第4話

 これは二重人格などではない。自分の中に居座っている明らかな別人の仕業なのだ。

 誰かにこの事実を伝え、しかるべき処置をしなければならない。

 目覚めた時、二奈は自宅のベッドにいた。辺りは薄暗く、空気は生ぬるい。二奈は周囲を観察するより先に国子へ電話を掛けた。

 電話は数コール後、ぶっつりと途切れる。

「国子、お願い電話に出て!」

 留守番電話にメッセージを吹き込み、二奈は姿見で自分を見る。全くの別人がそこに佇んでいるように思えた。


 喉の奥から突如として這いあがってきた嘔吐感に二奈はむせ返り、スマホを床に落とした。

 異物が喉を這いあがり、口元から涎がダラダラと垂れ落ちる。大きく咳き込むと、口の中からべちゃりと何かが吐き出された。

 髪の塊だった。真っ黒な髪。

 姿見に視線を戻すと、ライトブラウンに染め上げた自分の髪が目に入る。

「これは、誰の……髪なの……」

 口元からは、まだ数本真っ黒い髪の毛が垂れさがっている。それを手に取り引き抜こうとした二奈はハッと息をのんだ。

 口の中、喉の奥の闇に一瞬、何かが光ったのを見た。髪を手でつかんだまま、二奈はゆっくり口を開き、口の中を見つめた。

 目。丸く黒い二つの目玉が、ぎょろりと口の中から自分を見つめていた。

 二奈は絶叫して、髪の毛を口元から引き抜いた。床に抜け落ちた黒い髪の毛が吐瀉物と混じってぬらぬらと光る。

 途端に右手に痛みが走って、焼けるように熱くなった。自分の意思なく大きく開かれた拳は節足動物のようにもぞもぞと動いたかと思うと、洗面台の前に置いてあった歯磨き粉を掴んだ。

 チューブを絞りガラスに名一杯広げると、そこに文字を書き殴った。


『ムダ ムダ ムダ ム』


「やめてッ! 私の人生、私の体を返して!」


『ワタシとオマエのイシキはもうすぐカンゼンになる』


 二奈はまだ自由なままの手を口の中に突っ込んだ。途端に吐瀉物が洗面台一杯に広がる。逆流した胃液が喉の奥を焼く。

 何度も嘔吐を繰り返すうち、吐き出すものは無くなり最後は黄色い水だけが流れ始めた。

 徒労と動悸で呼吸を整えようとした時、自由だった片腕にも痛みが走った。


『できる 今までよりもセイカクにカラダをコントロール』


 意思を奪われた片腕が洗面を掴む。


『ミギアシ ヒダリアシ ハラ ムネ ノド』


 足元から順番にゆっくりと自分の体が自分ではなくなっていく。


『ムノウなオマエはエーエンにネムレ ネムレ』


 二奈は固く目を瞑り、恐怖で歯を喰いしばった。


「二奈?」

 その時、玄関の方から、声がした。

「国子!」

 二奈は叫ぶ。

 ガラス越しに洗面所に入ってきた国子と目が合う。

「二奈……? 何やってんのあんた……」

「国子、詳しく話してる時間がない。お願いだから、私の口の中にいる“何か”を引っ張り出してッ! 今すぐッ! お願いだか――」

 フッと視界が暗転した。水の中へ落下していくような感触。背中の後ろに嫌な浮遊感を感じる。暗い意識の底。二奈の目の前には黒い人影があった。

 どれだけ目を凝らしても、それが何かは分からなかった。ただ、それは自分とほとんど同じ背格好で同じ髪型をしている。

 それはゆっくりと自分の方へ迫ってくる。

 やめて、こないで――そう叫びたくとも、そのための口が今の自分にはなかった。

 影はスッと二奈に向かって手を伸ばした。






「二奈ッ! 二奈ッ!」

 耳朶の奥へ響く国子の声で二奈はゆっくりと目を開けた。彼女は洗面台へもたれ掛るようにして気絶していた。

 二奈は、口内に広がる焼けつくような胃液の感覚に大きくむせかえった。

「二奈、大丈夫……?」

 二奈はこくこくと頷く。

「あ、あれは……あれはどうなったの……?」

 国子は一度俯いた後、恐る恐る洗面台の中を指さして首を振った。


 血まみれの赤ん坊がそこにはいた。赤ん坊と言ってもその大きさは人の拳ほどしかない。細い腕はあったが足はなく、なめくじのように何かにへばりついて同化していたような形跡があった。

「これは……」

 赤ん坊がグルんと顔を向ける。その顔は、体とは不釣り合いなほど老け込んでおり、自分と瓜二つだった。

 それは口をパクパクと動かし

「きぃきぃ……」

 と力のない声を上げた。



一美かずみ。生まれたらそう名付けるつもりだったの」

 後日、二奈は母からそう聞いた。わずか数十グラムしかなかった一美の骨を二奈は国子と共に、実家の墓に納骨した。

「あのまま、姉さんに人生を預けてもよかったのかなって思うよ。姉さんと違って私キラキラしてないし」

「馬鹿言わないでよ。あんたがいなくなったら、誰とアニメの話すればいいの? キラキラしてようがしてまいが、私にはあんたが必要」

 二奈はふっと笑った。

「じゃ、このまま家で取り貯めてあったアニメでも見るかぁ」

 二奈は大きく伸びをした。

「いや、それより先に中島氏とちゃんとお話した方がいいんじゃない?」

「ちゃ、ちゃんと出来るかな?」

「さあ? まあ当たって砕けろでしょ」

 胸が詰まるような動機を抱えながら、二奈は再び歩き始めた。



おわり

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もう一人いる 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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