第3話 『愛』が足りない
――『アイ』が足りない、とは、どういうことだろうか。
アイ、藍?相?合?間?
私が首を傾げると、彼はクスリと笑った。
「『アイ』だよお、『アイ』。君の作品には、『アイ』が足りてなんだよ。」
「……『アイ』って、何よ。」
含みのある笑みを浮かべて言う彼は、何が言いたいんだろうか。
全くわからないけど、納得できてしまった。
――私は、彼の言う『アイ』が何なのかわからない。
わからないから、欠けているのだと。
「『アイ』は『アイ』だよー。」
答えるつもりがないのか、説明ができないのか、彼は同じような言葉を繰り返すだけだ。
「先生には、『自我』が足りないって言われたわ。」
私は試すつもりで、彼にそう言って見る。
彼の言う『アイ』も、『自我』と似たような物だろうと、勝手に決めつけていた。
だってもし、全く別のものだったら――私の絵は、穴だらけになってしまうから。
「そうだねぇ、それも、『アイ』だねぇ。でも『アイ』はそれだけじゃないよ。もっと広くて、深くて、言葉じゃ表せない物。言葉で表せないから、絵に表すんだ。」
なんだか抽象的なことばかり言う人だ。
言葉で表せない物を、絵に表す。
そんなこと、私だってしているつもりだ。
動物の毛並み、画面に溢れる光、水の綺麗さ、地面の質感――そんな物、絵の方が言葉より表現できるに決まっている。
けれど『アイ』はどうなのだ。
目には見えない物なのだろう。
目には見えない物を、どう描けと言うのだ。
「どうすれば『アイ』を描けるの?」
「どうしたらいいと思うー?」
彼は私の質問に、質問で返した。
答えてくれればいいじゃない、と言おうとして、やめた。
自分で考えないと意味がない。そう、言われている気がした。
どうすれば『アイ』を描けるのか。
自分が投げかけた疑問に自分で答えるべく考える。
「……私には、『アイ』が何かわからないわ。もしわかったら、もしも『アイ』が目に見えたら……ちゃんと、忠実に描けると思う。」
「――見えてるよ。」
彼の言葉に、私はえ、と声を漏らした。
抽象的な説明をするから、てっきり見えないものだと思っていた。
見えた物を忠実に再現している私の絵に、見えているものが欠けているはずがない、そう思った。
「見えてるの?」
信じられなくて、オウム返しのように聞き返した。
写真のように表現しているのに。
忠実であることが、私の自信だったのに。
うん、と頷いた彼は、もう一度私の絵に目を落とした。
「例えばこの絵。オレがこの風景を見て描いても、こんな風にはならない。何でだと思う?」
私の目に注がれていた視線が、こちらを向いた。
赤い瞳に見られて、彼の問いを反芻して、気が付いた。
技術の差――という話ではない。
画材の違い――なんてものではない。
タッチの違い――も勿論あるかもしれないが、それ以上の違いが、ある。
「――貴方の方が、貴方のことを……被写体のことを、よく知っているから?」
彼は目を細めて柔らかく笑い、深く頷いた。
彼は私より何倍も、彼自身のことを知っている。
だって私は出会ったばかりだけど、彼はもう何年も、彼として生きているのだから。
「そー。オレは……オレのことが、あまり好きじゃないんだ。だからもしもオレがこの絵を描いたら、こんなに綺麗で、真っ新にはならない。もっと暗くて、気味の悪い絵になるだろうねぇ。」
――だってオレには、オレの姿がそう見えてるから。
と、彼は嘲笑うように付け足した。
「そんな嫌いな、大嫌いなオレに『アイ』を見出して、それを核に描いたら……きっと君が怖くなるような絵が完成するよぉ?」
どうして自分が嫌いなの?
私が怖くなるような絵って、どんなのよ。
私の疑問は顔に出ていたと思うが、彼は無視して話を続けた。
「君は写真みたいに、客観的に見たオレを、1つのモノとしてのオレを描いてくれた。でもそれは、君が描かないといけない――君が描きたい絵じゃない。」
彼は立ち合がると、私に絵を返してきた。
受け取った私の肩を掴むと、椅子のあるところまで下がらせてくる。
そのまま私を座らせると、自分も元の椅子に座り、筆を取って絵に向き合った。
「ほら、その絵とオレを比べてみてよ。君にはオレがどう見えてる?もしもその絵と、今の光景に差異があったら――それがきっと、君の『アイ』だよ。」
彼は私に笑いかけると、ふっと真剣な顔になって、絵を描き始めた。
差異なんて、見比べなくてもわかっている。
一目見た時から今まで、絵を描いていた時も、話していた時も――
――私には、彼が輝いて見えていた。
電気も点いていないのに、窓からの明かりも殆ど届いていないのに。
まるで彼が光源かのように、きらきらと輝いていた。
そしてその輝きは、彼が絵を描いている時、一層増して見える。
黄色い輝きが増すのに合わせて、藍色の影も濃くなっていく。
絵を描いている横顔が、綺麗で、たまらなく眩しい。
白い髪を藍色に染める影に、視線が飲み込まれる。
これ私に足りなかったもの。
この胸を焼くような眩しさが離れられなくなる暗さが、『アイ』なのかもしれない。
「どお?見つかった?」
「ええ。お陰様で。」
私が答えると、彼は真っ直ぐに私を見て、ふわっと柔らかく笑った。
その笑顔が綺麗で、眩しくて、“描きたい”と思った。
彼の笑顔が、これまでにないほど私の創作意欲を掻き立てる。
この創作意欲そのものが『アイ』なのだと、強く実感した。
そっか。と短く頷いた彼は、立ち上がって入り口の方へ近づく。
閉まっていたドアを開けると、少し教室内が明るくなった。
「君にオレがどう見えてるのか気になるけど、そろそろ集合しないといけないんじゃない?」
ドアの前でこちらを振り返った彼は、小さく首を傾げた。
ええ、そうね。と言おうとして、私は全く別のことを口走った。
「あっ、貴方に私は、どう見えてるの!?」
勢い余って、言葉が閊えてしまった。
恥ずかしくて頬が赤くなった私を、彼は赤い目を丸くして見ている。
「……うーん、内緒。」
ふふっと口元に手を当てて笑った彼は、そのままその手の人差し指を立てて、悪戯っ子のように言った。
「君が見たままのオレを描いてくれたら、オレも君を描いて教えてあげるよお。また、ここ来るでしょ?」
私が頷くと、彼は嬉しそうに笑った。
彼は光を散りばめて言った。「楽しみだ。」と。
その言葉が、自分でもなぜかわからないくらい嬉しくて、私も同じくらいかそれ以上に、笑ってしまった。
画材を片付けて、退室を促してくる彼の元に行く。
そのまま出ていこうとして、最後に、どうしても聞きたいことがあることを思い出した。
「貴方の名前は?私は
「えりちゃんっていうんだあ。えりちゃんの“え”は“絵画”の“絵”?」
ええ。と私が頷くと、彼は柔らかく笑った。
その笑顔はやっぱり綺麗で、けれどどこか寂しそうに見えた。
「絵李ちゃん、いい名前だね。まるで絵を描くために生まれてきたみたいだ。」
絵李ちゃん、絵李ちゃん、と、彼は私の名前が気に入ったのか、何度も繰り返した。
綺麗な声が私の名前を紡ぐ度、その声を聞く度に、彼の輝きと影が私の中に入り込んでくるようで、なんだかくすぐったい。
「貴方は?」
嬉しい。けれども照れくさくなって、誤魔化すように彼の名を聞く。
「オレはねえ……オレは
月宮響久。つい最近見た名前だった。
今朝、美術室で、見た。
私が銀賞だったコンクールで、金賞だった人の名前。
彼だったのか。
こんなに素敵な絵を描く、こんなに素敵な人だったのか。
ならば仕方がない。今の私は、彼に勝てない。
「綺麗な名前ね。」
「よく言われるよ。」
ふっと息を吐いて私が言うと、彼はさらっと答えた。
本当に綺麗な名前だと思う。
綺麗な絵を描く、綺麗な彼にぴったりだった。
「ほら、集合時間送れちゃうよ。」
「そうね。じゃあ、また今度。」
彼――響久の横を通り過ぎて廊下に出る。
そのまま歩き出すと、響久が後ろから声をかけてきた。
「絵李ちゃん、オレ、『アイ』があったら君の絵――すごく好きだと思う。」
好き、という言葉に、ドキッとしてしまった。
私は足を止め、振り返る。
薄く微笑んだ響久が、こちらを見ていた。
「次に私の絵を見たら、大好きすぎて驚くわよ。……自分のことも、好きになっちゃうかもね!」
響久はこれ以上ないほど目をまん丸に見開いた。
数秒してから、その目を閉じてふふっと笑う。
「ふはは、本当に、待ち遠しいよ。」
ひらひらと手を振ってくる響久に手を振り返して、私は再び前を向いた。
集合場所である第1美術室に戻って来ても、まだ全員は帰ってきていないようだった。
まだ少し時間がありそうだな、と思い、簡単に絵具を広げる。
さっき描いた響久の絵に、光と、影を描差さない
黄色い光と、藍色の影に染められた、白い髪。挟まれた、赤い目。
窓からの光は届かない。この時間のあの場所に、藍色の影はささない。
けれど私には、響久がこう見えた。
だから、これでいいのだ。
「あっ、日高せんぱーい!どんなの描いたんですか?見せてください。」
美術部の後輩が駆け寄ってきて、私は慌てて書きあがったばかりの絵を隠した。
「何で隠すんですか?」と、後輩は不思議そうに首を傾げている。
「この絵は駄目よ。恥ずかしいから。」
私が微笑んで答えると、後輩は「珍しいですね。」と以外そうに言った。
私自身、びっくりしている。
今まで絵を見られることを恥ずかしがる人の気持ちが、全くわからなかった。
上手いなら胸を張っていればいい、堂々と見せればいいと思っていた。
けれど今は、その気持ちがよくわかる。
みんな今まで、こんな思いをしていたんだな、とようやく理解できて、嬉しかった。
この絵は誰にも――響久以外には見せられない。恥ずかしい。
だってこの絵には、私の『自我』が、『 1 』番が、『愛』が――『アイ』が詰まっているから。
この絵を見られるのは、私の内面を見られるのと同じことだから。
この恥ずかしさにも、少しづつ慣れていこうと思う。
もっと『アイ』のある絵を描いて、この恥ずかしさも受け入れて、コンクールに出すことができれば。
きっと私は、金賞が取れる。
描きたい。今すぐ学校に帰って、今朝完成した絵に『アイ』を加えたい。
これから私の絵は、大きく変わるだろう。響久に「大好き。」と言ってもらえるような絵に、変わるだろう。
――藍色、黄色――それから白と赤の絵の具が、足りなくなりそうだ。
【完結】『アイ』が足りない 天井 萌花 @amaimoca
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