第9話 人魚姫はエラ呼吸ではなくてよ

 ゆらりと水に揺れる自分の金髪を見て、ヒュルケは自分が海中に居る事を察し、必死になって藻掻もがいた。


——嘘っ! 私、泳げなくってよ!?


「がばがぼごぼがばっ!!!!」


 ふと見ると、自分の足が立派な魚の尾びれとなっていることに気づき、——なんだ、『人魚姫』の物語の中なのね——と納得した。そして納得した途端に難なく呼吸をし、尾びれを優雅に動かして海中を泳ぎ回る事ができるのだから、我ながらなかなかに器用なものだとヒュルケは関心した。


——それにしても、エラ呼吸じゃないのにどうやって息ができるのかしら……。

 そう考えて、ヒュルケはフト自らの太腿に触れた。滑らかな鱗に覆われている下半身は、どう見ても魚類である。


——これって、真っ裸ですわよね……? 嫌だわ! 恥ずかしいっ!!

 その辺りに生えていた海藻を引っこ抜くと、ヒュルケは自らの身体にぐるぐると巻き付けて隠した。


「あら、私達の可愛い末の妹! こんなところに居たのね? さあ、早く行きましょう。パーティーが始まってしまうわ!」


 突然人魚たちがヒュルケを取り囲むと、強引に腕を引いて泳ぎ始め、身体中に海藻を巻き付けたヒュルケはされるがままに引っ張られて行く羽目となった。


——ちょっと待って! 水の中なのにどうしてしゃべれるのよ!? それに全員真っ裸じゃない!! 恥じらいというものが無いのかしらっ!?


 混乱するヒュルケにはお構いなしに、海底へとぐんぐん連れて行かれ、あれよあれよといううちに人魚の国の王や使いの者達が集まりだして、パーティーが始まった。

 先ほどヒュルケを強引に連れて来たのは、どうやら姉達らしい。彼女らは自慢の歌声を披露していたが、ヒュルケはとてもではないが歌う気になれず、つまらなそうに自分の髪の毛を指にくるくると巻き付けて時間を潰した。

 そもそも海の底は光が届くはずが無いというのに、まるで太陽の下であるかのように鮮明に周囲を見渡す事が出来る事自体妙だと思ったが、おとぎ話の世界である為、リアリティを追求するのは止そう、とヒュルケは思い直した。


——さて、『人魚姫』の話は、嵐に巻き込まれて船が転覆し、その時に助けた人間の王子に恋をするのだったわね。そこで、声と引き換えに人魚姫は人間へと姿を変えるのだけれど、心から愛されなければ海の泡となって死ぬ運命であると告げられるわ。ところが王子は隣国の姫と結婚してしまい、人魚姫の姉たちは最後の手段として、自分達の髪の毛を魔女に差し出して作って貰った短剣を人魚姫に渡して、これで王子を殺せば元の姿に戻れると言うのだけれど、人魚姫は王子を殺す事ができず、海の泡となって消えていくというお話ね。

 うん、不思議だわ。振られた相手の事なんてどうだっていいじゃない。ブスっとひと思いに刺してしまえば良かったのに。


 ヒュルケはキョロキョロと辺りを見回し、パーティーで盛り上がっている人魚たちを観察した。


——エルディはこの中には居ないようね。尤も、居たとしたら彼も真っ裸ということになるのだから、恥ずかしくて堪らないわけだけれど……。それにしても、今回は一体どんな登場キャラクターになっているのかしら?


 パーティー会場の海底からこっそりと抜け出すと、ヒュルケは尾びれを一生懸命に動かして水面へと向かった。


——こんな風に一気に浮上したら、水圧差で目玉が飛び出しそうなものだけれど、無事なところを考えるに、物語の中は普通の世界とは全く違うようね……。


 ぐんぐんと浮上して水面から顔を出し、ヒュルケは驚いて息を呑んだ。穏やかだった海の底とは異なり、海上は荒れ狂う嵐で大荒れとなっているのだ。


「なによ! もう嵐が起こっているじゃない!」


 粉砕された船の破片が至る所で波にもまれ、ヒュルケはぶつからないようにと急いで泳ぎ、王子の姿を探した。海面は白い泡で視界も悪く、激しい波に尾びれが取られ、真っ直ぐに泳ぐのは困難を極めた。

 ふと、金髪の男が荒波に揉まれブクブクと沈んでいく様子が視界に入り、ヒュルケは必死になって尾ひれを動かし、男を両腕で抱えて海面へと顔を出した。


「エルディでは無いわね。この顔はアレクシス王子ですわね。毎回王子役、大変ですわ」


ゴン!! と、流れて来た船の破片が王子の頭を直撃し、ぷっくりとたんこぶが出来上がった。


「あら。ぶつけちゃったわ……」


 次々と襲い掛かるかの如く流れて来る木片を避け、その度に王子の頭は無事では済まなかった。ヒュルケは必死の思いでなんとか岸へとたどり着き、ぐったりと項垂れた。


「最悪よ。もうへとへとですわ……」


 王子を岸へと引きずり上げようにも、足が尾びれである為踏ん張りがきかない。仕方なくゴロゴロと転がすと、王子は体中が砂まみれとなり、人の姿には見えない様子へとなり果てた。王子は穴子天。ヒュルケはさしづめエビフライといったところか……。


「ねぇ、ちょっと……」


ヒュルケは王子を起こそうとして、ピタリと手を止めた。王子の頭の上にでかでかと膨れ上がったたんこぶに罪悪感を覚えたのだ。


「わ、私のせいじゃないわ! とにかく、私は助けたのだから、一旦はお役御免よね!?」


 ヒュルケは慌てて海の中へと戻ると、とにかくさっさと物語を進める事にした。人間にしてもらう為には確か魔女の住処へと向かわなければならない。

 海の底の渦を潜り抜け、更に深く深く潜っていくと、一軒の掘っ立て小屋が立てられている様子が見えた。


——海の中に家がある意味なんてあるのかしら?


