第三章「その手は私の怒りを拭っていく」

第8話


 今日も今日とて学校へ出勤だ。

 昨晩の醜態しゅうたいを思えば、たとえ快晴の今日この頃をもってしてもちょっぴり憂鬱ではあるが、けれど、だからといってサボってしまえば沙耶に心配を掛けてしまうだろう。

 ゆえに、私は頑張って歩いているのである。この果てしない苦難の道を耐えに耐え、進んでいるのである。あーあ、学校爆発しないかな。


「はー、休みたい」


 足取りが重たくてしかたない。意識して足を動かさないと、今にも回れ右して帰ってしまいそうだ。

 朝方ゆえの澄んだ空気も、普段は小気味良いとさえ思う小鳥たちのさえずりも、擦れ違う小学生の一団にすら、今日の私はあまりいい感情を抱けない。むしろ逆の、良くない感情がふつふつと湧き上がってきて、そんな自分を顧みてまた自己嫌悪の繰り返しで、心が苦しい。


 鬱々としたままで歩いていると、唐突に自転車のブレーキ音が後ろから聞こえてきた。

 もしかして邪魔になってたかな、と思って胡乱な眼差しを肩越しに向けると、そこには紅音がいた。


「おっす」


 そんな何気ない挨拶を投げられて、


「おはよ」


 私もなんとなく軽い挨拶を返していた。

 ほんと、自分が自分で可笑しくなる。

 最初は結構警戒していたのに、今となってはまるで随分と前から知り合いだったかのように気安い言葉を交わしている。こうしてみると、沙耶の言った運命とやらもあながち間違いでもないかもしれない。

 私たちは、私たちに、何かしら影響を与え合うために出逢った。そんな気がしてくる。


 なんてね。ほとほと馬鹿馬鹿しいメルヘンだ。

 私はそんなものに縋る人間じゃない。そうしていいほど善良じゃないんだ。

 私は酷く心が渇いて、飢えて、醜悪な心根をしている救い難い人間なんだから。


「こっちに住んでんだな」

「紅音こそ。こっちなんだ」

「ああ。ちょっと距離あっから自転車」

「そう」

湿気しけた面してんな」

「常日頃からこれなんだけど」


 紅音が軽口を叩いてくるものだから、私も相応の反応を返しておいた。


「じゃあいつも以上に湿気てる」

「友達になってちょっとしか経ってないのに言うじゃん、バーカ」

「……なんか怒ってないか。なにかあったのか」

「別に。何もないよ」


 言って、私は会話を切るように歩き出した。

 だって、紅音にこれ以上詮索されたくなかったんだ。踏み込まれたくなかった。自転車に乗って早く行ってほしかった。この心を復調させるまでの間、私を放っておいてほしかった。

 こんな見っとも無い部分を、沙耶以外の誰かに見られたくなかった。

 ねえ沙耶、ごめんね。私、やっぱりうまくできそうにないや。


 しかし紅音は自転車から降りると、私に並んで歩き出した。


「早く行きなよ」


 少しだけイラついて、突き放すように語気が強くなってしまった。しまったと後悔して口をつぐんでも遅くて、だけど紅音は気にした風もなく前を向いている。


「やだね。俺、歩きたい気分なんだ」

「いやいや、自転車乗って来てるじゃん」

「さっきそういう気分になった」

「なにそれ。バカみたい」

「そうか? じゃ、笑っていいぞ」

「笑えるわけないでしょ」


 離れていこうとしない紅音への苛立ちを吐き出すように鼻で息を吐く。

 どうして私を一人にしてくれないんだろう。どうして放っておいてくれないんだろう。

 止めてほしい。そっとしておいてほしい。

 でなければ私はあなたを心無い言葉できっと傷付けてしまうだろう。

 私の心の仄暗い部分から、嫌な感情が首をもたげて出て来てしまうだろう。


 お互い無言になって、しばらく歩く。


 やがて交差点に差し掛かって、赤信号に阻まれたことで二人して立ち止まる。

 互いに視線を交わしたりせずに、ただ前方に投げ掛ける視線。目の前を行き交う車たちが、無情に流れる時を嫌でも意識させてくる。


 早く言え、私。ここで言わないとまた後悔するよ。絶対に後悔するから。


 普段よりも重たく躊躇いがちな唇が戦慄き続けて、やがて私の意志に渋々といった具合に従って、ようやく動いてくれた。


「ごめんね」


 顔を向けずに言うと、紅音がちらりとこちらを伺うのがわかった。でも、目も、顔も、彼に向けるのが怖くて、少し俯いた私の視線は、アスファルトへと吸い込まれていく。肩にかけた鞄の紐を思わず固く握り込む。


