泥の中の恋

蒼開襟

第1話

暗闇に生まれてどろりどろりと手足が滲んでいる。

わたくしはどこかへ行きたいとか何かが欲しいとかそんな欲求すら

知ることが無かったのにいつの間にか人のように欲している。

一歩手を出したら泥濘にはまり込んで顔まで浸かってしまった。

暖かいと感じるのはきっとわたくしの体温だと知ってからは、冷たさを感じるたびに

この体は生きているのだ、心臓というものがわたくしの中にもあるのだと

ひたすら思い込むようになった。

こうなる前はもうなにも知らずただ泥の中で暗闇の中で眠るだけだったのに。


ある晴れた晩のこと。わたくしは小さな池の片隅で夜露で光る草をじっと見つめておりました。

ほんの少し顔を上げるだけで煌々と美しい月を見ることはできますが、目の前でキラキラ光る草が美しくて目を奪われておりました。

手を伸ばしてちょっと触ってみましたら草の一部が汚れてしまい、なんだか違う気がしてただただ見つめております。

ふとわたくしの上が暗くなり、あれと顔を上げますと人間の男性が立っておりました。

その方はわたくしを覗き込んで、なにをしているのかと尋ねてきます。ですのでわたくしは草をみつめておりますと声にもならない声で言いました。

するとそうかとその方は笑いました。

ただそれだけのこと。その方からすれば何も意味のないことでしたでしょうが、わたくしには初めて人と話したのです。

人間の男性とはこのように涼やかな声で話すのだと思いました。


翌晩もその方は現われました。朝から雨が続いていたので地面は泥濘ひどい臭いもいたします。

わたくしの体はところどころ泥がはげて薄い皮膚のようなものが出ております。

何度か泥をすくっては肌に塗り付けましたが雨が当たるたびにはげてしまいます。

その方はわたくしを見て手に持っていた傘を差し出しました。

そうか、あなたは雨に濡れてしまうと体がそうなってしまうんだねと。

わたくしははいと答えてその方の傘の下で隠れながら何度か泥を塗りました。

肩から胸元へと手を滑らせたとき胸の奥のほうでちくんと痛みがしました。


それから毎晩その方はやってきてわたくしとその方はお話をするようになりました。

人間と関わることなど恐ろしいことだとここに住む何かに聞かされておりましたが

わたくしはどこか耳障りの良い心地の良い声に誘惑されたのかその方とのお話に

夢中になっておりました。

ある晴れた晩のこと、その方はわたくしの手にそっと触りました。

夏の昼の太陽とは違う熱さにわたくしはドキリとしました。

こんなに似ているのにこんなに違うとその方はうつむいて悲しげに言います。

わたくしには意味がわかりませんでしたがそうですかとわたくしも言いました。


その晩からその方はここへと来なくなりました。

わたくしは毎夜毎夜あの方が触れた手を大事そうに抱えては泥をぬぐうようになりました。

ぱりぱりと音を立てる腕を見ながら、これがあの方と同じような皮膚ならとさすってみたのです。

ここに住む何かがへどろから顔を出してわたくしを見て笑いました。

お前ほど愚かなやつをみたことがない、そんなことをしていても人間にはなれはしないのさ。

その証拠にあいつはきやしないじゃないか。

わたくしはうつむいて目から溢れるものをぬぐいました。

人間とおまえはちがう、早く夢から覚めるのだな。ぽちゃんとへどろの中へと消えた何かはわたくしをへどろの中からも笑っておりました。


随分と長いあいだこうしてここに座っております。あの方はここへはきはしません。

朝がきて夜が来て朝が来てと繰り返し、ある日遠くのほうで明るく空が光りました。

わたくしは朝の太陽とは違うそれを見ておりましたが何かはわかりませんでした。

また同じようにあの方とお話が出来たらどれだけいいだろうとそのことばかりが頭を埋めております。

ある朝へどろから顔を出した何かがわたくしのもとへやってきました。

顔だけしか見たことがありませんでしたから驚きの声をあげると何かは不機嫌そうに笑います。

けれどあの日から光り続けている空のほうを見て、たくさん死んだといいました。

わたくしは少し考えてから、たくさん死んだのですかと聞くとそうだと何かはいいました。

あいつもきっと死んだんだ。空気が変わったからおれは違うところへいくんだ、お前も行かないかと

言いましたがわたくしはいいえといいました。



何度目かの朝がきてへどろに何かがいなくなるとあたりはしんとしました。

