幽霊は桜の夢を見るか

透峰 零

千夜に足らぬ花の日々

 多分、最初に会った時から僕は彼女に惹かれていた。


「はじめまして。こんな夜更けにどうしたの?」


 なんて。満天の星空を背景にした澄まし顔の彼女は、嘘みたいに綺麗だったんだ。

 たとえその空が、プログラム化されて投影されただけの偽物だったとしても。

 たとえ彼女が立っているのが、屋上の落下防止柵フェンスの向こう側だとしても。

 そこにいる彼女は、本物だと思っていたから。


 第三次世界大戦を経て、西暦が破棄されて六十余年。人類が宇宙に出てからで数えると二百五十年が経った時代。場所は第二五〇番宇宙居住地スペースハビタット。詳しい銀河座標は忘れてしまったけど、別名をサクラサク三号という。そんな、出資会社の一存で決められるニックネームを持つこの地は、絶妙にダサい名前にたがわず、内部に数千本の桜が植樹されていた。

 僕の通う高等部だけでも、運動場には数十本の桜がうわっているはずだ。一部の区域などは、散策用として桜ばかり植えているものだから、屋上から見ていると白い雲海のようにすら見える。もっとも、僕は雲海なんて見たことはないけれど。

 皆は桜の花びらは薄紅色だというけれど、僕にはどう考えても白色にしか見えなかった。


 彼女と会ったのは、桜が咲くよりずっと前。

 人工の空が冬の星座を映し出していた、十二月のことだった。

 最初の一言をもたらしたのは彼女の方で、冒頭の言葉がそれである。

 日付を跨ぐ直前にかけるものとしてはひどく間が抜けているようで、けれどぴったりな気もする。そんな挨拶だった。

「こんばんは」

 と僕は反射的に答えて、それから彼女の問いに答えられていないことに気がついた。

「初めまして。ええっと……絵を、描きにきました」

 今考えても、恐ろしく間の抜けた答えだったと思う。

 午後の十一時を回った時刻に、しかもこんな寒々とした空間で。一体何をえがくというのか。

 けれど、その時の僕は確かに絵を描きにきていた。肩にかけた鞄の中にはペイント用のタブレットと固定デバイス一式が入っていたし、もう一つの目的は絵を描いてから終わらせるつもりだったから。

 だから、嘘ではない。

 彼女は僕の答えを笑うこともなく、大きな瞳を瞬かせた。予想以上に驚かせてしまったようだ。狼狽えたように、彼女は問いを投げてきた。

「絵を? だったら、私はここにいたら邪魔かしら」

「あ、いえ。そんなことは。むしろ僕の方がお邪魔じゃないですかね?」

「全然、構わないわ」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして」

 先客の存在に動揺しながらも、僕はそそくさと準備を整えていく。打ちっ放しの床は冷たいので厚手の古毛布を敷き、その上に灯りも兼ねた携帯用の手持ちLEDストーブ。隣に固定デバイスをセットして、タブレットを規定位置に貼り付ける。

