第七節 第二十話 休日
鳩の導入研修である雛。
その期間の初めは座学が主となり、5日間の講義と2日間の休日とが繰り返される。
ある休前日となる日の講義の終わり、ユミはギンに明日トミサ一帯を一緒に歩かないかと声をかけられた。
ギンから下心を感じないわけではなかったが、生涯の仲間とも言われる班員を無下にも出来ず、ユミは首を縦に振ることとなった。
約束の当日、母親は仕事で夕方まで帰らないことになっていたため、余計な勘繰りを入れられずに済んだ。
ギンは家まで迎えに行くと言っていたが、ユミは断固として拒否をした。代わりに、鳩の学舎の傍にある半鐘の下を待ち合わせ場所に指定した。
その場所はトミサのほぼ中心に位置しており、居住地を特定されにくいだろうと踏んでいたためだ。
約束の刻限の10分程前、ユミは待ち合わせ場所近くまでやってきた。ところが、既にギンは鐘の下に佇んでいた。心なしかそわそわした様子である。行き交う人々も不審そうな眼で彼を一瞥しては通り過ぎていく。
なんとなく危険を感じたユミは、とっさに近くにあった食堂の軒下に身を潜めてしまった。母から教わった男の
「何やってんだいあんた?」
突如、ユミの背後へと声が投げられる。振り向くとそこには既に顔なじみとなった店の女が居た。
「お、おばちゃん」
「食べに来たのかい? 店なら今から開けるとこだけど……」
ユミは束の間の逡巡の後、問いかける。
「ねえ、おばちゃんは鴛以外の男の人から食事に誘われたらどうする?」
「うちの人以外? そうねぇ、若い子だったら喜んで着いていっちゃうかな?」
そういうと女はきょろきょろ辺りを見渡す。そしてギンの姿を認めるとにやにやとしだした。
「あら、ギン。相変わらずね~」
「相変わらず?」
ユミは怪訝そうな顔をする。
「ええ、あの子は昔から女の子に好かれたくてしょうがないのよ。うまくいった試しはないみたいだけど……。ユミちゃん、何も気にすることはないわ。適当にご飯でもご馳走させてお別れしちゃいなさい」
「なぁんだ……」
ユミはミズとともにウラヤへ帰った日のことを思い出す。ミズはユミと
キリ以外の者と懇意になる気などさらさらないのだが、好意を向けられること自体は気分が良い。
鴛鴦文で既に結ばれた者が目移りなどした場合、ナガレあるいはカトリへ送られるとトキは言っていた。しかし、その優越感と罪悪感が何とも言えない刺激となり、実行に移してしまう者もいるのかもしれない。縛められれば縛められるほどやりたくなるのが人の
ギンに嫌悪感を覚えながらも、危険な橋を渡りかねない思考に陥っていたところを救われたと言っても良いだろう。
ごおおおおおおん……。
「あ、行かなきゃ……」
足を踏み出すのを躊躇っていたユミに、時間切れを告げる鐘が鳴る。既に彼女を妨げるものは何もない。
「ところでユミちゃん。もしかしてギンじゃない鴛がいるの? ……ちょっと早すぎないかしら?」
「えへへへ……」
ごまかすように笑みを浮かべたユミは、勇気を振り絞りギンの元へと歩を進めるのだった。
――――
一方のギンは気が気でなかった。
ユミがやって来る瞬間を今か今かと待ちわびていたのだ。
ギンはかつて、寝坊により
それ以来、刻限より早く来ることを心がけていたのだが、待てど暮らせど相手が現れず泣く泣く家路につくこともあった。
自分に何が足りないのだろうと、とぼとぼと歩いていたところ、女を両手に抱えた男の鳩とすれ違う。良く言えば男前、悪く言えば悪人面。そんな印象の彼だったが、それはギンにとって大きな起点となった。いつか機を見て鳩になろう、そう決意したのだった。
ところが、いざ孵卵に合格してみると思い描いていたものとはどうにも結果が違う。相変わらず眼をつけた女はことごとく手をすり抜けていった。これでは何のために森の脅威へ挑んだのか分からない。しかし雛の講義の初日、鳩になって良かったと自らを称えることとなる。
緊張した面持ちで隣の席につくユミを見て衝撃を受けた。これまで見た誰よりも可憐だ、そう思った。その日の内に、彼女にはべーと舌を出された気もするが、気にしないことにした。
