開く角道、続く友情
ペンギン内閣
本編
私は一人、棋譜を並べていた。私しかいないこの将棋部の教室に、夕日が差し込み、光と影の違いがくっきりと浮かび上がっていた。私の高校は地方都市的な田舎にある。最低限の利便性はあるが、どんよりと衰退していく閉鎖的な社会であり、この地の若者たちは東京へ憧れを抱いていた。
将棋部員は三人だ。二年生の私と、幽霊部員の男子二人だ。私のほうから、部活動に来るように言うことはない。むしろ、この誰も来ない部室を私は気に入っていた。私だけが、この部室を自由に使え、誰からも監視されず、縛られず、注意されない。この部室では、どれだけ伸びをしていても、あるいははしたなくしても良いのだ。学校という社会では役割があって、普段大人しい生徒が突然雄弁に話し出してはいけないし、あるいは王者として居座る生徒たちがクラス全体で何かをやろうとする時、それを止めてはいけない。
ノックが響いた。私は最初、顧問の宇山先生かと思った。宇山先生は時々、この部室にやってきて私と対局をする、定年直前の先生だ。
しかし、ノックの音は快活で高いものだったため、私は違和感を覚えた。宇山先生は今にも死にそうな蝉のような音を立てる。控えめに小さく、ゆっくりとした間隔で鳴らす。私は自身の空間に表れた突然の訪問者に、警戒心を持ちながら、近づき、ドアを開けた。
一人の女子生徒が立っていた。リボンで一年生だと理解できた。しかし彼女は、眼鏡をかけた私と違い、眼鏡をかけずそれどころか目が大きく見える。彼女の顔を見ると、薄っすらとバレないように化粧をしていた。女性が注意深く見ればわかるが、男性教師などは気が付かないだろう。無論、校則違反ではあるが、あからさまでなければ何も言われない。また、制服も若干着崩していた。前髪は目の上までの長さで横には長い二本、耳を出したショートヘアだ。
雑に整えて切った重いボブカットの私は、突然現れたこの軽快そうな女性に対して、不快感を隠せなかった。
「何か用事?」
「入部したいんですけど」
「うん?」
この目の前の女性は、陽気で落ち着きがないだろう。長時間大人しく座れる人間には見えなかった。将棋という静かな儀式を、彼女は不快に感じるだろう。目の前の駒を考えながら眺め、たった数センチを動かすのに、数分を費やす彼女の姿を私は想像できなかった。
しかし、私は部長であり、公平にルールを守らなければならない。彼女が”らしくない”からという、曖昧かつ不明瞭な理由で追い返すのは、いささか私の信条に反していた。
「入部届は?それを宇山先生からもらって、提出する必要があるけど」
「これです」
彼女は、クリアファイルから取り出した紙を私に手渡した。字は綺麗で、直線的であった。筆圧は弱く、線は細めだった。私は書類に不備がないか、卑劣な罪人を追求する裁定者のようにくまなく、悪意を持って探したが、見つけることはできなかった。
名前は『
「確かに、入部届は間違っていない。けれど、本当にここでいいの?」
「はい。そうですよ」
「そう。将棋が好きなの?」
私は、そんなわけがないだろうと含意を持たせた。
「お父さんに昔教えてもらいました。駒の動かし方と棒銀ならわかります」
私は半信半疑だった。お父さんに教えてもらった程度で、このクラスの中心人物になれそうな彼女が、一人しかいない不吉な部活へ入るだろうか。仮にそこまで将棋を愛しているならば、さぞかし強いに違いない。
「分かった。入部を受理します」
「ありがとうございます!」
富士田は、大きく聞き取りやすい声を出した。笑顔で、うれしげな声だった。その声を聴くと、私の自信なさげで籠った声が恥ずかしく感じて、不愉快だった。私は返事もせずに、振り向いて、彼女を案内した。
「一局、指す?」
私は、苛立ちをそのままに、机とその上にあるプラスチックの将棋盤を指さした。彼女は、突然の誘いに困惑し、戸惑ったように下を向いた。だが、私はたとえ彼女が断固拒否したとしても、対局をさせるつもりだった。彼女への不信感は、彼女と対局することによってしか解消できないと、私は考えていたからだ。信頼に値しない人間がこの将棋部に居座ることを、私は許容できなかった。
「はい」
