2 雨庭
「まさか、OKをもらえるとは思ってなかったんだ」川崎が言った。
「何が?」委員会からの帰り道、僕は自転車を押しながら、首を傾げた。
「一か月前、上城くんに告白した時の話」
「ああ……」もう一か月も経つのか、と僕は考えた。「急にどうしたの?」
「こうやって二人でいる状況が、いまだに信じられなくって。上城くん、モテモテだけれど告白は断りまくってたから」
「僕は不思議だった。どうして君みたいな子が、僕なんかに告白するのか」
「告白され慣れているのに不思議だったの? どうして?」川崎がきいた。
「太陽の――真紀の輝きを間近で見ていた親友の君が、僕を選ぶとは思わなかったから」僕は答えた。「それに、君はそれまでの子とはタイプが全然違っていたんだ」
「あは、何それ。真紀は関係ないよ。上城くんはしょっちゅう告白されるくらいかっこいいし、賢いけれど……。私はね、上城くんの優しいところがいいな、って思ったの」
「僕が優しい?」僕は、笑いそうになるのを堪えた。
「いつも女の子たちの告白を一刀両断して、ひどいやつだなって思ってた。でも、よく見ると上城くん、告白をあしらう時、いつも拳をぎゅって握り込んでいたでしょ。あれ、と思って」川崎は照れたように頬をかいた。「それに気づいてから、無意識のうちに上城くんのことをよく観察するようになってたんだ。自分で振った子が慰められているのを遠くから心配そうに見ていたり、落ちている鉛筆をそっと目立つところに置いたり、日直が先生に提出し忘れた日誌を、教室に誰もいなくなってから先生に届けに行ったり。無器用だけれど優しいんだなって――」
立ち止まると、合わせて川崎も立ち止まった。
川崎の目が大きく見開かれる。
視界の端が、川崎の向こう側に真紀の姿を捉える。
僕は目を閉じた。
触れていた唇を離すと、真っ赤な顔をした川崎が手で口元を押さえた。反応を見るに、初めてだったのだろうか。
「また明日」
僕が言うと、川崎は無言で二、三度頷く。
僕は川崎に背を向けて、家の中に入った。
「弟よ」
靴を脱ごうと屈んだところで、頭上から声が降ってきた。
「家の前でずいぶんとやるじゃないの」仁王立ちをした真紀が言った。「気を利かせて、庭の水やりを中断して隠れてやったんだから。感謝してよね」
僕は靴を脱ぎ、真紀を無視して自分の部屋へ向かう。すると、真紀に腕を掴まれた。
「私、純に特別な人ができて安心した。今まで友達らしい友達もいなかったでしょう? 相手が京子なら、なおさら安心」真紀は腕を離して笑った。「よかったじゃん」
「……ありがとう」
僕がそれだけ言うと、真紀は満足げに僕の頭を撫でた。
「全く、純ちゃんはかわいいな」
* * *
「真紀、来ないわねえ」固形ルウから作った甘口カレーライスを食べ終えた母が、頬に手を当てて言った。父の帰りが遅く、真紀も来ないので、今夜の夕食は母と僕の二人きりだ。「食欲ないから食べない、なんて言うから、サラダだけでも食べに来なさいって返したんだけれど」
僕は、真紀に撫でられたばかりの頭に触れる。
川崎は、それまで告白してきた女子とは違っていた。川崎は、真紀の親友だった。僕にとって違っていたのは、そこだけだった。僕にとって、川崎の価値はそこにあった。
「純、悪いけど真紀の様子、見てきてくれる?」食器を片づけながら、母が言った。
「わかった」
階段を上って、真紀の部屋の前へ到着する。
「真紀」
ドア越しに呼んだが、反応はない。
「真紀?」
もう一度呼びかけたが、やはり返事はなかった。
ドアノブに手をかけて、静かに開ける。部屋の中は、真っ暗だった。もう少しドアを開くと、廊下の光が入って、隅でうずくまっている背中が見えるようになった。
「京子お……」
すすり泣く女のつぶやきを聞いて、僕は全てを察し、理解した。
つま先から頭まで凍ってしまったかのように、動けない。
「昔からずっと、私にとっては純が太陽だったよ」
振り向いた姉が、微笑んでいた。
堪らず、僕は隣の自室へ駆け込んだ。
背中でドアを閉めて、座り込む。
思えば、真紀が異性に好意を寄せている場面を、これまで見たことがなかった。なぜ気がつかなかったのだろう。もちろん、真紀は必死に隠していたはずだ。
少数者の苦悩を抱えていた真紀にとって、僕は太陽であった。
でも、僕だって……。
いや、やめよう。
真紀と僕とでは、悩んでいる次元が異なる。同一のレベルで語ることは、きっと僕が許さない。
僕の苦しみは単なるエゴに由来する。エゴが通らないことなどままあるし、よほど自己中心的な人格でない限り、どうしようもないと諦めて、受け入れられることだ。
他方、真紀はどうだ? 自分の属性を無視し、排斥する社会の中で生きている。社会が自分を受け入れない。想像を絶する苦しみだ。真紀が苦しまずに生きられるよう、僕には何ができるだろう? 身内の問題になった途端現金だ、と言われるかもしれないが、真紀の家族として、また社会の一員として、真剣に考えなければならない。
僕は立ち上がって、窓から庭を見下ろした。真紀が育てている花は、雨の中でも凛と咲いている。
それでも、今夜だけは。
僕のエゴで泣いてもいいだろうか。
……。
どちらにせよ、一緒に生まれた時から実らないと決まっていた感情だ。実らない理由が一つ増えたところで、何も変わらない。
それがただの親友ではなく、姉の愛する人によってもたらされるとは、なんという因果。
なんという馬鹿な失策。
なんという、皮肉。
僕の分身、本当の愛しい人。
血に呪われた恋へのくだらない苛立ちと出来心で、ほんの少し、奪ってやろうと思っただけだったんだ。そう、ほんの少しだけ、のはずだった。
僕にはお似合いの報いだろうか?
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