カーニバル

花ケモノ

カーニバル

     

第1部


岩山の国。大地は不毛に近く、土地は痩せている。夏は乾き、冬の寒さは痩せた田畑をすっかり雪で覆い、底まで凍てつかせる。景色は僅かな四季を通して神々しく、絶景が有り余る。人々は山羊のように岩肌にしがみついて暮らしている。隣家は遥か。


彼の名を、ヨビトといった。冬には決まって白い毛皮を着ている。栗色の毛髪をして、瞳は苔色、そばかすを散らした丸顔の青年だ。ヨビトは郵便配達人として二つの地域を掛け持っていた。

郵便配達人の朝は早い。ヨビトは毎日二つの地域を犬ぞりで走った。走るだけで、ゴーグル越しに朝陽が目を突き刺し、凍った風がヨビトの全身を打つ。夏になればヨビトの仕事はもう少し容易たやすい。家々は非常にまばらで、郵便配達人が居なければ訪ねる人が無い家庭も多くあったから、郵便配達人とあれば厚遇された。冬は凍え、夏は渇き、ヨビトにしてみても人家とあればお邪魔して、休息しなければ死んでしまう。それは無論、ヨビトの担当する地域に限ったことでは無かった。だから郵便配達人には国のはからいで月の始めに茶葉と角砂糖が支給される。郵便配達人はこれを持って家々を訪ね歩き、郵便物を受け渡しした。常々茶と、角砂糖をわけてもらえる事も有り、郵便配達人は古くから愛される存在であった。ことに、ヨビトは中々に親切な性質たちでよく人の話を聞き、よろずの仕事も請け負ったから、妊婦や老人にはとりわけて愛された。親が出稼ぎに出ている子供からは年の離れた兄貴分と慕われもした。

他所の家庭に時に少なからず干渉する。郵便配達人は地域から適当と思われる人材が選ばれて成る。受け継ぐにはしばらくの間、退職間近の郵便配達人と共に試験期間を過ごさねばならない。地域の皆に認められ、初めて郵便配達人に成れるのだ。だからこの地域を受け持った歴代の郵便配達人と同じく、ヨビトも自分の仕事に誇りを持っていた。


この日もヨビトは仕事を終えて、日暮れ前には自宅へ戻った。ある限り傾斜穏やかな場所を選び、崖まで2kmほど。岩に掘ったヨビトの家は他の家とそう変わらない。ドアはきれいな白木で設えてある。ヨビトは一つ目のドアを開くと毛皮を脱いだ。バサバサと振ってから壁の真鍮のフックに掛けて、それから二つ目のドアを開けた。二重のドアは寒さ避け。これもどこの家でもそう変わらない造りだ。

「ただいま。」

「おかえりなさい。」

ヨビトに応えた彼女は去年結婚したばかりのヨビトのお嫁さん。名前をハルイといった。ハルイは熾火を絶やさないよう、火掻き棒片手にヨビトを待っていた。ハルイは片方の口角だけを上げ、ヨビトに微笑みかけた。ハルイの癖は美しかった。岩肌の壁に据え付けられた蝋燭が不安定に揺れて、ハルイのすがたを浮かび上がらせていた。この国に産まれ生きる為に、厳しい生活を強いられる。その最中に一点煌煌と宿る、ハルイはヨビトのひかりであり幸福だった。ハルイはとても小さい。肩は柔らかくて子猫のようだし、手のひらなんて茶碗を持つのに両手を要する。鳶色の縮れ毛を上手く収めようと、毎日奮闘するのだけれど、ハルイはあまり器用で無いのか、いつも少し奇妙な格好にまとめ髪していた。出会った頃からハルイは鳶色の縮れ毛が欠点だと嘆いていた。ヨビトの贈り物に石の付いた髪飾りや、つるりとしなやかなスカーフが一つも見当たら無い理由を、ハルイはちゃんと知っていた。ハルイは良く、ヨビトの栗毛を美しいと言って撫でつけてはうっとりため息を漏らす。そのひと呼吸の甘やかなこと。ハルイの唇は薄情に薄く、珊瑚のよう。瞳は美しいエメラルド色だ。そこへ、かの賢い女王クレオパトラのような気品に満ちた情念を宿している。

