【後編】~デセール~

       *



 ――しばらく時をまたいだ、ある日。

 懐かしい名前からの着信があった。


『――おい紙坂かみさか、お前最近すごい勢いだな!』

「いやぁありがとう。まさか石嶺いしみねのほうから電話してきてくれるなんて思ってなかったよ」

『そりゃするよ、お前今有名人なんだぞ』

「それほどでもないよ。石嶺みたいに、固定ファンがたくさんいるほうがすごいと思うな」

『謙遜するなよぉ。今の俺とお前じゃ、天と地の差があるんだからよ』

「いやまぁ、ありがとね」

『でも、お前一年くらい前から急に才能開花したよな。特に、絵の技術が別人ぐらい上達してんじゃねぇか。なんか特別な練習でもしたのかよ?』


 親切心と優越感。どちらが強かったかは分からない。


「ん、あぁ、それはね――……」



       *



 早足で部屋へと向かう小さな足音。傘をさしていたのにずぶ濡れになってしまって、珍しく裸足だ。


「先生、買い出しから戻りました」


 急いでいても息ひとつ上がらない鋏楽きょうらくが、部屋に入ってレジ袋を突き出した。


「あ、その辺に置いといて」

「頂いていた原稿に背景を入れて先ほど送信しておきました」

「鋏楽さんが買い出し行ってる間に新しい原稿送ったからベタやっといて」

「かしこまりました」


 平常時に比べて五割増しくらいの会話のスピード。

 その言葉の応酬は、この頃の忙しさをありありと語っている。


「あ、そうだその前に、担当さんに電話折り返すことになってるから、お願いできるかな。この電話使っていいから」


 言って、業務用の電話を指差す紙坂。レジ袋の中身を選別しながら鋏楽が答える。


「構いませんが、要件は」

「聞いてない。そこからお願い」

「かしこまりました。メモだけ扉に貼っておくので後で確認しておいてください」

「分かったから電話お願い」


 単なる会話の速度だけでなく、言葉遣いに乱れが出るほど余裕がない。


 そんなこんなで、一日が凄まじい速さで流れていく毎日。

 慣れた今では嬉しい悲鳴だなんて言っていられるが、はじめの頃は睡眠不足と腱鞘炎でふたりとも死に物狂いだった。どんなことでも涼しい顔で卒なくこなす鋏楽でさえ、軽くくまを浮かべてデスクにしがみついていた。


