プライマリ・カラーズ

一式鍵

プライマリ・カラーズ

 人間とは何なのか。多くの学者たちがその問いを残し、主張を残し、結局の所答えには辿り着けぬまま、紙媒体と歴史の中に消えていった。私はそれらの遺物きろくを幾冊も紐解き、その謎を解き明かすことに成功した。私の内に積み上げられた情報が、一気に一つのこたえを組み上げたのだ。


「人間とは、自動的な要素の集合体だ」


 その結論に辿り着いた時、私は狂喜乱舞した。これであの胡散臭い学会の連中も私の功績を認めざるを得なくなるだろう。


「先生、コーヒーを」

「ああ、すまんね、赤澤くん」


 白衣の美女が持ってきたコーヒーに口を付けつつ、私は礼を言う。美女こと赤澤くんはホワイトボードをしげしげと眺め、「……要素の集合体?」と何度か繰り返した。しかし私は理解わかっている。赤澤くんは優秀な人材であるから、この書き殴られた私の結論を見ただけで、何かを悟るはずだ。


「要素というのは、我々を構成する地水火風の四大元素のことですか?」

「赤澤くん、きみはいったい何世紀に生きているのかね。私の言う要素エレメントというのは、RGBの光の三要素のことだよ。私の論文にも――」

「観測される物体が現象を生み出す、というあれですね。先生がずいぶん昔にお書きになった論文にありましたね」

「さすがは赤澤くんだ。あれは私の二十年前の仮説だったのだが、今、ようやく、それが正しかったのだと証明できた」

「つまり先生。要素、つまり、光の三原色が寄り集まった自動的なもの――というのが人間であると」

「そうだ、さすがは赤澤くんだな!」


 私はコーヒーを飲みつつ満足した。だが、赤澤くんは難しい表情を見せている。


「どうしたんだい、赤澤くん」

「先生、さっぱりわかりません」

「なんだと!?」


 コーヒーを吹き出しそうになるのを堪えたことにより、コーヒーが鼻の中を刺激した。あまりの激痛に涙が出てくる。


「わからんとはどういうことだ、赤澤くん」

神経系ニューロン身体組織構成要素バクテリア奴隷スレイヴだという説はもちろん存じております。我々が意志だと思っているものは、その全てが脳による欺瞞情報、あるいは事後報告であることももちろん存じております。しかし、光の三原色が私たちをどうこうするとは思えません。光の三原色の存在——それは原因ではなく結果にすぎないのでは」

「違うのだ。光の三原色こそが我々を定義しているのだ」


 私は一拍置いた。


「なぜならそれらがなければ我々は永遠に互いを認識できず、それはそれゆえに自己の認識もかなわないということだからな」

「でも、意識や身体は色に関係なく存在するのでは?」

「その身体が観測できんということになれば、同時に意識も存在しない」

「それだと目の見えない人は、光の三原色から外れた人ってなりません?」

「そもそもの形が規定されないのだから、目の見える見えないは問題ではない」

「そこは百歩譲って理解したとします。さっぱりわかりませんけど」


 赤澤くんは褐色の瞳を細め、白衣の胸ポケットに刺さっていた赤い眼鏡を装着した。


「ですが先生。光の三原色によって構成されたものが意識を宿すという考え方は少し違うように思うのですが」

「意識を宿すから光の三原色があるのだ」

「どういうことですか。主客転倒では?」

「違う。そもそもというものは結果なのだ。先ほどきみの言った『バクテリアによるニューロンの支配』というものとその辺は同じだ。人間とは自動的な要素の集合体だ——ここホワイトボードにそう書いてある。光の三原色が組み合わさったことにより意識が生まれ、意識があるからこそ光の三原色の認識ができる。そして生まれる。たとえその意識の源泉がその何百億年前に創発させられていたとしてもな」


 私はコーヒーカップを散らかった机上に置き、ソファに腰を下ろした赤澤くんに向き直った。


「旧約聖書の最初に何とある?」

「光あれ、でしょう?」

「そうそう、それだ。その頃から人は気付いていたのさ。光の三原色の集まりこそが世界であって、人によってそれが定義されるのだという事をね」

「……それで先生。先生はそれをどのように証明されるのですか?」

「それを語るには余白が足りない」

「フェルマーの最終定理じゃないんですから」

「私のは、人間の全てを表現する、いわば神の論理だぞ。そう簡単に証明できてたまるものか」

「ならば先生は私をどのような要素エレメントだと定義するのですか?」

 

 私は即答したが、赤澤くんは微妙な顔をした。


「ええ、ですから、その要素エレメントは」

「それも数式で表現できるだろう。RGB光の三原色を組み込んだ数式でな」

「色が要素に作用するという主張には、未だ納得できないんですけど」

「そのようなことはない。色は人間の心理に作用する。客観的観測でそうなるのであるから、主観的な——つまり自分と他人の色が、行動に左右しないはずがないだろう?」

「私たちの行動や行為といったもの……いわば包括的な文化人類学的なものもまた、光の三原色だけで証明できるということになるんですか、それだと」

「その通りだ。我々を支配しているのは言語的な文脈コンテクストだという主張もあるが、そうではない——それだけでは不完全だ。それ以前に言語的文脈を生み出すものがある。それが、色の三原色なのだ」

「では、の意味は?」


 赤澤くんは話題を次の段階へと移した。


「我々は未だ神に支配されている」

「か、神ですか」

「そうだ。いわばにだ」

「つまり、色彩的な文脈コンテクストによって、人間は行動を規定されていると」

「その通りだ、赤澤くん」

「なら、ここが真っ暗闇になったらどうなります?」

「色彩がない状態になるな」


 この時点で私は赤澤くんの問いを理解した。赤澤くんは予想通りの問いを投げかけてくる。


「ということは、人間の自動的な行動というのは?」

「光の要素の介在によって、人間は自動的な行動をとるようになるわけだから、人間は行動を止めるだろう。真っ暗闇、ならね。そしてまた、人間の理性というのは非自動的な条件下でのみ作用する。光の内にある間は、その行動の全てが自動的の範疇の内で規定されることになる」

「じゃぁ、人間は光のロボットみたいなものじゃないですか」

「そうだ、光によって定義された労働力ロボットなのだ」


 その瞬間、部屋の電源が落ちた。どこかのバカがブレイカーを落としたのだろう。部屋は文字通り真っ暗闇になった。


「赤澤くん、無事かね」

「ええ。しかし真っ暗ですね、先生」

「であるからこそ、見えるものもあるのではないかね」

「なるほど、たしかに随意筋由来の一切の行動が起こせませんね」

「脳は。意識は。認識は」

「明るくならないと不安ですね」

「こんなに理性の働く空間であっても?」


 私は赤澤くんの言葉には懐疑的だ。これほど居心地の良い空間はない。なにしろ、自動的行動を一切のだから。


「先生はつまり、色という要素がない空間、つまり、何一つとしても認識できない空間であるからこそ、自我は他人の意識を認識し、その境界線ボーダーラインを明確にしようとする。その精神のはたらきこそが理性であって、神の労働力ロボットからの解放をもたらすと」

「そういうことになる」

「つまり、全人類が闇に閉ざされれば互いをより明確に認識するようになり、その過程で理性も発達すると?」

「人類を光から解放することが必要だ」

「なるほど」


 赤澤くんの声が響かずに消える。


「それは少し困りましたね」

「なにがだ、赤澤くん?」

「それ、私たちには少し不都合な真実なんです」

「え?」


 次の瞬間、パンパンという乾いた音とともにほとばしった光によって、私の理性は、消されてしまった。


 私の人生には、やはりいささか余白が足りなかったようだ。

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