これまでの失敗を決して無駄にはしない。そう決意したギンはまずはサイへ近づくことにした。ユミが不自然なまでに彼女と関わりを持とうとしていることに気づいたからだ。
初対面の際に感じたように、サイには女としての魅力がまるで無かった。そのため下心なく彼女へ近づき、ユミの好みなどを聞き出すことが出来た。サイとしてもギンの第一印象は最悪だったはずだ。とは言えやはり姉後肌と言うべきなのか、ギンがしおらしい態度でいる限りは快く接してくれた。
改めて本日の計画を頭に巡らせる。
まずは食事だ。ユミは獣肉の類を好むらしい。そして食後にはあんみつを。その両方の叶う店は押さえてある。店を梯子することだって可能だ。
サイに教わるまでも無いことだったが、ユミは知的好奇心が旺盛なようだ。書物の店や雑貨屋などを案内してやれば興味を引くことが出来るかもしれない。
少し足を伸ばしてトミサの一角にあるスイカ畑を見せてやるのも良いだろう。ユミは生まれであるウラヤにおいても畑仕事を手伝っていたと聞くので、新たな発見を提供できるのではないだろうか。願わくばギンの半身とも言うべきスイカを、ユミの心へと刻みつけてもらいたい。
ごおおおおおおん……。
待ち合わせの時間を告げる鐘の音だ。1刻に1度奏でられるこの音であるが、これまでの経験通りあと2回鳴るまでは希望を捨てずに待とうと思っていた。にもかかわらず、あっさりとユミが姿を現したので拍子抜けしてしまった。
「ユミ!」
ゆっくりと近づいてくる彼女に向かって大きく手を振って見せる。努めて冷静に振舞おうと思っていたのだが、興奮が高まってきているようだ。
「ギン……」
一方のユミはあまり乗り気では無さそうだ。それでも胸の近くで小さく手を振り返してくれはしたのでひとまずは良しとする。
「お腹空いてる?」
まずは席に着けよう。食事が始まってしまえば早々に逃げ出されることも無いはずだ。
「うん……、まあ」
「何食べたい?」
「え……、なんでもいいよ……」
なんとも困る返答だ。なんでもいいと言いつつ、いざ何か提案してみるとそれの気分じゃないと返される。そんな経験もあった。
しかし、それも想定しての問いかけだった。今こそ事前調査の実力を発揮する場面である。
「やっぱり熊肉は外せないよね? 野菜と肉を香辛料と一緒に煮込んだ奴。それをご飯にかけて食べるのがトミサ流なんだ!」
「それの気分じゃない……」
「は?」
つい語気を荒げてしまう。
「『は?』 とは?」
釣られて発せられたユミの言葉にも棘が含まれている。
「ご、ご、ごめん……。ちゃんと考えるから……」
「あ……、私の方こそごめん。昨日食べたんだよねそれ、お母さんと一緒に」
謝ることが癖になっていたギンは、ユミに謝られるという事実に面食らう。やはりユミはこれまで眼をつけた
「いいよそれで。ギンが考えてくれたんだよね?」
「あ、ありがとう……」
気を遣わせてしまったかと反省する。
「私、まだまだトミサのこと分からないから今日はよろしくね」
ユミは、飛びっきりの笑顔を見せる。
その笑顔に隠された意味を知らないギンは、心躍らせ口元を緩めるのだった。
――――
「あうっ、お母さんに怒られちゃう……」
ギンに引き連れられ、席についた煮物の専門店。ユミは羽織にこびりついた茶色い染みを見つめていた。匙で掬った汁を零してしまったようだ。
涙声になりながら、正面の席に座るギンに向かって顔を上げる。助けてくれと言わんばかりの泣き顔だ。
「そいつ厄介なんだよな。オレもちっちゃい頃はよくやらかしたよ」
それを聞いたユミは頬をぷくっと膨らませる。何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。
「ふん! 私はまだまだ子供ですよーっだ」
――可愛い。
ギンから自然と笑みが漏れるとユミの顔が今度は赤く染まる。
「やっぱりもう帰ろっかな!」
「ま、待って……、良い所紹介するから!」
立ち上がろうとするユミを慌てて引き留める。
「良い所? それってどんな……、あっ!」
ユミは自身の体を抱えたかと思うと、ギンへと軽蔑の眼差しを向ける。
「え、何? なんか勘違いしてない? 洗濯屋に案内するだけだから……」
「洗濯屋?」