 ――今日も今日とて目まぐるしい一日を終え、夜の紙坂の部屋。


「いやぁ、今日も疲れたね」


 冷えた缶を受け取って、紙坂がなげく。


「そうですね。わたくしも忙殺されて休むもありませんでした」

「疲れてるなら立ってなくていいよ。ベッド座っていいから」

「失礼します」


 あまり綺麗とは言えないベッドだが、座るくらいならと腰を下ろした。

 ふわっと尻が沈んだ感覚だけで、軽く眠気が襲ってくる。それまで気になっていなかった前髪に意識が留まり、いつものように左目にかかる部分だけ横に払った。


「買い出しも悪かったね。おかげで仕事終わりの一杯ができるよ」

「仕事のうちですので、お気になさらず」


 開栓の快音。


「はぁ~みる」


 紙坂が飲み進めるかたわらで、鋏楽も束の間の休息をたしなむ――無表情に変わりはないが。彼女は酒を飲まないため、こうして腰を下ろしているだけで最上級のヒーリングだ。

 それから数分、缶の大半が飲み干される頃まで、互いに無言が続いた。


 窓の向こうには闇と嵐。

 時計の短い針は、そろそろ九を指そうとしている。


「……ねぇ、鋏楽さん」


 その、紙坂の声音こわねは。


「はい」


 鋏楽が警戒態勢を敷くのに十分なほど、冷え切っていた。


「溜まってるんだけど」

「…………」


 鋏楽は、座ったまま目線を落として無言だ。


 ここ数ヶ月、たまにこうなることがある。

 彼が何を意図してその言葉を口にしているのか、このあと何を言われるのか、想像がついていた。


 無視をされた紙坂は、当然不愉快そうに息をらす。


「ねぇ、聞いてんの? 溜まってるからすっきりさせてくれって言ってるんだけど」

「……何のことか、私には分かりかねます」


 転瞬。



「性欲が溜まってるから処理しろっつってんだよ!」



 普段の――かつての彼からは想像もつかない怒声が、部屋に響き渡った。

 反響は気持ちの悪い沈黙を残して去り、次第に窓越しの雨音が部屋を満たし始める。


 その気迫に怯むことも内容に顔をしかめることもせず、鋏楽は遠い目をうつむかせながら冷然とした態度を崩さない。


「……随分、乱暴なことをおっしゃいますね。私がどう反応するとお思いで?」

「今、誰のおかげで食ってけてると思ってんの?」

「…………」


 大きな変化はないが、彼女の目の奥には確かにあきれが生まれている。


「ぼくが描いた漫画のおかげであんたはアシスタントしてるだけでよくなったんでしょ。他の細々こまごましたバイトも全部辞めてぼくの実績にしがみついている分際で、それくらいのこともできないの」


 鳴かず飛ばずだったこれまでのことを棚に上げた、傍若無人な物言い。


 数秒、上手く溜息ためいきを吐き出すために使って。

 鋏楽は、ゆっくりと口を開く。


「…………リボヘリンは、記憶などの情報の継承を可能にする薬物です」

「は?」


 鋏楽の右手が動く。


「これは、先生の餌にした絵師様の性格まで調べていなかった私の落ち度ですね」

「なに言ってんの」


 鋏楽の足が動く。


「もう、ここまでだということです」


 そこからは、まさに目にも留まらぬ早業はやわざだった。


 背後に隠し持っていたなたを握りしめて立ち上がり、酒で弛緩しかんしきっている紙坂のもとへ接近、机に預けていた彼の右腕に。

 ――ひと振り。


 この一連の動作で、一秒かかったかどうか。

 ひとつまたたいた頃には、なたの刃が天板を殴りつけた爆音が空気に溶け終わっている。


 当人が事態を把握して反応を引き出してくるまでには、さらに少しかかった。



「うわあああぁぁぁぁああ――ッ!!」



 耳をつんざく大絶叫。

 ちょうど右腕の前腕なかば――血が噴き出す断面を必死に握ってわめく紙坂を、鋏楽は持ち前の冷え切った双眸そうぼうで見下ろした。


「多少調子に乗ることは想定しておりましたが、まさか性格の継承によってここまで変貌してしまうとは思っておりませんでした」

「な、なにをして――ぁぁあッ!」


 荒れた呼吸と絶叫でまともに話せていない。本人は一生懸命傷口を握りしめているようだが、その断面からは波打ちながら血液が流れ出している。机上きじょうに収まらなくなった血の海は、細い滝を何本も伸ばして床に降り注ぐ。


「見てのとおり、あなたの右腕を切断させていただいただけでございます。一年ほど前にもこなした仕事ですので、そう驚くことでもないかと」

「な、なんで……! 鋏楽さんはぼくのアシスタントで……っ!」


 ふふ――と。

 鋏楽さくらが、わらった。それはそれはたのしそうに。ご機嫌に。


「私が、本当にただただ純粋な気持ちで、あなたのそばにいたとお思いですか?」

「え……?」

「私が、善意で、好意で、あなたに自宅を事務所として提供したとお思いですか? 過去の栄光しか持たない六つも下のガキを、アルバイトを掛け持ちしてまで養っていたとお思いですか? あなたにそれだけの価値があると、お思いになられていたというのですか?」

「なにを、言って……!」


 紙坂さかしの失脚も明白となった頃。鋏楽は、アシスタント志望の連絡を入れた。

 自宅を事務所兼居候いそうろう先として提供し、衣食住全てを養うという破格の条件。ほとんど路頭に迷っていたような状態だった紙坂は、お得意の警戒心ゼロの純情に身を任せ、その提案に乗った。