わたくしはひりひりとする腕に泥をぬりつけると泥濘に転がりました。

何かがいうようにあの方は死んだのかもしれない、わたくしはぼんやり空を眺めました。

まだらのような空には小さな生き物も飛んでおりません。

目を閉じて前もそうしていたようにただ眠ることにしました。

ここで眠り続ければあの方が来たときにわかるだろうと思ったのかもしれません。


再び目を開けたのは人間の声が聞こえたからでした。

あの方とは違う声に薄目を開けてそちらのほうを見ました。人間の男のような

でも汚い姿でわたくしのほうを見て驚いております。

お前はなんだ、気持ち悪い、どうしてこっちをみる。

わたくしは目を閉じると泥濘の中へ少し体を滑らせました。

汚い男は持っていた棒でわたくしを何度か叩きました。化け物め、気持ちの悪い化け物め。

わたくしは殴られるたびに小さな声を出してしまい、それが汚い男の気を引いたのか

棒で何度も叩かれ、しまいにわたくしがぐったりとした頃には飽きたようで行ってしまいました。


動くたびに体が痛くわたくしは誰もいないのを見てから体を起こしました。

おそろしい、人間というのはおそろしい。酷く痛む体に泥を塗りこみさすります。

あの方も本当はあの汚い男と同じ人間だろうか、何かが話したのはこのことだと

わたくしは身にしみてわかりました。それでもそう思うと胸の奥がチクリとします。

わたくしの胸の奥は痛んでしまったのだろうか、わたくしは泥をなんども胸に塗りました。

それから長い雨が続いて、このあたりにも人間がちらちら見えるようになりました。

泥が流れて体に泥を塗っても溶けてしまうので泥濘に潜んでおりますと、着物をきた女性がわたくしを見つけました。あなた何をしているのと女性はそこに座ります。

あの日あの方がそうしたようにその女性が座ったのでわたくしは体を起こしてしまいました。

女性は驚いた顔をしましたが少し困ったように笑って言いました。

あらあなたは人とは違うのね、そうなのねと。わたくしがうなづくと女性はそうと笑います。

女性は長い髪を美しい指でなでつけるように触って、あたしはあの人を待っているの。

戦争で取られちゃったけど帰ってくるって信じてる、こんなことあなたはわからないか。

わたくしは小さくうなづきました。女性はふふと笑って続けます。

もしかしたら死んじゃったかもしれない、でもそれでも待っていたいのよ。

あなたは誰かを好きになったことがあるかしら、あなたが人じゃなくても好きになることはないのかしら。

わたくしはなんだかむしょうに聞きたくなって、まちがっているのもかまわずに聞きました。

好きというのは胸の奥が痛くなるのですか。女性は驚いていましたがそうよと笑いました。

頭から離れなくて、いつもその人を思ってしまうのが好きということ、触れられたとき心臓が暴れてしまって

欲しくて欲しくてたまらないのが好き。あなたもそんな思いを持っているのね。

わたくしはわかりませんと言いました。でもほんとうはどこかわかったような気がしました。

日が暮れてきて女性は帰りました。もうここも人が多くなる、ずっといるなら気をつけてねといいました。


新しい朝が来てわたくしは体に塗っていた泥をぬぐいました。

朝の光でぱりぱりと音を立てて体が乾いてゆきます。わたくしは両手を伸ばして光にすかしました。

真っ黒で汚いわたくしの体はぱりぱりというたびに痛くなっていきます。

わたくしは立ち上がって体をよく見ました。真っ黒でぱりぱりと皮が乾いていきます。

あの女性のように少しも綺麗ではありません。わたくしはもう一度座り込むと泥を体に塗りました。

目から溢れてきて何も見えなくなりましたが塗り続けました。そして泥濘に沈み込むと目を閉じて静かになりました。


暗闇に生まれてどろりどろりと体がとろけている。

わたくしはあの方にもう一度会いたかったのかもしれません。

胸の奥がまだちくりと痛みますし、目を閉じれば顔を思い出すことも触れた手の熱さも思い出すことができるのです。

恋をしたのかはわかりません。わたくしは人ではありませんから。

それでもあの方を思うこの胸の痛みはあの女性から聞いた恋だとわたくしは思うのです。そう思いたいのです。

きっともう会えません、人間とわたくしは随分とちがうのですから。

それでもわたくしは泥濘の中で目を閉じて待っているのです。

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