「そう、その染みだって消しちゃうよ。まるで奇術みたいに!」
今度こそユミは立ち上がった。そして踵を返し、店の外へと出て行こうとする。
「え、なんで? オレまずいこと言ったかな?」
ギンも立ち上がりユミの背へと手を伸ばす。
「奇術師に会ったら逃げろって……、クイがそう言ってた!」
振り向きざまにユミは言い放つ。
「いや、奇術みたいと言っただけで別に奇術師が営んでる訳じゃないよ……」
「おやあなた達、奇術をご所望ですか?」
ギンの背後から男の声が聞こえた。一体いつの間に傍へやって来ていたのだろうか。それこそまるで、奇術を思わせるような距離の詰め方だ。
ギンはびくっと体を動かし、男へ振り向いたまま固まってしまった。
一方のユミも男の顔を認めると驚愕の表情を浮かべる。そして周囲に聞こえるように叫び声を上げた。
「ぎゃー!! しょせいびなあいしゃー!!」
ユミは一目散に駆け出していく。
「ま、待ってよユミー!」
ギンもその後を追おうとするが、店の給仕に引き留められる。
「お兄さん! お代!」
「あわわわわ……、ごめんなさいー!!」
ギンは慌てて懐から財布を取り出した。
奇術師の男はその一連の流れを飽くまでも楽し気に眺めていた。
「あららら。逃げられてしまいましたね。よく怖がられるんですよこの奇術。まあ奇術師冥利に尽きるというものです。彼女さんに追いつけると良いですね、
その言葉はギンの背筋を凍りつかせた。
――――
無事ギンはユミへと追いつき、洗濯屋へと案内することが出来た。
羽織が乾くには夕刻まで時間を要するだろう、と言われたのはギンにとって幸運だと言えよう。ユミは食事が済み次第帰るつもりだったようだったのだ。
時間を潰すと言う名目の下、鳩の学舎から伸びる大通りの1つをギンはユミのすぐ隣で歩くこととなった。
この時点でギンにとって大きな成果と言える。調子に乗り、繋いでやろうとユミの手に向かって手を伸ばす。ところが、その手は空を切る。
「あ~さの ひか~りが こど~くを わかちあう」
聞きなれない歌声が聞こえたかと思うと、ユミはそれに向かって走り出していた。ギンは虚しい気持ちになりながらもその背中を眼で追う。
ユミの向かった先は1軒の雑貨屋のようだ。大きく開かれた入口から、店内の陳列台に並べられた売り物が見える。眼鏡、
店の入り口へ設けられた
その店の前には割烹前掛けをまとった少年――ギンの眼にはそう映っていた――が立ち、目を瞑り歌を歌っている。看板店員による客寄せということなのだろう。
「ミズ!」
「……ユミ?」
ユミがその店員に声をかけると、ギンの中でたちまち闘争心が燃え上がる。
「久しぶりだね! そういえばアサがミズをトミサに預けるって言ってたもんね!」
「久しぶり! ……ユミがここにいるってことは鳩になれたの?」
「うん! まあ、まだ見習いなんだけど……」
ギンの耳にもなんとなく会話は聞こえているが、その内容はさっぱり理解できない。親し気な様子だけは伝わったが。
「……キリは? 一緒じゃないの?」
ユミの顔が明らかに曇るのが分かった。ギンの耳にも「キリ」という言葉が妙に引っかかった。
「うん……。あの後も1回会ったんだけどすぐ別れちゃった。キリが大人になって、私が立派な鳩になったら迎えに行くって告げて……」
「そっか……。じゃあユミ、頑張らないと!」
「うん、ありがと。……あれ? ミズも一応鳩なんだよね? 雛を受けなくて良いの?」
少し元気を取り戻したように見えたユミだったが、今度は頭に疑問符を浮かべている。
「あー……、実はボクに帰巣本能が無いことバレちゃって、またいつか孵卵を受けないといけないんだよね……」
「……まあそうだよね。私にできることがあったら相談してね!」
「ありがとう!」
2人を眺めていたギンの中でだんだん苛立ちが強まってくる。ユミと2人で歩いていたはずなのに、どこぞの
「ユミ! もういいだろ! 次行こ!」
鼻息を荒げながらユミへと近づき、ただでは起きぬとばかりにその手を掴もうとしたのだが、やはり空を切る。既にユミは陳列台に並べられた商品の1つへと眼が奪われていたようだ。
「ミズ、あれ……」