「なにが」


 紅音がわざと惚けたように平たい声音で言っているのがわかった。


 これはどっちなんだろう。別にさっきのことは本当に気にしていないから忘れた振りをしているのか、それとも本当は怒っているから謝罪を求めて知らない振りをしているのか。

 いや、そのどちらにしても、私のすべきことは始めから決まっているはずだ。

 だって非礼を働いたのは私なんだ。なら、それをきちんと認識して謝罪するのは当たり前のことなんだから。


「その……さっきは嫌な態度取って、ごめん」

「うん」


 私が小さな声で零すと、紅音は短く返事をして、無言の時が訪れる。

 歩行者信号が青になって、私と紅音は歩き出した。

 同じ歩幅で歩いていると、やがて紅音が意を決したように口を開いた。


「どうして怒ってたかは教えてくれないのか」

「うん」

「なんで?」

「それは……紅音には関係ないことだし、言ってもわからないから」


 そう、言ってもわからない。きっと理解してもらえない。


 普通の人と、普通じゃない人。

 その両者の間には、埋めようのない溝が存在する。

 いや、もはや溝と呼ぶには生温いレベルの隔たりだ。率直に崖とでも表現したほうがいくらか適切だろう。

 それだけ違う存在が相手のことを理解しようなど、まずはっきり言って不可能だ。

 たとえどれだけの高尚な理屈を並べ立て、いくらかの集合知たる知識をひけらかし、蜜のように甘いたっぷりの同情を塗そうとも、恵まれた人には理解できない世界は存在する。


 あなたたちに何がわかるの。

 私の、私が抱えているこの酷く重たい劣等感を、欠片でも理解できるというの。

 これを取り去ってくれるの?


「そんなの、聴いてみないとわからないだろ」

「わかるよ。今までずっとそうだったんだから」


 紅音。何を言っても無理だよ。私はもうずっと前に諦めたんだ。

 このことに関しては『もう無理だ』って。もう私はこのことで周りに理解を求めるのは止めにしたんだ。

 そうしないと私の心が傷付くとわかったから。無理解の視線を向けられるたびに、心のどこかに罅が入っていくことに、ずっと後になって気付いたから。手遅れになってから気付いてしまったから、傷だらけになるまで気付けなかったから。


 取り返しがつかなくなるほど壊れてから、自分がおかしいと理解してしまった。


 誰かに理解を求めることは、自分の心を差し出すのと同じことだ。その相手が悪意を持つ者だったなら、差し出した心は容易く引き裂かれてしまうだろう。

 だから私はもう期待しない。この心を二度と差し出したりなんかしない。


 もう傷付きたくない。

 だ。

 お願い。

 やめて。


「今までそうだったからって、これからもそうだとは限らないだろ」

「同じだよ」


 そうやって、期待させないで。裏切られたときに辛くなる。どうせ裏切られるのなら、初めから裏切りを想定しておいたほうが傷付かなくて済むんだから。

 不確かな未来になんて期待したくない。どうせ禄でもない事柄しか待ち受けていないんだから、諦めて死人のように余生を過ごしたほうが余程健全だ。


「ねえ、やめてよ紅音。私、また嫌な態度取りそうなんだけど」

「取ればいいだろ。でも言わせてもらうぞ」


 うんざりしてじろりと非難の視線を向けると、紅音はこちらに視線を向けていた。

 その平時よりも力強い眼差しが向けられているのは、その瞳に映っているのは本当に私だろうか。私は、この短期間でこれほど紅音に感情を向けられるほど関わってはいないはずだ。

 腑に落ちない感覚に、どこか現実感を失ってしまう。


「『誰にも理解されない』なんて、誰だって悩むことだろ。でも実際のところはそうじゃない。そりゃ数は少ないだろうけど、理解してくれる人ってのは人生でいくらか居るもんだろ」

「そんな慰めで」

「慰めなんかじゃねえよ。だって君には、『沙耶』が居るだろ」


 痛いところを突かれて思わず閉口してしまう。

 沙耶は、確かに私にとって、今までの私の人生の中で唯一の理解者だ。私の事情も、抱えている思いも、そのほとんどを知って、それでも私の傍に居てくれている。

 沙耶は、私のこの昏い道のりの中で確かに出会った理解者。

 それはつまり、


「これから先の人生、もしかしたら他にも理解してくれる人が出てくるかもしれないだろ。なのにそんな態度取ってたらさ、もったいねえよ。自分から遠ざかろうとしてさ。それじゃ理解なんてされるわけないだろ」

