忘れられない「れもん」

@rinka-rinka

Episode

れもんの香りがした気がした。

あのシャンプーの香り。

俺はそれにつられるように…


駆け出した。

靴が脱げた。

でも走った。


なにかに追い立てられるように。

一生懸命走った。


海の近く…。


そこに「君」がいた。



ああ、どうしてそんなに身勝手なんだ。

俺は「君」の後ろ姿に、ありったけの声をのせて叫ぶ。


「俺は、お前に会えて幸せだ!だから、答えてくれ!何故俺の前からいなくなったんだ!どうしてそんなところにいるんだ!」


「君」は何も言わない。


やがて、「君」は振り返り、笑みをこぼした。

しかし、すぐにまた海を見つめ、そして…





海へ飛び込んだ。




「お、おい!何を!?」


俺は慌ててフェンスから海を覗き込む。


しかし、俺は不思議と冷静だった。


俺が見た「それ」がすべてを物語っていた。



「ああ…、そうだったのか、そういうことなんだね…。」



そうさ、だって君は…。



―――――――――――――――――――――――――――



あの、雪が舞い散る夜に君に出会った。


道端で凍えそうな女性を見つけた。


素通りしようと思ったけど、できなかった。


「あの、大丈夫ですか…?」


俺が声をかけると彼女はゆっくり顔をあげた。


「あ、あなたは…?」


「俺はまあ、ただのサラリーマンだよ。君がこんな場所で凍えているのを見過ごせなかったんだ。」


彼女は儚げな笑みを浮かべて言う。


「心配していただきありがとうございます。もしよければ、今晩だけ泊めていただけませんか?」


「え、あ、それは構わないけど。」


こうして俺は道端で拾った女性を家に連れて帰った。


ガチャ…


家のドアを開けて電気をつける。


「狭いけど我慢してね」


ワイシャツをハンガーにかけると俺はすぐにお風呂を沸かした。


「お湯はいったから、お風呂入っておいで。そのままだと風邪ひいちゃうよ」


「ありがとうございます。行ってきます。」


20分ほど経って彼女は戻ってきた。


いつも使ってるシャンプーのれもんの香りが部屋を満たす。


「じゃあ、俺も入ってくる。テレビでも見てていいよ。リモコンはそこにあるから」


「ありがとうございます。でも私テレビを見たことないのでよくわからないです」


彼女は微笑を浮かべて言う。


俺は少し違和感を覚えたが、気のせいだろうと思った。


「あ、そうなんだね。じゃあまあ適当にくつろいでていいよ。お風呂行ってきます」


「行ってらっしゃい」


服を脱いで身体を洗って湯につかる。

さっきまであの女性が入っていたんだよな。

急になんだか顔が熱くなってきた。



風呂からあがったら彼女はソファに横になっていた。


「おーい、そんなところで寝てると風邪ひくぞ」


揺さぶってみる。


ゆっくりと彼女は目を開いた。


「そこのベッドで寝ていいよ。俺はソファで寝るから。」


「え、いや、泊めてくださった恩人にソファで寝てもらうわけにはいきません。」


「そうは言っても…」


「でしたら、私と一緒にベッドに入ればいいと思います。」


「一緒に!?それは…そっちはいいの?」


「はい。あなたには感謝していますし、信頼もしていますから。」


俺たちは同じベッドに入った。


「じゃ、じゃあ、消すよ?」


「はい、お願いします。」


こんな感じで彼女との特別な日々が幕を開けるのだった。




朝、カーテンの隙間の光で目を覚ます。

隣に、彼女はいなかった。

とりあえず、着替えて部屋を出た。


「あ、おはようございます」


「ああ、そこにいたんだね、おはよう」


彼女は台所でなにやら朝ごはんを作ってくれているようだった。


「材料、勝手に借りてしまいました。すみません。」


「いや大丈夫だよ。それより朝ごはん作ってくれてありがとう」


ご飯、お味噌汁、ほうれん草のおひたしが並ぶ。


朝はあんまり食べないからこれくらいがちょうどいい。


「俺今日も仕事行くから、一人になるけど」


「はい、わかっています。大丈夫です、何も悪いことはしません。」


「それは心配していないけど。君が一人でいることが心配だ」


「ありがとうございます。大丈夫ですよ、一人は慣れているんで。」


一人は慣れている、そう言ったときの儚げな表情が頭から離れなかった。


「そういえば、自己紹介してなかったね。俺は白石とわっていうんだ。君の名前は?」


「名前、ですか。じゃあ、れもんって呼んでください。」


「れもん、ね?わかった。」



俺はネクタイを締めて、カバンを持って家を出る。



「いってらっしゃい。とわさん。」


「ああ、行ってきます。れもん。」



ずっと一人だったから誰かにいってらっしゃいなんて言われたのは結構久しぶりだ。


それも悪くない、そう思うと自然と笑みがこぼれた。



美味しい朝ごはんを食べたからなのか。

それとも、いってらっしゃいって言われたからなのか。


いつもより仕事が捗っている。


今晩何食べようかな。


いつもは家のことなんておろそかにしているのに、れもんが来てから少し食事にも気を配ろうと思うようになった。



18時。すべてのタスクをこなした。


ガチャ


家のドアを開ける。


「ただいまー!」

ただいま、自分で言っておいて、笑ってしまった。


これもれもんが来て変わったことの一つだ。


「あ、おかえりなさい、とわさん。ご飯できていますよ?」


「あ、ほんと?ありがとう、お腹すいてたんだよね」


