献杯

黒井咲夜

ある晴れた夏の日、高知県山中にて

 高知県の山中にある木戸神社。そこからさらに山奥へと進んでいくと、開けた場所に小さな祠がある。甥の乙弥おとやは毎日のように足を運んでいたが、参拝客や俺を含めた神社の人間がここを訪れることは滅多にない。

「ん?……おお、牙竜がりゅうか。珍しいのぉ、お前がわしんとこに来るとは」

 祠の上に、紺色の着流しを着た少年――秋山しゅうさんがあぐらをかいている。こんななりだがコイツは(一応)この祠に祀られている神様だ……だが、今日は別にコイツに用事があって来たわけじゃない。

「ところで牙竜。そりゃあ酒じゃろ?儂にくれるんか?」

「馬鹿言うな。お前のじゃない」

 風呂敷包みから朱塗りの盃を取り出し、地面に並べ、清めた日本酒を注ぐ。注ぎ終えたら自分の分の盃にも同様に酒を注ぎ、献杯する。

「これはな、俺の兄弟たちへの供え物だ。だから勝手に呑むなよ」

 年に2回、盆と彼岸に、かつて木戸御殿とまで呼ばれた木戸家本邸があったこの場所で、死んだ兄弟たちの魂に祈りを捧げる。俺とさだめと神仕しんじ、生き残ったきょうだい3人で決めた約束だ。

「なんじゃ、せっかくの酒がもったいない……供え終わったら呑んでもええか?」

「駄目だって言ってんだろ!ったく、意地汚え神様だな……」

 タバコに火をつけ、煙を口に含む。細い煙が上がっていく様子はどこか線香にも似ているような気がする。

「うまそうに吸うのぉ。そんなにうまいんか?そのタバコっちゅうのは」

 頭上から覗く秋山の顔に、不意に過去の記憶が重なった。

    ◇◇

「おいしそうに吸うね。そんなにおいしいの?タバコって」

「……不味くはない」

 軒下にうずくまっていた俺の顔を、細い瞳が覗き込む。俺と他の兄弟との、初めてのまともな会話だった。

 1986年の正月、数えで16歳を迎えた俺たち兄弟は父親――木戸きど正宗まさむねの企みによって高知県山中にある木戸家の屋敷に集められた。兄弟といっても全員母親が違う腹違いの兄弟で、集まっただけでも俺を含めて10人はいた。

 顔も名前も知らなかった父親や兄弟の存在は俺にとって現実味がないものだったが、そこで正宗から聞かされた話はにわかには信じられない、輪をかけて現実味のないことだった。

 曰く、この世界には霊力という常人には不可視の超常的な力があるということ。

 曰く、木戸家は言霊ことだまで霊力を操る言霊師ことだましを統括する五行家ごぎょうけの一角であるということ。

 曰く、俺たちの母親は皆言霊師としての素質があった者で、俺たちはそれを受け継いでいるということ。

 一方的にこれらの情報を伝えた後、正宗は笑いながら俺たちに言い放った。

『この中で最も強い者に、木戸家当主の座と私の財産全てを継がせる』

 その言葉を皮切りに兄弟たちによる当主争い、有り体に言えば潰し合いが始まった。

 五行家云々はともかくとして、当時の木戸家は高度経済成長の恩恵によって建設業や不動産業で莫大な資産を形成していた。つまり木戸家当主になるということは億万長者になることと同義だったため、誰もが他の兄弟を殺してでも当主になろうとした。――まあ、なかには話し合いで解決しようとする神仕バカもいたが。

 そんなわけで比較的強い霊力を持っていた俺は早々に罠にはめられて、妙な術で霊力を奪われた。それで霊力を回復するために物置小屋に身を潜めていたら、そこにあいつが現れた。

