水瀬と柊

早海灯

第1話

【プロローグ】

僕、水瀬秋晶みなせあきはなんでもできる天才だと思う。学校のテストでは常にトップ、模試の成績は常に全国10位以内に入っている。

それにイケメンだ。よく他校の女子に声をかけられるし、他学年に僕のファンクラブがあるくらいだ。

さらに家も金持ちだ。母親は元女子アナ、父親は有名な書道家。僕の家はこの地域でもいちばん大きい。

加えて本当になんでもできる。サッカー、野球、水泳などの主要なスポーツだけでなく、空手や剣道、陸上だって何もしなくても人よりできた。

学校でなにかの表彰式があるたびに表彰されるのはいつだって僕。教師からの信頼も厚く、友達もたくさんいた。

多分これ以上ないってくらいの高ステータス。でも、それを周囲に誇ることはない。美徳は黙っていたほうがいいのだ。

僕の多才さや、人望の厚さがわかる1シーンをあげよう。たとえば、今日の放課後。

「秋晶!今日の部活、サポーターで来てくれねえか?アタッカーやってくれよ。お前が来てくれたらうちのチーム勝てるから」

そう言って僕に声をかけてきたのは同じクラスでサッカー部の中村だった。サッカー部は人数こそ多いものの、主要な大会ではなかなか勝てないらしい。僕が試合に出ると大抵かなり得点を稼げるのでよく僕に声をかけてきた。

「あ〜ずりぃぞ、水瀬、今日は俺らの方に……!」

そう悔しそうな顔をしたのは畑中だ。畑中の所属する野球部は強いピッチャーがおらず県大会では負けばかりだ。もちろんこちらも僕が出れば勝てるので、よく誘われる。

「水瀬くん……来月のテスト範囲でわからないところがあるからこのあと……」

男子二人に迫られる横から声をかけてきたのは違うクラスの鴨谷美月かもたにみずきだった。鴨谷がクラスに入ってきた瞬間、八割くらいの人間がチラッとこちらを見るのがわかる。それもほとんどが男子だ。鴨谷は容姿が整っているだけではなく、明るく元気で誰にでも優しいという人気者で、鴨谷はいつも注目の的だった。

鴨谷は僕の前にいる男子二人に気がつくと、少し残念そうに眉を下げた。

「あちゃー、また男子どもに誘われてんの?」

「ごめんね、今日はどっちにしろ予定があるんだ。だから、また今度」

そう言うと鴨谷はパァッと顔を輝かせ、うん!と頷いた。僕を熱心に誘っていた男子二人も鴨谷に釘付けだ。鴨谷が去っていくと僕はごめん、と二人に言った。

「そういうわけで、今日は予定があるんだ。悪いけど、また今度誘ってよ」

そう言うと二人は残念そうな声をあげていたものの、「またな!」と何度も言うと僕の前から去っていった。

クラスの誰もが僕に憧れていることを僕は知っている。

僕は今日も「完璧」な人間であり続ける。

そんな完璧な僕には今日、予定があった。

それは、人を殺すことだ。


【1】

人を殺すのは初めてだ。でも、僕ならうまくやれるという自信があった。

今までの人生で「つまづいた」「悔しい」と思ったことが一度もない。努力しなくても、なんでもできた。スポーツは、ルールと基本の動きを見ればできる。勉強は、解き方を一度聞けばわかる。だからなにをみんな必死になっているのか、僕にはよくわからなかった。ずっとベンチだったのにレギュラーを取ったとか、テストで40点だったのに100点を取ったとか、そういう「成功物語」を読むたびに純粋に疑問だった。当たり前にできることを、みんな泣きそうなくらい喜び合っているのが。すごいすごいと言い合っているのが。なんだかバカらしく、アホみたいだと思っていた。

そんな僕が、今日初めての挑戦をする。それは、人を殺すことだ。これは本当に、やったことがない。でも、僕ならできる。

時刻は深夜0時前だった。学校から五百メートルほど離れた、人一人いない畑の中心に僕は立っていた。あたりには背の高いススキが生えており、歩道から僕の姿は見えないだろう。風が吹き荒れる中、僕は薄手のパーカーにジャケット一枚を羽織り時を待っていた。

