シー・ソー・シーン

夏迫杏

シー・ソー・シーン

 そのむかし、サンタクロースを一目見たくて、クリスマス・イヴがやってくるたびに掛け布団をあたままで被って寝たふりをした。敷き布団と掛け布団のあいだにすこしだけあけた隙間から真っ暗な子ども部屋を息苦しく見つめて、でも望んだことはなかなか起こらなくって、結局眠ってしまって、なにもわからないまま、そのくせ枕もとにはプレゼントがきちんと置かれている朝がくる。繰り返して、繰り返して、繰り返していたのに、小学校高学年にもなるとサンタクロースへの憧憬はもう薄くなり、はっきりと教えられたわけでもないのにいつの間にかサンタクロースの正体を知っていて、聖夜についての夢は積もらない雪よりも淡く滅びていった。

 そのことを、木陰に身を潜めながらなんとなくおもいだしていた。街灯のもと、仄明るい公園のベンチに座ってただ話しているだけだった男女の喋り声が止み、ついに向かいあう。

「わわわ」

 隣にいる瀬川がうんと小さいながら高揚しているのがわかる声を出す。塾から帰ろうと自転車を漕いでいたら、ひょこひょこと背伸びをしながら公園の様子を伺っている人影をみとめてゆっくりとブレーキをかけた。ローファー、黒っぽいハイソックス、プリーツスカート。じぶんの中学校の制服だと気づいたと同時に、スクールバッグについているフェルトのキーホルダーにAYAと記されているのが目に入って、学校でも塾でもクラスメイトの瀬川彩だとわかった。なにやってんだこいつ、とおもいつつさして話したことがなかったから声をかけるか迷っていると、不意に瀬川が振りむいた。瀬川は驚いた表情をしてから、しいっ、と口もとに人差し指をたてて公園のベンチのほうを示した。そうしていまに至る。

 男のほうが先に女のことを引き寄せてぎゅっと抱きしめた。それに応えるように女の腕が男の腰にまわされる。キス、するんだろうか。男女から視線をはずして瀬川のほうを見る。男女の動向に集中しているせいでおろそかに半開きになっている口から、ほわ、と白い息が漏れていて、それはそれでどきりと心臓が跳ねた。瀬川はふだん男子と関わるのを怖がっているような地味な女子グループにいるから物静かだという印象しかなくて、どういう人間なのかまるで知らない。でも、男女のこういうのを盗み見るようなことをするのは意外だなとおもう。ふたたびベンチのほうへ視線を戻すと男と女は抱きしめあったまま見つめあっていて、ほどなくして唇を重ねあった。一秒、二秒、三秒、長い、長いキス、まるでおたがいをたべるみたいな、欲求を満たそうとするような……ふと、男の片手が女の胸もとまで移動してきていることに気がついた。ぼ、と全身が燃えるように熱くなる。これは、これ以上は見たらまずい。いっぽうで瀬川はというと事の次第に気づいておらず男女にわくわくと視線を注ぎ続けていて、おれは咄嗟に背後から瀬川の顔に両の手のひらを被せた。

「うぇ!? ちょ、松木!?」

 いきなり視界を奪われても瀬川は大声を上げずひそひそとびっくりする。

「十八禁だからもう見んな」

「チューって十八禁?」

「んんんんん、と、とにかくもう帰ろう。さすがにそろそろばれるって」

「えー、そうかなあ」

 まだ納得のいっていなさそうな口振りだったけれど、瀬川を木陰から引きはがすことになんとか成功して、ふたりで一緒に帰路につくことになった。公園のほうはもう振り返らない。こっちの存在が男女に気づかれるのはおばけの類に襲われるよりも怖いことのような気がした。

 自転車を押して歩くと鳴る、ペダルだかチェーンだかのからからという音が夜寒に軽やかに響く。瀬川はたしか四丁目に住んでいて、二丁目に住んでいるじぶんよりも家が遠いはずだけれど、塾には歩いて来ているようだった。疲れないのだろうか。それもこんな夜中にひとり歩きだなんて。これまで気にもとめなかったことが急にいろいろと気になってくる。暗い夜は見えるものが少なくて、ゆいいつ見えるものに潜んでいる些細な謎が明るい時間よりもやたらと膨張していく。

