ゲージが振り切れました
石田空
第1話
それの存在に気がついたのは、私の通勤時間のときだった。
電車の中で、サラリーマンと肩がぶつかったのだ。
「ごめんなさい!」
私が謝ると、サラリーマンは舌打ちをした。
ムカッとしてそのサラリーマンを睨んだとき、頭の上にバーが見えることに気がついた。思わず目をこすってもう一度見てみるけれど、そこにはちょうどアクションゲームをしているときに見えるゲージみたいなものがついているのだ。
これが本当にアクションゲームだったら、その上に見えるのがヒットポイント、生命力だ。これが0になったら当然そのキャラは死亡するんだけれど、そのサラリーマンのゲージはまだ左のほうにチョンッとバーが青くなっているだけで、ゲージはちっとも満タンになってはいないみたいだ。
なんだろう、このゲージは。
私は首を傾げていて、周りを見ていて気がついた。
ゲージが見えるのはこのサラリーマンだけで、他の人には見えないのだ。
ちょうど座っているサラリーマンやお年寄りにも、手すりに捕まっているお母さんにも、そのお母さんの腕の中で眠っている赤ちゃんにも、ゲージは浮かんで見えない。
なんでなんだろう。
最近むしゃくしゃしてゲームをやり過ぎたのかなと、ブラウザゲームのことを思い出しながら、私はしきりに首を捻っていた。
****
昼休み、社内昼食を取ろうと食堂に行って、しまったと思う。
同じ部署のパートタイマーのおばさんたちの陣取っている席しか空いている席がなかったのだ。本当だったら外で食べたいところだけれど、今が給料日前で財布の中身が心許ない。だから社内食堂で安価のランチを頼もうと思っていたのだけれど。
こんなことなら、今日はコンビニの菓子パンで我慢すればよかったと後悔する。
そのおばさんたちの頭の上にもゲージが見える。
電車の中で出会ったサラリーマンのゲージはちょんと左端に寄った青いものだったけれど、おばさんたちのゲージは黄色く真ん中まで進んでいる。
仕方がない、さっさと食べて席を立とう。そう思っていたけれど、目ざとくおばさんたちが声をかけてきた。
「あら、ここの席空いてるわよ。座ったらどーう?」
おばさんたちは基本的に親切だ。でもズカズカと人のプライベートにまで土足で踏み込んでくるから、長いこと一緒にいるとくたびれてしまう。
私はできるだけ愛想笑いを浮かべて「ありがとうございます、失礼しますね」とひと声かけてから、席に座った。
今日のランチは一番安い生姜焼き定食。安いけれど分厚くておいしい豚の生姜焼きが、残念ながらさっきから紙を噛んでいるような味しかしない。私はできるだけ急いで食べようとしているのを見ながら、おばさんたちはしゃべりはじめた。
「この間ねえ、息子が結婚式を挙げたでしょう」
「ああ、今時すごいわよね。ハワイ挙式なんて……!」
おばさんたちは専ら家族の自慢話に花を咲かせていた。
途端にゲージがちょん、とまた右に寄った。真ん中から右は赤に替わるらしく、おばさんたちのゲージの色はだんだん黄色から赤みがかってきていることに気付いた。
このゲージって、私の不愉快ゲージのパロメーターなんだろうか。私はそう思いながら、ランチのご飯を口に放り込む。おいしい炊きたてのご飯も、今は甘みを感じない。
「ええ。お嫁さんも子作りのためにようやく会社を辞めてくれてね!」
「あらぁ……前の子はずっと共働きだったんでしょう?」
「共働きだったから、式を挙げてる暇も新婚旅行に行く暇もなくってねえ、離婚したのよねえ。でも今回は孫もできるしお嫁さんずっと家にいるから大丈夫だわあ」
またゲージの色が赤に近付いた気がした。
今時、共働きしないと大変な家庭のほうが多いのに。そもそも育児休暇じゃなくって会社を辞めさせる姑って、そんな恐ろしい姑がいたら、そりゃ離婚するんじゃ。
なんて。よその家庭のことなんてとやかく言えないけれど。
もぐもぐとサラダを食べ、味噌汁をすする。さっさと食べ終えてここを立たないと。そう思っている間もなく。