ハルイは美しい女だった。薄汚れた粗末な麻のギャザーブラウスさえ、瞳の色と調和を保ち、ハルイの美しさに佇まいを与えているように思われた。生活と一室の粗末はオーケストラであり、ハルイはそこに宿る魔物なのだ。

「ヨビト、座って。」

ハルイに手を引かれるまま、ヨビトは座った。

「まぁ、なんて冷たい手なの。あなたは冷血漢ね。」

ハルイの言葉に、ヨビトは笑った。


冬の岩肌はとても冷たい。ハルイは床の中で、寒さに怯えていた。閉ざされた岩肌の家は氷の室だ。ハルイは自分が、氷室の中の魚になった気分だと言ってヨビトに縋りついた。ヨビトはハルイを抱きしめてやり、昔自分が母親に聞いたおとぎ話を教えてやった。閉ざされた氷の王国。囚われの女王。ハルイはしばらく静かにしていたけれど、突然笑い声を立てるとヨビトの胸に顔を埋めたまま、こう言った。

「どうして?あなたはよくご存知だと思うけれど・・・私、もう子供じゃないのよ。」

ハルイはヨビトを見詰めた。仕方無くヨビトはハルイを暖めてやった。するとハルイは安心して、すぐに眠りについた。


ヨビトが目覚めるとハルイは未だ隣に居た。すっ、と背筋を伸ばし、座っているものだから、布団がめくれてひどく寒かった。昨夜はあんなに寒い、寒いと言ってヨビトに甘えたくせに、ハルイは服を着ていないらしかった。ヨビトは不審に思いながら、ハルイを見ていた。ハルイはドアを見詰めていた。ヨビトは顎を傾けてハルイのまなざしを見捉えようとした。


何を考えているのだろう?


ハルイのまなざしは物憂げだった。ヨビトはそのまなざしに、外の凍てついた景色を重ねた。一面の銀世界。朝陽は美しけれど人が生きるには余りに鋭い。雪原が陽を余すこと無く反射するから。待ち遠しい春光は未だ遥か遠くだ。訪れを待つ動物達はどこへ居て、夜を越すのだろう。

ハルイはまるで、芽吹きをもたらす春の女神のようだ。春に草木を揺らす、そよ風の乙女。追憶の春の日、ハルイの丸みを帯びた裸体に、金の産毛が輝いていた。一糸纏わぬ女神の彫像。朝露に濡れた、新緑の猛々しさ。


ヨビトは、ハルイのまなざしに息吹が宿るのを見た。


寒さ堪えてなんとか起き出すと、身支度を整え、ヨビトは仕事へ向かった。出掛けがしらに、ヨビトはふざけてハルイへ言った。

「一晩の宿をどうもありがとう。奥さん。」 

ハルイは笑っていた。

「雪解けが早くなっているから、立ち往生する前に帰ってね。」



第2部



一人の狩人が居た。犬ぞりに乗って、崖さながらの雪山を大滑空する。鉄砲玉のような一行は器用に岩と岩の間をすり抜けて行く。雪を舞い上げ、その煙の為に一行はまるで山から湧いて出たように、現れては立ち消えた。犬の吐く息は白く、行軍の厳しさを物語っていた。狩人は目を細め、遠くを見た。


陽があんなに傾いている。最早引き返せない。馬鹿だな。珍しく。嫌と言う程これまで駆けてきた。なのに俺はどうしていつまでも獲物を追っていた?


狩人は犬の背を見た。一様に皆忙しく躍動している。


とにかくどこかへ・・・


犬ぞりの犬は忠実だがそれは様々な具合に左右される。疲れさせ過ぎてはいけない。雪に覆われていても、ここは岩山の国。きっさき鋭い真っ黒な岩肌が、日増しに増えて来た雪解けのお陰で犬ぞりに乗っていてもちらほらと確認出来る。日暮れに近づけば気温が下がるから、溶けた雪は氷に変わり、岩肌を滑りやすくする。犬に怪我をさせるのはやっかいだし、この狩人は自分が配下に置く者が傷を負う事を非常に嫌った。例えそれが獣に過ぎずとも。自分の手足を担う者に傷を負わせるのは馬鹿か、間抜けのやる事だ。その上今日は自分が獲物を追うのに夢中になった為に同胞に負担をかけているのだ。用事で必要になったとは言え、自分がすすんで赴く必要は無かった。毎度世話になっているマタギと昨夜呑みすぎて、彼を酔い潰してしまった。だから今日は自分がこうして狩りに出掛けたのだ。