今日、この場所でなければ意味がなかった。

何度目かの風が頬をすり抜ける。

まだだ、まだ。

腕に嵌めた電波時計が0時0分29秒になった。そのときだった。

ザッザッと音が聞こえた。誰かがこちらに歩いてくる音だ。僕は相手が歩いてくる方向やその音から相手の死角を察知し、そちらに回り込んだ。相手の後ろ姿が見えた。暗くてはっきりとは見えないが、背が高くガタイがいい男だということはわかる。

僕は相手の動きを見ながら、少しずつタイミングを見計らう。

今だ。僕は音もなく相手の脛目掛けて足を

人体にはいくつかの弱点がある。いわゆる急所というやつだ。その中でももっとも狙いやすいのは足だ。僕が今日履いているのはつま先が尖った靴で、これで蹴られたら大抵の人間は骨折するだろう。

僕の攻撃はうまく当たり、相手は音もなく崩れ、仰向けに倒れたので僕はそのまま馬乗りになった。

意外にも、相手は悲鳴をあげたり、助けを求めたりすることはなかった。気を失っているのかと思ったが、構わず首を絞める。

凶器を使わなかったのは証拠を増やしたくなかったわけではなかった。この方法にこそ意味があったのだ。

首締めには段階がある。短めで済むコースと、長時間相手を苦しめてから殺すコースだ。僕は今回後者を取ることにした。つまり、すぐには死なない。でも、これにも意味があった。

それにしても、こいつはいったい誰なのだろうか。パーカーで隠れてその顔は見えなかった。

一瞬よぎった疑問を僕は振り払った。まだ目的を完遂していない。まだか、まだなのか。

そのときをずっと待っていると、相手がク、クと声を出しているのがわかった。

最初は苦しんでいるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

コイツは、笑っている。

自分は殺されかけているというのに、心底楽しそうに、笑い声を漏らしている。

「マジかよお前……やっべえな……」

そう言ったのは相手だった。その言葉に一瞬動揺し、手の力を緩めてしまう。そのはずみで相手のパーカーのフードが捲れた。

それは、隣のクラスの同級生、七海柊ななみひいらぎだった。

なんでコイツがここにいるんだ。

また頭に疑問が浮かび、僕は考えるな、と自分に言い聞かせた。

七海柊。

違うクラスで、話したことは一度もない。190センチ以上ある身長と明るいオレンジと黒のツーブロックの髪型で、ヤクザか暴力団の息子なんじゃないかと周囲に恐れられている存在。

いつも一人でおり、誰かと話しているところなんて見たことがなかった。

いつもクラスの中心にいる僕の視界にほとんど入ったことのない男。それが七海柊だった。

「アハ、最高じゃねえか……」

僕に首を絞められているというのに、あろうことか僕の手の中で七海は笑った。

七海の鼻から血が流れ、その服を汚している。七海の顔は興奮で赤らんでいるようにも見えた。

「おもしれえなあ、お前」

今にも殺されかかっているのに、それを「面白い」と言い、心底楽しそうな顔をする七海は、恐怖で狂っているようには見えなかった。

つまり、本気だということだ。本気でこの状況を面白がっている。僕は知らないが、七海は自殺願望でもあったのだろうか。

大体僕はこいつのことをなにも知らない。

「なあお前、お前は最近巷を騒がしてる連続殺人犯か?それとも模倣犯?ならこれが初めての殺人か?なあ、人を殺す気持ちってどうだ?楽しいか?」

首を絞められていても、七海はペラペラと喋った。わかっている。本気で殺すにかかるには、もっと強く首の中心部を押さないと駄目だ。でも、できない。

「なあ、殺人犯の気持ちを教えてくれよ。俺、殺人犯には初めて会ったんだ。なあ、俺の首の温度はどうだ?俺を襲う前に手は震えたか?人の命を奪うってどんな気分なんだ?アハ、ハハハハ!すげえなお前、意外と力あるなあ。俺より小せえはずなのに、さっきから全然首を絞める強さが変わってねえよ。センスいいなあ」