「ッ、そんなのっ」


 真っ当な非難を受けて、頭の芯がカッと熱くなるのがわかる。


「言われなくたってわかってる‼」


 立ち止まって、拳を痛いほど握り締めて、声を張り上げた。本当は蹲って泣き出してしまいたかった。胸が苦しい。鼻の奥がツンと痛い。


 怒鳴りたくて怒鳴ったわけじゃない。

 ただ、私の奥底にうずくまっていた昔の私が今にも泣き出してしまいそうで。でもそんな私を誰も護ってくれないから、誰も護ってくれなかったから。だから私が小さな私を護ってあげなくちゃいけなくて。


 私の怒鳴り声を受けて、紅音は予想外だったのか驚いたように目を見開いて立ち止まった。私たちと同じように登校していた生徒たちは何事かと話しながら過ぎ去っていく。


「紅音はやっぱりわかってないんだよ!」


 叫ぶと、紅音の眉間が苦悶に歪むのがわかった。

 ああ、言うべきじゃない。彼をこれ以上傷付けたくない。でも口が止まらない。もういい全て吐き出してしまえと心が叫んでいる。胸の内の仄暗い場所から、今までずっと溜め込んでいたドロドロとした感情が流れ出して来る。


「紅音はさ! 私が周りに理解されようとする努力を怠ってるような言い方するけどさ、私はずっと頑張ってきたの‼ ――頑張っても駄目だったのっ‼」


 初め、詳らかに全てを話していた。

 結果、得られたのは気遣いという名の疎外感。壊れ物を扱うかのような、仲間外れ。




 みんなと同じことがしたい。

 駄目よ。しちゃいけない。死んでしまう。


 ――みんなと同じになりたかった。


 いっしょに遊ぼうよ。

 みんなと走り回ってたって本当? 駄目よ。みんなに注意しておくわ。

 せんせいが言ってた。いっしょに走っちゃダメなんだって。もういっしょに遊べないね。


 ――たとえ倒れるとしても、みんなと走り回っていたかった。


 みんな走ってるよ。

 あなたは歩きなさい。

 みんなこっち見てる。嫌だ。

 誰も見てないわ。気にし過ぎよ。


 ――特別扱いが、みんなと違うと意識させられることが辛くて、恥ずかしかった。

 ――この気持ちが、どうしてあなたたちにはわからないの。


 行きたくない。

 でも、せっかくの運動会だから。

 行っても何もしないのに。

 あの子、ずっと座ったままね。何してるのかしら。


 ――いっそ消えて無くなりたかった。

 ――みんなが楽しそうに走り回っている光景をじっと眺めているのは、結構苦痛だったよ。


 見学、ですか?

 そう。代わりに座学で補填するから、授業は見学でいいから。

 あの子、ずっと見学じゃない? ズルじゃん。なんなの。


 ――許されるなら私だって駆け回りたい。何も知らないくせに、勝手なこと言わないでよ。

 ――私よりよっぽど恵まれてるくせに、好き放題言わないで。


 日差し、暑いなぁ。

 あんた、また見学? 泳がなくていいなんて楽ね。羨ましい。


 ――羨ましい? いったいこの子は何を言っているんだろう。

 ――あなたたちはこんなに眩しいのに、それ以上なにが欲しいの。


 後遺症?

 もう一生治らない?

 頑張ったら治るって言ったのに?

 全部嘘だったの?

 誤魔化していただけだったの?

 自分の身体とうまく付き合っていこう?

 生き方は人それぞれ?


 ――そんなちゃちなお為ごかしで、私の気持ちを簡単に掃き捨てないでよっ。


 たくさん、たくさん嫌なことがあった。

 たくさんたくさん苦しんだ。

 だから、もう諦めることにしたんだ。


 ――こんな気持ちになるなら、もう期待なんてしない。

 ――私の人生なんてこんなものなんだ。

 ――友達なんて要らない。みんな要らない。もう独りで良い。

 ――お願いだから、独りにして。




 私の心を蝕み続けている劣等感、疎外感、無力感。それはまるで囚人の足枷だ。


 誰も、私も、どうしようもなかったってことはわかってるんだ。けれど、それでも、私は納得なんて出来ないし、納得したことなんか一度たりともないし、これからも納得する気なんてない。この荷物に付随する忸怩じくじたる記憶を飲み下せる日なんて永遠に来ない。


 もう怒りなのか憎しみなのかわからなくなってしまったけれど、それでもこの感情は私の心を灼き続けている。飽きることなく私の心を苛み続け、ニタニタと性悪な笑みを浮かべ続けている。

