ミニシアターで恋をして

帆尊歩

第1話 ミニシアターで恋をして


朝起きると、妻はもう仕事に出掛けていた。

妻の仕事に行く時間と、俺の出掛ける時間には二時間ばかりの差がある。

妻の方が早いのだ。

妻は俺を起こさないように静かに身支度をする。

俺がうるさいと怒鳴ったからだ。

お互いに仕事をしているが、やはりギリギリまで寝ていたい。

俺は、適当にパンを焼き、カップのスープで簡単な朝食をとる。

思えば、寝室を分けたのが全ての始まりだ。

子供のいない俺たちは、対等な関係とか、それぞれに干渉しないフラットな関係とか、いかにも時代の最先端をいくような夫婦を演じていた。

だから、俺が寝室を分ける提案をしたのだって、自然な流れと思っていた。

提案をした時、少しだけ妻の顔が曇ったような気がした。

でも妻は同意した。

俺が起こすなと怒りをぶつけたことがあるからだ。

またそういうことがあるのではと妻は考え、少しでもそういう俺の怒りをやわらげようとしたのかもしれない。

それとも俺に見切りをつける、最初のステップになってしまったのかもしれない。

でもそれがお互いにとって最善と、その時の俺は疑っていなかったし、起床の時に相手を起こしてしまうという気を遣わせないのは、妻のためという気持ちもあった。

でもそのせいで、妻との距離が出来たような気もしていた。

帰宅時間も違うし、付き合いで食事を済ませて帰ることも多かった。

それは妻も一緒で、当然妻と夕食を共にすることは極端に減った。

自然な流れで、どちらかが夕食の支度をする、ということもなくはなかったが、食事を共にすることが減れば、自然と会話も減る。

ともすれば、何日も言葉を交わさない。

けして仲が悪いとか、離婚の危機にあると言うことではないと思うが、俺たちは生活を共にしない。

同居人へと成り果てていた。

冷え切った関係には、もう愛も恋もなくなっていた。



「山野はさー、結婚とかしないの。彼女とは長いだろう」同期の佐久間が、昨年入った新入社員に言う。

いくら飲みの席とは言え、そんなに立ち居ったことを聞くのはどうなんだと、俺は少しハラハラした。

「オイオイ、山野君も困っているじゃないか」

「いえ、全然大丈夫です」と、新入社員の山野はあっけらかんと言う。

「まあこれが女子社員だったら、セクハラですけれどね」と山野は続ける。

「だから聞いているんだよ。男同士なら許してくれるだろうから、なあ」と俺に振ってきやがる。

何か問題が起こったら、共犯にしようとしているのか。

「まあ本当にイヤだったら、俺に言ってくれ。こいつは同期だから、何とかするから」仕返しに、保険を掛けておく。

「いえ本当にこの程度は」

「そお」

「ちなみに、結婚って良い物ですか」山野は根本的なことを聞いてきた。

「そりゃーあ、辛いぞ。金は自由にならないし、いくら共働きとはいえ、子供が出来れば、仕事を辞める嫁さんの方が多いからな」佐久間が強引に割って入って来た。

「産休とか、育児休暇とか取らないんですか」

「そういう人はまだ希なんだよ。そこまでキャリアを継続させたいと思うほど、日本の社会は成熟していない」そこまで極端ではないと思ったが、俺は黙っていた。

「そんなもんですか」

「部長なんかは、定年がみえてきて、家のローンが残っているのに、下の娘がこれから大学だから。

常務なんか、娘二人が共に離婚して子供連れて、出戻って来たらしいし、元旦那からもらう養育費だけではだめで、孫の学校関係とか、相当金が出ていっているので、老後の蓄えどころじゃないらしいい」