そうニコニコと笑う七海柊を殺し切ることができない。なんでだ。ここまできて僕はためらっているのか。いまやめてしまったら目的は達成できない。殺すこと自体に意味があるのに、このままでは。

「いい目だなあ、お前。アハハ!俺、やっぱりお前好きだぜ。なあ、俺と友達になってくれよ」

「友達?」

しまった。相手の異常さに圧倒されて、つい返答してしまった。

「ようやくしゃべってくれたな、お前!なあ、なろうぜ、友達。まずは自己紹介からか?俺は七海柊。小説家だ。といってもまだデビューしてないけどな!アハハハハ!それでお前……お前はなんで……ああ、言わなくていい!!俺が考えるから!なあ、お前のこと、小説のモデルにしていいか?俺、面白い奴が好きなんだよ。ああ、早くお前を書きてえな!」

小説家?七海柊が小説を書いているなんて知る由もなかった。そんなことよりも、コイツは僕のことを知らないのだろうか。あんなに有名で、よく皆の前で表彰されている僕を知らない人間が同じ学校にいたのか。

「生きて帰れると思ってるの、君……」

「オイオイ、そんなありきたりなことを言うのか、お前は?つまらないこと言ってくれるなよ。でもそうだ。俺はこの状況から生きて帰る。こんなに面白いことに出会えたんだからな!なあ、俺面白いことが好きなんだ。最高に面白い現実が、最高に面白いフィクションを生み出すんだって本気で思ってる。だから毎日毎日面白いことを探してるんだ。ここに来たのだってそうだ。連続殺人犯の次の犯行地はここじゃないかって予想したからだ。なあ、これってあれだろ?『殺人の追憶』のパロディ。あれは爽快な終わりだったなあ。やっぱり連続殺人犯なんて一生捕まらなくていいんだって思うよ。犯人の顔も、一生わからないままでいいんだ。だから俺はお前が真犯人かなんてどうでもいい。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。連続殺人犯が次の犯行地としてこの場所を選ぶかもしれないっていうのは、簡単な推理で誰でも大体検討がつくはずだ。だからお前が犯人なのか、それとも俺と同じように犯人を見にきた奴なのか、それともほかになにか別の目的があったのか、そんなのどうでもいいんだよ。今、こうやって人の首をなんの躊躇いもなく絞める奴に出会えたんだからな!なあ、お前も俺と同じなんだろ?好きなはずだ、面白ェことが。殺人に興味がある奴は、大体が現実に飽き飽きしている奴なんだよ。でも、俺は面白さを提供できる。良い暇つぶしになるはずだぜ?なあ、だから友達になろう。俺と友達になれば、お前は面白いことに遭遇できる。悪い話じゃないだろ?」

七海はそうペラペラと喋ったあと、そのヘラヘラとした目をすっと細めて言った。

「なあ、お前本当は友達なんて誰もいないんじゃないか?」

それはまるですべてを見透かしたような目だった。

なにを動揺しているんだ、僕は。

目的を遂行しろ、遂行しろ、強く脳内ではそう言われているのに、やっぱりダメだ。

いま、殺さなくては、意味がないのに。

手にこめていた力はどんどんなくなって、やがて僕は彼の首を離した。

首締めから解放された七海はひどく咳き込んでいたが、楽しく仕方がなさそうに言った。

「オトモダチ交渉成立か?よろしくな、仲良くしようぜ」

咳き込みながら手を出すと、相手は俺の血がついた手をゆっくりと出して俺の手を掴んだ。

「期待しているよ」

「ハハハ、必ずお前の期待には応えてやるよ。友達の期待に応えるのが真の友達だもんな。なあ、お前の名前はなんていうんだ?」



僕はフラフラと帰路を歩いていた。失敗した、失敗した、失敗した。

初めてだ、こんなこと初めてだ。

これじゃあ、なんにも意味がない。

目的を、遂行できなかった。

僕が今までやってきたことの意味はいったいなんだったのだろうか。

「お兄ちゃん」

ふいに声が聞こえて僕は振り返った。こんな夜中に、子どもが一人で立っていた。見知らぬ子どもだ。僕の膝あたりくらいの身長、耳の辺りで切り揃えられた黒髪、大きな瞳、白いシャツに黒いズボン。男なのか、女なのかもよくわからない。ニコニコとこちらを見ていた。