 でもきっと私も、周りからしてみればこれと似たようなモノなのだろう。どんぐりの背比べで、同じ穴のむじななのだろう。ああ、自分で自分に反吐が出る。


 やっぱり私は、私が嫌いだ。


「私のこと何も知らないくせに、わかったようなこと言わないでよッ‼」


 叩きつけるように怒鳴りつけると、自分がいつの間にか俯いていて、肩で息をしていることに気付いた。全身が焼けるように熱いし、喉がイガイガして少し痛い。


 ああ、なんで私はこんなに熱くなっているんだろう。馬鹿馬鹿しいなぁ。ほんと、自分が自分で可笑しいや。


 馬鹿らしくなって口元が失笑をかたどるが、息と共に零れたのは大粒の涙だった。

 落ちた水滴がアスファルトを湿らせるのを見て、余計に心が掻き乱される。こんな怨嗟を吐き出したところで何も変わりはしないのに。泣いたって救われはしないのに。涙を流して前を向くなんて、そんな強さを私は持っていないのに。


「なんで……っ」


 俯いたまま、空いている左手の甲で目元を拭う。

 拭って、また拭って、必死に涙を散らしていく。けれど、目尻から溢れてくる涙はいつまでも止まってくれなくて、私の手の甲はもうぐっしょりだった。


 胸の奥が痛い。心も心臓も、そのどちらもが痛くてしょうがない。いっそこの胸の内に在るものを抉り取ってしまったら楽になれるのだろうか。もう何かに悩まずに穏やかに居られるのだろうか。天国ってあるのかな。まあ、私が行けるのは地獄かもだけど。けどまあ、どっちでもいいや。こんな私に、この人生に区切りが付いて、救いが訪れるのなら、どっちでもいい。


 けど、一つだけ不安なことがある。

 私はそれで、救われるんだろうか。

 私は、救われてもいいんだろうか。


 荒かった息遣いが、だんだん掠れたようなものへと変わっていく。まずい兆候だというのはわかっていた。これは心因性にしても身体性にしてもよくない兆しの類だ。胸が急激に苦しくなってきて、思わず涙を拭うのを止めて胸を押さえる。


 でも、もう抗わなくてもいいんじゃないかな。

 そんな考えが頭を過る。

 ここで全てを手放せばもう楽になれて、何もかも終わらせてしまえるというのなら、そのほうが私は幸せなんじゃないか。


 ふらりと足元が揺れる。紅音が「おいっ」と呼び掛けてくるのが聴こえるが、返事をするのも億劫だ。


 やっぱり貧弱なエンジンに負担を掛け過ぎたんだ。これはたぶん過呼吸じゃなくて貧血の症状。ほんと、私って駄目だな。


 もう抗うのも、生きるのも面倒になって、私は身体から力を抜いた。

 きっとこのまま私の身体は崩れ落ちてアスファルトの上に倒れ込むだろう。もしかしたらその時、頭を打つかもしれない。もしくは運よく頭を打たずに倒れて事なきを得るかもしれない。そのどちらにしても私にはもうどうでもいい。もう、考えたくない。


 私はもう疲れたよ。


 目を閉じると、がくりと足から力が抜けて、右肩に掛けていた鞄の重さに引っ張られて身体が右側に傾いていくのがわかる。頭を打ったらきっと痛いんだろうな。痛いのはやっぱり嫌だな。でももう抗う気力がない。


 ごめんね、沙耶。

 本当に、ごめんね。


「馬っ鹿、野郎やろッ」


 いつしか、そんな言葉が聴こえてきて、私は伏せていた瞼を上げた。


 掠れる視界が捉えたのは、学生服の生地。心臓が跳ねる感覚だろうか。右耳に微かな振動が届いている。腰から下が重力に引っ張られているみたいだから、私はどうも地面に倒れてはいないらしい。カラカラと何かが空回る音も聴こえている。

 少しずつ鮮明さを取り戻していく視覚が、周囲を正しく捉え始める。


「紅音?」


 どうやら私は今、紅音の左腕に抱かれるように佇んでいるらしい。背中側に回された彼の腕が私の身体を支えている。心臓の音が聴こえたのは私の右頬が彼の胸板に触れているから。空回りする音は、彼の自転車がアスファルトの上にいつのまにか倒れ込んでいて、タイヤがその時の衝撃からか緩く回り続けているから。


