゾラノユメっていうのは、つまり、みんなの心の中の星々を映し出しているんだよ」

 少年には、団長のいうことが半分くらいしか分からなかった。体が熱い。頭が脈を打つようで、なんだか視界が膨らんだり縮んだりする。

「……それで、おじさんは神様なんか」

「人間だよ」

「それじゃあ、なしてカラサデさんだに十神山におっただ」

「君はどうしてあそこにいたんだい。カラサデさんの日なのに。人間が来てはいけない日なのに」

 ぐるうん、と眼が回った。

「もう、俺、家には帰れんだがん。帰えとこ、ないだがん」

「どうして。家はこの近くなんだろう?」

「帰れんだがん」

 変だ。頭がまとまらない。舌がうまく動かない。どきどきする。少年は十神山の伝説を思い出した。そうだ、ジュースと思って飲んだのは、ほんとうは神酒だったんだ。妙に甘かったから、変だと思った。俺は山を下りたつもりでいたけれど、本当はここは山の頂上で、神様たちの酒盛りに紛れ込んでしまったんだ。やっぱりこの人たちは、人間なんかじゃなかった。

「家には、誰がいるの」

「お母ちゃんと、姉ちゃん」

 少年は少し泣きそうな声でいった。感情が止まらない。

「これをごらん」

 団長が指を震わせると、壁に新たな人の影が生まれた。

「これは誰かな」

「姉ちゃんだ」

「姉ちゃんは何してる」

「家を出るとこだ。もうすぐおらんやになあだ」

「どこへ行くんだい」

「嫁に行くだがん。うちが貧乏だけん、金持ちんとこに嫁に行くだがん。貧乏だなかったら、嫁に行かんで、ずっとずっと一緒にいてごしなあだにくれるのに

「あはは、この子ったら、お姉ちゃんが好きなんだ。お姉ちゃんがお嫁に行っちゃうから、すねてんだ」

 少女が笑い声を上げて、少年の首に背中から両腕を回した。張りのある胸が少年の背に押しつけられて、柔らかにたわむ。かあっ、と体が熱くなって、少年は身をよじった。

「やめれやい」

「あら、純情なのね」

「う、うちの姉ちゃんは、そんなんじゃねえぞ!」

「はいはい」

 少女は少年から身を離した。団長は、少年の目をまっすぐに見て、言葉を継いだ。

「家に帰れないのは、姉ちゃんがいなくなるからなのかね」

「違う。お母ちゃんが怒りなあけんだ」

「悪い事をしたのかい」

「金、取ったけん。サーカス観い金を、黙って財布から取ったけん」

「それはいけないなあ。怒られてもしょうがないじゃないか」

「いけんだ。お母ちゃん怒らせたらいけんだ」

「どうして」

「俺がえ子にしちょらな、いけんだ」

 いつの間にか、壁の人影が一人増えていた。(お母ちゃんだ)と少年は思った。姉と母、二人の人影は、むくむくと等身大になって、少年の目の前に姿を現した。

 いつしか少年は自分の家にいた。母親は眠っている。少し苦しそうな顔をして、布団に身を埋めている。

 意識の奥底に封じ込められた記憶の中の風景は、少しも色あせることなく、心を締め付ける。あれはどのくらい前だったろう。去年か。一昨年か。少年がいたずらをして、ひどく叱られた直後に、彼の目の前で母親は小さな発作を起こした。幸い大事には至らなかったけれど、少年にはひどいショックだった。

 隣の部屋で少年は泣いている。姉がその横で、小さな声でなぐさめている。

「お母ちゃん、前から心臓が悪かっただ。坊にも教えちょいちゃらな、いけんかったあもんなあ」

「お母ちゃん、死んなあか。なあ、死んでしまいなあか」

「今はそぎゃんこたねそんなことはない。しんどくて、寝ちょおなあだけだけん。明日の朝になら、元気になりなあわね。だあもん、私やつがあんまし悪い事して、怒らせたり、心配かけたりすうと、お母ちゃん苦しんなあけん。坊も、良い子にしちょらな」

「え子にしちょらんと、お母ちゃん死んなあか?」

 少年を見下ろす姉の顔は少しゆがんで見える。それが、自分の瞳が涙で濡れているためか、姉もまた泣きそうになっているからなのか、少年には分からない。

「坊はまだ小ちゃくて覚えちょらんかも知らんけど、お父ちゃんが死んなったって知らせが入った時に、えらい発作で倒れなってなあ。すぐにイケベさんとこのおじさんがキヨハラ先生呼んでごしなって。お母ちゃんまで死んだらいけん、て私もわんわん泣いて。そん時にキヨハラ先生がいっちょおなった。お母ちゃんの病気は、気持ちがしっかりする事が大事だって。お父ちゃんがおらんやになっただけん、私と坊とが、お母ちゃんの支えにならないけんて」