「お兄ちゃん」

「僕は、君の兄ではない」

そう吐き捨てるように言ってまた前を向くと、子どもはいつのまにか僕の前に移動していた。

「は……」

「お兄ちゃんに、宝物をあげる」

そう言うと子どもはスタスタと僕に歩み寄った。

「やめろ」

しかし、体がうまく動かなかった。

子どもは背伸びをして、僕の手を握りしめた。ひどく固く、ぞっとするような冷たい手だった。

「これで、大丈夫」

くすくす、そう声をあげて笑って子どもは僕の前から走り去った。ばいばーい!またね、お兄ちゃん!

そんな声が、子どもが去ったあとに聞こえたような気がした。


2.

七海柊がその言葉通り、僕の殺人未遂を誰にも話してはいないらしいことを悟ったのは次の日の放課後のことだった。

七海柊は友達がいないようだったが、誰かに話すくらいはするだろう。まったく信じられなかったという可能性もあったが、そういう嘘みたいな話は逆に話題として広まりやすいものだ。 

しかし今日も変わらず誰も彼も、相変わらず僕を尊敬の目で見つめ、どんなことでも頼ってきた。それは昨日同級生を殺しかけた人間に対してとは思えない。

「水瀬!今日は来てくれるだろ、練習。今週末大会があってさ。400mメドレーリレーのフリーをお前に泳いで欲しいんだよ」

そう声をかけてきたのは水泳部の安田だった。

ぼくは正直もう、何もかもがどうでもよくなりつつあった。昨日はひどく疲れた。人殺しに失敗し、不気味な子どもに声をかけられた。そのせいか、授業も全く集中できなかったし、あろうことか居眠りまでしてしまった。

「いいよ、行く」

そう安田に言ってしまったのは、条件反射のようなものだった。今までこう声をかけられて、断ってきたことが基本的に一度もなかった。断ったのは、昨日が初めてだと言ってもいいくらいだ。

「水瀬なら来てくれるって思ってたよ」

そう言って安田は日に焼けた顔を綻ばせた。

サッカーも野球もそうだが、もちろん水泳も習ったこともないのにできた。速い人の動きを見れば大体仕組みがわかるし、その通りに身体を動かせばいいだけだ。コツを聞かれてそう言っても、「それができないんだよぉ」といろんな人に言われた。

ロッカーに入れておいた水着に着替え、プールサイドに立つ。安田が僕を紹介しているが、水泳部の練習にも顔を出したことが何回かあったので僕は軽く会釈するにとどめた。

それにしても、なんだか今日は変だ。

それは、うまく言葉にできない感覚だった。

授業中居眠りしてしまっただけではない。朝起きてから、その違和感はずっとあった。日課にしているダーツを全て外した。最高得点のトンエイティを取るのは目覚めてからの習慣だったのに、今日はひとつも当たらなかった。いつもはそつなくできる目玉焼きに失敗した。黄身が潰れた目玉焼きを食べるのは久々だった。

そういう時もあるのかもしれない。でもいつも、なんでも完璧にできるはずの僕にはおかしい現象だった。

部長の号令で水に入ってから、「なにかがおかしい」とは思った。でも、あまり気にしていなかった。

違和感が確信に変わったのはプールの壁を蹴った瞬間だった。

浮けない。そう直感的に思ったときにはもう遅かった。

沈む、体がどんどん沈んでいく。泳ぎ方がわからない。僕はいつもどうしていたのだろうか。動きはイメージがつく。なのに、うまくその通りに体を動かすことができなかった。

まずい。息ができない。プールのこのレーンはスタートから数メートルは水深2mあり、泳ぎ方を知らないと溺れるので普段授業では使われていないところだった。このレーンを使うのは水泳部の練習のときだけだ。

