お姉ちゃん
いそた あおい
お姉ちゃん
ある大学生の青年は、寒さに背中を丸めて歩きながら、はぁ、と白いため息を吐いた。目線は下を向き、足の進みも良くはない。青年は一週間分の食料の買い出しの帰りだった。
3年目になる自炊生活にも慣れてきたころだったが、買い出しに行くのは料理を作るよりも面倒くさいと感じていた。
まるで青年の暗い気持ちを代弁するかのように、空は暗くなり始めていた。
「最近何もうまくいかないな…。」
青年は虚空に向かってつぶやいた。
「あ。設計の課題も終わってないし…、あの講義のレポートも書かなきゃだ…。ああ、なんで昨日遊びに行っちゃったんだろう。」
青年の止まらないつぶやきは、マフラーから漏れ出る白い煙になって消えた。
「おとといのバイトでも…」
寒い夜空と同じように暗い気持ちになっている青年は、連鎖的にアルバイトでのうまくいかなかったことを思い返してしまった。
「バイトの時間まで寝てようと思ってたら30分も寝過ごして遅刻しちゃったし、そのあとも注文を間違えたり、レジで返すおつりの金額を間違えたり…。」
青年は学校の近くにある居酒屋でアルバイトをしている。居酒屋でのアルバイトを始めたのは学部2年のころだったが、初めて1年と半年がたった最近になって、よくミスをするようになっていた。
ミスの原因は、学部3年になって課題やレポートの提出が多くなったので睡眠時間が少なくなり、集中力がアルバイトがある夜まで続かなくなったことだろう。
「あの後、いつもは優しい店長がすごい怒ってたんだよな…。」
青年はもう一度、はぁ、と短いため息を吐いた。
とぼとぼと重い足取りで歩く青年の後ろから、小さい女の子と男の子、それに女性の楽しそうな声が聞こえた。
「じゃあ、あそこの木まで競争ね。」
そう言う女の子の声が聞こえると、女性がスタートの合図を出す。
「よーい…ドン!」
女性のスタートの合図に合わせて、小学校高学年くらいの女の子と女の子よりも背が小さい男の子が、元気よく走っていき、そのあとを女性が遅れない程度の速さで二人を追いかけた。
「お母さん、遅いよ!早く!」
「はいはい、今行くから。」
ゴールに設定された木の前で男の子が母親を急かしている。母親は買い物袋を持っているので、買い物の帰りなのだろう。
「あの子たちはまだ大学生の忙しさを知らないんだよね…。」
青年はうらやましそうにそう言った。
「お姉ちゃん、か。最近、全然連絡取ってないな…。」
青年は目の前を進む
青年が高校1年の時に姉は大学生となり、姉もまた一人暮らしをするために、その時家を出た。
姉はお盆や年末などのまとまった休暇があれば実家に帰ってくるが、それ以外で青年と顔を合わせたり、連絡を取り合うことはない。
青年の目の前では、女の子と男の子が立ち止まって何やら相談をしているようだった。母親はちらちら後ろを顧みて子どもたちと離れすぎないようにしながら、前を歩いている。
女の子と男の子の相談はすぐに終わり、二人は母親のところへ駆けていった。
二人が母親のところへ着くと、女の子が母親と一言二言交わし、女の子は止まって、少しかがんで両手を後ろに突き出した。
男の子はその背中にひょいと飛び乗った。男の子をおぶった女の子はさっきよりも重たくなった体を母親の方へ走らせた。
そんな光景を見ていた青年は、思わずつぶやいた。
「これが、小さな幸せってやつ?」
さっきまで暗いため息をはいていたのが嘘のように、青年の口元はほころんでいた。心なしか、小さい姉弟が現れるまでよりも、足取りが軽くなっているように見える。
青年は、よいしょ、と買ってきた食材が入ったトートバッグを肩にかけ直す。
「俺たちにもあんな頃があったんだよな。」
青年は、自分は何でもできると感じていた小学生のころを思い出した。
小さい姉弟たちと同じように、姉と帰り道に追いかけっこをしたこと。
小さい兄弟たちと同じように、姉におぶってもらいながら母親と歩いたこと。
家族みんなで公園へ行き、みんなで鬼ごっこをしたこと。
中学生になった姉に、小学校の宿題のわからないところを教えてもらったこと。
姉が勉強していたことが理解できるようになったこと。
青年や姉の部活の大会の後に家族で焼き肉やお寿司を食べたこと。
「あれ?俺、もしかして泣いてる?」
青年の右目から、一粒の水滴がこぼれ出ていた。その水滴は目じりから頬を伝い、マフラーの中に消えた。
青年は右目を右手の甲で拭うと、少し困ったように笑った。
「いつからこんなに涙もろくなったんだろ。」
青年が夜空を見上げると、さっきまではなかった吹いただけで消えてしまう幸せのような星たちが、一面の紺色の世界に散らばっていた。
「少しうまくいかなかっただけで落ち込んでちゃだめだよな。今はダメでも、またきっと良くなるよ。」
青年は空を見上げたままぐるりと回った。
「あ、あった。オリオン座。今日もあと少しだけど頑張ってみようかな。」
青年は顔を進行方向に戻した。気持ちを持ち直した彼の足取りはしっかり地面を踏み、蹴りだしている。
青年はポケットからスマホを取り出すと、メッセージアプリを開いた。
「久しぶりに姉ちゃんに連絡してみるか…。」
お姉ちゃん いそた あおい @iSoter_kak
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