 最後に折りたたみ式の椅子を置けば、準備は万端だ。

 柵向こうの彼女にちょうど正対する位置で、僕は椅子に腰を下ろした。

 準備の様子を興味深そうに首を伸ばして眺めていた彼女が、問いかける。

「何を描くの? 星空?」

「モチーフの一つとして、それも描きます」

「ふぅん。写真じゃダメなの?」

「はい」

 残念ながら、僕が描く星空は作りもののこの空にはない。

「ダメなんですよ。僕は模写をしたいわけじゃないので」

「じゃあ何を描いているの?」

「見てみますか?」

 彼女が頷いたのを確認し、デバイスのロックを解除して百八十度回す。開いたキャンバスに指を滑らせていくと、画面上で見慣れたラフが次々にスライドされていった。

 自分の絵を人に――それも、見知らぬ他人に見られるというのは緊張するものだが、この風変わりな先客に僕も少しばかり興味を持っていたのだ。

 年齢は僕と同じか、少し年上。でも女の子というものは大人びているから、実際のところは分からない。

「……これ、もしかして全部あなたが一から描いてるの?」

 何枚目かのスライドで、彼女が半信半疑の表情で呟いた。

「はい」

「そうなんだ。私、てっきり下絵とかラフスケッチはAIに描いてもらうものが普通だと思ってたわ」

 確かに、AIが台頭してからはその方法が主流となっている。美術の授業でも、イメージ通りのラフをAIに出力させる方法は習っても、デッサンまでは勉強しない。

 そういうことは趣味、あるいは専門的に絵を勉強したいものが自主的に行うものだからだ。

「家のメモリにはAI製のも何枚か入ってますよ。これは外出用なので、厳選してるんです。でも、やっぱり気に入ったものを選ぶと自分が描いたものになっちゃうんですよね」

「クラウドに入れておけばいいじゃない。そしたら持ち運びなんて考える必要ないでしょう?」

 口を尖らせる彼女に、僕は後頭部を掻いた。少し前まではそうしていたのだが。

「おっしゃる通りです。でも、なんか……それだとここに来た意味がなくて」

 よく分からない、というように首を傾げる彼女に僕は頭の中で言葉を捏ね回す。こういう時、自分の思ったことをすらすらと説明できない自分が好きではない。この場所を選んだそもそもの理由は、もっと説明に困るので論外だ。

「ええっと……。ネットには繋ぎたくないんです。僕がわざわざ自分の部屋を抜け出してここに来るのは、繋がりから逃げたいからなので」

 それは例えばネットニュースのポップアップだったり、ダイレクトメッセージだったり、本名も分からない画面の向こうの誰かが垂れ流すSNSの雑談だったり、チクタクと画面の隅で数字リミットを刻む時計だったり。そういうもの全てからだった。

 今や人類はいつでも誰とでも、繋がることができる。


 それは本来、好ましいことななのだろう。けれど僕は、その全てがたまらなく煩わしく感じてしまう時があるのだ。


 全てを投げ出して、誰も僕のことを知らない世界に行ってしまいたい。

 今まで築いてしまった、恥も小さな嘘も嫉妬も虚栄も、すべてすべて。何もかもをリセットして、ゼロから始めて、みんなには綺麗な自分だけを見ていてほしい。


 そういう気持ちになることが、ある。


 僕の口から出る拙い説明を、彼女はフェンスの向こうから聞いてくれた。

「それ、ちょっとだけ分かるかも。私も嫌なことがあると、よくここに来てたし。君、何かあった?」

「まぁ、実はちょっと……」

 曖昧に笑って僕は誤魔化した。他人に話せるほど、まだ心の整理はついていない。

「それより、すみません。僕ばっかり喋ってしまって」

「ううん。別にそんなことないよ。それに、敬語もいらないわ」

 首を振った彼女は、床に座り込んで柵に背を預けた。

 フェンスの向こう。何もない虚空に、白い足が投げ出されてブラブラと揺れる。

 そこで、僕は気がついた。

 この寒空の下、彼女の身につけているものが薄手のワンピース一枚だけだということに。ある程度の温度調整が行われるとはいえ、今の設定季節は「冬」。最高気温は十五度もない。こんな服装だと、普通の人間は凍えてしまう。