「えっ、そうなのか」と迂闊にも俺の方がその話に食いついてしまった。

「孫の教育費で、娘たちから搾取され続けているらしいぞ」

「誰情報?」ニュースソースの確認はマストだ。

「本人が言っていた」

「ほんとかよ」

「じゃあ、結婚のメリットってなんですか?」すっかり覚めた山野がひどく冷静に言う。

「それは・・・。結婚は、メリット、デメリットで語るもんじゃないんだよ」と佐久間が言う。

おまえ今までと言っていることが真逆だぞ、と思ったが、あえてツッコミはしなかった。

「まあメリットというか、婚姻関係は壊す方がデメリットがある。こいつの所みたいに、たとえ仮面夫婦だとしても、それを解消しようと思えば。デメリットばかりだ」

「おい。ちょっと待てよ。仮面夫婦ってなんだよ」

「アッごめん、お前の所を例に出した。済まない」

「イヤそれじゃなく、うちの仮面って」

「違うの?」

「いや、それは違うだろう」

「だって、会話ないんだろう」

「そんなことないさ」

「じゃあ、最後に奥さんと業務連絡以外で会話したのはいつだよ」

「業務連絡って何?」

「おはようとか、行ってらっしゃいとか、ご飯食べるとか、今日遅くなるとか、そういうこと以外だよ」俺は言葉に詰まった。



俺は一人で歩いていた。

佐久間の仮面夫婦という言葉が、急速に飲みの席をしらけさせた。

佐久間は、ヤバいという顔をして、山野は、その場をどうすれば良いという顔をした。

飲みの席は、自然とフェードアウトした。

時間も早くまだ帰宅するには早かったし、今帰ると妻と顔を合わせることになる。

喧嘩とかかならまだしも、確かに業務連絡以外の会話はない。

イヤここで逃げればさらに、妻との距離が開く。それは分っているが。

俺は当てもなく夜の街をさまよった。


家に帰りたくなかった。


妻とこんな関係になったのはいつからだ。

いや、いつまで俺たちは夫婦でいられるんだろう。

俺はなんとなく歩いて、裏路地に入り込んでしまった。

そういえば入ったことのない路地だ。

暗くなった路地に看板が見えた。

(元町名画座)という看板だった。

小さな映画館だ。

今時めずらしい本当に小さな映画館だった。

変に作りも古く、まだ俺が子供の頃、どこかに残っていたような場末の映画館だ。

出窓のような切符売り場と、中は胸の高さまでのタイル張り、ミニシアターというのは、あまりに昭和の雰囲気の映画館。

いや、わざと昭和的なレトロな感じに作っているのか。

「恋、いろの空」というのが今やっている映画だった。

聞いたことない映画だ。

でも俺はその主人公の女優に衝撃を受けた。

両角カヲル。

どこかで聞いた事があるような名前。

そしてポスターにうつる顔、それもなんとなく覚えがある。

子供の頃、よく映画はテレビでなんとかロードショーとか、なんとか洋画劇場とかいう題名で放映されていた。

そのとき見た映画かもしれない。

時間を持てあました俺は、吸い寄せられるように映画館に入った。

初老のおじいさんが切符を売っていた。

チョビ髭に、レトロなワイシャツ。

サスペンダー、絵に描いたような人物だ。

やはり、復刻レトロみたいなコンセプトの映画館のようだ。

「お急ぎください。もう始まっていますよ」

「あっ、はい」

中に入ると、ロビーには誰もいない。

みんなすでに客席に入っているという事だろうと思った。

重い防音ドアーを開けて、俺は中に入った。

上映が始まっているので、中は暗くてよく分らないが、百席もないくらいの所にまばらにしか客がいない。

おそらく二、三十人だろう。

適当な席に座る。

スクリーンでは、カヲルという名の少女が、はしゃいでいる。

誰かに恋をしたようだ。

あまりにせつなげに、少女はスクリーンの中で恋をする。

スクリーンの中の少女、カヲルはあまりに不幸だった。

今の時代にはあり得ないくらいの、不幸と運の悪さに翻弄されている。

でも少女は挫けない。

けなげに、そして力強く、でもそれが無理をしている事が伝わるほどに、切なさが迫って来る。

俺は、少女カヲルに感情移入をしていた。

そしてその感情移入は、カヲルと一体化していく。

カヲルは言う。


「幸せにはなれないけれど、幸せを想像する。するとちょっとだけ優しくなれるから、人に優しく出来れば、その瞬間だけ幸せになれるから。だから、幸せになれないことが分っているけれど、いつも幸せを想像している」