彼女は私の方をまっすぐ見つめ、ゆっくりと緊張した面持ちで座った。私はそれを確認すると、着席した。
私が、箱から出した将棋の駒はパラパラと小さい音を立て、円状に広がった。私はそれらの駒から、真っ先に”玉”を選び、中央の指定位置に置いた。彼女は当惑したように見つめていたが、一番近い”歩”を取り、自分の手前の真ん中に並べた。私は、目の前の無作法な人間を軽蔑した。将棋には駒の並べ方の順番があるが、彼女はそれを知らないのだ。例え知らなくとも反則ではないけれど、よれたパジャマでデートに行くようなものだと、私は考えていた。
彼女の陣営の微妙に曲がっている情けない駒たちと、精鋭の特殊部隊のようにまっすぐ乱れず、古代ギリシアのスパルタを連想させる、私の駒たちを見比べて、悦に浸った。
「よろしくお願いします」
私が、しなければならない重要なことをすると、目の前の彼女も少し遅れて、私より小さい声で「よろしくお願いします」と言った。
振り駒の結果、私が先手になった。初手、7六歩。将棋には、”角”と”飛車”と呼ばれる大駒がある。この強力な二つの駒をどう活用するかは、勝敗に重大な影響を及ぼす。初期配置の状態では、角を動かすことはできない。これでは宝の持ち腐れだ。だからこの、初手7六歩は大駒の一つである角の移動範囲を相手陣地まで利かせる有力な一手だ。角道を開くのである。
富士田はもう一つの大駒である、飛車の先の歩を伸ばしてきた。私は自分の飛車を戦場へ移動させて、迎撃体制を取り、取られたら負けである自身の玉を囲いで守った。彼女は銀を前に出してきた。これは原始棒銀という戦法で、飛車のバックアップの下、歩と銀で相手の防衛網を突破するものである。
しかし、これを見越してわざわざ迎撃体制を作ったのだから、私は予想通りの展開になり、内心笑いがこらえられなかった。結局、富士田の原始棒銀は失敗し、私が勢いそのままに押し返した。最後は、守ってもいない無防備な彼女の”王”を詰ました。つまり、勝ったのである。
彼女は、小さい声で「あっ」と言うと、自分が敗北した事実に気が付いた。
「負けました」
彼女は、悔しそうではあるものの、声色は震えていなかった。私は、新入り相手に勝利し、小さな勝利の甘さを堪能したが、それは少しの間だけだった。すぐに勝負のための隔離された揺らぎ無い空間から、感情と人間関係で構成された複雑な現実空間へと引き戻された。
冷やかし的に訪れたであろう彼女へ、私は怒りを持った。私は形式的に、けれども極めて浅く、そして笑わず不愛想に頭を下げた。私は、彼女に対して何も言わず、将棋の駒を並べなおした。彼女は、「もう一度やるの?」と聞かなかったが、ちらりと私を見た表情が物語っていた。
学校という抑圧的な場所であるのに、その苦労を感じさせない自分らしい彼女を、ここにいさせてはいけないと私は確信した。私が、それを許せなかった。私はこの息苦しいどんよりとした社会で、ずっと身を潜めて圧迫感を感じ、受刑者のように将棋と共に過ごしてきたのに、彼女だけ伸び伸びと自分のしたい姿勢でいた。
二局目。私は迷いを捨てた。次の対局でも、彼女は原始棒銀を使ってきた。恐らく彼女はこれ以外知らないのだろう。意図が見え見えの指し手を、先回りして咎め、あなたの考えていることなど私は理解していると、盤上を通じて伝えた。それでも、彼女は自分の時間を使い、捕食者から懸命に逃げる草食動物のように苦しそうに、一本の糸道を探し続けた。私は、自身の積み重ねてきた経験を思い浮かべた。友達と遊んだり行事をやったりバカ騒ぎをしてきた彼女が、どれだけ考えようと無駄なのにと哀れんだ。
事実、彼女の努力は無駄になった。逆転はもちろん、一度も面白い変化を起こすことなく、私は勝利した。もう勝利の甘さを一切感じなくなった。一刻も早く終わらせたい、という気持ちのほうが強かった。だが、彼女は帰ろうとしなかった。むしろ、「もう一度やってやる」と言う顔をして、私を見ていた。まだ屈服していないと視線で訴えてきた。私は、どうせ負けるだけなのに無駄なことをなぜやるか理解できなかった。
三局目。私が先手だ。初手、7六歩。角道を開いた。私は、もう二回も完膚なきまで叩き潰したのに、まだ挑んでくる彼女を観察した。盤を近くから、食い入るように見ていた。手を椅子において、首を曲げたり、上を向いたりして正解を見つけようとしていた。そして、ある瞬間表情が変わり驚いた顔をしても、また難しい顔に戻って検討していた。
彼女は将棋という新しいスポーツに対して、ただ純粋に知的好奇心を向けているにすぎないと私は気が付いた。そして、見た目で判断したり、あるいは彼女に卑屈な願望や劣等感を抱いていた自分を恥じた。そして何より嫌がらせをしていた自分を恥じた。
私は、祖父と初めて指した対局を鮮明に思い出した。対局前に並ぶ駒たちは均等であり、秩序と調和にあふれていた。たった一手を指すたびに、私は新大陸を見つけるような大きな発見した気分になれた。私はその移り変わる全く新しい景色から、香辛料や銀や金を持ち帰った。それらは私の頭に、資本のように蓄積し、それらの財産は次の対局で生かされた。
「ごめんなさい、嫌がらせしてしまって」
私は声を出すのも、恥ずかしくなった。いたずらをして物を壊してしまった、小学生の気分になった。
「え?」
「私、あなたのことを追い返そうとしてた」
彼女は美味しいと思っていたお店が、世間一般では不味いものだと知った時のような、意外さと小さな悲壮感のある顔をした。
「一目見た時から、あなたのことが苦手で。私は、あなたのように軽やかではないから」
私は自身の髪を触った。私の髪は、カーテンのように私の耳や横顔を隠していた。それが私という醜いものを隠してくれていた。私の髪は、貧相な雪国のつららのように、薄く不愛想で愚直だった。富士田は耳や横顔を見せ、マシュマロのようなふわりとした厚い髪をしていた。
「いや、いいんですよ。私も対局たくさんできましたし」
彼女は、聖女のように、私の犯した罪の告白を受け入れた。そして、許した。彼女の許しの一言があったから、私と彼女との新しい関係性の構築を始められるのである。もしこれがなければ、地盤が脆弱な地に家を建てるようなことであり、そんなことはできなかっただろう。
「ありがとう、富士田さん」
「先輩、お名前は?」
「
「風子先輩。軽やかな名前じゃないですか。私もみなせで、いいですよ」
「みなせ…」
私は、初めて会った後輩の名前を復唱した。みなせは、それを微笑みながら聞いてくれた。それが私を安心させたし、彼女自身も私と知り合えたことを嬉しく思ってくれているんだと、気が付いた。そこで、また私が彼女の気持ちを勝手に妄想し、悪意を粘土のように作り、それでできた人工的な像を恐れていた私の愚かさに気が付いた。
「棒銀で攻撃するだけじゃなくて、王様を守りましょう。船囲いを覚えるといい。ちょっと待っていて」
私は、大切な娘を寝かしつけるような声で諭し、待つよう促した。私は本棚から将棋の入門書を取り出した。この間に、彼女の心が急変して私に愛想をつかし、いなくならないか不安でしょうがなかった。だから、できる限り笑顔を心掛けた。
「はい。あなたの将棋に、役立てるかも」
「ありがとうございます」
彼女は私から本を、恥ずかしそうに受け取った。私は彼女が恐る恐る本を開き、読みだすのを見守った。
そして、次の対局は、上手い人にハンデを与える駒落ちと呼ばれる手法で行い、私は悪意を排し、母親のように指導した。新しくできたこのかわいい後輩に対して、あらゆる愛情を注ごうと考えた。一つ一つを丁寧に説明し、分からないことが無いかと確認して、あれば彼女でも分かってもらえるよう、かみ砕いて話した。
「どうして、将棋部に?」
「元々、バスケ部だったんですけど、人間関係のイザコザで…。せっかくだから、自分のやってみたいことをやろうかなって」
私たちは、遅くまで過ごした。六時程になったあたりで、辺りは暗くなり始めた。顧問の宇山先生が来た時、私たちは時間という概念を思い出した。それほどまでに、私たちは共通するもの同士として、将棋を通じて自分をさらけ出しあえた。私たちは、再び会うことを誓い合い、私は後輩に対して「さようなら」と言った。
私は、その後の一週間の間、不安な日々を過ごした。私とみなせの関係は、私の一方的なものではないかと思い始めた。私が勝手に好意を抱き、距離を詰めてしまったのではないかと思った。それは時が経つほど、厚く降り積もった。でも、みなせは部室に来てくれた。その時に向けてくれた笑顔で、不安は吹き飛んだ。
このお人形よりもかわいく、私が導かなければならない迷子のことを、一日中考えた。彼女は、私の教えを素直に、けれども伸び伸びと自己に吸収し、みるみるうちに成長してくれた。彼女が入部した時は、私がハンデを持った対局でも何の驚きはなかったが、段々と興味深い手を指すようになった。勿論、酷い凡ミスも沢山した。
私が、授業中みなせのことを考える時、それは赤ちゃんのアルバムを見返す母親のように、優しい満足感と達成感に浸れた。私は廊下でみなせを見かけた。彼女は四人ほどの女子に囲まれ、談笑していた。周りの一人の女子は有名な動画配信者を持ち出すと、下品に、そして早口で、「何が面白いのかわかんない」と言った。その女子の発言をやんわりと注意したり、中身の無い表面をなぞるだけの不愉快な会話が行われた。しかし、みなせは笑っていた。私は、富士田 みなせという人物の一側面しか知らないことを突き付けられた。
その次の部活では、ともかく不機嫌そうな態度でみなせと接し、私よりみなせと仲が良い人間を呪い、死ぬことを祈った。私は最初、みなせを無視していたけれど、彼女の困った顔が愛らしく、罪悪感から素っ気ない態度で対応することにした。彼女は、そんな私でもいつも通りに接してくれた。
みなせは、部活の終わる頃に意外なことを口にした。
「日曜日、遊びに行きませんか?風子先輩」
私は驚き、持っていた将棋の駒を落としそうになった。私は小学校以来、と言っても小学校でもほとんど無かったが、同級生と遊んだことがなかったのだ。それも、こんなに洗練された女子と出かけられるのだから、私は誇らしくなった。私は、動揺しているのを悟られぬよう、厳かに承諾した。
部活の日は金曜日で、遊ぶ日は日曜日。そこで私は、明後日であることにようやく気が付いた。私は、Tシャツやジーパンしかないことを思い出して、激しく焦った。私が、芋っぽくだらしない格好で行けば、みなせに嫌われるのではないかと思った。もしくは、優しさから指摘せずに苦笑いされるかもしれない。そして、街の人から「あの子はかわいいけど、隣の人は可愛くないよね」と言われてしまうのだ。そうに違いない!と不安になった。私は、家に帰ると普段気にも止めないタンスの奥から、お洒落で無難で可愛く現代的な服を探した。
結局、良い服は見当たらなかった。一着だけ、小学生の頃のほんの一時期に着ていた水色のワンピースがあったけど、サイズが合わなかった。私は、それを地面に叩きつけ、捨てた。私は、みなせに「別の日にしないか」と提案しようと思った。チャットに何度も下書きをしたが、送れなかった。私は、お洒落な服を持っていないとみなせに自白できなった。それは恥だと思えたからだ。どんなメッセージに書き直しても、「私は、あなたのように着飾れない惨めな女です」と見えた。
土曜日になった。父親のところへ行って、友達と出かけるから服を買いたいとお金をねだった。今まで欲しいものなんてなかったから、お小遣い制度では無かった。父親は「今ある服でいいだろう」と面倒くさそうに言うから、「何にも分かっていない!」と怒鳴りつけた。父親が離婚された原因に、私は一歩近づけた気がした。
そのお金を握りしめ、服屋に行った。私は、慣れない小さい声で店員におすすめの服を聞いた。店員は、笑顔でいくつかの服を用意してくれた。私は、みなせに近づけるかなとワクワクしながら着たが、すぐにその期待は失われた。私が、そんな服を着ても滑稽に見えて仕方がなかった。店員は、「似合っている」と言ってくれたが、営業文句にしか聞こえなかった。私はみなせになれないことを知って、哀れな気分になった。私は店員に「すみません…すみません…」と言って服を返すと、お店から逃げ出した。そして、男子小学生みたいに走り、家に帰った。
みなせとの待ち合わせに、私は罪人のような気持ちで使い古したジーパンとよれたTシャツを着て、向かった。みなせは、私が警戒した程の大きな反応はしなかった。みなせは、腰の位置が異常に高い、薄い色のジーパンを履き、上は白のブラウスを着ていた。ブラウスは、まるでお姫様の寝間着みたいだった。私のジーパンはぶかぶかして腰が低かった。けれども、彼女のものは足を長く感じさせ、上品で大人っぽかった。
