こちら、神絵師の腕でございます
乙糸旬
【前編】~オードブル~
「――この人がいい」
月明かりを
言って青年が見せた作業机のモニターには、とあるSNSアカウントが映し出されていた。遠目からでも分かる、見慣れたそのレイアウト。
覗き込んだ女性の端整な顔つきが、青白い光に照らし出される。
「この方は?」
「ぼくが一番尊敬してる神絵師さん。ほら見て、フォロワーの数もすごいんだよ」
「……本当ですね、名実ともに素晴らしいイラストレーターだと見受けられます」
整然としたプロフィール欄。
ライトノベルの挿絵やソーシャルゲームのキャラクターイラストなどが実績として並ぶ、誰もが認める売れっ子絵描きだ。六桁のフォロワー数にも文句の付けようがない。
青年の視線がモニターから外れ、女性のほうへ椅子を回して真っ直ぐ見上げる。
「この人みたいな絵が描きたいんだ」
「左様でございますか」
純朴な
「では、この方でよろしいのですね」
パソコンのファンの音さえ耳を触る
「うん、……この人の腕がたべたい」
***
ドアを閉めていても廊下に漏れるような轟音が鳴り響いた。
ちょうど部屋の前まで
「……いかがなさいましたか、
鋏楽が目にしたのは、椅子ごとひっくり返った状態の青年だった。さっきの轟音の正体が一目で分かる光景である。
先生などと大層な敬称で呼ばれたのは、
「……おちた」
「…………」
鋏楽は小首を
彼女はというと、機能性を求めた家政婦のような服装だ。ボブに切り揃えられた黒髪だが前髪は長く、利き目である左目にかかった部分を払うのが癖になっている。
「また落ちちゃった、コンテスト。一次選考も通らなかったよ。小さいコンテストなのに」
ぼそぼそと力なく
あまり耳にしないレーベルのコンテスト――その一次選考通過者の一覧のようである。そもそも参加者が少ないのか、数名しか名前が載っていない。紙坂の言うとおり、その中に彼のペンネームである【薄学才A】の文字はなかった。
四字熟語の〝
「きっと
セリフに反して相も変わらず感情の
「そんなことないよ。鋏楽さんはぼくよりずっと優秀なアシスタントさんだもん。ぼくが漫画家として生煮えなだけ」
「生煮えの漫画家は、中学一年生で史上最年少の新人賞受賞者にはなり得ないと思いますが」
よいしょ、と
中学一年生で史上最年少の新人賞受賞――それが、彼を漫画家たらしめる実績である。プロ顔負けとまでは行かずとも、若さゆえの奇想天外な発想と編集者の手腕が上手くマッチしたことで、最年少という付加価値を
鋏楽が紙坂を知ったのも、当然ながらその
一息ついた彼の前に、鋏楽が手にしていたファイルが差し出された。
「こちら、頼まれていた次回作のキャラクター案です」
「わ、ありがとう」
ブレインストーミングの要領で鋏楽がラフを描き並べた資料に目を通しながら、紙坂が続ける。
「新人賞を獲ったのは、もう六年も前のことでしょ。当時は話題になったけど、今はもうオワコン。とっくに終わったコンテンツだよ」
「私は、先生の才能を信じております」
「鋏楽さんだけだよ、そう言ってくれるのは。
突然出てきた名前に、鋏楽は表情を固定したまま記憶を
「石嶺様――たしか、中学の頃のご学友でしたか」
「ごがくゆう……?」
「ご友人という意味です」
「あぁうん、そう。趣味が同じだったから仲良かったんだ。石嶺は、今は同人
企業を通さずに自費で作品を創作・販売するのが、いわゆる同人活動である。
「左様でございますか」
紙坂は中卒だ。漫画制作にばかり没頭して勉強に身が入らず、実際処女作がヒットしたことで稼ぎもあったため、
その選択は自動的に交友関係の構築機会を
ふと、資料に目を落とす紙坂がうっすらと
「石嶺だけは、心の
「…………」
年頃の少年少女が友情に
例によって心身の変化に
「……そういえば、神絵師さんの腕のことはどうなったの?」
紙坂本人は声の調子すら変えずにけろっと問うたが、鋏楽の
言わずもがな、紙坂は理解しているはずなのだ。自分が口にした事象に、神絵師の腕をどうすることが含まれているのか。その神絵師を、どうすることを指しているのか。
分かったうえで、眉ひとつ動かさず純粋に言及している。
軽蔑に熱を奪われた瞳を悟られないよう、鋏楽はひとつ咳払いをした。
「元々、その準備が整った
「え、……ってことは、」
「お昼時ですし、お食事になさいますか? 本日は特別なランチをご用意しております」