 もしかして、咄嗟に全部手放して助けてくれたんだろうか。


「体調悪いならそう言えよ!」


 怒ったような、それでいて心配するような声色で、紅音はこちらを覗き込みながらそう言った。

 私が見上げる彼の顔は、今にも泣き出してしまいそうなほどに酷く歪んでいて、そんな彼を見ていると心が痛くなった。


「ごめんね」


 まだ大きな声が出せないから、せめてと絞り出すように謝罪を零すと、それを聴いた彼は安堵したように笑みを零した。

 大袈裟だよ、紅音。ちょっとふら付いたぐらい、言うほど大したことじゃないでしょ。別にこの程度で死んだりしないんだから。


「立てるか?」

「うん、大丈夫」


 紅音からの確認に頷くと、彼が左腕に力を入れて私の身体を起こした。私はそれに合わせて右肩から鞄をするりと抜いてアスファルトの上に降ろすと、まだ少しくらくらとする頭を振って覚醒を促す。するとズキッとこめかみが痛んで思わず手をやった。

 全然本調子じゃないけど、弱音を吐いてられない。ここには沙耶がいないんだから。

 まだ腫れぼったい目元を擦り、涙の名残を拭い去る。


 冷静に自身を鑑みてみると、やはり今日はもう学校に行く体調でも精神状態でもない気がした。だってこの通り身体は一気にガタガタだし、心はもっとガタガタどころか空洞空きまくりの張りぼて状態。もう布団に包まって世界を呪いたい気分だ。


 仕方ない。今日はもう帰ってゆっくりしよう。学校には後で電話して今日は休む旨を伝えればいい。担任に体調が悪いと伝えさえすれば余計な詮索はされないだろう。


「よっと」


 私が身の振り方について耽っていると、紅音は倒れていた自分の自転車を軽く持ち上げて立て直すと、転がり出ていた鞄を荷物籠に突っ込み直す。

そして、


「乗れよ」


 と、さも当たり前のように私に言うものだから、思わず「え?」と素で返してしまった。

 混乱する頭で紅音の顔、自転車、紅音の顔、自転車と何度も見返す。

 そして一言。


「え、だ」

「なんでだよ!」


 ちょっと引いた感じで言ったのが不味かったかな。紅音は心底ショックを受けた様子で嘆いた。もしかすると紅音自体を拒否したように思われたかな。それなら完全に誤解。


「や、誤解かもだけど。二人乗りは駄目だから、絶対」

「は? しねえよ、危ねえだろ。そもそも体調わりいやつ二人乗りに誘うかよ」


 心外だとばかりにプンスカしながら紅音は自転車の荷台部分を指差した。

 ほーん? いや、指差されても説明してくれないと意味がわからないんだけど。残念ながら私はエスパーじゃないんだ。スーパーパワーなんて持ってないし、心が読めるわけでもない。

 疑問符纏って小首を傾げて眺めていると、紅音が呆れたように溜息を吐いた。


「ここに乗れよ。運んでやる」

「あー」


 なるほど。納得だ。

 つまり紅音は私を自転車の荷台部分に乗せて、その自転車を押して学校に向かおうというんだろう。それなら確かに二人乗りじゃないし、さっきから自転車に跨ろうとしないのにも納得ができる。


 でも、その状態で登校するのって凄まじく注目を集めないだろうか。いや、ついさっきのやりとりですでにかなり注目を集めてしまったことは重々承知ではあるけれど、だけど、これ以上の恥の上塗りは正直勘弁願いたい。


 私が対応に困って逡巡していると、痺れを切らしたのか、紅音は地面に置かれていた私の鞄をひょいっと持ち上げると、籠の中にある自分の鞄の上にそれを突っ込んだ。

 あまりにも素早い動きに認識が遅れて、声が出る頃には全てが終わっていた。


「あ」

「鞄返してほしけりゃさっさと乗れよ」


 挑発的な笑みで紅音は言う。


 そう、自分を悪く見せてでもそういう言い訳を私にくれるんだ。

だったらもう、降参したほうが賢明かな。だってさっきからいい加減通行の邪魔になっているし、それとほんのちょっぴり彼への罪悪感もある。

 だからもう白旗を上げてしまおう。

 私は溜息を吐いたけれど、そのあと、自身の口元が勝手に小さく笑むのを自覚した。


「そう。じゃあ仕方ないよね」

「あー、仕方ないな」

「他人の物盗るなんてサイテーね」

「おーおー、サイテーですとも。なんとでも言え」


 少し覚束ない足取りで荷台に背を向けて、つま先で立って高さを稼ぎ、お尻を荷台に乗せることができた。荷台は当然骨組みのような形状だからお尻がちょっと痛いけれど、背に腹は代えられない。我慢しよう。