「僕は、大河たいが。君の名前は?」

「……牙竜。本当はカリュドーンエスペゴミラデラクルスみたいな名前らしいけど、長いし日本人っぽくないからかがみ牙竜って名乗ってる」

 そいつは名字を名乗らず、ただ大河とだけ名乗った。要領を得ない話を聞いていると、どうやら大河は産まれてすぐに施設に預けられたらしく自分の名字を知らないらしい。

「だから、僕、すごく嬉しいんだ。だって、こんなに家族がいっぱいいるなんて、知らなかったから」

 大河は家族、ことさら兄弟という関係に固執していた。両親の顔を知らずに育った彼には、兄弟がおとぎ話のように美しいものに思えたのだろう。

「牙竜は何月生まれ?」

「……忘れた。誕生日なんて祝ったこともないからな」

 俺の母親はフィリピン人で、水商売をしていた。毎日毎晩違う男を家に連れ込み、カタコトの日本語で「今日は息子の誕生日だからプレゼントを買ってやりたい」と俺をダシにして男に金をせびっていたから、俺は自分の本当の誕生日を知らない。

「じゃあ、僕がおにいちゃんってことにしよう。僕は元日に拾われたらしいから、きっと君よりおにいちゃんだよ」

「好きにしろ」

 大河ははっきり言ってバカだった。バカだったが、1日に1回しかない食事を俺に分け与えたり(そもそも他の奴らの取りこぼしを持ってくるから全然たりなかった)、俺がゆっくり休めるようにと物置小屋の周りに落とし穴を掘ったり(そのせいで用足しに外に出ようとした際に何度か痛い目をみた)とバカなりに兄らしいことをしようと考えていた。おかげで俺は霊力の回復に専念することができたので、柄にもなく素直に感謝の気持ちが口から漏れた。

「気にしないで。だって、僕はおにいちゃんだもの」

 俺がありがとうとこぼすたびに、口癖のように大河はそう言っていた。

   ◇

 7回目の飯を取りに行った帰り、大河が見知らぬ奴を連れてきた。

「わしは佐野さの伊兵いへいや。あんじょうよろしゅう」

 伊兵は戦いから離れた場所にいた俺たちに現在の戦況を教えてくれた。

「今はもうアンタら含めて数えるくらいの人数になっとって、いっちゃん強い龍木たつき神仕しんじとその取り巻きしとる邑木むらき連、木戸きどさだめのチーム本家筋を残りのやつらが叩こうとしとる感じや。チーム本家筋以外に用心せなあかんのは名無しぐらいやけど……まあアイツは最後でええ」

 名無しというのは名前も名乗らず目が合った者に無差別に襲いかかる奴らしく、序盤から戦線離脱していた俺たち以外ほぼ全員が名無しを警戒していた。

「ありがとう、伊兵くん」

「かまへんよ。オニーチャンのためやからな」

 伊兵は半笑いで大河を「オニーチャン」と呼び、明らかに見下していた。その目は母親が連れ込んでいた男たちによく似た、人を食い物にして生きている人間の目だった。

「それで提案なんやけど、3人で協力してチーム本家筋を倒さへんか?わしも戦いたいんは山々やけど持病の坐骨神経痛があってよう戦えんさかい、つよーいオニーチャンたちに守ってもらいたいんや。ほら、オニーチャンは弟を守るもんやろ?」

「もちろん。伊兵のことも、牙竜のことも守ってあげる」

「大河」

 そんなことはできないと、大河が一番分かってるはずだ。バカで抜けてる大河が今まで生き残れたのは、霊力が全くないおかげで索敵や呪詛などの罠に引っかからなかったからだ。決して強いから生き残ってるわけじゃない。

「大丈夫。だって僕は、ふたりのおにいちゃんだもの」

 それでも大河は、俺たちを心配させまいと笑って決まり文句をのたまった。

   ◇

 伊兵の提案で神仕たちに戦いを挑んだが、五行家に近い血を引く本家筋の人間と寄せ集めの俺たちとでは力量の差は明白だった。互角に戦えるのは俺だけで、大河と伊兵はまるで戦力にはならなかった。対してあちらは戦い慣れている連と霊力が強い神仕のタッグで、とても俺に勝ち目はなかった。