チカチカと白い照明が遠ざかっていく。呼吸がどんどんできなくなる。

苦しい。苦しいのに、なにもできない。体を動かせば動かすほど、ただ体が沈んでいく。

ああ、これは多分、死ぬ。

七海も昨日、こんな感じだったのだろうか。

一瞬だけ、そう思った。


「……せくん!水瀬くん!」

その声にゆっくりと目をあけた。身体が嘘みたいに重く、ひどくだるかった。ようやくだんだんと目の焦点が合っていく。

養護教諭が僕を見下ろしていた。

「ここは……?」

先程までの状況がコマ送りのアニメーションのようにチカチカと脳裏を点滅した。

まさか僕は、溺れかけたのだろうか。

県大会で県内新記録を叩き出していた僕が、溺れ掛けた?

なぜ。

まったく理由が思い当たらなかった。

そして、自分に対して信じられない思いでいっぱいになった。

「大丈夫ですか?」

養護教諭によると、僕が溺れているのに気がついた部員が引き上げて、救護してくれたらしい。まったく記憶にないが、一時はAEDを持ってくる騒ぎにまでなっていたらしい。

もう時刻は十九時を過ぎていて、僕は車で送るという養護教諭の言葉を丁重に断って身体を引きずって帰った。

次の日も、違和感は続いた。ダーツは当たらない、目玉焼きは潰れ、授業はひどく眠いものとなった。

授業が眠いのは、僕が内容をまったく理解できていなかったことに気がついたのはその日の最後の時限、数学の時のことだった。

「じゃあ次の問題は、水瀬くんに解いてもらおうかな」

皆が期待の目で僕を見つめる。いつものことだった。僕はスラスラと答えを言う、その流れのはずだった。

「わかりません」

僕はそう言った。本当に、なにもわからなかった。難なく解けていたはずの数式は、意味不明の数字の列と化した。教師は驚いたように目を瞬かせ、皆もザワザワと僕を見て何かを言っていた。

あの日から、何もかもがおかしくなっていた。野球部では140キロ以上出ていた球速が70キロ程度しか出せなくなり、ファールの球を頭にぶつけた。サッカー部では必ず何点も決めていた試合で点など入れられないどころか、仲間とぶつかって僕は派手に転び、膝に怪我を負った。

鴨谷に勉強を教えようとしても、どの教科も解き方がなにもわからなくなっていた。数学に限った話ではない。教科書を一度読んで覚えていたはずの歴史の年表も、英語の文法も、国語の選択肢の見抜き方でさえも。

逆に鴨谷にいろいろ教えてもらったが、まったくわかる気配もなかった。

どうやらあのなんでもできる天才、水瀬秋晶がヤバイらしい、という噂は一瞬で広まった。

あの日から、僕に話しかける人は激減した。運動部の人間はむしろ僕を避けるようになっていたし、鴨谷は僕を見た瞬間明らかにビクッとして逃げて行くようになったし、誰も彼もが僕を避けていた。