 どこからか風が吹き込んだのか、ランプの炎が揺れ、姉と母の姿はかすんで、ただの黒い影になった。団長と少女が少年を見下ろしている。右に、左に、ゆっくりと振り子のように二人の顔が揺れて、少年はまるで舟に揺られているようだと思った。

「俺は、え子だない。いっつもお母ちゃん怒らせちょる。姉ちゃんが俺を置いておらんやになると思うと、よけい悪さしたんなって、よけいお母ちゃん怒らせる。姉ちゃんがおらんやになったら、お母ちゃんと俺の二人しかおらんがね。俺、え子だないけん。サーカス観たて、金取るけん。そうしたら、お母ちゃん怒って怒って、怒ってばっかになって、死んなあ死になさるがね。お母ちゃんが死んなったら、俺、独りぼっちだがね」

 言葉があふれる。溜まった気持ちがあふれ出す。

「いけん。お母ちゃんいけん。死んだらいけん。そげだ。お父ちゃんが戦争に行きなってから、うちはいけんやにうまく行かなくなっただがん。お父ちゃんがおなあいる時には、お母ちゃんも元気だったし、姉ちゃんも一緒に遊んでごしただ。なんで死んだだね、お父ちゃん。なあ、お父ちゃん」

 少年は、団長の大きな手をつかんで揺すった。団長は無言で少年の目を見ている。

「お父ちゃん、先祖の神様と一緒になっただが。出雲の社に行って、姉ちゃんがいつ結婚しなあかとか、お母ちゃんがいつまで生きちょうなあか、他の神様と相談しなっただが。なあ、姉ちゃんがずっと家におるやにしてごしないちょうだい。お母ちゃんが、ずっとずっと生きちょうなあやに、してごしないね」

 団長はそっと首を横に振った。

「それは、できないよ。もう決めてしまったんだ」

「どげ決まったかね。お母ちゃんは、いつ死んなあかね」

「それは教えることはできない。人間が知ってはいけないことだから」

「なしてかね」

「それが人間の定めだからさ」

 くしゃっ、と少年の顔が歪む。

「だったら、そげだったら、俺、人間やめえけん。神様ん国へ連れてってごしない。俺、もういいけん。お父ちゃんとこに一緒に行くけん。お父ちゃんのおなあとこなら、お母ちゃんも元気で、お姉ちゃんも優しいが。なあ、カラサデの日に十神山に登っただけん、俺をさらっていくんだが。俺、さらってもらいたて、十神山に登っただけん」

 うぉぉぉん、うぉぉぉん。耳の奥で何かが唸っている。遠くで猛獣が吼えているようにも、心がざわめく音のようにも思える。一筋、二筋、頬を涙が伝うのがわかった。

 団長と少女は、少しだけ、顔を見合わせた。ランプの炎はいつしか不自然に薄暗いものになり、二人の影が怪しく揺らめく。

「いいのかね」

「なんが」

「もう戻れなくなるよ。ほんとうにいいのかね」

「えわね、もう。連れてってごせやあい」

 団長はゆっくりと少年に歩み寄った。こっ、こっ、こっ、こっ、こっ。靴音が、少年の心臓の音と重なる。少女は壁に身をもたれたまま、じっと眼を伏せている。

「……じゃあ、いくよ」

 団長はそういうと、ふわさっ、とマントを広げた。漆黒の色がマントの生地をはみ出して、壁を、そして空間をゆっくりと浸食してゆく。その波うちうごめく様は、まるで生きているかのようだ。十神山の崖から見た、夜の海の黒を少年は思いだした。それは人のものではない国への門だ。震えながら眼を閉じると、何故かそうするべきだと知っていたように、少年は白く筋張った細首を団長に向けた。

 団長は少しの間、哀しい目をして少年を見下ろしていた。しかしやがて覚悟を決めたのか、ゆっくりと少年の首筋へ覆い被さろうとしたその時──。

「あの……」

 テントの外から中を窺う声がした。

「こちらに、うちの弟がお邪魔していませんか」

 少年は、はっ、として眼を見開いた。部屋はランプの明るい白に満たされている。団長と少女は、優しい顔をして部屋の入り口の方を見ていた。振り向いた彼の目に映ったのは、入り口から顔を覗かせた、紛れもない姉の顔だった。

「姉ちゃん!」

 少年は駆け出した。途中から涙がぽろぽろとこぼれ出した。

「姉ちゃあん、うわああああん」

 少年は姉に抱きつくと、大声を上げて泣き始めた。涙があふれて、いつまでも、いつまでも止まらなかった。


        *


 泣き疲れた少年は、椅子に腰を下ろした姉に抱きかかえられるようにしながら眠ってしまった。赤い頬をした少年を慈しむように、姉はその寝顔をそっと見下ろしている。

「ごめんなさいね、温まると思って、薄いアルコールの混じったジュースを飲ませたものだから。すっかり酔っぱらっちゃったみたい」

 少女がすまなそうに姉に向かってそういった。

「いえ、こちらこそご迷惑をかけて、すみません」

「お家の方ではさぞ心配されたでしょう。早く帰そうとは思ったのだけど、ついつい長話になってしまって。申し訳ない」

「いえ、ただ、母が少し取り乱してしまって。サーカスに向かったのだろうとは思っていたのですが、終わる時間になっても、暗くなっても帰ってこないから。海に落ちたんじゃないか、人さらいにさらわれたんじゃないか、って。それで私が探しに」

