レイレの夜

十戸

レイレの夜

 レイレは冷たい石の上に寝そべりながら空を見上げた。そこにはいつと変わらぬ月と星、汲み尽くせはしない夜の暗さと深みがある。彼女と同じ名を持つ暗くやさしい夜が。

 彼女は夜更けに生まれた。

 今日のような月の高く輝く夜、満月の晩に。夜こそはレイレのための時間だった。己と同じ名を持つひとときに包まれてあることの、なんと幸福なことだろう。

 彼女の瞳と髪は夜よりもなおいっそう黒く、肌もまた溶け入りそうな闇色。夜に生まれた、夜そのもののような娘。それが彼女だった。

 風に混じるのは、甘やかに入り組んだ春の匂い――そう、春がきていた。いまや湖の氷は解け、雪は消え、地面の下に眠っていたものらが一斉に目を覚ましている。あたりには恋を鳴き交わす鳥たちの声。彼女はだらりと垂らした腕の先、その先の先に伸びる指と爪とで、けなげに芽吹いた草々のおもてをたわむれに撫ぜた。花開いたばかりのすみれは震えあがった、葉と花弁に触れてきた温かなもの、血の通う生き物が持つ体温なるものに。重く、温かく、嵐のごと首をいじめる得体の知れぬもの。すみれはただ耐えた、およそ種の外へ出てからというもの、そうするよりほかに術がない。忍耐こそが土に根を張る草花の生き方に他ならなかった。

 青虫はぐらぐらと揺れるすみれの葉と、己の口からはみ出す欠伸とを交互にくちゃくちゃと噛みながら、いつか己がなるだろう姿をあれこれ思い浮かべていた。蛹。そして蝶。蛾になるかも知れない。とにかく、なにか空を飛ぶものにはなるだろう。ほかの似たような色かたちをした兄弟たちはみんな、そういったものに変化して飛んでいった。自分だけそうならない理由もない。

 遠からず訪れる夏を前に、彼はこの土地に残された最後の青虫だった。翅が生えたら、彼は月か星を目指してどこまでも飛ぶと胸に決めていた。向かっていくには、太陽はいささか眩すぎる。近づけばずんと熱さも増すだろう。その点、月と星ならば水辺に吹く風のように冷ややかなはず。ちょうどいま、彼が背中を預けている石の塊ときっと同じに。そのためには食べて、食べて、ほかのどの兄弟姉妹より大きく育たねばならなかった。いましも寝る間を惜しんですみれの葉を腹に詰めこんでいるように。……。

 レイレはふいに鋭く短い声を上げた。瑞々しい花の上に遊んでいた彼女の指先に、なにかやわらかなものが触れたためだった。花ではなかった、ほかの植物のどれでも。彼女は石の寝台から身を乗り出し、すみれの咲いているあたりに目を凝らした。胸元に香る甘さから、自分の手がなにか花に触れていたことはわかっていた。見れば、緑と青と紫と黒の、不気味な柄の芋虫がのそのそと葉を食んでいる。レイレはその芋虫をひょいと摘まみ上げ、腹立ちまぎれに遠くへほおった。

 青虫は降り注ぐ月光のさなかにきれいな弧を描いて、どこかべつの茂みへ飛んでいった。

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レイレの夜 十戸 @dixporte

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