「肩でも服でもいいから掴んどけよ」

「ん」


 私が乗るのを肩越しに見届けてから紅音はそう言った。

 肩、はちょっと手を伸ばさないといけないから時間的にしんどいかな。だったら服のほうが楽だ。


 紅音の腰回りの服を肉ごと掴む。お、意外に肉が無いぞ。


「んぎっ」

「あ、ごめん」

「わざとだろ!」

「違うよ。しっかり掴まろうとしてつい」

「よく言うっ」


 肩越しに睨まれて非難されて、けれど険を感じなくて安堵して。

 その白のポロシャツの端を、そっと握り込んだ。

 それを察してか、紅音は自転車のハンドルを押して歩き始めた。


 カラカラと、さっきまでの空回りとは違うチェーンの駆動音が聴こえてきて、アスファルトの凹凸に合わせてカクンと時折揺れることが存外心地良くて。見上げた青空に大きな入道雲を見つけて、どうしてか子供のように心が躍ってしまっていて。


「体調、どうだ?」

「うん。さっきよりはマシだよ」

「そっか」


 自分の受け答えにも、角が取れていることが伺い知れて、我ながら少し意外に思う。


 過ぎ去っていく同学の人たちが好奇の視線を向けてくるけれど、もうどうでもいい。うん、どうでもいい。だって私は体調不良者で、つまりは病人で、これはそう、緊急避難とかいうやつで、だから本当にしょうがなくって。


 恥ずかしさで少し火照った頬と、青空を見上げる私の瞳を柔らかな風が撫でていく。軽やかに過ぎ去る悪戯なその子たちが、私の前髪を揺らしてさざめかせる。


 ああ、どうしてかな。どうしてか私、今、少しだけ救われた気持ちになってる。

 こんな気持ちになってしまって、私はいいんだろうか。


 ほんの少しの暗い不安が、私の後ろで足音を鳴らした気がして背筋が寒くなった。


 と、その時、自転車がガタリと大きく跳ねた。どうやら段差があったらしく、軽く乗り上げたらしい。紅音が「おっと」と軽く慌て、私は思わず「わひゃ」と素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。身体が跳ねたせいでお尻が痛い。

 紅音が自転車を押し続けながら肩越しににかっと笑う。


「わりっ」

「安全運転っ」


 全然詫びれない態度に腹が立って、自由な左手で紅音の背を幾度か突き刺す。


「いてっ、いてぇって」

「謝れ馬鹿っ」

「謝っただろ。……にしても、わひゃ、だって。ぷっ」

「もーっ!」


 紅音は愉しそうに肩で笑いながら私の物理的な非難を余裕で受けていた。

 この男、さっきの仕返しとばかりに他人の悲鳴を揶揄してくる。そりゃ私だってどうせ悲鳴を上げるなら可愛らしい悲鳴を上げたいよ。高めのキーで「きゃー」とかね。だけどさ、まったく意識していないタイミングで来られても無理なんだ。そんな急に準備できない。むしろ今回はまだマシな出来まである。上げた悲鳴が低い「ギャー」じゃないだけ相当良い。


「んふふ」


 にしてもいつまで笑ってるの、紅音。

 まったく最低だ。やっぱりこの男は最低だ。こういう男はモテないんだ。女の子を軽々しく揶揄うなんて冗談抜きで身を滅ぼすぞ。後で沙耶に密告だ。


 左手が痛くなってきたから突くのを止めて、のちの復讐を決意する。この嘲笑で震える肩を恐怖で震えるように変えてやる。震えて眠れ、工藤紅音。私は執念深いし恨み骨髄だぞ。


 尚も燻る憤りを息と共に大きく吐くと、再び身体を揺らす自転車に身を預ける。

 それから少し進んでからだろうか。紅音が前を向いたままで言った。


「なあ」

「なに」

「話を蒸し返して悪いんだけど」

「いいよ。この運搬に免じてちょっと許す」

「あんがと」


 自分でも驚くほど軽く返して、私の視線は突き抜ける蒼の空を見上げた。

 紅音はそれから少しだけ躊躇っていたようだけど、それでも意を決したのか、面は少し下を見詰めているのに、だけど、自転車のハンドルを少しだけ力強く握り込んだ。


「もしかしたら、理解できないかもしれないよ」

「うん」

「君の言うように、……君の言った通り、理解できないかもしれない」

「うん」

「けど」


 彼は顔を上げて、前を見詰めた。そしてもう一度、決意するように繰り返す。


「けど。それでも俺は君のこと、もっと知りたいんだ」

「……なんで」


 わからなかった。彼がそうまでする理由なんてないはずだ。

 義理も、人情も、彼が私にそうまでする根源的な理由は育っていないはずだ。だって私たちはつい先日交友を始めたばかりで、お互いのことを何も知らなくて、理解なんて欠片もし合えてなくて。だからこそさっきのように口論になったというのに。

