死と出会い
自分の部屋で一人、何回も動画を見返した。再生する度に、喉の奥がひりついた。その感触が気持ち悪くて何度も唾を飲み込んだ。
スマートフォンで撮った、しかも偶然映り込んでしまっただけの動画だから、手ぶれは酷いし画質も荒い。それでも、人が死ぬ瞬間が映っている。この世から一人消えた、その事実が余すことなくこびりついている。ぼくはその事実に、それを目の当たりにして記録してしまったことに戦慄せずにはいられなかった。
なぜだか分からないけど、ぼくは動画のことを誰にもいえなかった。
夢には見なかった。当たり前だった。ぼくはあの人のことを何も知らない。ニュースで見た名前――五十嵐秀美。遺書などは見つかっていない。自殺の線で間違いない。
それだけの情報しか持っていない人間のことが、夢に働きかけるのは無謀といってもよかった。それなのに、ぼくが自分の目で見たこと――彼女が死んだことは、恐ろしいほどぼくの頭を容易く占領した。
曇りだからあの時ほど暑くはない。雨が降りそうな空模様だからか、人もまばらだった。ぼくはビルを見つめた。
またここに来てしまった。あの女の人が死んだ日――ちょうど一週間前の、先週の土曜日。あれ以来、もうそのことしか考えられなくなっていた。
死を納めた動画を寝る前に食い入るように見て、そのたびに窺い知れない気味の悪い感情を抱え続ける。誰にも相談できない苦しみ。あらゆる感情が湧き出し、形になる前にぐちゃぐちゃになって消えてゆく。
こんなことをしてはいけないと分かっていた。こんな思いを抱いてはいけないと分かっていた。それでもこの動画を消すことは出来なかった。死に中毒している。何かがぼくの中で変わってしまった。実感のない実感――代わり映えしない日常を写真撮影で満たしていた日々は容易く瓦解した。この感情にどう整理をつければいいのかわからなかった。
別にぼくがどうしようと、何かが変わったわけじゃない。女の人を助けられたわけじゃない。それに、あんな高いビルから飛び降りるほど追いつめられていた人を、もしぼくがすぐそばにいたとして救えるとは思えないし、全くの他人を多少の会話で救えると思うこと自体、薄っぺらい思い上がりであることのように感じられた。
ぼくの前を人が通り過ぎていく。ぼくより年下の子供だったりサラリーマンだったり髪を染めたは派手な人だったり、様々だ。何も変わらず、人は日常を過ごしている。当たり前。
「きみ」
背筋がびくついた。振り返ると、黒いシャツを着た男の人が立っていた。一瞬別の人に話しかけているのかと思ったが、どう見ても僕の方を向いている。ぼくよりも年上――大学生くらいに見える。ぼくに大学生の知り合いは思い当たらなかった。
「え――あの、どうかしました?」
「前、ここで女の人が飛び降りたじゃん」
動画のこと――頭をよぎる。なんで?――疑問よりも焦りが膨らむ。
「それは知ってますけど……」
「きみさ、そのとき写真撮ってなかった?」
見ていた人がいたのだ。ぼくは言葉に詰まった。
「え、あ、いや……」
「映ってるの、死んだとこ?」
「画質粗いですけど、動画に映ってます」
「動画? 写真じゃなくて?」
男の顔つきが変わった――眉間に深い皺が刻まれる。
「ちょっとですけど、はい――いや、本当はトンビを捕ろうと思って、スマホ向けたら偶然、女の人が飛び降りるところが映り込んじゃったんです。ぼく、写真撮るの好きなんで……」
「じゃあ、撮ったのはわざとじゃなかったってこと?」
男は目を丸くした――表情がそれまでの険しいものから毒を抜かれたように変わる。
「はい――ごめんなさい」
「そりゃそうだ……写真ならともかく、動画だからな……ビルから人が飛び降りるなんて、事前に分かるわけない。超能力者でもないのに」
男は顎をなぞり、呟いた。それはほとんど独り言のような響きがあった。
「その動画、まだあるの?」
「一応あります」
「後で見せてもらえる?」
「全然大丈夫です」
「ありがとう」
男は微笑んだ。
「なんで、ぼくのこと知ってたんですか?」
男の態度の軟化を感じ、ぼくは焦り一色だった頭の中から、疑問を取り返すことが出来た。
「おれ、あの日姉さんを迎えに来てたんだよ。君と同じでこの商店街にいたんだ。だから、本当に偶然、きみのことを見たんだよ」
加えて男は飛び降りた女の人――五十嵐秀美が自分の姉であることを語った。ぼくは話を聞きながら、自分の呼吸を整えるために大きく息を吸い込んだ。心のどこかで、府に落ちている自分がいた。男とニュースの写真に写っていた秀美は、何となく雰囲気が近かったからだ。
「そうなんですか……」
「野次馬みたいなやつがいっぱいいたからね。きみがぼくに気づかなくても無理ないさ」
一息に喋った後で、男は口を閉じた。したがって、ぼくも何も言えなくなった。僅かな静寂が流れた。
「いつもと変わらなかった、なにも。なのに、あんなことが……」
絞り出すような呟き。口に出したと言うよりは漏れたという感じだった。自分の言葉の一つ一つに、男は絶望しているようだった。言葉を発することによって絶望を吐き出し、吸い込んでまた悲観する。ぼくの退廃的なそれと比べると、男の絶望は新鮮で、より深刻に思えた。当たり前だった。ぼくはこの人のように身内を無くしたわけではない。ずっと一人でいるだけ。自分が辛いのかすらもおぼろげに感じられた。
「ちょっと近くのスタバでも行こう。そこで話しようぜ。おれが奢るから」
男はぼくに背を向けて歩き出した。ぼくは覚束ない足取りで後を追うように歩いた。
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