中々民家が見つからず、狩人がやきもきしていると、少し離れた所に小さな灯りが見えた。この地域の家では通常、近隣の住民の為に特に冬場は玄関に提灯を吊るす。誰もが遭難の危険と隣り合わせで、誰もが飢えと乾きの危険にさらされる可能性を持つ。もう少し雪解けが進めば冬眠を終えた動物達も人里に降りてくるかも知れない。獣は大抵、夜を好む。人の側ならなおさら。荒れ地で子を養うのが大変なのは人間ばかりでは無いのだ。

狩人はとりあえず安堵した。提灯をぶら下げているのは普通、親切な家庭だ。一晩の宿がとれるかも知れない。その上狩人は、物々交換に使えそうな小さめの獲物をいくつかそりに積んでいた。

民家は狩人が犬ぞりを走らせている所から、1kmも無い場所に有るらしかった。恐らく、崖からわりと距離の有る、傾斜が穏やかな所だ。雪解けが済めばすっかり解る。

狩人は犬達に声を掛け、上手く到着出来るように促した。

家の前に到着したのは、陽が落ちきるまで一時間か、一時間半という頃。提灯の灯りは最早灯されていた。快晴の空には少数だが星がいくつか輝き始めていた。今、帳を降ろそうと夜が迫り、辺りは薄い暗闇に包まれていた。提灯の灯りは家庭の暖かさを象徴するようだ。

狩人は白木のドアを拳で叩き、大きな声で、

「誰か!」

と言った。言った後で、ドアに呼び鈴らしき手のひらほどのベルがぶら下がっているのに気が付いて、それを揺らした。元の塗装は恐らく可愛らしい青色。風雪の為か剥げてしまって、地金の黒っぽい色が露わになっていた。おまけに積雪のせいで音が伝わり難い。狩人はもう一度ドアを拳で叩いた。

「どなた?」

家の中から声がした。女だ。

「良かった。狩りをしていたら、引き返しそびれてしまって・・・」

「・・・旅の人かしら。おひとり?」

「えぇ。そうです。ここの人間ではありません。・・・同じ土地ですが少し、遠くから来ました。」

狩人の言葉に、女は明らかに戸惑っていた。

仕方無く再び狩人が話し始めた。

「・・・玄関の近くに、テントを張らせていただけますか?明朝には必ず発ちます。」

狩人が言うと、女は

「えぇ。もちろん。どうぞ。けれど、大丈夫かしら。凍えたりしませんか?」

と、心細そうではあれど優し気な声音で言った。狩人は朗らかに含み笑いながら、

「大丈夫。犬が居ますから。お気遣いどうもありがとう。いつ吹雪くかも分からない。民家の近くと言うだけで安心出来ます。一面雪の中よりずっと暖かい。では、失礼して・・・」

とはっきりとした口調で言うとテントを張る為に玄関から離れた。本当は、調理器具や暖を取れる物を借りられれば、と思っていたが仕方無い。狩人がそりまで戻ると、自分の足元を、ひかりがサッ、と走ったのに気が付き、振り返った。

ハルイはドアを開けて、旅の狩人を見た。

狩人は黒い縮れた長毛の毛皮を着ていた。遠くからでも分る。立派な青年だ。精悍な顔立ちと佇まいにはどこか風格さえ有った。

「あの・・・」

ハルイが声を掛けると狩人は笑い掛けた。ハルイの声があまりに小さいので、狩人はハルイに歩み寄ろうとした。歩を進めても、ハルイがドアを閉める気配は無く、狩人はそのままハルイの側まで来た。

「初めまして。エルヌトです。」

差し出された手に、ハルイも手を差し出し応えた。エルヌトはハルイのちいさな手を握りしめた。柔らかな力。脱力には配慮が行き届き、ハルイはエルヌトの高貴をなんとなく悟った。

「はじめまして。私はハルイ。・・・エルヌトさん、台所になら場所を貸せるわ。あっちに犬小屋があるけれど、犬に同じ場所はまずいわね。テントが良いなら毛布とアンカをお貸しします。夕飯これからだから、良ければ召し上がってください。やかんとカップは有るのかしら?薪はあっちに有るの。自由に使ってください。水は家に有るから持って行って。」

