安全運転の斎藤キムチとオムライスな吉岡さん
川本 薫
第1話
「斉藤君、もう少し生徒に優しくできんかね? 今日も君へのクレームの電話が3件、来年で僕も定年だ。君を庇う人もいなくなる」
「校長? 優しくするとかって命がかかわることですよ? 」
事務所の外で煙草を吸いながら校長にそう言いながらも、僕はジャケットの内ポケットの中に随分と前から日付だけ記入していない辞表を入れていた。本音を言えば、もう教えることに疲れた。近年は予想外の生徒が多すぎる。他校でどうしても免許が取れず、去年の秋、うちの自動車学校に入校した25歳のAさんは学科試験に20回落ちていまだに合格できず、とうとう先月から休校状態になった。Aさんほどではないが10回以上、学科を落ちる生徒も珍しくなくなった。技能の実習でもゴーカートじゃあるまいし、いきなりアクセル全開に踏んで教習車を壁にぶつけそうになった生徒も1ヶ月に数人はいた。怖かったのはそれがいけないことだと本人が自覚していなかったことだ。車の運転を教える前に人としての当たり前のルール、それがなにか欠けているような気がした。
その日は午後からペーパードライバーの担当だった。
「担当の斉藤です。今日はよろしくお願いします。不安なことがあれば遠慮なく聞いてください」
「吉岡です。先生、お久しぶりです」
久しぶり? 僕は吉岡と名乗る彼女の顔をよく見た。
「もう覚えてないですよね? 高速道路の実技でスピード出しすぎて先生に激怒された吉岡です」
彼女はそう言うと助手席に座ってる僕の顔をシートベルトをしながら覗き込んだ。
「吉岡さん、顔が近い」
僕は思わずドアぎりぎりに体を寄せた。そして思い出した!! 『キャ〜怖い!! 』と叫びながら高速道路の下り坂でアクセルを思い切り踏もうとした吉岡だ!! 休憩に寄ったサービスエリアで缶コーヒーを買おうとしたら『先生、ここのサービスエリア、オムライスが美味しいですよ!! 』と15分の休憩でオムライスを食べようとしたあの吉岡だ!!
「思い出した!! あの吉岡? 」
「正解です!! 」
僕は思わず両手を叩いて拍手した。その弾みで内ポケットに入れていた辞表がシフトレバーのところにハラリと落ちた。
「とりあえず、出発します」
彼女にも辞表は見えていたはずなのに何も聞かずにそのまま構内のコースを走行した。ペーパードライバーというのは嘘だろ? と思うほど運転も縦列駐車もスムーズだった。
「吉岡さん、本当に運転してなかった? 」
「バレました? 実はね──」
また僕に顔を近づける。
「先生に会いたかったんです」
「はぁっ? 悪い冗談。君が卒業したのはもう随分と前だよ? 僕にそんな嘘を言うなんて君も変わってるよ」
「なんでですかね? 見たんです。教習中って教習生を乗せて高速を走ってるところ。私、その後ろを走ってたんです。その時、思い出したんですよ。オムライス、まだ食べてないって。先生、あの時、言いましたよね? 『今は授業中だから、いつかな』って」
「いや、それは社交辞令ってことで」
「ですよね」
また僕の顔を覗き込む。
「他になにか不安なことはないの? 」
「次の授業も先生を指名して、高速の教習希望しようかな? 」
「そんなにオムライスが食べたいなら、今日は3時であがるから、近くのユニクロ前で待ち合わせる? 」
「えっ? いいんですか? 」
彼女はまた僕の顔を覗き込んだ。
他の教習車から見れば、何をしてるんだろう? と思うだろう。ただペーパードライバー講習は構内のコースを運転した後、立体駐車場の話から、あのスーパーの肉が安いとかあの日本酒が美味しいとか、年輩の方だと今度、飲みに行こうとか運転とは全く関係ない世間話になることも少なくなかった。
2時半、僕はポケットの中の辞表を取り出して筆ペンで日付を記入し、校長に手渡した。
「斉藤君、今朝の話を? 」
「違います。ずっと前から考えていました。僕は命が大事だし、事故を起こしてほしくないからどうしても厳しく声を荒げてしまいます。それがクレームになったからと言ってただ優しくなだめるように教えることはやっぱりできません」
校長は
「わかった」
あっさりと辞表を受け取った。問題児がいなくなって内心はほっとしているのもかもしれない。
僕はそのまま待ち合わせのユニクロに向かった。ユニクロの出入り口の前には誰もいなかった。念の為、と店内を覗くと彼女は呑気にダウンマフラーを首に当てて鏡の前に立っていた。
「吉岡さん」
僕が声を掛けると
「ねぇ、これ見てください、最近はこんなに便利なマフラーもあるんですよね?、1290円で!! 」
と僕に言ってきた。僕は冗談で
「僕へのクリスマスプレゼントですか? 」
吉岡さんに顔を近づけて聞いてみた。教習車の中ではあんなに顔を近づけてきたくせに僕の方から顔を近づけるとびっくりしたような顔で無言になった。
「オムライス、食べに連れて行ってくれるなら、プレゼントしますよ。どの色がいいですか? 」
「僕は黒一択です」
「そうだ、思ってたんです。俺って言わないんですね」
「言わないと言うよりも、言わないように意識はしています。俺って言うとさらにきつい性格に見えてしまうから」
「やっぱりなぁ……意外にちゃんとしてるんですよね。先生が教えてくれなかったら私、実技、めちゃくちゃ落ちてたと思います」