「ワシゃ戦いは好かん。じゃけぇ、ここはひとつ、腹ぁ割って話し合いせンか?」

「断る!」

 脚を霊力で強化して蹴りを叩き込もうとした瞬間、軸にしていた右脚を槍が貫いた。

「だからお前は甘いんだよ、神仕。この前だって騙し討ちで殺されかかっただろ」

 たまらずその場に崩れ落ちる。本家筋の奴らは真っ黒な短刀を持っていて、どうやらそれを使うと霊力を武器の形にできるらしい。神仕はこちらに合わせて素手で戦ってくれたが連の方は容赦なく武器を使ってきたため、間合いに入ることすらできなかった。

「……残念だよ。お前のような才ある者を殺さなくてはならないとは」

 先程とは違い、槍の切っ先は心臓を狙っている。この脚では避けられない。死を覚悟した、その時。

「牙竜!」

 邪魔になるからと逃したはずの大河が、連に思い切りタックルした。不意をつかれ集中が切れたのか、槍は心臓に到達する前に元の真っ黒な短刀に戻った。

「た、いが……」

「逃げよう!早く!」

 俺なんか見捨ててとっとと逃げれば良かったのに、大河は俺を助けに戻ってきた。戻ってくれば武器を持った相手が2人もいると分かっていてだ。

「逃すものか!『我が手に在るは槍一条』――」

 言霊を使い再び槍を出現させようとする連を、神仕が制止した。自分を圧倒した相手に情けをかけられるのははらわたが煮えくり返るほど悔しかったが、ここで反撃に出れば死ぬのは俺だけじゃない。大河の肩を借りて、俺は物置小屋を目指した。

   ◇

「なんや遅かったやないの。とっくに死んでもうたかと思たわ」

 物置小屋に戻ると、伊兵がヘラヘラと笑いながら俺たちを出迎えた。後ろには死体から剥ぎ取ったらしい時計や財布が散らばっていた。

「俺たちが戦ってる間に死体漁りとは、ずいぶん余裕があるんだな」

 ああ、やはりこいつは人を食い物にする側の、踏みつける側の人間だ。踏みつけられたまま死ぬのが、カスみたいな母親とカスみたいな環境でカスみたいな人生を送るのが嫌でここに来たはずなのに、結局ここでも俺は踏みつけられる側なのか。

「死んだら金もクソもあらしまへん。それに、あのまま死体と一緒に錆びるぐらいやったら生きとるわしらが使うた方がええでっしゃろ?」

 どんなに力があっても、どんなに優しくても、最後には立ち回りが上手い人間がいい目を見る。世界ってのはそういうものだから仕方ない。けど――

「牙竜はん、チーム本家筋の中に1人だけ戦わへんで見とった女おったやろ。あの女攫って人質にして残りのふたり脅したら、なんぼか楽に戦えるんとちゃう?ほら、女やったら軽ーく殴って一発やれば言うこと聞くやろし」