 それなのに、どうして。どうしてそこまで踏み込もうとするの。


 困惑が右手に伝わり、彼の服を掴む指先に力が籠る。視線が意識せず下がって、ひび割れたアスファルトを捉える。

 けれど私の戸惑いを知ってか知らずか、紅音は頭を振った。


「なんでだろうな。でも多分、知らないと駄目なんだと思う」

「理由になってないっ」

「ごめん。自分でもうまく言えない」


 語気を強めて非難すると、紅音は存外素直に謝った。けれど意志は折れていないのか、視線を下げもしなければ歩みを止めもしなかった。

 私がもし紅音の立場だったなら、早々に諦めて会話を切り上げていただろう。まったく、この男、普段はそうでもないが変なところで強情なようだ。それとも、それだけ譲れないことだとでもいうのだろうか。


 さて、彼がそう在る理由が如何様であれ、私は皆々様がご存じのとおり、懐の広い女だ。そう、非常に寛容なのである。それはまさに世に聞こえた聖母のように大らかなのである。


 まあ何が言いたいかというと今のは照れ隠しで、実際悪い気はしないということだ。

 今まで面と向かって私のこと知りたいなんて言われたこと、なかったな。まあ向かい合ってはいないんだけどさ。

 ただそれでも、心の一部分がどうしても拒否反応を示してしまうのは否めない。きっとこの心が無傷だったなら無邪気に喜べたんだろうな。


 何も知らないことはきっと幸せだ。私もそう在りたかった。できるならあの頃に戻りたい。

 でもその願いは絶対に叶わないから、この折れそうな心を蹴り飛ばして歩き出すしかない。

 本当に、生きるって辛いことだ。


「知っても楽しくないよ」


 私のみすぼらしい劣等感と、酷く悍ましい本性と、その過去を知ることになるだけだ。


「わかってる」


 紅音はこちらを向かず、ただ応える。


「大した内容なんてないし、ご期待には沿えないかも」


 私の恨み辛み妬みを知ったところで、紅音が得るものなんて何もないだろう。


「それでもいい」


 紅音は尚も頷く。


「私、自分のこと話して友達止められたりしたらトラウマに成りそう」


 嘘。すでに幾度も経験してバッチリ成っているけれど、もっと酷くなりそうだ。もう一度繰り返そうものなら今度こそ立ち直れないかもしれない。


「絶対にそんなことにはならないよ」

「口でならなんとでも言えるよね」

「じゃあ約束する」

「それこそ口約束でしょ」

「それでもだよ」


 強情に言い張るものだから呆れて笑いが零れてしまった。けれどこの笑いにはどうしてか黒い感情は感じなくて、口元が笑んでいるのが自分でもわかる。


「それでも知りたいんだ」

「ふーん」

「泣いてる人が目の前にいるのに、その理由がわからないなんて、怖いと思うから。だから俺は知りたい。すぐには無理かもしれないけど」


 そこまで言って紅音は立ち止まり、肩越しでなく、私の右手をそっと振り払うように身を捩り、身体をこちらに向けて、言う。


「君のこと、教えてほしい」


 その瞳に宿った真摯な気持ち、混じり気のない声音に彩られた言葉に、冷たい私の身体に少しだけ熱を覚えた。


 本当に信じていいのかな。


 怖いの。また繰り返すかもしれないと思うと、怖い。身も心も冷たくなって、震えが走る。もうこれ以上傷付きたくないのに、だから人を避けているのに、それでも他人はふらりと近寄っては無情に人を傷付けていくから。

