3 幕間

「読み終わったか?」叔父がきいた。


「うん」僕は押しつけられた本を閉じて答えた。「これはいつ書かれたんだ? 相当古いものに見える」


「お前も古本道楽に興味が出たか」叔父がにやりと笑った。


「いや、別に」僕は首を振った。「知らない人が書いた年季の入った日記なんて、正直なところ気味が悪いね」


「これは六十年ほど前に男子高校生――上城純が書いたものだ」叔父は僕の言葉を無視した。


「六十年前? やっぱり、かなり昔の日記だね。まあ、この本は日記帳というよりは手帳っぽいけれど」


「その通り。これは手帳だ。ページのほとんどが、その日のスケジュールや覚書きが簡素に書かれているだけだろう?」叔父は僕から手帳を受け取って、開いて見せた。「普段は日記を書くようなタイプじゃなかったんだろうな」


「さっきの日のページにだけ、他の日にもまたがって文字がびっしり書き込まれている……。誰にも話せないけれど、吐き出したくて堪らない思いを受け止めてくれたのが、この手帳だったのか……」


「この時代に、インターネットなんてものはなかったからな」


「六十年も昔なら当然だ。でも……、この日記を書いた純さんが、高校生の姿で今もどこかに存在しているような気がする。不思議な気分だ」僕はつぶやいた。なんとも形容しがたい感情に、胸をちくりと刺される。


「そう感じるのも無理はない。なんせ、古臭い記述がほとんどないからな。川崎京子の髪型くらいか」叔父は手帳のページをトントンと叩いた。「〈真紀〉と〈純〉なんて名前がまず珍しい。特に女子はほとんどが〈子〉、せいぜい〈美〉で終わる名前だったろうから、当時名づけた親は相当進んでいるな。それから……。そうそう、この日の夕食は固形ルウから作った甘口カレーライスだったとあるが……。固形ルウの発売が始まったのも、この記述のたった十年前。そして、日記が書かれるころになって、ようやく甘口カレーが一般に販売されるようになった。辛いカレーしかなかった当時においては、かなり画期的な商品だったという」


「へえ……」僕は叔父の博識ぶりに感心した。


「固形ルウはそれまで主流だったカレー粉よりも高級品だ。双子の名づけ方からしても、上城家は裕福で都会的な家族だったんだろう」


「あ、これも」僕は思いついて言った。「二階建ての家で、しかも襖じゃなくてドアなのも、裕福さを裏づけているんじゃない?」


「そうだな。子供部屋もあるし、新しく建てた家じゃないと、そう洋風の造りにはならないはずだ」叔父は頷いた。「あとは……、この手帳自体も。時間の目盛りが入ったこの形態の手帳は、当時としてはかなり珍しい。市販が開始されてからすぐの商品か」


「今はこれが主流だよね」


「そして、何より……。今以上に過酷な差別が蔓延る時代の高校生としては驚くほどの、マイノリティに対する理解。上城家がそうだったのか、純が個人としてそうだったのかはわからんが、とにかく、新しいものを素早く受容できる柔軟性があったんだろう」


「すごい。手帳の一部を読むだけで、そこまで推測できるなんて」


「まあ、あくまで推測だがな。この手帳に記述されたことだけが、読み手にとっての〈真実〉になってしまう。それ以外のことは何もわからない。上城純の記述が正確だという保証もない。むしろ、人間の視野にはただでさえ世界の一部しか映らないのに、加えて記憶と叙述を経てしまえば、すべてのエピソードはどこかしら現実とずれることになる。つまり、嘘になる。どんなにそれらしい推理を思いついたとしても、俺たちが真実を知ることなんて、実際のところ不可能なんだ。それは、常に肝に銘じておかなければならない」


「意外と、ちゃんと考えてるんだ」僕は素直に感心して言った。「僕たちが手帳から読み取ったことは全て的外れかもしれないし、そもそも、ここに書かれていることが全て上城純の本心だとは限らない。極論を言えば、妄想や創作の可能性だってある」


「そういうことだ」叔父は真剣な表情を崩した。「ここの、上城純と川崎京子がキスしたっていうシーン。これも、なにがどうなってそういう空気になったのか、さっぱりわからないな。どうして自分に告白したのかをきいた、としか書かれていない。書かなかったということは、顔がタイプだったとか、お金持ちで魅力的だったとか、そこら辺のことを言われたんだろう」


「叔父さん……。自分で言ったそばから、適当なこと言うなよ」僕は呆れて言った。もちろん、叔父は意図的に冗談を言ったのだろう。「それこそ、、僕たちが知りえないこともわかるだろうけれど」


「面白いことを言うな」叔父は笑った。


「この古びた手帳のおかげで、錆びついた想像力が久々に活性化するのを感じたよ。なかなかに刺激的な体験だったみたいだ」


「お、興味が出てきたか?」


「いや……。個人の秘密を覗き見るようで、やっぱり、良い趣味とは思えないね」僕は苦笑した。


「でも、面白いと思っただろう? 安心しろ、プライバシーにはきちんと配慮している。譲り主から許可を得た物しか、他人には見せない」


「譲り主……。この手帳は、どうして叔父さんのところへたどり着いたんだ? 誰が持ってきた? まさか、純さん以外の誰かに見つかって……」僕は想像して、ぞっとした。


「さあな。それは教えられない」叔父は手帳を閉じた。「言っただろう? プライバシーには配慮してるって」


「はあ」僕は溜息をついた。「それもそうか」


「もっと見せてやろう。こんなのはどうだ?」


 叔父は新たに取り出した本を、机の上に並べた。

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雨庭 夕影 巴絵(夕焼けこやけ) @madder

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