 もし踏みつける側になれるとしても、俺はこんな醜悪な人間にはなりたくない。

「……るな」

「はあ?聞こえんさかいもそっとでかい声で――」

 近づけられた顔に、霊力で強化した拳を叩き込む。固いものが砕ける感触が拳に伝わった。

「ふざけるな!そんなにやりたきゃお前ひとりでやってろ!」

 痛む脚を引き摺りながら物置小屋を後にする。この世の終わりのような怒鳴り声が背後から聞こえるが知ったことではない。

 少し遅れて足音がついてきて、視界の端に大河の顔が見えた。大河はひどく悲しそうな顔をしていた。

「牙竜、どうしてあんなことを……兄弟なんだから仲良くしないとダメだよ」

 痛みを紛らせるためにタバコに火をつけようか悩んで、懐にしまった。

「大河、お前は神仕たちのところに行け」

「え……そんな、どうしていきなり」

「俺たちと一緒にいるよりはマシだろ。勝ち馬を見極めろ」

 俺は大河に生き延びてほしい。俺みたいなクズが生き延びるより、人に寄り添える大河が生き延びた方がよっぽど世間様のためになる。

「でも、僕はおにいちゃん――」

 すがりついてる大河の腹に蹴りを入れる。手加減したつもりだったが、大河は後ろに大きく吹っ飛んだ。

「……目障りなんだよ。お前も、神仕も、甘っちょろすぎて!そんなに兄弟ごっこがしたいなら、甘ちゃん同士で仲良くやってろ!」

 今度は振り返らずに、まっすぐ夜の闇に向かって歩く。視界が滲むが気にせず歩みを進める。

 これでいいんだ。俺はこのまま残りの兄弟たちを倒して、最期には極悪人として神仕たちに倒されよう。それが、俺が大河にできる、せめてもの兄弟孝行だ。

   ◇

 大河と別れてからのことはよく覚えていない。覚える価値もない時間だったのかもしれない。ただひたすらに向かってくる相手を殴り、蹴り、排除していったことだけは覚えている。

 命乞いをする奴も、嬉々として向かってくる奴も、俺にとってはただの障害物にすぎなかった。決して退かず、俺の前に立つ奴は排除し、ただひたすらに道を拓く。それしか考えていなかった。

