気づかれない
あのあとぼくの名前を聞かれ、しばらく話してLINEを交換して帰った。晩ご飯はカレーだった。
ぼくはベッドで今日のことについて考え続けた。秀樹は完全に己の言葉にとりつかれていた。それは終末の予感を漂わせており、もしかしたら今までの日常を瓦解させてしまうような力を持っているかもしれないという懸念をぼくに抱かせた。
思いも寄らない方向に事態は向かっている。何だか怖い。やっぱり断ろうか――頭の中を言葉が浮かんでは通り過ぎる。別のことを考えようとすると、また同じように言葉が浮かぶ。堂々巡り。友達もいなくて、写真を撮ることでしか時間を潰せないぼく――時間は有り余っていた。何も考えず、これからも同じように暮らしていく。それが一番望ましいのか。ぼくには分からなかった。
ぼくは昨日のことを考えてみた。
金曜日――。六限目の後に一斉清掃があった。誰に言われるでもなく、ぼくはずっと教室の隅に溜まった埃をちりとりに集めていた。チャイムが鳴って清掃が終わり、ゴミ袋の所にちりとりを持って行った時、担当の井上に言われた。
――あ、おまえいたんだ。
たった一言。それ以上は何もなかった。それはクラスメイトとぼくの三日ぶりの会話だった。彼の言葉――侮蔑や嘲笑ではなかった。ただ、ぼくがひとりぼっちという事実だけがあるだけだった。井上は学級委員長だった。本人は投票結果に文句を垂れていたが、誰に対しても面倒見がよく、クラスの雰囲気をよく盛り上げている彼が委員長になるのは当然の成り行きだった。彼はふて腐れることもなく、きちんと委員長の仕事もやっていた。
別にぼくが、彼に対して何か思うことはなかった。彼とぼくではあまりにも見ることが出来る世界が違っていた。それでも、彼の言葉をぼくは忘れることが出来そうにない。
ぼくは階段を降りて、リビングに向かった。手足がぎこちなく動いた。ぼくはなぜか緊張していた。
父はテレビを眺めていた。母と妹は既に寝てしまったようだった。
「まだ起きてたのか」
「まあね」
言葉が途切れた。ぼくは唾を飲み込んで、口の中を湿らせる。
「今日も疲れた。どうせいいことなんかないし」
ぼくは口にする。あくまでも軽口というふうに。しかしこの発言は、口にするのに多大な緊張をもたらした。
「辛いのか?」
父がぼくの顔を覗き込む。
「そういうわけじゃないけど……とにかく退屈で、疲れる」
「珍しいな。陸久がそんなことを言うなんて。いつも楽しそうにしてるのに」
父は再びテレビに目線を戻した。ぼくは目を見開いて、そして伏せた。
「そうかな――そんなことないよ」
ぼくは言葉を絞り出すのにしばしの時間を要した。自分が戸惑っているのだと言うことに気づいた。
「それに退屈なだけましじゃないか。おとうさんなんかな、会社の上司がまた休んだせいで……」
父が会社の不満をつらつらと口にする。ぼくは下を向き、落ちていたボタンを指先でいじる。
「陸久はいつも好き勝手に遊びに行って写真を撮ってるし……陸久みたいにおとうさんも過ごしたいよ」
思い出したように父は告げた。ぼくは投げ出した足の指先が冷たくなっていくのを感じた。
「そうだね」
「社会人になったらメリハリをつけて、いろんなひとの――」
「ちょっとトイレ」
父の話を遮り、ぼくは洗面所へ向かった。いつものように顔を洗い、歯を磨く。眼鏡をかけ直し、鏡を見た。部屋の明かりは付いているというのに、ぼくは鏡の中にある自分の顔がよく見えなかった。
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