 それから数年、一作も書籍化できない紙坂はただのヒモであり続けた。処女作の栄光が、ただのまぐれだったという現実から目をらしながら。


「アシスタントを志願したそのときから、あなたはずっと私の餌に過ぎません。私がしていたのはあなたの補佐ではなく、飼育でございます」


 紙坂の目元から、刻々と生気が抜けてきている。あえぐばかりで言葉をつむげない彼を捨て置き、話は続く。


「この世には、バームクーヘンを食べて育つ豚がいます。人間が美味しい肉を食べるために、バームクーヘンなどという上等な飼料を与えられているのです。他にも、ぶどうやオリーブ、ビール、りんごといった餌を与えられている牛も存在します。ひとえに、将来自分の餌になるものへの初期投資。妙味みょうみのための必要経費」


 初期投資で、必要経費で、するところ自己投資。


「……私にとっては、あなたにリボヘリンなどという入手困難な餌を提供することが、まさにその初期投資――必要経費だったのです」

「そんな……最初から、」

「最初から、あなたの成長は私の餌の熟成にすぎません。純真無垢で人を疑わず、挙句あげく人並みの嫌悪感さえ持たないその行き過ぎた無頓着のおかげで、餌やりは至って簡単でした」


 遠のく意識と、そのなけなしの意識さえ曇らせる絶望。鋏楽の視線の先で、紙坂はみるみる弱っていく。

 いつの間にか涙を流している彼が、細い声を絞り出す。


「だったら、わざわざぼくに腕を食べさせずに、鋏楽さんが食べていればよかったんじゃ……」


 机に突き刺さったままのなたを、鋏楽の細腕が力任せに引き抜いた。刃に付いていた血液が飛散し、壁に赤い飛沫しぶきえがく。


「リボヘリンの存在を知ったときは、もちろん、自分のために使う予定でした。一度諦めた夢が再燃したくらいでしたから。ただ――これは至極しごく簡単な話で、あなたの伸びしろを買ったのです。一旦あなたを経由したほうが、結果的に私の成長の幅が大きくなると踏んだに過ぎません」


 言い終わると同時に、赤く染まったなたを紙坂のあばらめがけて振り抜いた。


「あっ……うぐぅ……ッ!?」


 人体に刃を通すとき特有の不快極まりない感触。女性の腕から出たとは思えない馬鹿力。


 痛みに目を見開いた紙坂は、腕の止血をする気力も失ったようで、ぐったりと机に突っ伏してほとんど動かなくなった。涙の水溜まりを作って、か細い息を繋いでいる。


「弱肉強食は、自然界だけでなく社会の中にも存在します。そして、盛者必衰のことわりと競合する。強者がいつまでも強者でいられるとは限りません。……ただし、強者の器を持つ者は確かに存在する」

「う……」


 深々と刺さったなたを引き抜いて、あふれ出る血液。


「私がこうしてあなたをらい、強者に君臨することは世のことわりなのです」

「きょうらく、さん……」


 最後の力を振り絞って、紙坂の喉が鳴る。

 良くも悪くも、底抜けに純粋な彼は、たったひとりのアシスタントを心からしたっていたのだろう。人の悪意を知らず、疑うことを知らず、ただただ親切なお姉さんとして敬愛していた。


 それを好都合としか捉えていなかった鋏楽は、だから最期まで、情けをかけることはない。


「神絵師の腕などではなく、天才学者の脳でも食べていれば結末は変わっていたかもしれませんね」

「がっ――」


 振り上げた得物えものが首を両断するのに、数秒の猶予もなかった。


「せめて、美味しく頂いてあげましょう。……約束された成功を、至高の調味料にして」



       ***



「――続いてのニュースです。昨晩、県内の住宅で鋏楽櫻さんを殺害したとして、同人作家の石嶺りょう容疑者が逮捕されました。遺体は右腕が切断されており、警察の調べに対し石嶺容疑者は『下剋上で世間に栄光を見せつけたかった』と供述しているとのことです。現場からは薬物の付着した注射器が発見されており――……」

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こちら、神絵師の腕でございます 乙糸旬 @shun-otsushi

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