第3話

 二奈がそれからもう一つの人格に生活の多くを任せるようになったのはごく自然な流れだった。もう一つの人格はあまりにも軽やかに人生の階段を昇る力を持っていた。

 時折、意識を取り戻すとその力をまざまざ感じる。愛想もよく気立てもいい。どんくさい自分などと比べ物にならない程、要領もいいのだろう。

 見たことの無い仕事と上司からの賞賛。同僚たちからの羨望。

 隼人との関係も順調なスピードで進んでいるようだった。いつの間にか、2人は付き合っており、ラブホテルのベッドで意識を取り戻したこともあった。

 結婚式場のパンフレットを握りしめていた時はさすがに狼狽しそうになったが、それもすぐに飲み込んだ。

 たとえ、自分の意識ではないとはいえ、それは自分の中に眠っているもう一人の自分。隼人の事だけではない。仕事も生活も全て所詮は自分の力なのだ。

 二奈はそうやって、忍び寄ってくる不快感を抑え込めた。

 

もう何度目かの永い眠りから目を覚ました二奈は、会社の廊下に立っていた。

 どのくらいの間自分は眠っていたのだろう。覚醒のスパンが長くなり、不規則になったことで二奈は日付や曜日の感覚を失っていた。必死に意識を手繰り寄せ、状況を飲み込もうとした二奈は空気が乾燥し、幾らか冷たくなっていることに気づいて、意識の底で眠っている間に季節が一つ巡ったことに気が付いた。

「でも、菊池さんやっぱりすごいです!」

 黄色い声が二奈を囲む。彼女の周りには若い女子社員が2,3名囲むように佇んでいた。

「今日のプレゼン。ほんっとうに最高でした! これであの企画が通ったら、ウチの流れをガラッと変える大改革になりますよ!」

「どうやったら、あんなに上手く人を引き付ける喋り方が出来るのか、私も教えて欲しいです」

 自覚のない賞賛に戸惑い、二奈は愛想笑いを見せる。無邪気な後輩の質問攻めから逃れるように遠くを見つめると、国子の姿が目に付いた。

「あっ、国子!」

 国子は声に気が付き、一瞬二奈の方を見たがすぐに視線を逸らしてその場から立ち去っていく。


「ちょっと国子!」

 二奈は慌てて国子を追いかけた。

「国子ってば!」

 振り返った国子の顔は嫌悪に満ちていた。二奈は咄嗟に掴んでいた腕を離す。

「なに?」

 国子がぶっきらぼうに言う。

「なにって、さっきから呼びかけてるじゃん……」

「なにか用?」

「……何その態度。友達に話しかけられるのがそんなに嫌?」

「友達? あんなこと言っておいて、よく友達とか言えるよね」

「えっ……?」

「もういいから。用がないなら話しかけないで」

「ちょっと待って国子、私なにか……」

 二奈は立ち去る国子を呆然と見つめた。


「国子に何をしたのッ!?」

 帰宅した二奈は姿見の前に立ち、自分自身に向かって叫んだ。

 瞳の奥、脳ミソのどこかに潜んでいる別の自分を一心に睨みつける。

 頭に痛みが走った。細い針を差し込まれたような鋭く、長い痛みだった。痛みは頭の頂点から、舌下に向かって一気に駆け抜けていく。

 右腕に向かって走った痛みは指先で弾け、腕全体を異様な熱さで包んだ。右腕はがくがくと痙攣し、自分の意思とは関係なく、机上にあった口紅をもぎ取った。

『私の人生に不要な人間を排除しただけ』

 右腕が、姿見に文字を書き殴る。

「これは私の人生。あなたの人生じゃない!」

『お前は私の全てを奪った。だから、私はお前から全てを奪い返す』

「な、なんのこ――」

 二奈の意識はそこで途絶えた。


 意識の再浮上にどれだけ時間がかかったのか分からない。

 頭に疼痛を抱えながら、意識を取り戻した二奈は辺りを見回す。彼女は、目の前に母がいることに気づいて驚いた。

「でもまあ、あんたもいい人に巡り合ったね。お父さんも隼人君のこと褒めてたわよ。最近じゃ珍しい好青年だって」

 母は微笑みながら、洗濯物を畳んでいる。

 すぐに自分は実家にいるのだと二奈は理解した。母の口ぶりから、隼人と結婚の挨拶に来たというところだろう。

「母さん、私、」

「そうだ、ちょっとこっち来て」

 話を続ける母に促されるがまま、二奈は二階の衣装箪笥の前へと連れていかれた。

「これ、分かる? あんたが赤ちゃんだった時の服。こんなちっさいの着てたのよ。大掃除した時に出てきてね。捨てるのもあれだし、あんたに見せてあげようと思って」

「母さん……これどうして……」

 二奈は並んだベビーウェアを見つめた。

「どうして……どうして、全部2セットずつあるの?」

 服も帽子も靴も、全部が2つずつ同じものが並んでいる。予備として買ったものではないことはすぐに分かった。証拠に、片方には全く使った形跡がない。帽子にはタグまでついていた。

「そうね。その話も、いつかしないといけないって思ってた」

 母親が幼児服を見て、ため息交じりに呟く。

「話……?」

「二奈、貴方には双子の姉がいた……いいえ、いるはずだったと言った方がいいかも」

「どういうこと……」

「あなた達は双子だったの。まだ私のおなかの中にいる時はね。でも。妊娠10週目を過ぎた辺りで、貴方のお姉さんは死んだの」

「どうして?」

「理由ははっきりとは分からない。栄養失調だとも、遺伝的要因だとも言われた。

 胎内で死亡した乳児はそのまま流産して、体外へ出される。でも、双子の場合、亡くなった赤ちゃんの遺体は子宮に吸収される。これをバニシングツインというそうよ」

「じゃあ、その子は……母さんに……」

 母親はため息を吐いて、首を振った。

「あなたの場合は少し違ってた。あなたのお姉ちゃんはね。あなたに吸収されたの」

 声が出せなかった。喉の奥に居心地の悪い何かがつっかえているような錯覚が走った。

「私は最初思ってた。あなたが、お姉ちゃんを奪ったんじゃないかって……でも、今なら違うって断言できる。あなたのお姉ちゃんは、死んだ後もずっとあなたと一緒に居たかったんだって。二奈の中で、ずっと生きていくんだって」

 呼吸が乱れた。焦点が少しずつぼやけて合わなくなってくる。

「二奈、お姉ちゃんの分も幸せになってよ」

 ぼやけた視界の中で、母がほほ笑んでいる。

「母さん、私の、私の中に――」

 瞬間、頭の奥に走った痛みと共に、二奈の意識は深く暗い場所へと沈んでいった。



つづく

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