「ありがとう。とても助かります。犬が心配だから、今日はテントを張ります。お礼と言ってはなんだが、そりに獲物が有る。いくつか・・・」 

「本当?良いのかしら。それはとても助かるわ。とにかく家へ入って。私、寒くて凍えそう。」

ハルイは自分の肩を抱いた。

「あぁ、すみません。では、お邪魔します。」


ハルイはエルヌトと夕飯をとった。

エルヌトはハルイの知らない沢山の事を知っていて、話し上手だった。饒舌家とは言え無いけれど、真摯な言葉は物知らぬハルイには丁度良かった。柔らかで、時にたくましいエルヌトの声音はハルイをすっかり安心させた。恐らく、元は物静かな人なのだろう。ハルイが黙っていると、エルヌトも大人しかった。二人はハルイがヨビトと自分の為に作ったパンとスープを分け合い、食べた。ハルイはエルヌトを見詰めた。焚き火が黒い瞳を濡らしたように輝かせていた。熱に上気した頬。エルヌトは教養に反し、朴訥で清純な印象をハルイに与えた。

夕飯を終えて、エルヌトが外に出ようと言う時、エルヌトはベルトに挿したナイフと背負っていたピストルをハルイに渡した。両腕に抱えたハルイは重さに思わず体を揺らし、エルヌトはそれを見てわずかに笑った。静かで穏やかな微笑。ハルイはこの一瞬にエルヌトと言う人を、わずかに知った気がした。ナイフとピストルをまじまじと眺めるハルイを見て、エルヌトは自分の心が凪ゆくのを感じていた。恋愛の一瞬の輝きも。

ハルイがテントを張るのを手伝おうかと聞くと、エルヌトはこれを断った。


エルヌトを見送り、ハルイは就寝前の家の片付けを終えて床に入った。

ヨビトを想った。今日は帰らないだろう。多分、ふたつ隣の奥さんが産気づいたか、みっつ隣のロンデルブーグ爺さんがリューマチの薬をヨビトへ頼んだのだ。

ハルイはどうにも眠る気になれず、起き上がると少し惑い、気を揉んでから立ち上がり、今自分が掛けていた毛布を抱き抱えるとアンカの用意をし、エルヌトの居るテントへ向かった。


エルヌトの出発の為に、二人の朝は早かった。ハルイはエルヌトの遠慮も聞かず、二人分の朝食を用意した。朝食を食べながらハルイは自分のブラウスのにおいを嗅いだ。

「犬?」

「えぇ。」

エルヌトはハルイを見ていた。ハルイはスープを口へ運び、エルヌトを見返すと静かに、少し強い口調で尋ねた。

「何?」

寂しさが苛立ちをつのらせ、声に露わになった。エルヌトはスープの入った皿をテーブルに置き、ハルイをもう一度見詰めた。

「あんた、俺が好きか?」

ハルイは思った。


旅に呼ばれたわ。


エルヌトの犬ぞりは飛ぶように速かった。ハルイは激しく高鳴る心臓の鼓動を抑えるように、エルヌトにしがみついた。エルヌトは決してハルイを振り返らず、声は犬にしか掛けなかった。時々ハルイを気遣って、エルヌトはハルイの手に自分の手を重ねた。それも当然に一瞬のことだから、ハルイは今、自分が、どんな速さで切り立つ山々と、雪原とそれが溶けかかっている為に凍った岩の上を、走り抜けているかを想像してまた心臓を激しく鼓動させていた。

ハルイはこのままエルヌトと犬ぞりでどこか得体知れない場所に浮遊するのではないか、と思った。そこは夜のように暗く、星のように希望に満ちて、北風のように厳しい。ハルイはエルヌトをきつく抱きしめて背中にぴったりと頬を押し付けた。こうしていると、エルヌトの背中が分る。