食卓には、ご飯、サバの塩焼き、肉じゃが、などが並んでいる。


自分では到底作れそうにない一品ばかりだった。


「ありがとう、れもん。それじゃ、食べようか。」


「はい、いただきます。」



食べていて改めて感じた。

誰かと食卓を囲むってこんなに温かいんだ。





時が流れるのは意外とすぐだ。


れもんがうちにやってきて今日で1ヶ月になる。


今日くらいは早く帰ってあげたい。


そうだ、お祝いのケーキを買って帰ろう。



近くのケーキ屋さんで、ショートケーキとチョコレートケーキを買った。

れもんはどっちが好みだろう。


ガチャ


家のドアを開ける。


そこで俺は違和感を覚えた。


電気がついていない。

もっと言えば、靴もない。


部屋中を見て回ったが、れもんはいなかった。


「心配だな。でも、どこかでかけてるんだろう。すぐに帰ってくるさ。」


そう呟いた。


10時半を回った。


まだ帰ってこない。




0時になろうとしている。


いくらなんでも遅すぎる。


連絡先交換してないから、やり取りもできない。




結局れもんは帰ってこなかった。




れもんがいなくなって、5日ほど経った。


また今までの日々に戻っただけ。


それなのに俺の心にはぽっかりと穴が空いてしまった。


それだけれもんの存在が大きかったんだと実感した。


今日も残業をして会社を出る。


いつも通りの帰り道。


海のそばの道路をゆっくりと歩く。



その刹那、ふと懐かしいれもんの香りがした。


俺が使ってるシャンプーと同じやつ。


れもんが来た日、部屋を満たしたあの香り。



その香りに吸い寄せられるかのように、俺は走る。


何故走っているのかは自分でもよくわからない。

でも無我夢中で走った。

靴が脱げても走った。


やがて、フェンスに手をつき、海を眺める「君」を見つけた。


「れもん、だよな…?」


何も返事はない。

勝手にいなくなって、今も呼んでも返事しない。

だから、その身勝手さに対して大きな声で叫んでしまった。



「俺は、お前に会えて幸せだ!だから、答えてくれ!何故俺の前からいなくなったんだ!どうしてそんなところにいるんだ!」


何も言わない。


やがて、「君」は振り返り、笑みをこぼした。

しかし、すぐにまた海を見つめ、そして…





海へ飛び込んだ。




「お、おい!何を!?」


俺は慌ててフェンスから海を覗き込む。


しかし、俺は不思議と冷静だった。


俺が見た「それ」がすべてを物語っていた。



「ああ…、そうだったのか、そういうことなんだね…。」


そうさ、だって君は…。






人魚だったから。







れもんは海に消えていく前、何かを伝えようとしていた。

うまく聞き取れなかったけど、唯一聞き取れた単語がある。


「ベッドの下」

俺はれもんが消えていったのを見届けたあと、慌てて家に帰った。


ガチャ


家のドアを開ける。


一目散にベッドの下へ。


そこには一通の封筒が置いてあった。



俺は何も言わずにただその手紙を握りしめ、一心不乱に読んだ。


「白石とわ様


あの日見ず知らずの私を助けていただき感謝しています。そして、勝手に居なくなってごめんなさい。これを読んでる頃にはもう私はこの世界にいないでしょう。貴方と過ごし始めたあの日から、私は人の温もりや誰かと過ごすことの安心感を知りました。いつも貴方の帰りを楽しみに待っていました。


貴方も気になっていると思われる私が姿を消した理由について話します。


単刀直入に言うと私は貴方のことが好きになってしまったからです。実は私は人魚で海底の世界から来ました。信じられなければそれでもいいです。ただこのまま貴方に甘えて一緒に過ごしていると、この恋心が我慢できなくなると思いました。貴方は優しいからそんな私を受け入れてくれるのでしょうけれど、私は貴方が私という存在のために不自由や自己犠牲をして欲しくないんです。身勝手だと罵ってもらっても構いません。馬鹿野郎と貶していただいても構いません。ただ貴方を好きになってしまった私のせいなんです。


最後に一言だけ。


とわ様、貴方と過ごした日々は私にとって大切な宝物になりました。どうか私のことは早く忘れて自由に生きてください。さようなら、そしてお元気で。


                                れもんより」




――――――――――――――――――――――――――――――



手紙を持つ手が震える。


一発床を殴った。


なんだよ…なんなんだよ…!

なんでそんなこと言うんだ…!

俺のためって言うんならそばにいてくれよ…!


俺だってれもんと過ごす日々は宝物だと思ってるし、何より!!


俺もれもんのことが好きだったのに…。



身勝手だ、馬鹿野郎だよ、れもん…。


雫が溢れて止まらない。

れもんと過ごした日々が思い出される。



そうだよ…。俺はな、れもんがいて苦痛や不自由に思ったことなんて一度もなかったんだよ…!それはお前が人魚だろうと変わらないんだ…!



本当に大馬鹿野郎だ、れもん…。



俺の心に空いた大きな穴は、れもんじゃないと満たせないのに…。


れもんはもういない。


れもんの香りがかすかに残っているこの部屋に、俺の咽び泣く声が響く。



ああ、れもん…!

忘れられるわけないじゃないか…。






俺は君なしでどうしたらいいんだい…?






何も返事はない…。


今日も夜が更けていく。

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