それでも、僕はもうなにもかもがどうでもよかった。

あのとき、目的を達成できなかった僕にこれ以上なにがあるのだろうか。完璧でいる意味も、なにもかも意味がとくにない。

今まで放課後は何かの部活に参加していたから、こんなになにもない放課後は久々だった。僕はただ放課後の教室でぼんやりと座っていた、そんなときだった。

「ヤッホォ、シュウくん♪」

ガラッとドアが開く音がして振り返ると、先日殺し損ねた男がニコニコと笑いながらゆっくりとこちらに歩いてくるのが見えた。

オレンジと黒のツーブロックに薄い水色のサングラス、耳にはいくつもピアスがついていて、相変わらずカタギの人間、ましてや高校生にはとても見えない見た目の男だ。

「やあ、一週間ぶりだね。シュウ……その妙な呼び方はもしかして僕のことかい?」

「そうだよ、水瀬秋晶くん。クラスのやつから名前聞いたけど、お前隣のクラスだったのな」

「そんなことも知らないで殺されかけてたの、君?それに僕はまだ君と友達になると決めたつもりはないんだけどな、七海柊」

そう言って僕は相手をじっと見つめた。彼は僕の視線などもろともせずにヘラヘラと笑っている。

「俺の名前を知ってるなら都合がいい。ちゃんとお揃いを探したんだぜ?柊と秋で、音読みでシュウ。あはは、あだ名で呼び合うのって、オトモダチっぽいだろ♪なあ、シュウくん。俺のことは柊くんって呼んでくれよ」

「七海のことは少し調べさせてもらったよ。なんだか妙な噂ばかり持ってるよね、君」

「俺の話はガン無視か〜。そういうのもいいな、シュウくん」 

「でも、どの噂も本当なのかどうかよくわからなかった。ヤクザの一人息子だとか暴力団の幹部の舎弟だとか、隣の高校の不良を一人で潰したとか、他にもいろいろ噂があったけど、どれも君の見た目だけに起因した、根も葉もないものだったよ」

七海柊、十七歳。僕と同じ高校二年生。

そして、自分を殺しかけた人間を恐れるどころか小説の題材にしたいとまで言ってくる男。

あの日あの場所で、ある目的のために僕は通りがかった人間を殺すつもりだった。そこに意気揚々と現れた人間が、隣のクラスの七海柊だった。

そのまま首を絞めて殺すつもりだったのに、七海の目を見て気が変わった。

月明かりを浴びた七海の瞳は、冷え切った刃のように鋭く輝き、そして僕を見上げてギラギラと燃えていた。追い求めていた獲物を得た獣のような目。あるいは、酷い飢えがようやく満たされたような目。殺しているのは僕の方なのに、まるで立場が逆転しているように思えた。

どうして殺されかけている人間がそんな目をするのか、僕には理解不能だった。

そしてこの人間に、すこしだけ興味が湧いた。七海柊は何者で、いったいなにを考えているのか。

「アハ、それは光栄だよ。他人に興味なさそうなシュウくんが、多少なりとも俺に興味を持ってくれてなんて。俺にとってもシュウくんはトクベツだからな♪」

『特別』のところでウインクまでしてくる七海の表情や声音からは、やはりまったく本心が読み取れなかった。笑っていても感情がまったく読み取れない男、七海柊が僕を「小説の主人公にしたい」と目して近づく真の目的はどこにあるのだろうか。

「僕が特別のわりには、君は僕に今までなにも接触してこなかったよね。なんで?」

「そんなことないぜ♪俺だって調べたよ、シュウくんのこと。親が超有名な書道家で、シュウくん自身も書道でいくつも大きな賞を獲ってる。成績も優秀でスポーツも万能。一ヶ月に二回は告白される姿が目撃されてるって。文武両道のイケメンなんて、ますます主人公っぽくてイイなあ♪でも……」

そう言って七海は言葉を切った。

「最近はえらく不調だって。なんでもできた水瀬秋晶は、何もかもができなくなってるって」

「そうだね。でもここまで噂が広まって、ようやく来たのか、君は」

「うーん、まあね」

そう言いながら七海は椅子をギシギシと楽しげに揺らした。

「プールで溺れかけて、野球場ではボールが頭に当たって、グラウンドでは転んで骨を折りかけてる。不調っていうには言い過ぎなくらいだよなあ。呪われてんじゃねえの、シュウくん♪」

「あいにく、僕はそういうオカルトは信じない性質なんでね」

七海はその言葉を聞いてふーん、とだけ言うと思いついたように続けた。

「まあ、面白いよなあ。天才で、なんでもできる人間がある日何にもできなくなるなんて。まあ物事ってのは、才能に裏打ちされた努力が必要だけどさあ。シュウくんは今まで、なんにもしなくてもなんでもできたから、まあ当たり前っちゃ当たり前だよなあ」