「ところで」
逃げる暇もなく私は捕まってしまった。箸からぽろりとトマトが落ちる。
「はい」
「あなた彼氏いたわよね。いつ結婚するの?」
「相手も仕事がありますから、まだ決まってないんですよ」
本当にこの手のおばさんは、人のプライベートを土足で踏み荒らす。世間話の一環で、油断していたら次々とプライバシーを引っこ抜かれてしまう。
過去の私のうかつさを呪いながらも笑っていたら、おばさんは溜息をついた。
「あら、もっとよく話し合ったほうがいいわよ。あなただってもう若くないんだから、結婚するんだったら逃がさないようにするの。結婚しないんだったらさっさと別れたほうがいいわ」
またちょん。とゲージが右にまで進んだ。着実に赤に近付くゲージを見つつ、ご飯を口に運ぶ。せっかくのランチが、もう鉛を口に詰め込む作業と変わらない。
私はできるだけ愛想笑いをしながら、どうにか話を打ち切るように口を開いた。
「そうですね、ありがとうございます」
なにがありがとうなんだ。人にくだらない世話を焼くくらいだったら、自分の孫の心配でもしてればいいでしょ。そう吐き出しそうな言葉を、どうにか喉に押し留めた。
それでも。ゲージはまだ赤っぽいだけで、真っ赤には至ってなかった。
****
「ただいまー」
「あっ、お帰り!」
会社でごりごりと心身削られて帰ると、私を癒やしてくれる声が響いた。
彼だ。彼は家でデザインの仕事をしているフリーランスだ。私と多忙期と暇な時期が重ならないのは難点だけれど、家のことはしてくれるし、料理をいろいろ振る舞ってくれる本当に優しい彼氏。
台所から漂うのは、私が心身くたびれて帰ってくるのがわかっていたんだろう。大好きなトマトピッツァを焼いてくれていた。チーズとトマトソースの匂いが、疲れ切った私の心を見事にくすぐってくれる。
「ありがとう! わざわざピッツァ焼いてくれるなんて」
「うん。最近残業で忙しそうだったし、久々に帰宅メールくれただろう? だから好物つくろうと思ってさ。本当にお疲れ様」
「嬉しい~、本当にありがとう!」
私はうきうきしながらルームウェアに着替え、早速ピッツァを頬張った。
おいしい……! さっくさくの生地もたっぷり塗られたトマトソースも、上にこれでもかとかかったチーズも、本当においしい。デザイナーでなかったら店を出そうって提案するところだ。
私が顔をだらしなく緩ませながら食べていたら、彼はふっと笑う。
「どうしたの、こんなにがっついて。そんなに嫌なことがあった?」
「ひとつすっごく嫌なことがあったんじゃないよ? ただ小さい嫌なことが積み重なっただけ」
彼がビールをコップに注いでくれるのに、ありがたくそれを手にとってチビリチビリと飲む。
うん。ひとつひとつは、よくある出来事だったんだ。繁忙期に、サラリーマンに舌打ちされたり、パートのおばさんの暇つぶしに付き合わされたり、仕事が全然終わらなくって定時にタイムカードが押せなかったり。
重なって嫌な一日だって締めくくらなくってよかった。私はそう思ってにっこりと彼に笑ったとき、気が付いた。
「あれ……」
「ん、どうかした?」
「ううん、なんでもない」
彼の頭の上にも、ゲージがあることに気が付いてしまったのだ。
しかも。通りすがりのおじさんにも、嫌みな上司にも、下世話なパートのおばさんたちにもなかったようなゲージの色をしている。
右までバーが真っ赤に染まってしまっているのだ。
なにこれ……。
彼は私が自分の頭の上を気にしているものだから、「なに? 電気切れそうなの? これLEDだからペンダントごと買い換えないと駄目だよ?」と言うので「暗くないよ! 大丈夫!」と慌てて付け足して、誤魔化すようにピッツァを頬張った。
彼にはなんの不満もない。一緒に暮らしていて、互いに繁忙期や休みが合わないから、こうして朝と夜のご飯のときにしか顔を合わせられないだけ。
ライフポイントでもなく、不愉快ゲージでもない。だとしたら、このゲージはいったいなんなんだろう……?
