雨の国に涙の音

刀綱一實

第1話 雨の国に涙の音

 この国の港には、必ず傘売りがいる。


「噂は本当だったのか……」

「そんな国、伝説だと思ってたよ」


 口々に文句を言いながら船から下りる、無防備な客から金をいただくための、大事な手段だからだ。


 ここは雨の天候しかない島である。昔からしとしとと霧雨が降り注ぎ、太陽の光の恩恵を受けたことなど一度もない。外では大半の植物が根腐れを起こし、広がるのは荒涼たる灰色の岩場だ。


 しかしそれでも、人は住み、人はそこを訪れる。雨しかない島に暮らす人々は、地下に広がる広大な洞窟の中に町を作った。


 闇で満たされていた洞窟の中にも、光源となるものは存在した。特殊な苔である。それは酸素の少ない状態に置かれると一定時間光るため、密閉した容器に入れて人々はカンテラ代わりに使っていた。


 太陽の代わりとなる光を得たことで、洞窟内でも農耕が進む。外から買い付けた種の内、いくつかの植物がここの名産品として根付いていった。


 こうして、数千名程度なら自活できるほどの糧を得て、この島に小さな小さな国が誕生した。普段なら強国に飲みこまれてしまうはずなのだが、なぜかここは昔から緩衝地帯のように、どこにも攻め込まれず存在している。


 だから住民の気質ものんびりしていて、よく遊んだ。ここの遊びは、家の中でできるものがほとんどだ。外の世界では山に登ったり、海辺で遊んだりするのが流行っているらしいが、この雨の中でそんなことをしても楽しくない。


 壁に絵を描く。思索にふける。寄り合って話し合う。そんな遊びが根付き、ここを出てから文人、芸術家として大成した者も多い。


 私の友人のナントもその一人だった。


 私はある日、土産物を持ってナントの居室を訪ねた。ここでは洞窟の一区画がひと部屋と認識されていて、当然ながら広くて平らな区画ほど価値が高い。そんな中、ナントは誰も見向きもしない、突起だらけの区画に住んでいた。彼がここを選んだのには、理由がある。


 私が居室を訪れた時には、彼は壁際に腰掛け、天井をにらんで難しい顔をしていた。


「どうした」

「音がね……気に入らなくて」


 天井から垂れてくる水滴が、下の楽器に当たると特定の音を発するように配置された部屋。ここはナントの作曲室であり、時にはコンサートルームにもなる。だからまともな寝台すらなく、彼はいつも壁にへばりつくようにするか、観客用の座席に座るかして寝ていた。


 私は彼の才能を高く買っており、時々ここに彼の音楽を聴きに来ている。


 ……それに、聞きに来る理由は実は、もう一つある。


「やっぱり、いけないのかい」

「ダメだね。医者の見立てでは、もってあと三月だそうだ。昔から天才は夭折するというから、まあ覚悟はしていたが」


 ナントは飄々と言う。彼だって、平気なはずはないだろう。だが私は、彼のプライドを尊重し黙ってうなずいた。


「やっぱりもう少し穴を広げなきゃダメかな。排水が大変だから、本当はやりたくないんだけど」

「それなら私がやるよ」

「他人に任せるわけにはいかない。あいつも納得しないだろう」

「あいつ?」


 ナントは背伸びして作業をしながら、ぽつぽつと語り出した。昔、仲の良かった友人がいたが、彼女は島を出てしまった。なんでも父の仕事を継ぐために、遠いところへ修行に行かなければならなかったのだそうだ。


「……その修行はいつ終わるか分からないんだとさ。現に彼女は、あれから一度もこっちに帰ってきていない」


 ナントは数年前から、雨垂れを利用した発音装置を作り始めた。自分がもしいなくなった後でも、その友人が戻ってきて音楽を聴けるようにと。


「……間に合えばいいんだがな」


 額の汗をぬぐいながら、ナントがつぶやいた。その瞳の中に他の人間は一切おらず、ただその彼女だけをとらえているのだろう。天才の心をこうも揺さぶるたった一人のことがうらやましくて、私はわざと意地悪なことを聞いてみることにした。


「おい。その彼女、本当に友人だったんだろうな?」


 ナントは笑って答えなかった。




 その四月後、ナントは亡くなった。発見したのは私で、身寄りのいなかった彼のために簡素な式の手配もした。生前わずかな人としか交わらなかったナントだったが、彼の功績をしのんで沢山の人々が集まった。


 もしかしたらその中に、例の彼女がいるかもしれない。私はずっと群衆の中に目をこらしていたが、結局それらしい女性は一人も見かけなかった。


 私は長く息を吐く。友人というのは、ナントが心の中に作り上げた幻だったのだろうか? それとも、私をからかっていたのだろうか?


