第5章「愛の悲しみ」


 ――8月21日 水曜日 午後3時。


 いつもより緊張した面持ちで、瀬尾幸人は、2番レッスン室に入って来た。


「いよいよ本番ですね!」


「はい! 瀬能幸人、人生大一番を賭けた勝負です!」


「そうですね。では、この2カ月間、瀬尾さんが努力された成果をお聴かせくださいますか?」


「はい!」


 彼は、緊張で震える手で椅子の高さと位置を調整し、静かに呼吸を整えると、かなりのスローテンポで『愛の喜び』を弾き始めた。相変わらず拙い演奏だ。それに、過度な緊張で肩に力が入り過ぎている。


「ストップ!」


 真音の声にビックリした瀬尾は、叱られた子犬のような顔をして、真音の顔色を窺っている。


「ピアノを弾く時の姿勢、忘れてしまいましたか?」


 真音は瀬尾の後ろに立ち、


「腰に重心を置いて! 肩の力を抜いて! 指先までやわらかく! 背筋はピンと伸ばして!」

 と言いながら、瀬尾の姿勢を正した。


「手の形は、どうするんでしたっけ?」


「た……卵を持っているようなイメージで……」


「そうです! それでは、その姿勢を保ちながらもう一度最初から!」


 無駄な力みが取れた瀬尾の演奏は、拙いながらも、愛に満ち溢れた温かい音を紡ぎ出した。なんとか最後まで弾き終えた瀬尾は、


「どうでしょうか? 先生?」

 と、心配そうに訊いてきた。


「とても温かい、瀬尾さんらしい素敵な演奏だと思います。貴方の “愛の喜び” が、彼女に届くことを、陰ながら応援しております」


 真音の言葉を聞いた瀬尾の顔は、まるで、母親に褒められた少年のようにキラキラと輝いていた。何度も嬉しそうに真音にお礼を言う瀬尾の姿を見て、真音の心の中で、彼に対する新しい感情が芽生えるのを感じた。


 きっと、彼は、彼女へのプロポーズに成功したら、ピアノを辞めてしまうだろう。彼と会うのもこれが最後だと思うと、心臓を捻り潰されるような激痛が疾った。


 瀬尾がレッスン室を去った後、真音は導かれるようにピアノを弾き始めた。


――クライスラー作曲 ラフマニノフ編曲演奏会用ピアノ独奏版

『愛の悲しみ』


 怒り、悲しみ、嫉妬、諦め、不安……


 真音の心にずっと燻っていた火の粉が、導火線へと引火し、爆発した。


 苦しい、辛い、苦しい、悲しい、泣きたい、泣きたい、泣きたい……



――先生のピアノ……なんて言うか……すごく……苦しそうなんです……悲しくて悲しくてどうしようもないのに、泣きたいのを必死に堪えて無理に笑顔を拵えているような……


 そう言って、涙を流した瀬尾幸人を思い出し、真音は涙を流した。


「助けて! 他の女のところになんて行かないでよ! どうして “私“ じゃないのよ?」


 真音が、生まれて初めて弾いた “表現者” としての演奏は、“ノーミスの女王” とはかけ離れた演奏だった。

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