 疑問に思いながらも意を決して扉をノックすると、人の良さそうなおばあさんが顔を出した。


「お前が来る事は分かっていたよ。人間になる為の薬を貰いに来たんだね? 一度人間になってしまえば元に戻る事は叶わないよ。そして、愛されないとお前は海の泡となって死んでしまう運命だ」


——人の良さそうな顔をしておいて、言う事が残酷極まりないわ。

 ヒュルケが承知だと頷くと、魔女は満足そうに微笑んで、薬が入った瓶をヒュルケへと手渡した。


「お代としてお前の声を貰うが良いかえ?」


——どうせ海中では上手くしゃべれないし、どうってことないわ。


 ヒュルケがこくこくと頷くと、魔女はギラリと輝く短剣を出した。


「さあ、舌を出しなさい。お代を貰おうじゃないか」

「がぼば!?」


 ヒュルケが驚いて飛びのくと、魔女はヒュルケを捕まえようと腕を伸ばした。ヒュルケは必死になって尾びれで魔女の顔に往復ビンタを食らわせると、薬の瓶を握り締めたまま一目散にその掘っ立て小屋を後にした。


——あれ? これって強盗じゃないかしら!? でも、舌を切られるだなんて嫌ですわっ!! 気にせずさっさと人間になってしまいましょ! どうせこの物語が終わってしまえば、犯罪だって無効ですわよね!?


 哀れな年寄りに往復ビンタを食らわせて薬を奪い取ったヒュルケは、再び海面へと顔を出し、岸へと泳いで岩の上に腰かけた。


 先ほど奪い取った瓶の蓋を開け、くんくんと匂いを嗅いでみる。


「なにこれ!? 臭っ!!」


——そもそも海中でどうやって薬を調合して、どうやって瓶の中へと詰めたのかしら!?


 暫く飲むのを躊躇って時間を浪費した後に、ヒュルケは思い切って漢らしくぐっと薬を飲み干した。あまりの不味さと臭さにパタリと倒れて悶絶し、息も絶え絶えとなりながらヒュルケは気絶した。


◇◇


『あぶない!!』

『きゃっ!!』


 緩やかな癖毛の金髪を揺らし、少年が慌ててヒュルケを押し倒した。突然何事かと驚いていると、少年は涙目になりながら頭を擦り、必死になって痛みに耐えている。すぐ側には太い木の枝が落ちており、どうやら王城の庭園の掃除をしていた使用人達がふざけ合っていたものが飛んできて、ヒュルケを庇い少年が頭で受け止めてしまった様だった。


『まあ、なんてこと!!』


 と、怒り出したヒュルケの口を少年が慌てて塞ぎ、『静かに』と、声を潜めた。


『まったく、ふざけすぎだぞ? 誰かに当たったりしたらどうする気なんだ』

『誰も居なかったさ。さあ、仕事を続けよう』

『その前に、さっき放り投げた枝を拾って来いよ』


 近づいてくる物音に気付き、少年は慌てて立ち上がると、ヒュルケの手を引いてその場から退散した。息を切らせながらガゼボの中へと駆け込むと、ヒュルケは少年を問いただした。


『どうして逃げるのかしら? あの者達は貴方に怪我を負わせたというのに!!』

『私に怪我をさせたと知れたなら、彼らは処罰を受けてしまいます』

『罰せられるだけの事をしたのだから、当然ですわ!』

『ですが、私を傷つけたとあっては、罪よりも重い罰を受ける事になるのです』


 王子の身を傷つけたとあっては、どんな処罰を受ける事か知れない。アレクシスは幼い身でありながら、その恐ろしさを知っていたのだ。


『だからって、貴方が我慢する必要は無いでしょう?』

『いいえ。私が我慢すれば済む事なのです』

『済まないわ! あの人達なんか、罰せられたらいいのよ!』


憤然とするヒュルケに、少年は寂しげな瞳を向けて首を左右に振った。


『貴方も大切な御母上を亡くしたばかりなのでしょう? 同様に、彼らにも家族がいるのです。彼らが罰を受けたのなら、命すら危ぶまれるでしょう。そうなれば、彼らの御母上達は深い悲しみに暮れてしまうのです。そのような悲しい出来事は、起きない方が良い』


 その言葉を聞き、ヒュルケはズキリと心が痛んだ。そして、目の前で強がりながらも頭の痛みに耐えている少年を聖人の様に思えた。


『それなら、私が貴方を守りますわ!』


 ヒュルケの発言に、少年はふっと笑った。


『女性を護るのは男性の役目です』

『あら、誰が決めたの? 貴方が私に守られたら、私は罰せられてしまうのかしら?』

『……罰せられはしませんが』


困った様に眉を下げた少年に、ヒュルケは満面の笑みを向けた。


『それなら、約束ですわ。私、貴方を守ると誓いますわ!』


眩い程のヒュルケの笑顔に、少年は見惚れる様に唖然とし、そして彼もまた嬉しそうに微笑んだ。

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妖魔の幸福 ―ゼロ― ~悪役令嬢の恋愛指南~ ふぁる @alra_fal

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