「俺、才能ってのは一つだけだと思うんだよ」

そう言う七海の目はやけに真剣で、余計に惹き寄せられる何かがあった。

「人は誰しも絶対に一つだけ才能があるんだよ

それをいかに早く見つけて、信じられるかが、未来を切り拓くんだ」

そう語る七海の目には、今まで浮かべてきた適当な、ヘラヘラとした感じとは違った光が浮かんでいるように見えた。

「なに、じゃあ君自身はその才能が小説を書くことにある、と思ってるわけ?」

「アハ、そうだよ。だから今はネタ探しに必死なの。面白い小説を書くには生きたネタが一番なんだよなあ」

僕はそのネタということか。確かに、今までなんでもできた人間がなにもできなくなったというのは、小説のネタとしては面白いのかもしれない。

「別にネタでもなんでもいいよ。もう僕はやるべきことも無くなったし。警察に突き出したいなら突き出せばいい」

「部活からも誘われず、暇ってわけか。やっぱりお友達はいなくなっちゃったのか?シュウくんに才能がなくなったから?でもひどくねえ?みんなシュウくんを散々利用してきたのに、価値がなくなった瞬間ポイかよ」

七海はそう軽く紙ゴミを投げ捨てるように言った。僕を挑発しているのか、そうではないのか、読みきれなかったが別にもうなんでもよかった。

「別にいいんだよ。僕も価値を感じていたわけじゃないから」

そう言った瞬間、七海はピタリと動きを止めて僕をじっと見た。

「なに?」

「いや、別に」

「君、さっきからそればっかだな」

「シュウくんが溺れたときも、ファールが頭にぶつかってしばらく倒れていたときも、サッカーで転んだときも誰もシュウくんのことを待っていたりはしなかったんだよな?」

「……君は回りくどい言い方ばかりするな。はっきり言えよ。なにが言いたい」

「別に♪でも、みんなの王子様スマイルより俺は今のシュウくんの方が好きだぜ♪」

七海はそう言ってあの日と同じように楽しげに笑うと言った。

「まあとにかく、シュウくんになんの才能が残ってるのか試してみないか?」

「はあ?」

七海はおもむろに僕に木のヘラのようなものを渡してきた。

「それで俺を殺してくれよ」

「なに、君やっぱり自殺願望でもあったの?」

「ナイナイ♪俺は小説家デビューするっていう夢があるからな♪ほら、あのときすごかったからさ。俺を殺しかけたとき」

七海は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌な声で続けた。

「人殺しの才能は残ってるかもしれねえだろ?」

「なんだよそれ」

僕の声色が変わったのを察知したのか、していないのか、七海は相変わらずふざけたように言った。

「さ、どっからでも来てくれよ。本気でかかってきていいぜ?」

どのスポーツを試してみても、あの日から身体が思うように動かなかった。脳内で再生した動きをスムーズに身体で表現できていたのに、今はそれが全然ダメだ。まるでどこかの回路が切断されているようだった。空手も柔道もダメなのに、人を襲うことなんてできるわけがない。そう思いながらも、僕はあの日のように七海に向き合った。

『ほら、こうやるんだ』

耳の奥で再生される声がある。

『やることはひとつだけ。相手を再生不可能にするという意識だけ』

スローモーションのように景色が動いた。体を傾けると、七海がどのように関節や筋肉を動かしているのか、僕には見えた。サッカーや野球ではこうはいかなかったのに、不思議だ。

