メインディッシュは君の赤

春日希為

メインディッシュは君の赤

 「わ、赤スパ初めて〜。えっと、ハジメさんありがとう〜」

 きっかけは名前を呼んで貰えたことだった。こういう想定はしていなかったが、設定を変えるのが面倒くさくて本名のままアカウントを使っていた。だから彼女に一万円をネジこんだ時もそうだった。

「ハジメさん」

 彼女の透き通った、まるで風鈴のような声で、千人の中で自分の名前を呼ばれるのは快感だった。そこから同じように名前を呼ばれたいがために、一万円を突き出す奴らが現れた。だがもちろん俺もそのたびに一万円を突き出した。


 『え!お前もしかしてねこみや推し?辞めとけ辞めとけ。あいつこないだ炎上して引退した天崎あめの転生だから』

 ねこみやwikiで俺がしたコメントに返信が返ってきていた。天崎あめ。その界隈に疎くてもよく知っている良くない評判は聞かないで有名な名前だ。タブを開くとご丁寧に天崎あめ引退騒動のネット記事まとめが放り込まれていた。そして、一番最後には『こんなクソアマ推してお疲れ』。騒動を聞いてはいたが詳しくは知らなかったために丁寧に読んだ。どうやら、ネット界のタブーを人生三回分ほど犯して、悪びれもなく火の中心から一抜けしたそうだ。

 転生。元有名配信者。炎上。赤スパ。初めて。

 この数週間の彼女との淡い記憶が引かれた口座残高とともに蘇ってきた。しっかりマイナス記入されている一万円。今週の食費代になるはずだったそのお金で、彼女の食卓におかずは一品増えただろうか。俺の目の前にはもやしをレンチンしてポン酢で味付けしたものと白米が、仕事兼食卓となっている机を彩っている。全体的に白いが、隣にスマホで初赤スパのスクショを並べると、華やかになった。


 「わたし、来月で引退します」

 目を伏せ、涙の出ない2D画像、それでも向こうの人間は泣いているんだと分かった。声を震わせて、彼女の左横に配置されたチャット欄が過去一番潤っていく。

『泣かないで』

『引退早すぎ、さすあめ』

『返金対応まだですか?天崎に騙されました』

『初推しだったのに……俺は過去とか気にしないから』

『ずっと推しです』

 俺はその流れを瞬きも呼吸も忘れて見た。天崎に騙された人間とねこみや擁護派が半分ずつ。そして、本人を置き去りにして荒れ出すチャット欄。彼女はその間ここ数ヶ月の思い出を目を伏せたまま語り始めた。 

「わたし、初めて赤スパ貰った時本当に嬉しくて。ハジメさん。まだいてくれてますか」

 今、このねこみや引退ライブを見ている人間は五万人を超えていた。五万人の中で、呼ばれた俺の名前。鈴のような、冬に風鈴を鳴らした時みたいな澄んだ声。俺はその声で名前を読んでくれたのがなによりも嬉しかった。でも、今心の本当に底の方。脊髄に近いところから出た気持ちはただただ不快という明かな拒絶だった。

 本名を五万人の前でただ吊るし上げられて、天崎勢からモグラ叩きのようにボコボコにされた。

『ないわ、お疲れねこみや』

 俺がチャットを放り投げると天崎派は一気に味方についた。本人が来るとは思っていなかったのかねこみやはそこで配信を終了し、二度と戻ってこなかった。 



「赤スパ、嬉しい!えっと、恥目さんでいいのかな」

 数日前に新規配信者としてデビューした名取なこ。彼女が登録者百人を突破した。夜の十時から行われる百人突破記念配信に間に合わせるために俺は残業する先輩、同期、後輩を置いて一人定時で帰ってきた。

 目の前にはもやしパックと白米。赤いチャット欄のスクショ。

 冬の風鈴の響きにもう一度赤を添える。

 『そうだよ。声綺麗だね』

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メインディッシュは君の赤 春日希為 @kii-kasuga7153

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