 こほ、と瀬川が喉の調子を整えるための小さな咳払いをした。

「松木って、いっつもここ通ってるっけ?」

「通ってるよ」

「まじか」

 いつもなら鉢合わせることなんてないのに、と声の響きがそう言っていた。これの理由はなんとなく説明がつく。瀬川は授業が終わるとすぐに塾を出ていくのに対して、じぶんは雑談で授業が長引きがちな中級クラスのともだちを待っているから、帰る時間がすこしずれるのだ。この夜は中級クラスの授業もそこそこ早く終わったからおのずと帰る時間も早くなって、先に出てここで油を売っていた瀬川に追いつくことになったのだろう。

「てか、お前いっつもあんなん見てんの?」

 こっちも疑問を投げかけてみる。

「えっとねえ、なんか、告ってるとこ見たんだよね。三か月くらい前に。毎週木曜日に会ってるっぽい」

「で、覗きなんてやってんのか」

「だって気になるじゃん。見てるだけでどきどきできて楽しいし」

「そうか? おれ、あんなん見ていいのかってはらはらしたんだけど」

「ははは、松木ってけっこうピュア?」

「は? ピュアじゃねえし」

 あれ、ピュアじゃないってことはエロいってことになるんじゃ。否定してしまってから気がついて顔が火照った。間違ってはいないけれど女子にむきになって主張するようなことではない。

「あー、いいなあ」

 瀬川はとくに気にすることなく、すこし愚痴っぽい口調で会話を押し進める。

「わたしもああいう恋愛したいなあ」

「そんなの、すりゃいいじゃん」

「もう、恋愛はしたくてするもんじゃないんだよ。せざるを得なくなってそうなるもんなの」

「えええ、それどう違うんだよ?」

「松木も大人になったらわかるよ」

「へえ……?」

 上手い返しがおもいつかなくて会話はぼんやりと途切れ、どっちも次の話題を出さないでいるうちにじぶんの家に到着した。瀬川を家まで送るという案はあたまになくて、玄関先でバイバイと言って別れた。おもいきり暖かいリビングで遅い夕飯をたべて、お風呂に入って、ひとり部屋のベッドに潜ってから、もしかしたらなにか特別なことが起きていたんじゃないかなんてすこしだけ浮かれたけれど、あの冬の夜以来瀬川と話すことはなく、受験した高校も違ったから、それきりだ。

 でも、瀬川があんなことを言ったからおれははやく大人になりたいとおもっているのだと、大勢のひとびとが行き交う街中で男女が熱いキスを交わしている写真におもわず息を呑んだ瞬間に気がついた。キャプションによるとこの写真は「パリ市庁舎前のキス」というタイトルらしい。朝花に写真展に行こうと誘われるまでロベール・ドアノーという写真家の名前すら知らなかったけれど、これがこの写真家の傑作のうちのひとつだということは一目見ただけでわかる。だって、このふたりのキスは虚像を超えて、ぜったいに紛いものじゃない。

 高校にいるときとは違ってうっすらと化粧をしている朝花は目の前の写真を食い入るように見つめて、唇をぎゅっと結び、たぶん前にすきだったひとのことを考えている。交わしたことばとか、触れあったときの温度とか、もう二度とやってこない未来とか、うっかりと日常を健康に過ごしてしまえば忘れてしまうようなことを何度もおもいだしているのだろう。ポケットから手を出して朝花の手に伸ばしてみる。すると手は握り返されて、朝花とおれは手を繋いだ。朝花のこころは樹洞に似ている。おれが棲みつこうとすることは拒まないけれど、朽ちた穴が元通りに満ち足りることはない。

 こういうときだけはまだ大人じゃなくてよかったなんてずるいことをおもうのだ。これがおたがいにせざるを得なくなるような運命の恋じゃないとわかっていても、一緒にいることができるから。

 美術館を出ると、行きしなに降っていた霙が溶けだしたような重たい雨が止んでいた。凍てついて質量のある空気に草木の濡れた蒼いにおいが混じって鼻腔を清潔にする。

「これからどうする?」

「あ、じゃあスタバ行きたい。新作まだ飲んでないんだよね」

「おっけー。場所調べるわ」

 スマートフォンを取り出して、地図アプリにスタバと入力して検索をかける。すると美術館から歩いて十分くらいのところにピンが立ち、そこにスターバックスがあるらしかった。

「うん、行こう」

 こっち、とスターバックスがある方向を示して朝花と並んで歩きだす。なにか温かいものが飲みたいとおもった。ホットココアとかホットチョコレートとか、とにかく甘くて美味しいのがいい。

 コーヒーが飲めるようになったらおれはきょうという日をおもいだして、またなにかを理解するのだろう。

 すぐ隣まで春がやってきているなんて信じられないくらいに冷たい風が、朝花とおれのあいだを吹き抜けた。

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