昼想い、夜夢む君を

不香 天花

絶対に諦めません

「師匠、好きです!」

 返事はなかった。

 ゼットの一世一代の告白は、空気に溶けて消えた。

 師匠と呼ばれた女の視線は手元の本に注がれたままで、ゼットには目もくれない。

 彼女が時折ページをめくる音が、静かな部屋に小さく響いている。

(そういえばこの人、読書中は周りが見えなくなる人だった……)

 昔から彼女は、本を読み始めたら意識を遮断してしまう癖があった。ゼットが部屋を出入りしようが、真横から話しかけようが、読書中はまるで反応を示さなくなるのだ。

 現に今がそうだ。ゼットが、「聞いてます?」と話しかけているのにもかかわらず、返事どころか視線すら寄越さない。

 彼女の意識は完全に本の世界に没頭しているようだ。

(まあ、いつものことか)

 ゼットはため息をついて、彼女の向かい側の椅子に座る。それから、机に片肘をついて、彼女の横顔をぼんやりと眺めた。

「……綺麗だな」

 思わず、そんな言葉が口から漏れた。

 それほど、その女は美しかった。

 長いまつ毛に縁取られた瞳は切れ長で、唇は紅を差したように赤い。肌は透き通るように白く、背中の中ほどまで垂れている黒髪はカラスの濡れた羽のような艶やかさだ。

 ゼットは、彼女のことを何も知らない。年齢も、昔の話も――彼女の名前ですらも。

 魔女は真名を明かしてはならない。真名は魂と同義である。魔女が真名を明かすのは、心から愛する者にだけにするべし。

 それが、魔女である彼女から初めに教わった魔女の掟だ。

 魔女は、掟に従って友人にですら滅多に真名を明かさない。といっても、呼び名がないのは不便な面もある。だから魔女は便宜上の名前を決めている。

 ヴィー・フレーベル。それが彼女の呼び名だ。

 ちなみに、〝ゼット〟という名前もまた、魔女の掟に従った名前である。

 本を読み終えたヴィーが、パタンと本を閉じて顔を上げる。それからようやく、ヴィーはゼットに視線を向けた。

 ヴィーの赤い瞳が、ゼットを捉える。

「……何?」

 首を傾げながら、ヴィーが尋ねた。その拍子に、彼女の長い黒髪がさらりと揺れて、窓から差し込む陽の光を受けて艶やかに輝く。

 一気に上昇する脈拍。それを誤魔化すように咳払いをして、それから務めて平静を装った。

「師匠、好きです」

 二度目の告白も、答えは返ってこなかった。明らかに聞こえているはずなのだが、彼女は無言のままだ。

 ほんのわずかな沈黙のあと、ヴィーがぽつりと呟く。

「――アップルパイ」

「はい?」

「アップルパイを食べましょう」

 そう言って、ヴィーは椅子から立ち上がった。

 彼女の突拍子もない発言に、ゼットはぱちぱちと目を瞬かせる。

「私の古い友人がアップルパイを焼いて持ってきてくれたのよ。……といっても、そのアップルパイを焼いたのは彼女のお世話係なのだけれど。リンゴの酸味が効いていて、とても美味しかったの。あなたも食べるでしょう?」

 普段のヴィーは、口数の少ない人だ。無口というわけでもないのだが、基本的には必要最低限の会話しかしない物静かなタイプだった。

 そんな彼女が、今日はやけに饒舌に喋っている。

(……これはもしかして)

 ゼットの脳裏に一つの考えがよぎった。告白を聞き流してなかったことにしようとしているのだ、と。

 だが生憎、ゼットは諦めの悪い男である。

(相手が悪かったですね、師匠)

 台所に向かおうとしたヴィーの細い腕を掴んで、彼女を引き留めた。

「何?」

 はっきりとした声で、「聞こえていなかったようなのでもう一度言いますね」と前置きして、ゼットは口を開く。

「出会った時から、ずっと師匠のことが好――」

「その必要はないわ」

 ゼットの言葉を遮って、ヴィーはぴしゃりと言い放つ。

 するり、とゼットの手をほどいて台所へと向かうと、ゼットに背を向けたまま静かに口を開いた。

「ちゃんと聞こえていたから」

「聞こえていたんなら反応してくださいよ! 寂しいじゃないですか」

 不満そうに口を尖らせながら、ゼットが抗議する。

「呆れて言葉も出なかったのよ。あなたが馬鹿なことを言うものだから」

「あー、なるほど。そういう……ん? ?」

 ヴィーの返答に、ゼットが首を傾げる。

 二度も、とはどういう意味だろうか。

 ゼットの告白は二回だけだ。ヴィーの読書中の告白が一回目、彼女が読書を終えたあとの告白が二回目。三回目となる告白は彼女に遮られたのだから、カウントされていないはずだ。

(この人、まさか……)

