数学者(v.s.コロッケ)

北 流亡

v.s.コロッケ

 西村玲子は困惑した。レシピに書いてあることが、ほとんど理解出来なかったのだ。


 1+1=2だ。

 斜辺の長さをc、他の二辺の長さをa、bと定義すると、c^2=a^2+b^2だ。

 3以上の自然数nについて、x^n+y^n=z^nとなる自然数の組 (x,y,z)は不在だ。


 は理解出来るのだが、ジャガイモと挽肉と玉ねぎを加算するとコロッケが導き出されることは理解出来なかった。


 数学雑誌を一瞥した。そこには、様々な問題がある。全容を一回読めばすぐ解けるものもあれば、一日がかりになるものもある。しかし、どんな問題に於いても、必ず答えはあった。


 レシピ。小さく、口に出してみた。この問題に明確な解があるとは、どうしても思えなかった。


 最初に「ジャガイモを竹串がすっと通るまで茹でる」と書いてあった。まず、それが解らなかった。

 袋から出したばかりのジャガイモ。それに竹串を立てる。通らずに、折れた。ということは、まだ次の工程の「ジャガイモを潰す」には進めないのだ。それだけは解った。


 水を張った鍋にジャガイモを入れる。コンロを点火し、つまみを目一杯に捻る。プロパンガスと酸素の反応による青い炎が、鍋そこを舐めるように広がる。玲子はここまでの工程に間違いは無いと確信していた。鉄の融点は1538℃だが、水の沸点は100℃だ。よって、どれだけ火を強くしようが、ジャガイモが「竹串がすっと通る」前に焼け焦げることは無い筈だ。


 程なくして、鍋は沸騰した。沸点を超えた水が気化して泡状となり、水面に音を立てていた。ジャガイモが揺れている。玲子はまんじりとせずにそれを見つめる。そのまま、微動だにしなかった。沸騰した湯だけが時を刻んでいた。この間に、別な作業に取り掛かる思考は無かった。ただ、竹串を持って、時を待った。


 15分くらい経っただろうか。ジャガイモの外見に変化は確認出来ない。変わらずに、鍋の中で微動していた。

 思い切って、竹串を刺してみた。右手に、力を込めた。竹串は、ジャガイモを通過し、鍋の底に触れた。

 しかし、玲子の頭に引っかかるものがあった。「竹串がすっと通る」の「すっと」の部分だ。刺すとき、力を込めた。僅かではあるが、その感触は右手に残っていた。

 15分。さらに待った。もう一度、刺す。竹串は、そこに何も無いかのように、すんなり貫通した。ジャガイモの表面は僅かに崩れていた。これが良かったのか、悪かったのか、玲子には判断はつかなかった。


 湯を捨て、ボールにジャガイモを入れる。皮を剥く。レシピの次工程にはそう書いてあった。

 手を触れる。熱い。思わず、手を引っ込めた。沸騰した湯にさっきまで入っていたのだ。当然であった。しかし、そんなことすら忘れている。玲子は大きく息を吸って、吐いた。触れられるようになるまで、別な作業をしよう。漸く、その考えに至った。


 フライパンを中火で熱する。1分00秒

 フライパンに油を入れる。15.000cc

 牛豚合挽肉を入れる。100.000g

 微塵切りにした玉ねぎを入れる。100.000g

 挽肉と玉ねぎを程よく炒める。


 玲子はここで頭を抱えた。


「程よく」とは何なのか。

 時間。だとしたら何秒だ。状態。だとしたら何処までだ。答えは無い。もう一度レシピを見る。「挽肉と玉ねぎを程よく炒める」。文言は、変わらない。


 汗。額を伝った。木べらを、フライパンの上で動かす。挽肉の赤味が、茶色くなる。玉ねぎの白味も、茶色くなる。二つの色が、踊りながら一つになっていく。答えには、辿り着かない。着地点は何処だ。遙か先にあるのか。それとも、疾うに過ぎているのか。

 逡巡しているうちに、玉ねぎが黒を帯びてきた。火力が強すぎることに起因しているのだが、彼女はそれに気がついていない。舌打ち。キッチンに響いた。ここから味付けもしなければならない。


 レシピを一瞥する。「塩胡椒を適量加える」。玲子は、もう一度舌打ちした。

 玲子の所持しているスケールは実験用だ。0.01gも、0.001gも量れる。しかし、「適量」は量れない。背中に、汗が浮いた。玲子は塩胡椒を振った。五振。これで足りるのか。いったい、何に対しての「適」なのか。念の為、もう五振入れる。砂塵の積もった荒城。何故か、その光景が頭に浮かんだ。