「私もね、以前はそう思ってたから」

「以前?」

「うん、そう」

「じゃあ、今は?」

 僕の問いに、彼女が振り向く。真っ黒な瞳が濡れたように輝いており、まるで星を閉じ込めたようだった。

「今は逆。少し、あなたが羨ましいわ」

 僕から目を逸らすことなく言い切った彼女に、僕は「そっか」としか返せなかった。


 彼女は生きている人間ではないのだろう。

 確認したわけじゃなくて、ただの直感だ。でも、あながち間違ってはいないと思う。幽霊か、亡霊か。言い方はともかく、人の手の届かない世界の住人なのは間違いない。

 信じられないが、実際に目の前にいるのだから仕方がなかった。

 科学がいくら発達しても、僕らはまだ人の魂がどこに行くのかはわかっていないのだから。



 ◆◇◆◇



 それからも、僕と彼女の夜の逢瀬は密やかに続けられた。

 彼女はいつ行っても同じ場所にいた。幽霊なのだから当然かもしれないが。

 彼女のことを他の人に話す気には到底なれず、彼女は僕以外に話し相手がおらず。結果として、二人きりの時間は春になってもまだ変わらず続いていた。


 僕は、彼女と話す時間が好きだった。

 他愛ない会話の中にも、どこか自分と通ずるものがあって飽きることはなかったのだ。

「ねぇ、ソメイヨシノは全てクローンだって知ってる?」

 その日も、彼女の振ったネタは僕の琴線におおいに触れるものだった。

 人工的な白々とした灯りに照らされて、件の花は白い花弁を揺らしている。

「知ってる。あの花は、自然交配によって子孫を残すことができないんだよ」

 だから、僕らの先祖たちはあの美しい花を人工的な方法でしか増やせなかったのだ。僕の答えに、彼女は嬉しそうに――そして、少しだけ寂しそうに笑った。

「私達と同じだね」

「そうだね」


 あの樹は生物学的な理由で、僕らは社会的な理由で、それぞれ進化を諦めた。

 緩やかな終わりを迎える種のくせに、歪に生かされている生命だ。


「クローンといえば。今さらだけど、君のIDは?」

「1A5B-39-6-60318番。あなたは?」

「1A5B-57-1-60325」

 驚いたように彼女は目を見開いた。

「あら、十八歳も違うのね。それってすごい縁。あなたの交配元は私の知っている子かしら。だったら嬉しいわ」

「確かにね。っていうか、じゃあ何だい。君は……」

 僕は素早く、自分の年と生殖期を足し算する。十七+十八=三十五という答えを頭の中で弾き出し、言葉の続きを紡いだ。

「本来なら、三十五歳ということ?」

「そうなるわね。どうりで、桜の花を何度も見ると思った」

「呑気すぎるだろ。僕が来るまで、何してたんだよ」

「何もしてなかったわ。だって、今まで私の姿が見えた人なんていなかったんだもの」

 そういえば、初めて会った時の彼女はひどく驚いていた。あれは、僕が彼女を認識したことに対しての純粋な驚きだったのだ。

「今まで一人も?」

「そう、一人も。私が死んでから、私のことを見えた人はいなかった」

 そうだ、彼女は死んでいたのだ。唐突に、忘れていた現実を突きつけられて僕は小さく息を詰めた。

 春の夜のひやりとした空気が、頬を撫でていく。

「どうして君は死んだの?」

「別に。特別な理由はないわ。強いていうなら失恋かしら」

「しつれん」

 フィクション以外で聞くことのない言葉だ。間抜けに繰り返した僕に、彼女は大真面目な顔で頷いた。

「そうよ。私にはとても好きな人がいたわ。私の遺伝情報を渡すなら彼以外考えられなかった。でも、彼は私を選ばなかったの」

 そこで彼女は大袈裟に肩をすくめた。

「仕方ないことよね」

 交配は、種子管理センターバンクの統合AIによる計算の元で行われる規則だ。もちろん、遺伝情報の持ち主同士の同意によって行うことも可能だが、一般的な生殖期――十八歳までに選ぶ者はほぼいない。完全合意による交配は、法律的にも色々と手続きがややこしいのだ。

「どうせ死後も交配はされるけど、自分の遺伝情報が知らない人と一緒になるとこなんて見たくなかった。だから生殖期の前に死のうと思ったの。バイトしたお金を全部使って、ずっと遠く、限界まで彼から離れて。誰も私の知らないところから飛び降りたのよ」