山犬のようなエルヌト。

冥府の王。

なら犬ぞりの犬はみんな夜の城の門番だわ。  


雪原を切るそりの音と、激しく吹きすさぶ風の音を聞きながら、ハルイは産まれ育った山をあとにした。



第3部


ヨビトが帰宅したのは夕方。日暮れまでは充分に時間が有った。昨日はロンデルブーグ爺さんのリューマチの具合が悪くて、ふたつ隣の奥さんは産婆を呼ぶにはまだまだ早い様子だったから、ヨビトは犬ぞりを走らせて街へ行き、薬局で薬を買って来た。爺さんの家へ戻る頃には日暮れ間近で、ヨビトは爺さんの家へ泊めてもらう代わりに、爺さんに二人分の夕飯と、3日分のスープを作ってやった。それなりに楽しい夕食のひととき。それぞれ床に入り、爺さんと二人で昔話をして、気が付くと眠っていた。ヨビトは爺さんに朝食を作ってそれを二人で食べ、爺さんの娘に置き手紙をしてからそのまま仕事へ向かった。行きにふたつ隣の奥さんの様子を伺い、帰りにもう一度伺うとまだまだ余裕が有るようだし、明日の朝には出稼ぎからご亭主が帰ると言うので、ヨビトはやっと自分の家に帰って来た。




いつも通り、ヨビトは犬小屋に犬を繋ぎ、ドアを開けて毛皮をバサバサやり、ふたつ目のドアも開けて「ただいま。」と言った。


ハルイが居ない。


ヨビトは少ない部屋々々を探した。やっぱり居ない。ヨビトはにわかに心配になった。置き手紙もせず、部屋はいつも通りのまま。夕飯の支度をしていた様子は無いから、外に用事は無いだろう。薪なら充分台所に積んで有る。一昨日ヨビトがそうしたのだから、よく覚えている。 

ヨビトは困り、呆けたように立ち尽くすしか出来なかった。がらんとした室内。項垂れてみると、ヨビトの足元にハルイがいつも座していた古びた座布団がぺったんこになっていた。いつもと同じ。日常の景色だ。なのに、ハルイだけが居ない。

ハルイの居ない一室は、もうヨビトの家では無かった。 

ヨビトは仕方無く自分で夕飯を作り、ハルイの分は陶器のポットに入れて食卓に置き、布を掛けておいた。よく晒した白い木綿と醒めるような藍の青が複雑な織模様を成す小さな厚手の布は、普通程度ではあるけれど数少ないハルイの嫁入り道具だ。ヨビトは思わず布を指先で擦り、撫でつけた。


多分、ハルイは帰らない。


ヨビトの頬を一粒、涙が伝った。


「ねぇ、ヨビト。知ってた?私のお婆さんの時代には、ここいらの人は皆、集落を作って暮したのよ。」

ヨビトはハルイを見詰めた。

「やだ、ヨビトったら、だらしがないのね。」 

ハルイは声を立てて笑っていた。ヨビトの口元を指先で拭うとそれをぺろりと舐め、少し顔を上向けて室内に露呈する黒い岩肌を見ていた。

「家は受け継ぐものだったから、昔の人の忘れ物が家の何処かから出て来るんですって。ねぇ、見て。これ。」

ハルイはブラウスの釦を上から外し、胸元を少しだけ露にした。手を突っ込み、金鎖の先のペンダントトップを掴むとヨビトへ見せた。

「なんだと思う?」

「さぁ?宝石にしか見えないけど・・・」

「そうよ。ヨビト。これは宝石。」

一塊の大きな石は、完璧とは言えないものの、確かに輝きを与えられていた。不明確な色彩を見るに一級品とはほど遠い。ハルイの胸元にずっと有ったから、輝きが皮脂で少し薄ぼけていた。

「私のお爺さんが、お婆さんにお嫁に来てもらう為に用意した家で見つけたの。ねぇ、ヨビト。これって、昔の人の忘れ物かしら。多分そうよ。しかも、ただの忘れ物とは違う。埋まっているのを知っていて、放っておいたのよ。違いないわ。壁に輝く星だったのよ。ヨビト。あなたと私のように、愛し合う男と女が居て、二人は夜ごと家の中のたった一つの星を眺めて暮らしたんだわ。」

ハルイの横顔は生きる血潮に紅く、燃えていた。

ヨビトは思い出のハルイと床に入って眠り、朝が来るといつも通りに目覚めた。独りの床は覚えないような広さに満ちていた。落胆の為に非常な脱力を覚え、もう一度眠りに身を横たえようかと思った。


