サーチブレスの檻

スエテナター

1 夜明け

第1話 イルネスの過ごす夜

 窓の外には上半分が欠けた半月が光っていた。度重なる攻撃で荒廃したサーチブレスの新市街にも無事に残った建物はぽつぽつとあり、イルネスはそうした難を逃れた古アパートの一室でベッドに仰向けになっていた。電灯も付けない暗い部屋に皮肉なほど清楚な光が注ぎ、屈折なくイルネスの顔面を照らしていた。

 窓外の遠い月をぼんやり眺めていると、イルネスをここへ呼び寄せた客が窓とベッドの間に立ち、視界を黒く遮った。

 今夜、イルネスが相手をするのは男の客であった。同性であっても異性であっても構わず相手をするが、ここ数年は圧倒的に同性の客が多かった。今夜のように客の元へ呼ばれることもあれば、客の方が店へ来ることもある。

 十九歳になるイルネスより上の世代の人らしく、ふと興味が湧いて歳を訊ねると、三十代の半ばだと答えた。薄い唇とどこか薄情らしい灰色の目がイルネスの瞳に映った。

 男はベッドの端に軽く腰掛け、イルネスを見下ろした。

「お前の噂は前々から聞いていた。若く端正な顔立ちながら、病に冒され余命幾ばくもない男娼がいると。その儚さが客の心を掴んで毎晩依頼が入るので滅多にお目に掛かれない。――なるほど、確かに整った顔立ちをしている。俺もお前を呼ぶためにずいぶん待った」

 イルネスのような若い男には真似のできない熟れた喉から発せられる低い声は何の淀みもなく耳から入ってすとんと胸に落ちた。決して嫌いな声ではなかった。ただ、余命幾ばくもないという事実を目の前で指摘されるとイルネスは苦笑いをするしかなかった。

「そんなに待ってくださったんですか、僕なんかのために。――そう言われてみれば、ここ最近はずっと休みがないような気がする」

「結構な重労働なんだな」

 男はナイトテーブルの煙草ケースから煙草を一本出し、火を付けて青い煙を吐いた。糸のように伸びる煙は清楚な月光の前でゆらゆらと怪しい影になって天井へ立ち昇っていく。焦げた匂いを吸い込みながら煙の流れを見ていると、再び激しく煙を吐き出した男が訊ねた。

「痛みが酷いので薬を常用していると聞いたが、そんな状態でこんな仕事をしても大丈夫なのか」

「仕事の最中は痛み止めが効いていますから大丈夫ですよ。何をしてくださっても構いません。何なら薬のおかげで多幸感もあって怖いもの知らずですよ」

 自ら口にした自虐に悲しいとも可笑しいともつかない感情を覚え、イルネスは笑みを浮かべた。

 男は煙草の灰を灰皿に叩き落としてまた口に咥え、シャツから見えているイルネスの首に視線を落とした。

「ずいぶん痩せてるな」

「今の僕は死を待っているだけですから。体型なんてどうでもいいんです。あなたも大枚叩いてゴーベールから僕を買ったんでしょうから、どうぞお好きになさってください。僕は何でも従います」

「ずいぶん毒気のある物言いだな。豪商・ゴーベールには誰も逆らえないはずなんだが」

「今さらゴーベールのことなんて怖くありませんよ。病気なんかしてなくったって、ゴーベールは僕らを弄ぶだけ弄んで最終的に自分の手で殺すのが目的なんですから」

「酷い老爺だ」

 客はそう言って心底嫌な顔をした。

 煙草を吸う客は珍しくもないが、彼は時間稼ぎでもするようにゆっくりと煙草を味わっていた。ここまで一服に時間を掛ける人もなかなかいない。大抵二、三口味わっただけで火を消してしまう。そんな客が多勢であった。

 客は長々と煙を吐きながら唐突に訊ねた。

「……お前、恋人いるか?」

「好きな人ならいますよ。かわいい女の子です」

 イルネスは臆することなく素直に答えた。

「ゴーベールの店にいる青い髪の娘じゃないだろうな」

 いきなり図星を指されてイルネスは思わず笑みを浮かべた。

「どうして分かったんです? 彼女はいつも僕を救ってくれました。本当は僕も彼女を守ってあげたいんですが、こんな病身じゃ何もできなくて……。今度生まれ変わったら彼女を幸せにしてあげたい」

「お前、死ぬことばっかり考えてるんだな」

「生きていると体が痛くて堪らないから」

「あの娘は娼婦ではないと聞いたが」

「そうですよ。彼女には別の仕事があるんです。不思議な力があるから」

「……不思議な力、か」

 彼はそう言ってようやく煙草の火を揉み消した。

「どうしてみんながお前を欲しがるのかよく分かった。だが、俺はもうお前を買わない。もっと真っ当な形で出会いたかった」

「……ありがとう。そんなふうに言われたのは初めてです。男娼なんて大抵粗末に扱われますから」

 客は何も言わずに溜め息を漏らした。煙草の匂いの中に憐情が混じっているのをイルネスは感じた。

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