 傷付けた側は自分が誰かを傷付けたと気付きもしないから、その事実と現実が余計にこの心を薙いでいくから。だから、他人と関わるのは怖いんだ。


 だけど、今しがた覚えたあの熱が、この不安をほんの少しだけ溶かしていった。

 その感触を、この胸ははっきりと覚えている。


 もう一度だけ、信じてみたい。また繰り返すかもしれないけれど、それでも信じてみよう。


 もしまた繰り返してしまったら、その時はその時だ。わんわん泣いて世捨て人になろう。世界を呪って終焉を願い、隕石の落下なりAIの反乱なりを待つとしよう。


 だからもう一度だけ、友達を信じてみよう。


「紅音」

「うん」

「全部一度に話すっていうのはね、やっぱり怖いの」

「うん」

「だから、機会があったら少しずつ話す、ってかたちでよかったら、私のこと、教えてもいいよ。さっきも言ったけど、楽しいことなんてないけどね」


 言うと、紅音は口元を少しだけ子供のように綻ばせて、頷いた。


「うん、それでいいよ。ありがとう、心美」

「ん」


 紅音からのお礼に慇懃に頷いて、進行方向を指差す。こうして立ち止まっていると余計に目立つ。同学生のみならず、その他の通行人にも奇異の目を向けられかねない。


 私の意図を察した紅音が前を向いて歩き出す。自転車が揺れ始めたため、慌てて紅音のシャツの裾を掴み直す。

 すると紅音が前を向いたままで声を掛けてきた。


「なあ」

「なに」

「さっそく教えてほしいんだけど」

「さっそく?」


 おいおい図々しいなあ、と文句を付けたくなるが、そこは寛容な私。眉を顰めるだけに留めておいた。鷹揚さに関しては他の追随を許さない私である、ふふん。


「好きな食べ物は?」

「なにそのチョイス」


 そんなことを訊かれるとは思っていなかったため、面食らってしまった。

 けどよく考えてみればそういう内容も『私のこと』か。少し肩肘を張り過ぎているのかもしれない。だって、別に重苦しい話だけが『私』じゃない。それ以外にも、少しだけなら『私』は在る。そんな簡単なこともわからなくなるくらい私は目が曇っていたらしい。

 これは反省だ。これでは自ら不幸を招き寄せているようなものだ。幸福コイコイ、不幸は去れ。ほんと二度と不幸なんて訪れるな。


 気を取り直して、紅音からの質問に答える。


「パフェ、かな」

「パフェ?」

「うん。バニラアイスと甘いホイップたっぷりでおっきい容器に入ってるやつ。粉砕したナッツ少量、チョコがアクセントとして全体にちょろっと掛かってるとグー。うん、カロリーやばいってわかってるけど止められないからやばいよね、ほんとやばい。でさ、アイスがほんの少し溶けかかって緩くなってる状態が最高の食べごろなんだよね。どう言えばいいのかな、『スプーンの上に全てが在る』って感じ? あの瞬間は全てが混然一体となってマリアージュを実感できるから本当に幸せなの。舌が幸せ」

「急に饒舌だな」


 ドン引きされていた。

 なんで。

 私、真面目に答えたでしょ。引かれる要素どこかにあった? 真面目に受け答えして引かれると冗談抜きで傷付くんだけど。もう友達止めようかな。

 はー、と怨嗟の溜息を吐くと、不味いと理解したのか紅音が苦笑を浮かべたあと前方へ向き直った。


「じゃあ今度食べに行くか」


 焦った感じで言う紅音の背にじとりとした視線を投げ、ふんっとわざとらしく鼻を鳴らしておく。


「紅音の奢りね」

「えっ」

「文句あるの?」

「へいっ、ねえです」


 恫喝すると下っ端のように返事をする紅音。それがちょっと可笑しくて、噴き出すように笑みを浮かべ、思わず左手で紅音の背をぺしりと叩く。

 すると、紅音は「いてえ」と笑みを浮かべ、歩みを速めた。


 悪くない気分だった。

 せっかく櫛を通して整えた髪を撫でて乱していく風は好きではないけれど、この時だけは手櫛で髪を直す億劫さも気にならなくて、むしろどこか心地よくて、安心を覚えた。

 晴れ渡った青空すらも憎悪で塗り潰せそうなくらい最悪の気分だったはずなのに、いつしか、いつもと変わらず空を綺麗だと思えるほど心は落ち着きを取り戻していた。

 それはきっと、紅音のおかげ。


 礼を言うにはタイミングを逃していて、かといって何もしないのは仁義に反する気がして。

 そこでふと、先ほど自分の素っ頓狂な悲鳴を揶揄されたこと、そしてその件に関して沙耶への密告を計画していたことを思い出す。そうだ、この件を不問に伏すことで手打ちにしよう。

 そう勝手に決めて、もう一度紅音の背を叩く。


「感謝してよね、紅音」

「ん? おう」


 何のことかわからず、間抜けな表情で返事をする紅音。


 でもそれでいい。真っ正面からお礼を言うなんて恥ずかしいし、一から説明するにはいろいろとこんがらがっているし。だから、意地でも伝えてなんてやらない。


 ありがとう、紅音。


 私を見捨てないでくれて、ありがとう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心音リアリズム 月山けい @tsukiyama-kei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