あまりに切ない、俺はカヲルを抱きしめてやりたい衝動にかられる。

でも、スクリーンの中のカヲルに手は届かない。

カヲルは一人の青年を好きになる。

それは不幸のどん底のカヲルにとって、唯一とも言える希望だった。

俺は心底胸ををなで下ろした。

これでカヲルは幸せになれる。

カヲルの幸せが伝わる。

段々とカヲルの心は青年へと傾く、あまりに不幸な少女、カヲルの心は青年という光が一筋さしただけだったのに、それが少しづつ大きくなり、しまいにカヲルの心は幸せに包まれていく。

ほんのちょっとだけ人に優しく出来るから、幸せを想像していただけのカヲルが、本当の幸せを手に入れた。

カヲルはバイトで貯めたお金で、赤い毛糸を買った。

そして一編一編、セーターを編んでいく。

それはカヲルにとって幸へのプロセスだった。

でもその幸せは、長続きしなかった。

完成したセーターを渡すために、青年に会いにいったカヲルは、一人の女性を紹介される。

青年は幸せをいっぱいに浴びた、華やいだ娘と恋に落ちていたのだ。

カヲルは膨れたバックから、セーターを出せなくなった。


カヲルは、やはり自分は幸せにはなれないことを思い知らされた。

カヲルは泣きながらセーターをほどいていった。

その作業は、幸せへのプロセスを一つ一つ壊していく作業だった。

全てをほどき終わると、赤い毛糸は大きな塊となり、カヲルの傍らに置かれた。

映画はカヲルの最後の言葉で、締めくくられる、


「ほんの一時だけでも、幸せになれた夢が見れてよかった。ほんの少しだけでも、優しくなれてよかった。だから、これからも、誰かに少しだけ優しくできるように、夢だけ見ていく」


あまりに悲惨な終わり方だ。


映画が終わって灯りが付くと、そこには俺しかいなかった。

そしてある事に気付いた。

両角カヲルは、高校の同級生にいたじゃないか。

俺は思い出そうとした。

確かに両角カヲルはいた。

そしてしばらく友達になっていた。

そう友達だ。

カヲルと付き合うとか、そんな気はまったくなかった。

顔は、思い出せない。映画の中のカヲルと、似ているのか似ていないのかすら思い出せない。いやそもそも何でこんな映画が。

じゃあ、映画の中の青年は俺か?