彼女はそう言うと自動レジでマフラーの会計を済ませ、近くにいた店員にタグをとってもらい、そのまま僕の首にかけた。
「ありがとう。実は辞めるんだ」
「見ました。シフトレバーに落ちた辞表。残念!! もう会えなくなりますね」
「まだ来る気だったの? ペーパードライバーでもないのに」
「本当のこと言うと怒られたかったんです。はじめて怒られた時、めちゃくちゃ怖くてクレームの電話する人の気持ちもわかるんです。でも先生の実技の次の授業で必ず褒められるんです。加藤先生はただ感情的に怒るだけだったけど斉藤先生は違うなぁってちょっと尊敬してました。今、少し息が詰まることがあって、それは幸せなことだと思うんです。でもなんか作られたような『輪』つくられたような『楽しさ』に息が苦しくなってきて、ごめんなさい。うまくいえないけど、ずっと甘いものを食べているような気がしてガツンとキムチが食べたくなった感じです」
「じゃあ、吉岡さんにとって僕は斎藤キムチですね」
「えっ? 斎藤ムチ? ムチって先生、へんな性癖ですか? 」
彼女はそこがユニクロの店内だということを忘れてわりと大きな声で『へんな性癖ですか? 』と真顔で聞いてきた。
「違う、斎藤、キ、ム、チ!! 」
「えっ? 斎藤、ムチムチ? 」
袋詰するカウンター近くに立っていた店員さんが思わず口を抑えていた。
「もう、斎藤ムチでもムチムチでもいいからオムライスを食べたいんでしょ? 」
「そうです、そうです、先生、私が運転しましょうか? 高速? 」
彼女はにやりと笑った。
車の助手席に家族以外を乗せるのは久しぶりな気もした。
「失礼します」
彼女はそう言って助手席のドアを開けた。
これは授業じゃない。オムライスを食べに行くだけだ。でもなぜ? 僕は高速の入口でETCのバーがあがるのを見て自分の中のなにかが上がったような気がした。
上がったような気がしたのに隣りからはなぜか鼾が聞こえてきて、肝心なサービスエリアについても彼女はまだ寝ていた。
「吉岡さん、ついたよ」
僕はシートベルトを外して彼女に顔を近づけて言った。
「うん? なに? これは夢? 」
目を覚ました彼女はこともあろうか起き上がろうとしてそのまま、物凄く不自然な形で僕の顔と彼女の顔がくっついてしまった。
「だから、吉岡さん、顔が近いんだって!! 」
僕はいかにも悪くないというふうに声を出した。
「えっ? えっ? えっ? もしかしてさっきのはキス? 」
「キスじゃない。顔と顔がぶつかっただけ。さあっ、着いたよ。10年ぶりだっけ?
約束のオムライス」
彼女はまだ眠たそうな顔で店内に入る前にトイレに行った。入口で彼女を待っているとき、思い出した。あの日、外に設置されていた椅子に座って結局は彼女に缶コーヒーを奢ってふたりで飲んだ。そうだ、あの時も僕は彼女の雰囲気に飲まれて仕事を辞めるかも……とか、君みたいに感情がすぐ顔に出るわかりやすい人もいない、そんな話をしていたような気がする。
「お待たせしました。じゃあ、食べましょうか」
彼女は僕を気にすることなく、まっすぐに食券の販売機の前に行って僕に聞くことなくオムライスのボタンを2回押した。テーブルで食事をしていた人はほぼ尾道ラーメンを食べていたのに。
『オムライス、注文された方──』
カウンターから声がして僕が取りに行った。流行りの卵がとろとろのオムライスではなくシンプルな宇宙人の目の形のどこでも食べれそうなオムライスだった。
「吉岡さん、ごくごく普通のオムライスたけど? 」
「これでいいんです。オムライスとかナポリタンとか変に小洒落てほしくないんです。卵もすこし固めで凄く美味しいとかじゃなくてほっとする味、言い方は変だけど安っぽい味でいい。斎藤さんはリゾート行ったことがありますか? 私にとってグラタンとかドリアとかどんなに美味しくても、リゾートが味が1番なんです」
そう言ってまるでポーチドエッグを食べるみたいに彼女はオムライスの真ん中にスプーンの先をいれた。
吉岡さんと10年振りに再会して、辞表を出して高速のサービスエリアで彼女と一緒にオムライスを食べている。彼女が言うように僕も普通の味にほっとしていた。
「斉藤さん、ついてる!! 」
彼女はまたテーブルの向こうから手を伸ばしてきて僕の口元についていたコーンをとった。これを食べ終わったら、終わるのだろうか? 今更ながらに焦ってきた。そして、彼女の顔に何もついてなかったのに僕はポケットからティシュを取り出して
「唇にケチャップがついてる」
今度は僕が身を乗り出して彼女の口元をティシュで拭いた。 安全運転ばかりしてきた僕にとって、その日の彼女は見たことのない標識のようだった。僕はだから必死で見た。
どういう意味なのか? 本当にわからなかったから。
そしてオムライスを食べ終えて車に再び戻った時、彼女は言った。
「さぁ、出発です」
「次はどこへ行きたい? 」
彼女は前を向いたままで僕がしていたシートベルトの真ん中を指さした。
安全運転の斎藤キムチとオムライスな吉岡さん 川本 薫 @engawa2023
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