「ここで死んだんじゃなかったんだ」

「当たり前じゃない。だったら、あなたが簡単に入り込めるわけないでしょう?」

 確かにそうだ。生徒が飛び降り自殺したとあっては、学校の信頼に関わる。夜に生徒が一人でほいほいと忍び込めることにはならないだろう。

「本当は、ここで死にたかったんだけどね。桜の中に落ちて消えたかった」

 不謹慎ではあったが、そうこぼした彼女の横顔はとても美しかった。

「あと百年くらい生きれるのに。もったいないとは思わなかったの?」

 微笑んだ彼女は首を横に振る。ソメイヨシノの話をした時と同じ、少し寂しそうで儚い瞳だった。

「私にとって、一人の時間は長すぎたのよ。どうして、人は一人で生きるようになってしまったのかしら」

「家族」という概念が消失してからもうどれくらいの時代が流れたんだったか。こういう時、さらっと由来なんかを答えられたらカッコいいのだろう。歴史の勉強をサボっていたことが悔やまれる。

 仕方なく、僕は世間一般で言われている理由を口にした。

「一人の方が生産性は上がるからね。結婚や子育ては非効率的だよ」

「だから、決まった時期になったら自分の遺伝情報を配合して機械的に人口を増やしましょうって? 私はそんなの嫌だった。それだけよ」

 皮肉な口調だった。事実、彼女はこの社会が嫌で嫌でたまらなかったのだろう。だから自分の人生を全部使って否定した。

 その事実に、胸の中で何かが込み上げてくる。

 怒りとも悲しみとも違う、自分でもよく分からない感情。ただ、「どうしてそんなことで」という想いだけがぐるぐると渦を巻いた。でも、彼女の気持ちも痛いほどわかる。僕らはいつも、ほんの少しのことで死にたくなる生き物だ。