ロビーに出ると、自動販売機の所にも売店にも、誰もいない。

俺は慌てて映画の詳細を聞き出そうと、さっきのちょび髭のサスペンダー男を探した。

でも映画館には誰もいない。

そしてアナウスが響く。

「本日の上演はこれにて終了いたします。またのご来場を心よりお待ち申し上げます」

アナウスが終わると奥から一つづつ、照明が落ちていった。


家に帰ると、俺は押し入れから、卒業アルバムや、その他のカヲルが載っていそうな物を方端から出した。

その様相がよほど異様だったのか、仮面と言われた妻も何が起こった分らないように俺をみつめた。

でも俺には、それにかまっている余裕はなかった。


卒業アルバムにカヲルはいなかった。

途中で学校を辞めてた。

それ以上、両角カヲルを調べることは出来なかった。


何か手がかりがないかと思って、もう一度(元町名画座)に行ってみた。

酔っていたし、妻のことで考え事をしていたし、定かな記憶がない。

でもこの辺りという路地に入ってみた。

でも見つけることが出来ない。

もう一度大きな通りに出て、別の路地に入る。

でもそんな映画館はない。

周辺をかなり歩き回ったが、そんな映画館もミニシアターも何処にもない。

古くからこの辺で商売をしてそうなおじさんにも聞いてみるが、そんな映画館は見たこともないと言う。誰に聞いてもも答えは同じだった。

その日は諦めて帰ったが、日にちが経つと、そんな映画を見たということすら記憶が曖昧になってきた。

本当に俺はあの映画館で(元町名画座)で映画を見たのか。

日が経つと、映画のことも、(元町名画座)のことも頭から抜け落ちていくように、記憶が薄くなっていた。

でもそれとは裏腹に、両角カヲルに恋する思いだけは強くなっていった。

でもそれは俺があのミニシアターで、恋をしたということではないと思った。

でも、その思いだけが、じんわりとのしかかる。

それは、それ以外の記憶が薄れていくが故に、得体の知れない重石のように俺にのしかかって来た。

でもどうすることも出来ない。

映画館を見つけることも、カヲルを探すことも、そしてカヲルの顔を思い出すことも。

何も出来ない。

ただカヲルのことが好きだ。

と言う思いそれだけが、俺の中に残った。



大学の時の友人の加西から電話をもらったのは、それからしばらくしてからだった。

加西とは、大学時代は友人だったが、卒業してからは疎遠になっていた。

最後にあったのは妻との結婚式の時だ。

加西は弁護士をしている。

仲良くしておいて損はない。

「どうした急に、あんまり久しぶりなんで怪しい投資とかに誘われるんじゃないかビビりながら来たよ」俺はそんな軽口を言う。

「なんだよそれ。それならこんな居酒屋じゃなくて、もっと良いところに誘うだろう」

「確かに」

その時、中生のおかわりと、つまみというより、ご飯のおかずのような料理が運ばれてきた。

「こんなしっかりした物、食べていいのか」と飲みに誘ったはずの人間が、食事に走っているのを加西はいぶかしんだ。

「別に」

「だって家で奥さん?」

「いや良いんだ、帰っても何もない」

「ああ、そういうことか」加西は何かを感じ取ったかのように納得した。それがなんとなく鼻につく。

「で、急にどうした風の吹き回しだよ」

「いや、このあいだお前の夢を見てさ」

「何だよ気持ち悪いな」

「俺もだよ。いい女とかならともかく、何でよりによってお前なんかの」

「言うね。そこまで言われると、お前の潔さに惚れ惚れするよ」

「いや、それでさ。もしかしておまえが何か困っているんじゃないかなって」

「何だよそれ、心配してくれたの?」

「いや、胸騒ぎというか」

「まあ、うちの奴との関係にはちょっと悩んでいるけれどね」

「そうなのか、虫の知らせかな。なんか俺たちって心からつながっていたのか」

「止めてくれ、冗談でも気持ちが悪い」

「まあ冗談はともかく、離婚考えているとか?おれ取扱の半分は離婚だぜ」

「縁起でもない。そこまでは考えてないけどさ」

「話してみろ」と加西は身を乗り出す。唐揚げや、焼き鳥を子供のようにバクバク食う加西に、状況を説明することの不安を感じたけれど、俺は妻との今の状態を話す。


「で、仮面夫婦と同僚に言われたってか」

「ああ、まあ」

「まあ、俺が感じるに、全然問題無いでしょう」

「そうなのか」

「ああ、仮面夫婦というのはそんなレベルじゃない。まだまだ修復可能だよ。大体離婚て金とエネルギーを使って何も得られない。得られるのは、一人でいるという安らぎだけだ。であるなら、今がそこまで辛くないなら、だましだましでも続けた方が良い」

「そうなの」

「俺は案件の半分が離婚だから、お前じゃなかったら、離婚、頑張りましょうなんて言って拳を振り上げるけど。友達だからさ」

「あっ、ありがとう」何を感謝している。

「それに独り身は辛いぞ。この間だって孤独死の案件をやったけれど」

「そういうのもやるのか」

「いや身寄りがなくて、片付けが分らないと大家さんに言われて、俺が行政手続きとか代行してやったの。本当はそんな事、弁護士の仕事じゃないんだけれど、ほら弁護士って、やろうと思えば何でも出来るから」