『どこを狙えば相手が倒れる』というのが、やはりわかる。あの日は脛を狙ったが、脛でなくてもいい。耳の奥で声が聞こえる。

『人間、どこでも急所になり得る。ほら、例えば』

別に頭でも胸でも腰でもいい。相手が気を緩めた一瞬、そこに焦点を合わせる。

例えば今なら。

気がつくと、七海は僕の下で倒れていた。あの日と同じだ。今日は正面からぶつかったのに、相手が自分を見つめていようが関係がなかった。

「ヒュウ、お見事♪」

七海は自分の頸動脈にあたった木のヘラを見て、相変わらず愉快そうに言った。

「僕に、人殺しの才能だけは残ってるって、君はそう言いたいわけ?傭兵にでもなれって?」

そう言った時の僕は、どんな顔をしていたのだろうか。一瞬だけ七海は目を見開いて、それもすぐにまた元のヘラヘラした顔に戻った。

「これは練習したのか、シュウくん」

僕が答えないでいると、七海は何を考えたのか一人で続けた。

「ただ、これならスポーツの才能が戻ってきてもおかしくねえんじゃねえの?」

「別にいい。僕は、もう……」

僕はアホらしくなって七海の首元からヘラをどけると、ゆっくりと起き上がって膝についた埃を払った。

「な、シュウくん。なら俺と一緒にクラブでもやらねえか?暇になったんだろ♪お前はどんな部活でも助っ人に入ってくれるって話だし♪」

「嫌だね。だから言ってるだろう、僕はもう」

「題して、不思議クラブだ」

「は?」

小学生が口にするような単語を、オレンジ髪のサングラス男が言うものだから僕は思わず反芻してしまった。僕の反応に、七海の目の奥が光ったような気がした。

「おまえはあの日の夜、実際不思議な目に遭ったんだろう。それで、才能がなくなった」

「なんで……君が、それを」

僕はあの話を誰にもしていない。七海だって後ろにはいなかったはずだ。

「お前の後をついてったからさ」

「嘘だ。君はいなかっただろ」

「俺、隠れるのは得意なんだよな♪才能とまでは言えねえけど」

「君は、あの子どもを見たのか。僕が握手するところも?」

「アハハ、マジ?やっぱりそうなのか?」

そこまで言うと、七海はケラケラと笑うので僕は途端にハッとした。

「カマをかけたのか?」

「悪い悪い。ただ俺、そういうのが好きで調査してんだよ。小説のネタにしたくてな♪オカルトとか大好きなんだ」

僕が明らかにムッとしたのがわかったのか、それでも七海はおもしろそうに笑っている。

「お前は妙な子どもに会って、その子ども……握手小僧にもう一回会えれば、お前の才能も元に戻ってくるかもしれない。な、お前にとっても悪い話じゃないだろ。また元の人気者になれるチャンスだ」

「……」

僕はもうそういうものはいいのだと言いたいが、ここで主張しても意地を張っているようにしか取られないだろう。それに、あの子どもにはもう一度会いたいとは思っていた。会って問いただしたいし、元々僕のものだったのに、取られるのは普通にムカつく。

「なんにもできないなら、俺と好きなことやろうぜ♪」

そう言う七海に、僕は結局巻き込まれることになる。この話はその、くだらない前日譚だ。


──幕間──


ひどく暗い部屋で、輝くような白い髪の少女がモニターをじっと眺めて恍惚とした笑みを浮かべている。

「アキくん、あいかわらずかわいい顔♡」

少女はクルクルとモニターを操作し、水瀬秋晶が子どもと対峙したときに映像を巻き戻す。

「あら、なんだかへんなことにまきこまれたみたいだけど、でも、『おおすじ』に変化はないからいいわよね♡」

少女はバリバリとなにかを貪りながら、スキップするような歩き方で部屋をぐるぐると回る。部屋の中には、水瀬秋晶の写真が何枚も何枚も貼られている。

「でも」

バキッと少女は何かを噛み砕いた。バラバラと破片がキーボードに散らばるが、特に気にしていないようだ。

「コイツはじゃま」

少女はオレンジ髪の青年の映ったモニターをマウスでガンガンと殴る。モニターがひび割れるが、やはり少女は気にしていないようだった。

「はやくきえてもらわなきゃ」

暗い部屋でよく見えなかったが、目を凝らすとその床には何かがたくさん散らばっている。それは壊れたキーボードのようにも、白い骨のようにも見えた。

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