 行き場のない感情の吐け口を求めて、僕の語調は自然と厳しいものになった。

「でも、遺伝情報の配合とモデル人生制度で、人口減少は歯止めがかかったんだよ。そうしていないと、人類はもっと早くに絶滅していた」

 間髪入れずに彼女が反論する。

「そして今度は限られた資源を巡って第三次世界大戦が勃発。増えた人口をまた半分以下に減らしたのよ。どうかと思う」

 おっしゃる通り過ぎて、ぐうの音も出ない。きっと人類の進化は叡智ではなく、愚かさが積み重なってできているのだろう。

「君は歴史に詳しいんだね」

「あなたが昔のことに興味ないだけでしょう」

「そんなことはないよ。アーカイブで見る昔の創作品はどれも好きだ。自由でね。君の言う「恋愛」をテーマにしたものだってあるよ」

「例えば?」

「最近はソネザキシンジュウを観た。リメイクだけどね」

 彼女の形の良い眉が寄せられた。

「何それ?」

「大昔の有名な人形劇だよ。全てに騙された男が、愛する女の手を取って心中する話さ」

「それって、男女の家の仲が悪くてすれ違い自殺する話のこと?」

「それは多分、ロミオとジュリエット。心中と自殺は微妙に違うんだ。心中はね、愛したあった二人が同意の上で一緒に死ぬこと」

「ふぅん。詳しいのね」

「君が興味ないだけだろ」

 お返しのようにそう言ってニヤリと笑った僕に、彼女は小さく両手を上げた。

「そうね、ごめんなさい」

「怒ってはないよ。本来、知識や常識なんてそんなものだから」

 それから、しばらく沈黙が落ちた。互いに気まずくなったわけではない。単に話題がひと段落しただけだ。

 僕がペンを走らせる硬い音と、夜風に梢を揺らす桜花のざわめき。それが僕らの全てだった。


 それだけで十分だった。



 ◆◇◆◇



「私、もう一度死ねるかしら」

 彼女がそう言ったのは、季節が一つ巡った夏のことだった。この季節だけは、彼女の白いワンピースも生きている人間と同じに見える。

「なんで?」

「だって、あなた専門学習院アカデミーに行くんでしょ?」

 家族というものがなくなってから、僕らの人生はひどく単純になった。

 生まれてから六歳までを保育機関ナーサリー、六歳から十八歳までを初等部・中等部・高等部から成る学習施設スクールで過ごし、大半の人間は卒業と同時に遺伝子の交配を行う。その後は適性によって勤務組織カンパニーに配置され、一人で暮らしだす。一人での生活が困難となれば、養護施設ラストホームに入り最期を迎えてお終い。

 アカデミーは、専門性を磨くために一部のスクール卒業者が行く機関だ。

 主に音楽や文学、美術などの芸術的娯楽に高い適性を持つ者たちが行くことを許可される。

 そして、アカデミーに行く者達の遺伝子交配は卒業時まで延期されるのが決まりだ。アカデミーでの成績も交配の際の選択要素に加味されるから、というのがその理由らしい。

「僕が進学することと、君がもう一度死ぬことにどんな関係が?」

「この地区にアカデミーはないでしょう。だったらあなたの遺伝情報も別地区に行って、そこで交配されるじゃない」

「そうだね」

 生まれた時に採取される遺伝情報は、生殖期に本人が住んでいる地区で交配が行われる。そこで生まれた子供はその地区の学習施設に通う決まりだ。

 交配元のIDは自分のIDと共に告知されるが、意識している者はほとんどいないだろう。僕とて、最近までは見ようとも思わなかった。家族という繋がりが無くなった現在では、「交配元おや」というのはただの記号の羅列に過ぎない。

「あなたがここから離れたら、きっと私を見える人は二度と来ないもの」

「そんなの分からないよ。僕以外に見える奴がいるかもしれないし、僕の遺伝情報だけが君を見れるとは限らない」

 彼女が答えないから顔を上げると、予想以上に悲しそうな表情にぶち当たった。後めたさに駆られ、僕は寄り添うように言葉を重ねる。

「……もう一度死ぬって、消えるってこと?」

「うん」

「何かアテはあるの?」

「分かんない。でも、多分あなたに私の姿を描いてもらったら死ねる気がする」

「何だそりゃ」

 僕は呆れたが、彼女は真剣だった。あまりにも真剣なものだから、茶化す言葉一つ絞り出せない。

 それに、彼女が言うことは何となくわかる。

 大昔の人間は幽霊というものを未練の塊だと定義していたようだ。彼女と知り合ってから、少しでも近づきたくて古い資料を漁りまくったが、そのどれもに同じようなことが記されていた。