「あー、あのがま口。キリが持ってたねー。ふふふ、さすがだねーユミ。どう? お買い得だよ?」
ユミが眼を奪われている物、それはアジサイの柄の入ったがま口のようだった。店員はお買い得だと言っていたが、ユミはその商品の傍にあった値札を見て眼を丸くしている。釣られてギンも眺めてみたのだが、決して手の出ない額ではないことが分かった。そしてユミに問いかける。
「それ、欲しいの?」
「……うん」
ギンは間髪入れず懐に手を突っ込み、財布から金を抜き取ると定められた額をミズと呼ばれた店員へと渡す。
「へへへ、まいどありー」
店員らしからぬ邪悪な笑みを浮かべるミズをよそに、陳列台からがま口を分捕ると、自身のてのひらの上に乗せ、ユミの顔の前へと掲げた。
シーンイラスト https://kakuyomu.jp/users/benzenringp/news/16818093077282015082
「ほらよ」
我ながら格好をつけた所作だと感じる。
「ありがと!」
ユミはその挙動など全く気にしない様子でがま口を奪い取ると、ギンにそっぽを向け青空を背景にそれをじっくりと眺め始めた。
「キリ……」
ユミの口から不穏な声が漏れた気がするが、やはり気にしないことにした。恐らく「キレイ」とでも言ったのだろう。
「ふふふ……、ねえお兄さん」
ユミががま口に見惚れている隙をついて、ミズがギンに向かって話しかける。相変わらず不敵な笑みである。
「ユミのこと好きなの?」
突然の問いかけにギンは噴き出した。
「べ、べべ、別にお前に関係ないだろ!」
「確かにそうかもねー。でも、ボクはお兄さんの知らないユミのこと知ってるかもねー」
先ほどの親し気な様子から判断する限り、悔しいがそれは認めざるを得ないだろう。
「……何だよ。教えてくれんのかよ?」
「
「え? そうなの?」
なんとも聞き捨てならない情報である。
「そんなお兄さんにお勧めしたい商品があるのです!」
「……話だけ聞かせろよ」
本当はその商品が何か気になって仕方ないのだが、冷静を装う。
「じゃーん。どう? 匂い嗅いでみて? お兄さんも鳩なら分かるんじゃないかな?」
ミズが見せつけてきた壺の中には、乾燥した葉のようなものが入っている。ギンが恐る恐る顔を近づけると、つーんと甘い匂いが鼻の奥へと広がった。ミズの言う通り、覚えのある匂いだった。孵卵の前夜、母親に入れてもらった甘いお茶の香りだ。
「ちょっ、おまえ! なんてもんを!」
その日の夜、酩酊状態となったギンは例の如く激しく母親に甘えたのだった。なんとも恥ずかしい思い出だ。
「これをユミに飲ませれば……、分かるよね? がま口も買ってもらったし、安くしとくよ?」
「い、い、いる……、いるかぁ!」
何とか誘惑を断ち切ったギンだった。
一通りがま口を眺め終わったユミは満足げな表情を浮かべる。背後ではミズとギンが言い争っているように見えたが、ミズにも友人が出来たのだと好意的に捉えることにした。
先ほどまではがま口に眼を奪われてしまっていたが、改めて店内を眺めるとそれは何とも興味深い景色だった。ウラヤにもあるもの、トキやサイから既に教わった物、初めて見る物など色とりどりだ。その中で一際眼を引くものがあった。丸い平面状のそれが妙に輝いているように見えたからだ。
「ねえギンー。これなにー?」
ユミは首だけ後ろへと捻り、問いかける。声を聞いたギンは、なぜか気まずそうな顔を向けながら近づいてきた。
「ああ、それは鏡。光ってる面を見てみな。ユミの顔が綺麗に写ってるだろ?」
言われた通り、鏡を覗いてみるとぎょっとしてしまう。
「これが私?」
「え、自分の顔見るの初めて? まあそうか、鏡を知らないならそういうこともあるか……」
ユミは川面に写る不鮮明な像でしか自分の顔を見たことが無かった。例えば眼の細部など知らなかったのだが、手元の鏡には赤い瞳に目尻の切れた特徴が映し出されていた。かつてアイに執着され、一度はキリに拒絶された眼でもある。
ソラがラシノに辿り着いた時の様に、考えれば見えてくる真実からユミは眼を背けることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます