第6話

「麻里、今日は家に帰った方がいいよ。」


「………ごめん、陽子。」


「ちゃんと休んで、落ち着くんだよ?」


「はい、すみません。」


陽子の手作り弁当を食べた瞬間、何かが崩壊したように涙が止まらなくなった私は、店長と陽子の判断で早退する事になった。


“あの野菜コロッケ、あれは子供の頃に食べた懐かしい味だ。お母さんが作った、優しくて温かい…”


自宅へ向かう道で、私は涙のワケが分かった。


私の大好物、野菜コロッケ。


それは、お母さんが作ってくれた優しい味。


両親を失い、それを食べる事はもう叶わないと思っていた。


それなのに、陽子が作ってくれた。


優しさと温かさも、しっかり再現されていた。


それを久方ぶりに口にし、私はたまらなくなって…


“ダメだ。思い出したら、また涙が…”


涙が溢れそうになった私は、ちょうど差し掛かっていた『ブランコ公園』に立ち寄った。


運のいい事に、誰もいない。


私はそそくさと公園に入り、普段は葉瀬さんが陣取っているベンチに腰を下ろした。


肩にかけていたカバンを下ろし、両手で顔を覆ってむせび泣いた。


店の裏で泣いた時のように、涙は止まらなかった。


いつからだろう?


心に亀裂が入り、悲鳴を上げ始めたのは?


痛みさえ、感じるようになった。


その原因は…


「今日は、早退したんだってね。」


「!?」


前から声が聞こえた。


葉瀬さんの声じゃない、聞き覚えのある声だ。


「こんばんわ。」


顔を上げれば、そこには葉瀬さんのホームレス仲間である若い男、タクさんが立っていた。


葉瀬さんとは仲がいいらしく、よく『たくみマート』を利用する常連客だ。


私はこの男が苦手だ。


レジで接客したり、商品の事を聞かれた時、いつも全てを見透かしているような目をしているからだ。


その目を見たくなくて、私は彼と目を合わせないで接客していた。


その彼と、ここで、それもこんな状況で会ってしまうなんて…


「……な、何ですか?」


手元を見れば、タクさんは『たくみマート』のビニール袋を持っていた。


買い物をして帰って来たのだろう。


帰って来るのはいいが、他に行ってほしかった。


「タクさんには、関係ありません!」


泣き顔を見られた事もそうだが、この状況で声をかけられた事に怒りを感じ、私は強い口調で言い放った。


タクさんに、この場から去ってほしくて…


今だけは放っておいてほしくて…


「そうかなぁ?」


私の答えに、タクさんは飄々とした言い方で返した。


何が言いたいのか、私にはさっぱり分からない。


空気を察して、この場を去らない理由も…


それ以前に、タクさんは謎に満ちていて、存在そのものが私には恐ろしかった。


葉瀬さんは、なぜこんな人と仲良くしているんだろう?


こんな不気味な人と…


「葉瀬さんがね、麻里ちゃんを色々あってかわいそうな子って言ってた。」


「え?」


それは、葉瀬さんがタクさんに、私の話をしたって事?


私と話した事を、寄りによってこのタクさんに?


「両親を幼い頃に亡くして、二人に置いて行かれたって、拗ねて生きてるって。そんな麻里ちゃんが、心配でたまらないって。」


「そ、それは…」


言葉に詰まる私の隣に、タクさんが静かに腰を下ろした。


そして、私を強い眼差しで見据えた。


隣を見た瞬間、タクさんとバッチリ目が合った。


力強い、でも優しい目。


抑えていたものが溢れ出しそうになる。


「……な、何が、」


だが、その眼差しを見ても私は、まだ崩壊した心をごまかそうとした。


「何が言いたいのよ! アンタなんかに、私の何が分かるのよ! 何も… 何も分かるワケがないのよっ!!」


私はタクさんに、声を張り上げて怒鳴った。


「俺には分かるんだよ。寂しい気持ちとか、拗ねてる気持ちとか、グッと押し殺してる人の姿って。」


タクさんの強く優しい眼差しから、目が離せなくなった。


何かの魔力に引き寄せられたかのように…


「今まで、誰にも言えなかったんでしょ? 弱音を吐かない事で、強くいようとしたんでしょ?」


「そ、それは……」


「弱音を吐かないのは、強い事じゃないよ?」


溢れた涙が頬を伝い、ズボンを濡らす。


カバンからハンカチを取り出し、目元をソッと拭った。


しかし、それでも涙は止まらなかった。


「麻里ちゃんの心は崩壊してる。これ以上溜め込んだらダメだ。今が吐き出す時だよ。」


頭にタクさんの大きな手が乗せられた。


その手は温かかった。


そんなタクさんの手が、私の心を決めた。


「わ、私……」


「うん。」


「五歳の時に、両親を事故で亡くしたから、ずっと二人に置いて行かれたって思って… だって、突然いなくなるから… それで、親戚の家に預けられた。けど、居場所なんかなくて、いつも一人ぼっちで… 学生時代は友達なんて一人もいなくて… ただ、普通に暮らせればいいやって思って、親戚の家を出て一人暮らしを始めたの… 目標も生き甲斐も、そんなの何もなくて… それで働き始めたのが『たくみマート』で… 誰とも関わらずに、ただ黙々と働こうと思っていたのに……… 店長と陽子が、あの親子がお節介を焼いて、すごく優しくしてくれて…」


堰(せき)を切ったように、言葉が次々と出て来る。


そして、私の脳裏には、店長と陽子の優しい微笑みが浮かんでいた。


それが更に私の涙腺を刺激し、止めどなく涙が溢れる。


「そうしたら今度は、葉瀬さんが現れた… お父さんみたいに、私を気にかけてくれて… こんな、仲良くなったタイミングで、父の日ってカレンダーには書いてあるし… 正直、変になりそうだよ… 父の日なんて、私には全く関係ないのに… 私は両親に置いて行かれて、父の日とか関係ない人間なのに… 葉瀬さんを前にすると、何が喜ぶかなって考えちゃって…… もう、どうしていいか分からないの!!」


ハンカチを広げると、私は顔全体を覆って涙を拭った。


思いを吐き出すだけ吐き出すと、嗚咽が止まらなくなった。


震える私の背中に、タクさんの手が添えられた。


「置いてかれたワケじゃないよ。」


背中を優しく撫でながら、タクさんが言った。


「両親が麻里ちゃんをいらないって思ってたら、どんな手段を使ってでも手放したよ。施設に入れるとか、最悪の場合は殺すとか。だけど、両親は麻里ちゃんを大切にしていたんでしょ? 苛められた記憶がないのが、その証拠じゃないかな? そんな時に不慮の事故が起きた。だから、置いてかれたんじゃない。俺はそう思うよ。」


タクさんの言葉に、温かい何かが心を覆った。


思い出してみたら、両親には大切に育てられていた。


五歳までしか一緒にいなかったが、その中で苛められた事は一度もなかった。


いつも、二人は笑顔だった。


それなのに、どうして私は今まで拗ねていたんだろう?


“お父さん、お母さん…… ごめんなさい!”


「それとさぁ、」


子供をあやすように、タクさんは私の背中を撫でながら続けた。


「『父の日』なんだけどさ、麻里ちゃんに関係ない日じゃないよ。」


「………えっ?」


安心する大きな手に撫でられながら、私はタクさんを見上げた。


父の日が、私に関係ある?


それって、どういう事?


意味が分からない…

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

父の日の奇跡 浅緑麻実八 @Asa-midori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