 ジャガイモは、既に熱を失っていた。汗が、全身に滲んでいた。玲子は皮を剥き、炒めた挽肉と玉ねぎを加えた。

 混ぜ終えると、成形した。30.000g。ピンセットと秤を活用して、寸分違わず、量った。

 そこに小麦粉を塗した。卵液を潜らせた。小麦粉も卵液も「分量外」と書かれていたが、ここは戸惑わなかった。成形した中身を、覆う。それだけだ。中身が見えなければ、それで良いはずだ。ただ、枯渇しないよう、十分な量は用意してある。冷蔵庫には、一週間は籠城できるだけの、卵と小麦粉が用意されていた。分量外。それは制限が無いということだから。


 パン粉で外殻を固めた。それで、形になった。玲子は、細く息を吐いた。長かった。しかし、朧気ではあるが、終着点が見えてきた。


 油を熱した。170℃。あらゆる揚げ物を包括する温度だ。万事を尽くすため、フライヤーを用意した。温度管理に「感覚」の挟まる余地は無かった。仮に、今自分が殺されたとしても、フライヤーは170℃を維持し続けるだろう。それは、銃で撃たれようが、短刀で切り刻まれようが、変わらない。泣いて叫んだとしても同様だろう。フライヤーは、命尽きるまで命令を実行し続ける。もう、感傷も感情も要らない。レシピに忠実に従うだけだ。

 玲子は、最後の行程を見た。


「キツネ色になるまで揚げる」


 玲子の背中を冷たいものが襲った。何処まで、苦しめれば気が済むのか。強く、唇を噛んだ。握った拳が、震えていた。それでも、止まるわけにはいかなかった。もう、コロッケ制作という奔流は止まらない。玲子は、一瞬だけ目を閉じた。そして、開いた。コロッケを、フライヤーに入れた。

 油の弾ける音が、響いた。きつねいろ。小さく、呟いてみた。


 キツネ…動物界脊索動物門哺乳綱ネコ目イヌ科イヌ亜科の一部。実に多様な種類がいる。


 まずはホッキョクギツネ。これは真っ白だ。もし「キツネ色」が彼らを指すなら、パン粉を塗した時点で、勝負は着いていた。しかし「揚げる」と指示がある以上、この線は薄いだろう。


 次に、フェネックを思い浮かべた。大きな耳。他の種類に比べると、体も小さく、個性的な風貌と言えた。色は、ホッキョクギツネほどではないが、薄い。


 アカギツネ、チベットスナギツネ、キットギツネ。頭蓋の内側で、駆け巡った。自分はこんなにもキツネを知っているのだ。

 しかし、コロッケの作り方は知らない。どれくらい、思考を巡らせていただろうか。ギンギツネ。銀というより、黒に近い色のキツネだ。そんな色になっていた。その色は、玲子が小さい頃に祖母に作ってもらった「コロッケ」とは程遠い色であった。


 目に、涙がこみ上げてきた。形振り構わず慟哭したかった。しかし、我慢した。この結末は、誰のせいでもない。自分のせいだ。拳を握りしめた。なんとか、堪えた。


 予めキャベツを盛っていた皿に、ギンギツネ色のコロッケを乗せた。

 時計を見る。30分経っていた。思ったほど、時間は経過していなかった。





「どう、だろうか」

「美味い」

 徹は、短く答えた。表情から、その言葉が真に思ったことは読み取れなかった。もともと、感情表現に乏しい男だった。言葉数も少ない。交際を申し込まれたときも、本気なのか測りかねた。

 徹は、ソースをかけ、もう一度口に運んだ。追撃する形で、白米を口内に入れた。淀みが無い動きであった。さっきの言葉は真実だった。そう思うことにした。

 それ以上、会話は無かった。必要以上のことは喋らない。玲子は、徹のそういうところが、嫌いでは無かった。

 いつの間にか、皿の上は空になっていた。

「ごちそうさま」

 表情は、変わらなかった。

「また、作ってくれ」

「ええ」

 思わず、顔が綻んだ。

 100点の出来ではなかった。それでも、彼は喜んでくれた。思えば、人間の感情にも、明確な解など無い。

 後片付けを済ませると、もう一度、レシピを読んだ。きっと、人によって喜びの表現が様々なのと同様なのだろう。なんとなく、そんな気がした。それぞれの「すっと通る」があり、「程よく」があり、「適量」「キツネ色」があるのだろう。

 問題は、一度解いたら終わりだ。料理は、何回もやることになるだろう。その時々で、最適解に近づくようにしよう。そう思った。


 徹は、ソファに深く腰掛けて、本を読んでいた。それが機嫌の良い証拠だと、最近になって解ってきた。逆に、機嫌が悪いと浅く座る。

 こうして、少しづつ、最適解に近づいていくのだろう。数学も、料理も、二人の関係も。

 最後の皿を拭き終え、籠に置いた。部屋に、ページをめくる音だけが響いていた。

 これで良いのだ。なんとなく、そう思った。

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数学者(v.s.コロッケ) 北 流亡 @gauge71almi

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