何度考えてみても、私はこのゲージの正体に思い当たることはなかった。
****
連続十日出勤。
そのぶんやすみは地続きでもらえるからいいんだけれど。体がズシリと重くなるのを感じながら職場に行き、仕事をこなしていくと。今日が連勤最後の日だから皆必死で仕事をこなしていたら、三時にはうちの班のノルマは終わってしまった。
上司に終わった旨を報告に行ったら、そちらはそちらで自分たちのノルマをこなすのに精一杯でそれどころではなく、こちらに顔を上げることもなく「終わったならさっさとタイムカード押して上がっていいよ」と言ってしまった。
それを聞いて、うちの班は一斉にタイムカードを押した。我に返った上司がこちらに仕事を回してきたり、他の班の手伝いを任せられたらたまらない。全員さっさと連休に入りたかった。
急いでタイムカードを押して、鞄を肩にかけて家路に着く。
メールを送ったほうがいいだろうか。スマホを取り出して考えたけれど、ご飯を催促するのも申し訳ない。久しぶりに私がご飯をつくろう。
帰りにスーパーで彼の好きな唐揚げと、それに合うサラダ、味噌汁の材料を買い込んで、ずしりと重くなった袋をぶら下げながら、家へと向かった。
私は家にたどり着き、鍵を回したときだった。
「……あれ?」
香水の匂いがする。私も彼も、香水を付ける趣味はない。それに。玄関には見覚えのない、私より一回り大きいサイズの女物の靴がある。
まさか。私は手早く玄関を上がり、ズカズカと上がっていった。
普段ふたりで座っているソファーには、服が散らかって落ちている。私が着るにはサイズの合わないワンピースに、私が付けたらガバガバになってしまうブラジャーが、男物の服と一緒に絡まっていた。
風呂場からは、知らない女の声と、彼の声が聞こえる。
ああ……そっか。
私はスーパーの袋を落として、自分の馬鹿さ加減を思う。
彼はフリーランスなんだから、仕事が忙しいといえば忙しいし、暇だといえば暇。私の繁忙期に合わせてしまえば、簡単に浮気なんてできてしまうんだ。なにかあっても、疲れている私はちょっと優しい声をかけてしまえば、簡単に騙せてしまうと見越して。……ええ、そうね。騙されてた。たまたま定時より早く帰れなかったら、気付きもしなかった。
やがて風呂場からシャワーの音が止まった。このままこちらに来るんだろうか。私は黙って仁王立ちで待ち構えていたら、とうとう出てきた。一応家の中でも、タオルを巻くことは忘れていなかったのにほっとした。
ふたりはぎょっとした顔でこちらを見る。
「な、なんで今……」
「この人、誰?」
「え、ええっと」
彼は私とも彼女とも目を合わせることなく、あちらこちらに視線をさまよわせる。彼女はぎょっとした顔で「ちょっと、この人誰!?」と振り返る。
ふたりの頭の上のゲージ。
彼の真っ赤になったゲージはすっかりとMAXになり、赤く光り輝いている。彼女のゲージもまた、真っ赤になって光っているのを見て、私はやっとこのゲージの正体に気が付いた。
いつになったら結婚してくれるんだろう? そもそも結婚する気はあるんだろうか?
深夜にもメールのやり取りをしているのは仕事が大変なんだな。でもその割にはメールのやり取りだけずっと繰り返しているような気がする。
ときどきベランダで電話しているやり取りが耳に入るけれど、気のせいか声が柔らかい気がする。
掃除をしているとき、覚えのない髪が落ちていることがある。私よりも色が明らかに茶色いそれ。仕事中にそんな人と接触したり、電車でぶつかってしまったのならそんなことだってあるだろう。
本当に目の端っこにふっと沸く疑念は、いつだって沈めてきていた。
そんなわけないだろう。彼は優しい。彼はいつも私を労ってくれている。やすみの日はいっぱいデートしている。
でも、最後にしたデートって、いつだったっけ?
これは、私の怒りゲージだ。今まで見ないふり見ないふりしていたものが、全部見えてしまったんだ。
私は彼の頬に平手打ちすると、彼女のほうを見た。
「出て行って」
「ええ!?」
「出て行って」
私が短くはっきり言った言葉で、彼女は慌てて着替えると、そのまま退散してしまった。私のシャンプーの匂いが撒き散るのが、ただただ不愉快だ。
彼を私は睨む。
「ねえ、私。ずっとあなたに甘えてたのかもしれない。でも、それだったら別れ話をするところじゃない?」
「ええっと……ちがうんだ、これは」
「お願い、出て行って」
「あのな。話を」
「出て行って……! もう顔も見たくない! 惰性で付き合う以外に私に価値がないんだったら、もうどっか行って……!!」
彼は私をじっと見たあと、「わかった」と言って、それ以上言い訳することもなく、落とした服に袖を通して、ごそごそと荷物をまとめはじめた。
最後に彼はテーブルに鍵を置くと、そのまま去って行ってしまった。
……潔いほうがいいところは、多分そこじゃない。
涙も出ず、私はのろのろと生肉の処理をはじめた。買った鶏肉と野菜は、結局はラタトゥーユに変わり、私の腹に治まってしまった。
腹に溜まったラタトゥーユは、やけにしょっぱいような気がした。
****
あれからも、私はたびたびゲージが見えるままだった。
「あら、彼氏とはどうなったの?」
パートのおばさんたちは相変わらずオレンジ色のゲージを頭に付けたまま、人の恋愛沙汰に口を突っ込んでくるけれど、私はイラッとしないように心がけながら、ただ笑顔で答えた。
「現状維持のままですよ」
そう嘘をついた。彼は音沙汰もないし、着信拒否もしたから、連絡の取りようもない。もう赤の他人だ。
おばさんたちは「そーう?」というけれど、私は笑顔で「食事行ってきますね」と挨拶して会社を出た。
財布には給料がたっぷり入っている。今日はおいしいものを食べて、鋭気を養おう。
もうゲージを真っ赤にするほど、我慢なんてしないと、そう心に誓いながら。
ゲージが振り切れました 石田空 @soraisida
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