 未練も幽霊も僕らにはすっかり縁遠くなってしまったが、きっと今も世界のどこかには息づいているのだろう。

「君はさ」

 次の言葉は、少し躊躇った。そのくせ、出てきたのはひどく回りくどい表現だったと思う。

「牡丹ランタンしようとは思わないの?」

「ぼた……何、それ? 噛みそう」

「死んでしまった女の霊に惚れてしまった男の話だよ。彼は最終的に女の幽霊に連れて行かれてしまうんだ」

「連れて行って欲しいの?」

 どうしてか、そう問うた彼女はひどく悲しそうだった。

「君が望むならね」

 素っ気なく答えた僕に、彼女は悲しげな顔のまま首を横に振った。

「そ。じゃあ、嫌よ。私はあなたを連れていけないの」

 その答えを残念に思う反面、ホッとしている自分がいる。そのことが、ひどく情けなかった。

「わかった、君を描くよ。二度目の命日はいつ頃が良い?」

「春がいいな。私ね、桜に向かって落ちていきたいの」

 それから、と彼女は付け足した。

「とびっきり綺麗に描いてね」

 背中で手を組んで笑った彼女は、今まで見た中で一番綺麗だった。



 ◆◇◆◇



 夏はあっという間に過ぎ去り、秋に量産したラフを何とか冬には形にし、卒業式の前日にようやくその絵は完成した。


 月と桜を背景に、はにかんで笑う一人の少女。季節外れのワンピース。

 両手を前に差し出した彼女の身体は屋上のフェンスを超えた場所にあり――何もない背後の空間へと傾いていた。

 それは、今、まさに夜に溶けていく少女の肖像。


 まじまじとその絵を見ていた彼女は、長い長い時を経て、ようやく「ほぅ……」と微かな吐息を漏れさせた。

「綺麗……」

「そりゃ、そういう依頼だったからね。でも、僕の目から見た君は――」

 少しだけタメが入ったのは焦らしたわけではなく、照れ故だ。

「もっと綺麗だ」

 彼女の目がこぼれ落ちんばかりに大きく見開かれる。ついで、その顔がほころんだ。

「嬉しい。ありがとう」

 花が開くような、それも大輪の花が咲いたような鮮やかな笑顔だった。

 これが最後だとしても、見納めだとしても。この笑顔を引き出せただけで僕は満足だった。

「君と一緒に死にたいかという話だけど」

「うん」

「本当は、君と初めて会ったあの日に死のうとしてたんだ。友達に絵を盗られてね」

 それは物理的なものではなく、アイデアの方だった。共用で使っていたクラウドのラフデータを使用したものだったが、彼には「偶然アイデアが被っただけ」と言われたのだ。学校も彼の主張を受け入れた。

 ナーサリーからずっと同じ環境で育ったのなら、似たようなものになってもおかしくはないだろう、と。彼らは個性の判別を諦めたのだ。

 僕の告白に驚くでもなく、彼女はただ静かに頷いた。

「そう、やっぱりね」

「知ってたの?」

「ううん。でも、何となく。辛いことがあったんだろうなって。そのお友達は、今どうしてるの?」

「あれから話してないから知らない。でも、アカデミーには行かないみたいだよ」

 この屋上での夜の日々は、僕の絵をだいぶと個性的にしたらしい。もちろん良い意味で。

 彼女のことを話したことはないが、アカデミーの面接官からは「学校以外で大きな影響をもらって育ったんじゃないかな。友達とか……今はないけど、例えば家族のような」と評された。

 二年半という短い間で、確かに僕は彼女に育てられたのだ。

「ありがとう」

「こちらこそ。楽しかったわ」

 フェンスを挟んで、彼女が僕の目を真っ直ぐに見つめる。

 僕にはもう手が届かない場所。

 最初から届かなかった場所で、彼女は出会ったあの日と同じ、軽い調子で言った。

「じゃあ、行くわね」

「うん」

「少しは歴史の勉強もしなさいよ」

「努力するよ」

「立派になろうなんて考えなくて良いわ。せいぜい、好きなように生きなさい。私はあなたを連れていけないんだから」

「うん」

 絵と同じ満月の中、透明な微笑みを浮かべた彼女の身体がかしぐ。


「私のこと、忘れないでね」


 フェンスの向こうからディスプレイを撫でていた白い指先が、宙に泳いだ。僕には聞こえない旋律を奏でるように動いた指が、透き通っていく。

 ああ、幽霊ってこんな風に死ぬんだ。


「さよなら」

「うん、さようなら」


 僕の挨拶に満足げに微笑んだ白い姿はいよいよ傾きを大きくし、頭から順に視界から消えていく。

 最後に焼きついたのは、夜の空気にひるがえった季節外れの薄いスカート。


 音はしなかった。




 どれくらいの時間が経っただろう。

 ゆっくりと、フェンスに歩み寄った僕は彼女が消えていった眼下の光景を見下ろす。

 仄かに白く輝く桜の海。そこに消えて行った一人の少女へと、僕は別れの挨拶を落とした。


「――さようなら、母さん」

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