 倒して。倒して倒して。倒して倒して倒して――再び神仕たちと相対した時には、俺はすっかり兄弟殺しの悪役になっていた。

「……牙竜」

「これで分かったろ、神仕。話し合いなんかより殴って黙らせる方がよっぽど早いって」

 神仕が俺を睨みつける。俺はちゃんと、倒されるべき醜悪な人間を演じられているだろうか。

「……ああ、そういえば。もうひとりお前みたいに甘っちょろいことを言う奴がいたな。お前のところにいるんじゃないのか?」

 大河。俺はお前の愛に応えたい。こんなろくでもない俺を弟と呼び、愛してくれたお前のためなら、俺は喜んで悪役になろう。

「ワシんトコには誰も来とらん。お前らと戦ってから会ったンは死体だけじゃ」

「……は?」

 一瞬、神仕が何を言っているのか分からなかった。

「そ、んなわけ」

「ワシゃ嘘は言わん」

 どういうことだ。俺が倒した奴らのなかに大河はいなかったから、てっきり神仕たちの仲間になったとばかり思っていた。だけど神仕が知らないということは――

「まさか」

 嫌な予感がして、神仕たちに背を向け一心不乱に走り出す。目指す先はあの物置小屋だ。兄弟たちを倒して回っていた間に俺が行っていない場所は、あそこしかない。

「大河!いるなら返事しろ!おい!」

 きしむ扉を開けると、小屋の真ん中にボロ切れのようなものが転がっていた。

「が、りゅう……?」

 ボロ切れが喋って初めて、俺はそれが大河であることを認識できた。ひどく痩せ細っているうえに顔や手脚はあざだらけで、生きているのが不思議なぐらい衰弱していた。

「バカ!神仕たちのとこに行けって言っただろ!」

「ごめん……でも、いへいのこと、ほっとけなくて……」

「もうしゃべるな!」

 とにかく大河を背負って神仕たちの元に戻ることにした。あいつらなら傷を治す方法を知っているかもしれない。

「ぼく、ばかだから……いへいに、たくさん、おこられて、たたかれちゃった……でも、ぼく、おにいちゃんだから、やりかえさなかったよ……」

 伊兵のことだ。俺に殴られた腹いせに大河をいじめていたに違いない。この衰弱ぶりを見るに、食事も独り占めしていたんだろう。

「いへい、ぼくがななしにまけちゃったから、おこってでてっちゃった……だいじょうぶかな……おなか、すいてないかな……」

「あいつなら大丈夫に決まってる。だから、お前も死ぬんじゃない!生きてりゃそのうち、お前の本当の家族に会えるかもしれないだろ!」

 さっき来た道が異様に長く感じる。早く、早く大河をあいつらに預けないといけないのに。俺じゃ大河を助けられないから、あいつらに頼るしかないのに。

「……かぞく……がりゅう……ぼくの、おとう、と……」

 大河の声が聞こえなくなる。体温がどんどん下がっていく。早く。早く。手遅れになる前に。

「牙竜!」

 前方から神仕が駆け寄ってくるのが見える。

「神仕、頼む。大河を……俺の、にいちゃんを、助けてくれ……!」

 神仕は俺の目を一瞬見て、すぐに目を伏せた。

「……無理じゃ、もう死んどるモンは治せん。じゃけえ、お前のにいちゃんを降ろしてやれ」

 神仕が大河の体を地面に降ろす。腕の中の大河は、まだ生きているように微笑んでいた。

「気力で持ってたンがお前に会うて気ィ緩んだんじゃろ……ええ死に顔じゃ。天寿を全うしたモンの顔しとる」

 天寿なものか。ずる賢い奴らにいいように利用されて、強い奴に踏みつけにされて、最期にはゴミクズのように捨てられて、ひとりで死んだんだぞ。そう言おうと口を開いたが、言葉になる前にそれは嗚咽に変わった。

「ゔっ、ぐ……ああ、あああ……!」

 あの時、突き飛ばさずに大河を神仕たちのところに連れていっていれば。伊兵を迎え入れることに反対していれば。俺がもっと、素直に自分の気持ちを伝えていれば。後悔が涙とともにとめどなく湧いてくる。

「ごめ、な……ごめん、たいが……ごめんな……」

 誰のせいだ。大河に致命傷を負わせた名無しか?それとも大河を見捨てて逃げた伊兵か?違う。俺だ。俺のせいで――

「顔ォ上げい。ここで泣いとってもなンにもならんじゃろうが」

 泣きくずれている俺に、神仕が手を差し出した。

「行くぞ。ワシらで、あの木戸正宗クソオヤジを倒すんじゃ」

 仇討ちだなんて言えるような立場じゃない。だけど、憎しみを向ける相手が見つかっただけで、ひどく救われたような気がした。

   ◇◇

「牙竜?がーりゅーう?……気づいちょらんな。よーしよしよし、今のうちに……」

 秋山の声でふと我に返る。割れんばかりの蝉の声がいやにうるさく聞こえる。

「……って、コラ!勝手に呑むなって言っただろうが!!」

 手に持ったままのタバコを一息大きく吸って、煙を秋山に吹きかける。不可視不定形な霊力の塊である秋山は素手では触れないのと、元々野生動物の霊だったらしい秋山はタバコの煙が苦手らしいので、軽く懲らしめたい時にはよく使う手段だ。

「ゲホッ、ゲホッ!なにすんじゃこの……生臭神主!」

「あいにく神職には戒律もクソもないんでね。酒は返してもらうぞ」

 大河が死んだ後、俺たちは邑木連の犠牲と引き換えに木戸正宗を討ち取った。自分の子どもたちが殺し合うのを笑って見ていた男の最期は、モノノケ――超常の化け物に喰われて跡形もなくこの世から消え去るという、何ともあっけないものだった。

 その後木戸家当主になった神仕の手によって不動産などの財産はほとんど処分された。その金でさだめは東京の火村ほむら家に嫁入りする際の花嫁道具を揃え、神仕は何をとち狂ったか漁船やら何やらを買って漁師を始めた。そして俺は東京の大学に進学し宮司になるための勉強に励み、今は木戸神社の宮司として日々の仕事に励んでいる。

「ああ、酒がもったいない……頼む……死人にやるぐらいなら儂にくれんかのお……」

 死者の魂は霊力となって自然に還るのだと言うから、大河や死んだ兄弟たちが今もここにいるわけではないのだろう。生き延びるためとはいえ兄弟を殺した俺は、一生裁かれることのない罪を背負って生きていくしかない。だからこの弔いは俺の、生き延びてしまった者の自己満足だ。

「おい、聞いとるのか牙竜!」

 ……ああ、そうか。今気づいた。秋山の声は、どこか大河に似ているんだ。だから唐突に昔のことを思い出したのかもしれない。

「……一杯だけなら、呑んでもいいぞ」

「ホントか牙竜!」

「ああ。ただし、俺も呑ませてもらうがな」

 先程飲み干した盃に酒を注ぐ。これは酒もタバコも知らぬまま死んでいった大河に捧げる盃。俺の、ただひとりのおにいちゃんに。

「乾杯」

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献杯 黒井咲夜 @kuroisakuya

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