みなせが「行きましょうか」と言って、歩き出した。私はこの女慣れしたハンサムに、胸をときめかせて付いていった。みなせは何を思ったのか、「洋服が見たい」と言い出した。私は「似合わないから」と言って固辞したが、みなせは「そんなことないですよ」と繰り返して、結局根負けした。そのショッピングモールの店は、昨日行ったお店より大きかった。みなせは、あれよあれよと迅速に私の服を選び、「はい!」と笑顔で押し付けた。私は仕方なく試着をした。昨日のものよりも若干似合っていたけれど、結局私のようなドンくさいやつには相応しくないと感じた。私が試着室から出るなり、みなせは「可愛い!」って言ってくれた。私は最初、お世辞だと思っていたから真に受けなかった。でも、みなせが何度も言うから、私はこの服が似合っている気がしてきた。私は新しいお気に入りの服を買い、これからみなせと出かける時、この服を着ようと決めた。
それから私たちは部活以外でも、遊ぶようになった。彼女は私の後輩であったが、同時に私の友達になった。次第にみなせは、私に対して敬語とフランクな話し方を混ぜるようになった。私は、東京に行っても通用しそうな彼女の隣を、友人として歩いた。それが許されたのである。私は初めて望んで生まれてきた、この友情を感激し、心の中で何度も何度も讃美した。
退屈で孤独な一年生の頃とは打って変わり、私の日々は刺激に溢れていた。私は友達のことを知り、驚き、理解し、あるいは理解に苦しみ、喧嘩し、仲直りした。そして、部室で将棋を指した。
私は、数倍の速さで過ぎていくこの楽しい時間を堪能した。四月、みなせと出会ってから一年半ほど経ち、私は卒業生になった。名も知らない同級生の合間を縫い、あの子に会いに行った。
「ご卒業おめでとうございます。風子先輩」
「ありがとう」
待っていてくれたみなせと、私は高校生として最後の話をした。
「風子先輩が初めて会った時、私に嫌がらせしてしまったって言っていましたけど。私は好きでしたよ」
「好き?嫌がらせが?」
「いや、嫌がらせじゃなくて。勝負のために、手を抜かずに全力でやったことが」
私は、当時のあの頃のことを思い出して恥ずかしくなった。今になっても思い出す。目の前の後輩は、相手のことをよく見た上で、善意を持って接してくれる人なのに!私の良き友人になってくれる人なのに!私は自分の価値観を押し付け、被害妄想に囚われ、人を容姿で憎み排除しようとした当時の私を、みっともなく思った。少々おちょくってくる悪い癖は何とかしてほしいけれど、そこも含めて可愛い後輩なのだ。
「風子先輩は、これから浪人生?」
「ええ。どうしても、東京の大学に行きたいと思っているから。親が許してくれたのは、一浪までだけど」
みなせとの思い出を胸に、私は勉強に励んだ。予備校に行き、模試を受けた。けれど、私の成績は現役の頃をキープしてばかりで、一向に伸びなかった。私はやっていればいつか伸びるだろうと思っていた。予備校の頭の悪いクラスは、うるさくて嫌いだった。クリスマス直前に付き合った浪人生カップルに、私は唾をかけてやりたかった。
結局、第一志望は落ちた。滑り止めで受けた第五志望に、私は受かった。私はもう一浪したかったが、父親は許さなかった。それでも、東京の大学だから嬉しかった。私はみなせが前に教えてくれた、お化粧の動画を見た。そして、大学デビューしてやろうと思った。
いわゆる飲みサーに入った。 そこでは、都会的な男女が居酒屋に集まっていた。みんながお酒を頼む中、私はウーロン茶を頼み、笑われた。隣にいた金髪の男性が話しかけてきた。三年生の先輩だった。その先輩は私の容姿を執拗に褒めた。段々とお酒が入り、一体感と熱気が覆った。突然、隣の先輩が私の腰に手を回し、獲物を襲う獣の瞳で見てきた。
「私もそういうことをするんだ。大人になるんだ」という気持ちになって、私は目を閉じ身を任せようとした。けれど、どうしても受け入れられなかった。腰に回した先輩の手を、私は払いのけた。先輩は必死になって笑い、余裕を演じていた。メンバーの冷めた視線が辛く、二度と顔を出すことはなかった。このサークルの女性はみんな男性のイエスマンで、友達になりたいとは思えなかった。