 彼女の言葉の意味が、ゼットの中で次第に輪郭を現していく。

「もしかして、最初の告白も聞こえてたんですか?」

「もちろん。いくら読書中とはいえ、流石に聞こえるわよ」

「……それなのに聞こえないフリをして本を読んでいた、と?」

「そうね」

 あっさりと頷く彼女に、悪びれた様子は微塵もない。戸棚から紅茶の茶葉が入った缶をいくつか取り出して、「どれがいいかしら」と吟味しているのがその証拠だ。

「アールグレイ? ダージリン?」

「ダージリンで……って、また話を逸らそうとしましたよね!?」

 ゼットはたまらず叫んだ。

 ヴィーが淹れる紅茶は絶品だが、今は茶葉の種類などどうでもよかった。

「ダージリンね」

 ヴィーはダージリンの茶葉が入った缶を手に取って、ポットに茶葉を淹れる。それから、沸騰したお湯をポットに注いでから蓋をして蒸らし始めた。

 その間にゼットも立ち上がり、ヴィーのいる台所へと向かう。

 紅茶の準備を進めるヴィーの背中に抱きついて、ゼットは甘えるように彼女の肩に顔をうずめた。

「ちょっと、これじゃ身動き取れないわ」

 文句を言いながらも、ヴィーの手が優しくゼットの頭をぽんぽんと撫でる。その手つきはあまりにも優しくて、ゼットは胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。

(……本当にずるいな)

 ヴィーは、ゼットがこうして甘えるといつも許してくれた。口では厳しい言葉を投げかけるくせに、決して突き放したりはしない。

 彼女のそういうところが、たまらなく好きだった。

 ゼットはヴィーの肩から顔を上げて彼女を振り向かせる。

 彼女の赤い瞳に映る自分の顔が、まるで捨てられた子犬のように情けなく見えて、ゼットは心の中で苦笑する。

「返事が聞きたいです」

 直接聞かなくとも、彼女の答えは分かっている。それでも、ゼットは彼女の口からその答えを聞きたかった。

 ヴィーはゼットの瞳をしばらくじっと見つめていたが、やがて観念したように小さく溜息をつく。

 それから彼女は、そっと目を伏せて口を開いた。

「悪いことは言わないわ。私のことは諦めなさい」

 彼女の答えは予想通りだった。

「……どうしてですか?」

「私が不老不死の魔女だからよ」

 不老不死の魔女である彼女は、もう何百年も生きてきた。その長い年月の間に、ヴィーは数えきれないほどの人間を見送ってきた。

 彼女が看取った人々は皆、口を揃えてこう言うのだ。

 同じ時間を歩みたかった――と。

 彼女が不老不死の魔女である限り、寿命を持つ者と同じ時間を歩むことはできない。ヴィーはそれを痛い程理解している。

 だから、ゼットには同じ時間を歩むことのできる相手と幸せになってほしかった。

 それが、寿命を持つ弟子を想う師匠のささやかな願いだった。

「理由はそれだけですか?」

 ゼットは、ヴィーの目をまっすぐに見つめて尋ねた。

 その瞳には迷いがなく、ヴィーは思わず言葉に詰まる。

「それだけじゃ諦める理由にならないですよ」

「そ、それだけって……!」

 不老不死の魔女である自分が、人間と同じ時間を歩むことのできない自分が、誰かと愛し合ったって幸せになれるはずがない。

 ヴィーはそう信じていたし、だからこそ彼の告白を聞き流そうとしていた。それなのに、彼は諦める理由にならないと言う。

(どうして……)

 同じように歳をとることが叶わない相手に、どうして未来を望むのか。

 ヴィーには、彼が何を考えているのかまるで理解できなかった。

「いつか絶対後悔する日が来るわ。だから私のことは諦めて」

「嫌です」

 あまりの即答ぶりに、ヴィーの口から間の抜けた声が漏れる。

「後悔なんてしません」

 そういうゼットの目は、本気だった。

「……あなた、馬鹿なの?」

「オレはずっと昔から馬鹿ですよ」

 何を今さら、とゼットは笑う。

「師匠が振り向いてくれるまで、口説き続けます」

 ゼットはヴィーの腰に手を回して、ぐいっと引き寄せる。突然のことに驚いたヴィーはバランスを崩してよろめいたが、ゼットにしっかりと抱き留められたおかげで倒れずに済んだ。

 見上げれば、今にも唇が触れそうな距離にゼットの顔がある。ヴィーは反射的に身を引こうと腕を突っ張るが、ゼットがそれを許さなかった。

 ヴィーの腰に回された腕に力が込められて、彼女はますます身動きが取れなくなる。

 離しなさい、とヴィーが抗議の声を上げるよりも先に、ゼットが口を開く。

「だから師匠、覚悟しておいてくださいね!」

 そう言って、ゼットは満面の笑みを浮かべる。

 その笑顔はまるで太陽のように眩しかった。

 それは彼と出会った日と同じ笑顔で――胸が少しだけ高鳴ったのを誤魔化すように、ヴィーはそっと目を閉じたのだった。

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