「知り合いの大家さんだったんだ」

「いや、その時初めて」

「どういう関係なんだよ」

「いや、大家さんが道を歩いているときに向こうから声を掛けてきた。大家さんも何で声を掛けたかよく分からないと言っていた」

「でもそういうのって、大家さんの知り合いの司法書士だとか、そういう所に仕事がいくだろう」

「ふつうはそうなんだけどさ。弁護士バッジみて話掛けられたのは、さすがに初めてだったよ」

「で、受けたのか」

「それは、困って居る人がいれば、弁護士は正義の味方だから」

「そんなに、仕事がないのか?」

「止めろ、その哀れんだような言い方」

「アッ悪い」

「でも、それが俺等と同い年でさ。女なんだけれど、女一人自宅のワンルームで腐乱遺体で発見された。世間との繋がりもないから発見されるに時間が掛かってね」

「俺等の歳で孤独死なんてするんだ」俺は驚いたように言った。

「まあ体もボロボロだったらしいけどな。あれ、おまえ高校何処だっけ」

「なにそれ、さぎの宮第二高校ってとこ」

「だよな、そんな事聞いたことがある」

「何だよ」

「いや別に」

「イヤ気になるだろう」

「弁護士には守秘義務があるから」

「守秘義務行使しなけりゃならないことなのか」

「あっ、いやー」

「大丈夫、俺は口は堅いから」

「イヤ、そういう問題じゃないんだけれど」

「何だよ、言えよ」

「お前の学年に両角カヲルさんていた?」

「えっ、カヲル?、その孤独死の女ってカヲルなのか」

「えっ、知っているのか」

「い、いや、知らない」と俺は反射的に答えた。

「その孤独死とは、いつの話」

「半月くらい前」半月と言えば、俺がカヲルの映画を見た頃だ。

「カヲルが、孤独死?」と思わず俺はつぶやいた。

「知っているじゃないか。この両角カヲルさん、お前にとって何なんだ」

「えっ。両角カヲルは、俺がミニシアターで恋をした女だ」

「えっ、どういうこと?」


話を聞き終わって。加西はこんな話をした。

「カヲルさんが、お前を知っている俺を引き寄せたのかもしれない。今回は、この案件を俺が担当することになったのは本当に偶然だ。いや本来なら担当するはずがなかった。大家さんにだって、全く相談する相手がいないわけではなかった。本当にたまたま、道で俺は大家さんとすれ違った。大家さんは俺の弁護士バッジを見て、声を掛けてきたと言っていたが、何か感じる物があったと言った。何を感じたのかは分らないようだが」

「カヲルの最後は?」

「ずっと一人だったようだ。部屋は整頓されてはいたが、何もない寂しい部屋だ。ネグレイトになっていたのに、最後に力を振り絞って、部屋を維持していたんだろうな。

体にはかなりの無理をかけてたから、内臓はボロボロだったんだろう。あっ部屋に大きな赤い毛糸の塊があった」

「そうなんだ」あの映画の中の事はみんな現実だった。そして、カヲルを悲しませたのは俺だったのだ。

知らないうちに俺は人を悲しませていた。

なんて俺はバカなんだ。

映画の中の、幸せをいっぱいに浴びた華やいだ娘とは確かに付き合った。でも、ものの数ヶ月しか持たなかった。

だったら、それからでもカヲルを幸せにして上げられれば。



加西と別れて俺はその足で家に帰った。

この時間は妻がちょうど仕事から帰って来る時間だ。

いつもなら妻と顔を合わせないために、わざと時間を潰して帰っているが、今日はすぐに帰った。

玄関をあけて中に入ると、ちょうど妻が一人だけの夕食をとっているところだった。

「ただいま」俺はダイニングテーブルの妻の前に座った。

「お帰り」妻が戸惑ったように言う。何か話さなければと言う妻の緊張が伝わった。

「ご飯は?」妻は無理に俺に話しかけた。

「食べてない」加西と居酒屋にいた。でも嘘を付く。

「同じのでよければ」

「もらえるの」

「うん」


妻と顔を合わせて、食事をするなんてどれくらいぶりだろう。

俺は、最初拒否されると思っていた。でも意外と妻は拒否しない。

「旨いな」

「えっ」

「こんなに旨かったんだ。でも俺も作れるんだぜ」

「そうなの」

「ああ、今度から自分が食べるときは、二人分作る。食べたくなければ食べなくていい。でも、これから俺は必ず二人分作る」

「じゃあ、あたしも、必ず二人分作る。食べたくなければ食べなくてもいいよ」なんとなく二人で笑顔がこぼれた。

二人で笑ったのは、どれくらいぶりだろうと俺は考えていた。


「一つ、お願いがある」

「なに」

「もう一度俺と一緒に寝てくれないか」

「朝、起こしちゃうよ」

「いいよ、なら一緒に起きる。で、一緒にメシを食べる」

「そんな事、大変なだけでしょう」

「いやなら無視してくれ。でも俺は君と同じ時間に起きて、一緒に朝食を食べる」

「うん」と妻は小さく頷いた。


俺はミニシアターのおかげで、もう一度妻に恋をした。

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ミニシアターで恋をして 帆尊歩 @hosonayumu

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