すっかり怖くなってしまった私は、この大学の将棋サークルに入った。そこにはこじんまりとした男子五人がいた。突然現れた部外者に警戒されることはあっても、追い出されることはなかった。特に、一人の茶色いチェックのシャツを着た男子は、私を気に掛けてくれた。
私は、彼がいい人で嬉しかったけど、それ以上は思わなかった。いい人といっても、弱々しくて察しが悪く話も要領の得ないことを繰り返し、何をやるにも私の許可を求めた。私は彼を召使い以上の存在だとは思えず、ましてや私の事を強く守り、本当の意味で優しくしてくれる、逞しい男性だとは思えなかった。私は彼の気持ちを何となく気付いていて、彼が告白してくると思うと恐怖や吐き気に襲われた。私は、ひっそりとそのサークルをやめた。
私は、大学を行き来し授業を受け、できる限り話し声が聞こえない場所で学食を食べた。父親の仕送りでは東京の家賃も満足に払えないから、私は大手チェーンの飲食店でバイトを始めた。それから同じような日々を繰り返した。ある日、私は朝なのか夜なのか分からなくなった。身体が動かなくなり、一日中スマホを見るようになった。バイト先からの電話はすべて出ず、着信拒否に登録した。
絶対に帰りたくなかった地元に、戻ってきた。どうやって戻ってきたのか、あまり覚えてない。私が自主的に帰ったか、父親が連れ戻したのか。どちらも現実離れしていた。医者に心の病気だと診断され、薬を服用することになった。父親は酷く困惑し、私に働くよう催促した。
ある日、みなせからメッセージが届いた。家に来ないかと誘われた。私は、大学在学中もみなせに連絡を取らないようにしていた。なぜなら、第一志望に落ちた私はみなせと話す権利がないと思っていたからだ。今は、もうどうでも良くなっていた。
私はあの服を着た。ぼさぼさの髪をした私を、馬鹿にせず、優しい微笑で向かい入れてくれた。私は笑みを返す気力が無かった。みなせは、前に会った時以上に華やかで凛々しく成熟していた。
「指しますか?将棋」
私は、頷いた。あの頃の麗しい思い出は、忘れていなかった。もう一度、味わいたかった。でも、もう二度と味わえないんじゃないかって、不安でもあった。私が後手で対局が始まった。
最初の方は、集中できなかった。それが私の不安を増幅させた。けれど、みなせは毅然と集中し、一手一手丁寧に指した。私も彼女のことを真似していくと、次第にあの頃の気持ちに戻れた。それで、みなせとの思い出や将棋に対する情熱や進学という将来への期待を、私は一気に思い出した。
私は突然泣き出した。涙が止まらなくなった。栓が外れた水道のように、制御ができなかった。みなせは私に近寄ると、そっと背中をさすってくれた。私は泣き、涙がもう出なくなっても、声で泣いた。それからようやく落ち着き、そしたら喋れるようになった。私は、今のみなせの話を聞きたくなった。
みなせは、私を傷つけてしまうのを警戒して、話したがらなかった。でも、私が何度も催促するとようやく話し出した。みなせの大学や友達の話だ。みなせも東京の大学へ進学していた。今は、長期休みだから帰省していた。みなせ自身も話したかったのか、段々おしゃべりになった。
「そう言えば、私は今同棲してて」
「え?もう?まだ一年生でしょう?」
「そうなんですよ」
そこでツーショット写真を見せてくれた。加工されていて輝いていた。醜いものが全て取り払われ、美しいものだけが写っている。彼氏は一見するとデキるビジネスマンみたいだった。私が「社会人か」と聞くと、みなせは誇らしげに「K大学に通っていて、起業家なんだ」と教えてくれた。心の中で何か張り裂けそうなものがあったけれど、私は知らないふりをした。
私自身の話は一切しなかった。みなせは、そのことを非難したり、無理に聞き出そうとしなかった。夕方になって、夕日が部屋に差し込んだ。あの日の部室の中みたいに。
「もう一局、指す?」
「望むところです」
振り駒の結果、みなせが先手になった。初手はあの一手だった。
開く角道、続く友情。
開く角道、続く友情 ペンギン内閣 @penguincabinet
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