「帰るに帰れなかったようですね。いってましたよ、お母さん胸が悪いから、怒らせちゃいけないって」

「そうですか、そんな事を」

 姉はそっと少年の髪を撫でた。それから、眠る少年に向かってつぶやくようにいった。

「だらずだなあ。坊や私がまめなけりゃ元気ならば、そおがお母ちゃんには一番嬉しい事だに」

 団長は優しい目をして、しばらくの間、少年と姉の交感を見守っていた。そして、ふと思い出したように、口を開いた。

「彼とは十神山で出会ったんですよ」

「十神山で? どうしてそんな所に行ったのかしら」

「……彼は彼なりに、自分を既に罰しているんです。あまり叱らないであげてください」

 姉はこくりと頷くと、少年の頬をつついた。

「坊、帰るで」

「ん」

 少年は眼をこすりながら立ち上がった。

 少年と姉は連れだってテントから外に出た。団長と少女が後に続く。見上げれば満天の星。オリオンが明るく輝き、月は夜道を白く照らしている。

「俺、夢見ちょった」

「どげな?」

「お父ちゃんが出てくる夢だ。……姉ちゃんが来る前だったかも知らん。よう覚えちょらん」

「お父ちゃん、どげしちょったどうしてた

「元気だったで」

「ふうん、良かったがね」

「良かったなあ」

 姉は団長たちに向かって小さく頭を下げた。

「それじゃあ、お世話になりました」

「さいなら」

 そういって、少年は右手を振った。左手は、姉の手をしっかりと握りしめていた。

 背中を向けて歩き出そうとする二人に、団長がふと声をかけた。

「あ、そういえば」

「えっ」

 振り向いた姉に、団長はいった。

「もうすぐご結婚だそうだね。おめでとう」

 姉は一瞬頬を染めて、はにかむように眼を伏せた。それから顔を上げると、まっすぐに団長を見る。その満面には、盛りの花のような明るい笑みが浮かんでいた。

「はい。だんだんね」

 少年は眼を細めて、そんな姉を見上げた。月がまぶしかったのではない。姉の笑顔がまぶしかったのだ。

 それは少年がこれまでに見た、姉の一番の笑顔だった。きっと父親が生きていた頃の、家族が揃って幸せだった頃の姉は、いつもこんな表情だったに違いない。お金目当てなんかじゃない。姉は本当に好きな相手の所へ嫁に行くんだ。そして、新しい家族を作るんだ。彼女にこんな笑顔をさせることができる男ならば、きっと姉を幸せにしてくれる。少年はそう思った。それは最初から分かっていた。少年にも、本当は分かっていたことだったのだ。


        *


 ほのかに白く照らされた夜道を、少年と姉は歩いてゆく。その後ろ姿を、団長と少女はいつまでも眺めていた。

「喰っちまえば良かったのにさ。喰っちまって、影になって、あたしたちと一緒に旅をするようになれば、良かったのにさ」

 少女は名残惜しそうにそういうと、姉弟の消えた夜道を見通した。しかし団長は、小さく首を振って天空の星を仰いだ。

「俺は喰わんよ。俺を好いてくれる子供は、よう喰わん」

 星の光は、魔術のかけられたランプの光とは違った、本当の影を地面に映し出す。団長たちの影は人のものとは少し違った風で、煙るように伸びていた。

 団長はふと指を天にかざした。たちまちに地面に馬車の影が縫いつけられ、幻の馬がいなないた。それを合図に、巨大な舞台テントがすうと吸い込まれる。続いてピエロが影の馬車に姿を溶かした。猛獣使いと猛獣は抱き合ってひとつの影になった。火吹きが闇に飲まれ、ナイフ使いも姿を失った。少女は、そっ、と団長の頬に接吻すると、水に泳ぐように地に沈んだ。最後に団長は、もう一度だけ姉弟の消えた夜道遠くに懐かしい目をやり、そして地に伏せた。ほんの少し空間がゆらめいて、次の瞬間にはもう、サーカス団は全て地上から姿を消していた。

 ひょう、とカラサデの風が吹く。実体のない影の馬車は、人ではない人を乗せ、音ではない音を響かせて、どこにもない次の町へと滑り出す──。


        *


 少年は長じて後に、少しだけ姉の面影に似た女房をもらったという。


  了

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カラサデ幻燈 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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