宝石と呼ばれる鉱石は、時が満ちてその形を成せば掘り出される。

ハルイはただ、その時が来たから行ったのだ。

僕が見ていたのは、もう当に死んだ星だったのかも知れない。

ハルイはきっともう戻らない。

彼女は風に誘われたのだ。春に猛々しく育ち、瞬く間に散るタンポポの綿毛のように。

芽吹きを求めて。


季節はすっかり春も終わり頃。風はすっかりぬるく、草木は茂りきっているか、花を終わらせて清らかな新芽を伸ばし始めていた。遠くに見えるこの国のシンボルの山は通年はげ山で、赤土の為に山肌を褐色に染めている。冬以外は褐色の山の頂上はいかめしく尖り、快晴の空に突き刺さっていた。なんて青い空だろう。深くて、まるで果てが無い。


ヨビトが街を出る頃には一輪馬車は荷物が山積みだった。頼まれ物が沢山なのは相変わらず。ロンデルブーグ爺さんは一冬越える度目に見えて老いるが元気そうだ。リューマチは相当に辛いはずだが、爺さんはいつも明るい。ヨビトがそう言うと

「そんなことない。今朝だって少し泣いたよ。夜に痛いといつもよりずっと怖い。」

真面目にそう言っていた。

ヨビトは最後の荷物を一輪馬車に積み込み、ノートを出してリストを確認した。さぁ、自分も馬車に乗って出発しようかと馬の頭を撫でていた丁度その時、ブラスバンドの音楽は鳴り響き人々は待ちかねていたとばかりにどよめいた。


王が来る。


仕事の為に街へ立ち寄るヨビトに、時間は無い、今日この時間からパレードがあるとは知っていたが、まさか丁度かち合うとは。ヨビトだってお祭りが嫌いな訳では無い。自分の居る国の王様の顔が拝めるなら一目で良い。拝んでみたいものだ。ほんの数分なら、そう思って手綱を引き、ヨビトは人だかりの方へ歩いた。


パレードの華やかさときたら。物珍らしさにヨビトの気持ちも高揚する。白いラバの頭が見えた。白いラバは国の叡智の象徴なのだ。強さと、忍耐はこの厳しい土地に似合いの言葉だ。白いラバに乗るのは古来より王様と決まっている。ヨビトは皆と同じ様に身を乗り出した。ヨビトは王を見た。背筋を伸ばし、なんとも立派な晴れ姿。黒い瞳に黒い髪。少し日に焼けた顔は、たくましく精悍だった。王様の腕の中、同じラバに乗るのは王妃。きらびやかなドレス。裾飾りの絢爛さ。絹のハイヒールのつま先のちいさなこと!


「ハルイ・・・!」


ヨビトは目を疑った。ハルイが鳶色の縮れ毛のちいさな頭の上に、あつらえて作ったのだろう、とても華奢なティアラを乗せて人だかりに向かって手を振っていた。


裏切りのハルイにはいやらしさなど微塵も無く、まだ手付かずの処女おとめのようでさえあった。ハルイは時の流れを忘れてさえいた。以前と変わりなく艷やかな頬をふっくらとさせて。少し日焼けしていた。微笑む度に片方の口角が上がって眉尻が柔らかに下がる。


まだ手付かずの花の蕾の様なひと

エメラルドの目をした、時の悪魔。

ジプシーの成れの果て。

旅行く踊り子の、巫女姿!


ヨビトはハルイに人生を盗まれたのを知った。

ハルイは赤ん坊を抱いていた。ハルイのちいさな体に抱かれた赤ん坊は、こぼれおちそうに大きく立派に見える。


ちいさな王子。


白いラバに乗った睦まじ気な王様一家が丁度ヨビトの目前を通り過ぎて行く時、やにわにハルイ―王妃がおくるみのフードを外した。


まごうこと無き、美しい栗毛。


王妃は母親の顔をしてちいさな頭にか弱く生える栗毛を撫でつけていた。ヨビトは手綱を握り締めたまま立ち尽くしていた。


パレードの一団はヨビトの前を通り過ぎて行く。次々に沸き立つ歓声をヨビトは聞いていた。


「王子誕生のよろこび」と。


ラッパの雷鳴。ブラスバンドは軽快な音楽を鳴らして過ぎて行く。ヨビトは見ていた。美しい晩春の日に、この街のどの景色よりも眩しい、楽隊の制服姿を。黄昏など知らぬように真新しく、英気に満ちた、去り行く王家を。



(終)



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