 真実は分からないまま、式が終わった。私は彼の部屋でわずかな遺品を整理しようと、夜の洞窟を歩く。手に持った小さなカンテラが、振動を受けてゆらゆらと揺れ、私の複雑な気分を映し出すように影が動く。


 なんの気なしに部屋に足を踏み入れて、私ははっと息をのんだ。何かの気配がする、と思った次の瞬間、カンテラが砕け散った音がした。


 光が消える。もともと暗かったナントの部屋の中が、全く見えなくなった。私は動くこともできず、ただひたすら目が暗闇に慣れるのを待つしかない。気配の主も動きかねているらしく、奇妙なにらみあいがしばらく続いた。


 その均衡を破ったのは、音楽だった。ナントの仕掛けた装置に、ぽつりぽつりと水滴が落ち始める。外の雨脚が強まってきたのだろう。そのリズムは速くなり、軽やかに踊っているような印象を与えた。


 暗闇の中にいた何かが動く。最初は音楽にあわせて踊っているのかと思ったが、私は全く足音がしないことに気付いてしまった。


「なんなんだ、お前は……」


 低くつぶやくと、動いていたものが光を帯びる。蛇によく似たその白い体には翼と小さな腕が生え、尾には長いショールのような七色に輝く鰭がついていた。私はこの生物を、伝承の中でしか知らない。


「竜……!」


 そうつぶやいた次の瞬間、私の意識は途絶えた。




 私が意識を取り戻したのは、次の日の朝になってからだった。いつまでたってもナントの葬式から帰らない私を心配し、家族が探しに来てくれたのだ。その時私は壁に背中をつけて倒れていて、他には誰もいなかったらしい。


 竜を見た、と私が言うと、だいたいの人は幻覚を見たのだと笑い、そうでない人は頭を打ったのではと心配してくれた。そんな中、町の最長老だけは、違う表情を見せていた。


「そりゃ、本物の竜を見たのさ」


 後日、回復した私をお茶に招いた長老はそう言った。彼は洞窟の最上部にひとりで住んでいて、部屋はこざっぱりとしていた。


「竜……?」

「お前は疑問に思ったことはないか? 大した軍備もない、人口も少ないこの国が、なぜどこの属国にもならず存在しているのか、と」


 かつてそう思ったことは、確かにあった。でも大人たちが、聖なる雨に守られているからとかなんとか、適当なことを言って誤魔化されて、そのまま忘れてしまったような気がする。


 それを聞くと、長老は楽しそうに笑った。


「そりゃあ大人はそう言うさ。見に行こう、なんて思う子供がいたら困るからな」

「見に……?」

「今日は時渡りの日だ。雲の間に、見えるかもしれん。そこの天窓を覗いてみろ」


 長老の部屋の天井がくり抜かれ、そこに硝子窓がはめこんであった。私が外に視線をやると、濃灰色の雲の中を、一直線に白い光が通っていく。それは、気絶する前にナントの部屋で見た光と同じだった。


「竜が、飛んでる……」

「この島は、巨大な竜に抱かれるようにして存在している。竜は水の化身、ひとたび怒れば海は荒れ狂い、空は豪雨を降らせる。いかな国も近づけないのは、そういうわけさ」


 まだ開いた口がふさがらない私を見て、長老がさらに言う。


「ま、余波として国中にも雨が降り続くということになったわけだが……どこかに侵略されるくらいなら、そのくらいは皆が我慢するさ。どうだ、分かったろう」

「そのことは分かりましたが……ナントの友人って、まさか」

「子供の竜だったんだろうな」


 竜は数百年に一度、卵を産む。それが孵ると幼体は数年をこの島で過ごし、後に海を越えて翼と体を育てに行く。成長した竜が親と役割を交代し、新しく島の守護者となる日を時渡りと言い、まさに今日がその日にあたるのだそうだ。


「……そうですか。会いに来たんですね、あの日」


 竜は聞いていた。ナントの最後の音楽を。そして、彼がもういないことを悟ったのだろう。そんなしんみりした空気の中に不意に現れた私は、邪魔者以外の何でもなかったのだ。


「良かったな、ナント」


 私はつぶやき、まだ雲の中に白く残る光を見た。




 雨垂れの国で、今日も雨が降る。巨大な竜が、雲を作って泣いている。

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