最終章「愛の喜びとか、悲しみとか……」
瀬尾幸人が葉山楽器を去ってから、2カ月ほどの時が過ぎた。
季節は、夏から秋へと変遷し、澄み切った青空にうろこ雲が列をなしていた。
午後2時からの生徒のレッスンを終え、休憩を取るため、店頭に出ると、女性スタッフが真音に声を掛けて来た。
「あっ! 木崎先生、丁度良かった! 生徒様がお見えになっております!」
女性スタッフに案内されて、お客様用の席に腰掛けている男性を見た真音は思わず、息を呑んだ。
「瀬尾さん?」
真音が呼び掛けに対し振り向いた瀬尾は、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「木崎先生! ご無沙汰しています!」
「プロポーズは……うまくいったのね?」
そう言うと、瀬尾は、栗色の柔らかそうな髪をバツが悪そうにかきあげながら、
「先生……俺、フラれちゃいました……二股かけられてたんです……俺、かっこわりっ」
と言った。
何といえば良いのかわからず、真音が言葉を失っていると、
「先生! 俺、今度は『愛の悲しみ』を弾きたいんです! また、ご指導頂けますでしょうか?」
と、苦しそうに笑顔を拵えた。
「もちろんです! 今まで以上に厳しいレッスンになりますよ。覚悟はできていますか?」
「はい! ビシバシ、ご指導してください!」
「わかりました。レッスンの日時はいかがなさいますか?」
「空いていれば、今まで同様、毎週水曜日の午後3時からでお願いします!」
「瀬尾さんのために、その枠はリザーブしておきました」
「マジっすか?」
そう言って、瀬尾は、嬉しそうに笑った。
瀬尾の笑顔につられて、真音も笑った。
真音は、深紅色のマニキュアから身体中に温かな血液がゆっくりと流れていくのを感じた。
「では、来週水曜日の午後3時。お待ちしております!」
了
愛の喜びとか、悲しみとか…… 喜島 塔 @sadaharu1031
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