「やった……!」
気色の悪いお方ですね――と、思わず
ゲーム機を買ってもらった子供のようにはしゃぐその姿を見ないよう目を伏せて、鋏楽は支度のために一度部屋を出る。彼女の言葉どおり、ドアを抜けたそこにはすでにサービスワゴンが用意されており、クロッシュを冠するプレートを手に取った。
鋏楽自身も、自分が何をしているのかは分かっている。
それでも、こんなことを嬉々として受け入れる青年に対して、侮蔑の念を抱くなというのは不可能に等しいものだ。
部屋に戻った途端にクロッシュを見て笑顔を咲かせた紙坂のことを、だから彼女は努めて目に入れないようにした。
「――こちら、神絵師の腕でございます」
言って、鋏楽が机にプレートを置いた瞬間、紙坂は卓上に広がっていた漫画道具一式を横へと払い
さしもの鋏楽も、
別に払い
クロッシュを持ち上げて、部屋の空気が一気に冷えたような感覚。
ヴェールを
「わぁ……! これ、ほんとにあの人の腕なの!?」
前腕
――常識の破綻。感性の異常。倫理観の欠如。
言ったところで、仕方のないことだ。
「えぇ、間違いなく、先生が尊敬する絵師様のものでございます」
「おぉ……! うわ、
じぃ、と顔を近づけて観察していた紙坂が、鼻を
「人肉には比較的強い
「……こんなもの、ほんとに食べれるの?」
遅れ
「今さらですか。召し上がらないのであれば廃棄いたしますが」
「いや、待って! ……これを食べれば、ほんとに絵が上手くなる?」
「えぇ、いわゆる
神絵師の腕を食べるというのは、だからイラストの腕を上げたいという絵描きの願いを表した言葉だ。あくまでただのジョーク――の、はずだったもの。
「……ただし、召し上がる前にこちらを注射する必要があります」
言いつつ、サービスワゴンから一緒に手に取っていた一本の注射器を
実験用ではなく、医療用。針を備えた
中には、若干緑がかった毒々しい液体が
怪しい液体と注射針は見るからに
「なにそれ?」
「RNA継承剤――通称リボヘリンと呼ばれる薬物です」
「リボヘリン……」
「記憶痕跡RNA説。……プラナリアやアメフラシは、身体の一部を移植あるいは共食いすることによって、記憶が継承されることが確認されています。そのことから、記憶はRNAに保存されているのではないかとされる仮説です」
「…………」
「リボヘリンは、それを人間で再現することができる違法薬物です。表社会の人間は、たとえ専門の研究者でも存在を知りません。……これを人体に注射することによって、経口摂取を介してその者の記憶や能力の一部を継承することが可能となります」
淡々と説明を
そもそもこの分野は未だ研究段階であり、どの説も有無を言わせないほどの説得力を有しているとは言えない。リボヘリンの出回っていない表社会では、記憶痕跡RNA説自体はまだまだ広大な伸びしろが残されているものだ。
そんな、難解かつあやふやな議題を、素人が説明して素人が理解できるはずもないのである。
果たして、紙坂は諦めたらしく開き直って眉間の力を抜いた。
「……ぼく、そういうのはよく分かんないや。ただ、これって食べても大丈夫なの?」
「リボヘリンには、人体に含まれるプリオンを変性させる効果が含まれております。これによって、人肉を食した際に引き起こされるクールー病の発症リスクを極限まで抑えることが可能です。十中八九、死のリスクはないかと」
もはや横文字は紙坂の耳に残ってすらいない。致死性がないという結論だけ拾えていれば十分だ。
「そっか、じゃあ安心だね! ちょっと怖くなってたけど、ぼく食べるよ」
先ほどの警戒も完全に解いてしまって、紙坂は笑顔で
いまや、彼には目の前の腕が美味しそうに見えているのではないだろうか。希望に満ち
「左様でございますか。……では、リボヘリンを注入いたします」
「うん、お願い!」
鋏楽は調理済みの腕に針を刺し、中の液体をゆっくりと流し込んだ。
見た目の変化は一切ないが、たったこれだけでこの腕にはとてつもない変化が起こっているのである。そして、これからとてつもない変化をもたらすのだ。
さて、お膳立てが整った。
「では、どうぞお召し上がりください。人生を変える片道切符でございます」
ごくりと
「……いただきます」
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