同担歓迎

@shiburia

第1話

第一章 オタクの狂宴



 沓(くつ)水(みず)一成(いっせい)さんは、人目を惹く顔立ちをしている。だが、黄金比のように整った造形というわけではない。どちらかと言えば、ファニー・フェイスだ。

色白で、唇が厚くて、目は切れ長。男性にしては女性的な顔立ち。それに、アンニュイな雰囲気が加わり、独特なオーラを放っている。

お坊さんなので、髪は短く刈っている。服装は、背中に亀の刺繍が施された藍色の作務衣を着ている。捲られた袖からは、白く、細いが、しっかりとした筋肉が着いた腕が覗く。簡素な格好が、素材の良さを際立たせている。

スクリーンに、淡々とした表情の沓水さんが映し出された。シリアスな場面でも、いつもと変わらず、落ち着いている。

「沓水さん、どうしてここに?」

もう一人、別のイケメンがスクリーンに映った。沓水さんの助手の興梠(こうろぎ)進君だ。年齢は、二十六歳で、沓水さんより八歳ほど若い。元々の童顔もあって、あどけなさが残る。

「犯人が分かったんだ」

 更に、別のイケメンが映る。色黒で、バター顔の男性。沓水さんのライバル兼友達で、名前は、小牧原涼。

「何!? いったい誰なんだ?」

「そこの、Youtuberのお嬢さんだよ」

 沓水さんは、アイドルのような目鼻立ちをした女性を見た。元・人気Youtuberの桃華だ。

「何のこと?」桃華は、惚けた。

 でも、沓水さんの言う通り、犯人は、この女だ。

 何を隠そう、私は、この映画『沓水さん』を、もう十二回も観ているので、内容は全て知っている。桃華は、ライバルのYoutuberみーなんとアリサックスを殺害した。

 元々はコラボするほど仲が良かったが、自身の人気を、みーなんたちに取られたことで、愛を拗らせてしまった。他にも、人気Youtuberを殺害する計画を立てており、今は、ふわわが狙われている。

 桃華は、IKUIという魔物に操られている。愛を拗らせた人間は、IKUIに狙われ、喰われる。

 桃華は、元々、殺人なんて犯すような人間じゃなかった。ただ、弱い心に、つけ込まれた。

「お嬢さん、あなたは、今から、自分の犯した罪を悔い改める必要がある。そしていつか、もう一度、自分の中に、愛を取り戻すんだ。愛を失えば、苦しみしか残らない」

「うるさいんだよ!」

 常軌を逸した桃華が、スマフォを持って、沓水さんに向けた。

 沓水さんは、武術に長けているので、本来、こんな女なんて、瞬殺できる。

 だけど、今の桃華は、IKUIから力をチャージされている。普通の人間ではない。魔力を消すためには、お札を貼る必要がある。

沓水さんは、操られている人間、しかも女性に、傷を負わせるなんて、できない。桃華に致命傷を負わせないようにしながら、お札を貼るのは大変だ。

桃華は、魔物の表情になっている。目は狂気を帯びていて、口は大きく開き、刃物のような歯が突き出ている。まるで、IKUIが乗り移ったようだ。

 桃華が握っていたスマフォが巨大化し、鋭利な刃物になって、炎を纏った。

 沓水さんが、構える。

 桃華は、炎を纏った刃物を回し、沓水さんに向かって投げた。

 炎は、風を含んで強い勢いを帯び、沓水さんを飲み込もうとした。

 だが、沓水さんは、身を躱して避けた。

 薪炭に火が点き、沓水さんと桃華の間には、火の川が出来た。

 刃物は回転し、桃華の元に戻った。

 桃華は、今度は、左側にいた、興梠君に狙いを定めた。

 炎を纏った刃物を振り回し、興梠君に向かって行く。興梠君は、特殊能力が使える人ではないので、魔物とはまともに戦えない。

 私は、ハラハラして、心の中で叫んだ。興梠君、危ない!

その時、沓水さんが、火渡りをして、興梠君のほうへ向かった。躊躇うことなく、火の上を走った。

興梠君が刺される寸前のところで、沓水さんが桃華の手をチョップして、刃物を落とした。

刃物が転がる。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

沓水さんは、桃華にお札を貼った。

桃華は、動きが止まり、地面にへたり込んだ。

魔力が消滅し、刃物は元のスマフォに戻った。

 私は、安堵の息を漏らした。良かった――。



「もう無理。本当に、無理!」

「素晴らし過ぎて、語彙力を喪失した!」

 銀座にある映画館を出ながら、私とアンゲは、放心状態だった。アンゲの眼鏡の奥には、キラリと光るものが見えた。感動しているのだろう。無理もない。十二回観ても、いいものはいい。一週間に一度のペースで観ても、全然飽きない。

 私たちのようなオタクに支えられ、映画『沓水さん』は、公開から三カ月で、興行収入・八十億円に迫る勢いだ。何としても、沓水一成さんを、〝興行収入・百億の男〟にしたいと思っている。

『沓水さん』は、元々、ハードボイルド系の小説として、五年前に青年誌で連載が始まった。その一年後に、アニメ化され、今年、とうとう映画化された。

 沓水さんは、興梠君や小牧原と共に、IKUIに操られた人が起こす事件の解決に奔走している。その姿は、頼もしくて、格好いい。

 だけど、普段からキリっとしているわけではない。その逆だ。ぼんやりと、お寺の境内で、地域猫や飼い犬と戯れたり、箒を持って掃除をしたりしている。催事を執り行ったり、有難い説教を説いたりする姿は見たことがない。僧侶としては、ダメダメな可能性もある。

 顔がいいので、作品の中でも、ファンの女性たちが、お寺に詰め掛けているが、女性にキャーキャー言われるのが苦手なので、逃げている。本人曰く、シャイらしい。

そんな風に、普段はポンコツ人間なので、興梠君からは、発破を掛けられ、小牧原からは、厳しい突っ込みを受けている。

でも、いざというときは、百八十度変わり、沓水さんが、皆を守る。

 このギャップが、堪らない。

小説『沓水さん』の連載当初は、読者層は男性だったようだ。だけど、何人かの熱狂的ファンの女性たちが、熱心に布教活動を繰り広げたことから、アニメ制作者の目に留まり、アニメ化された。

 そこからは、女性に消費されるコンテンツと化した。そっちのほうが売れるからだろう。宣伝の仕方などだけじゃなく、作品自体も女子受けに傾いた。特に、最大のファン層である、腐女子を意識しているのは、明らかだ。

 私が『沓水さん』のファンになったのは、二年半前。アニメ化されて、一年半後のことだ。ファン歴としては、中堅くらい。

 何を隠そう、私も腐女子だ。

私は、Twitter上で、『沓水さん』の二次創作を発表している。ジャンルは、小説。それも、エロ路線。推しカップルは、沓水さんと興梠君。この二人の、あれこれを、エッチな言葉で表現し、原稿用紙数枚程度の話に纏めている。

ちなみに、私は、左右固定派ではないので、時々、沓水さんと小牧原のカップルを書くこともある。一推しは、沓水さん、二推しは、興梠君、三推しは、小牧原だ。

沓水さんと興梠君は、『沓水さん』の中で、最大人気カップルなこともあり、私のTwitterアカウントも結構フォロワー数が多い。何だかんだ、女性もエロが好きなのだ。内容がエロティックな時ほど、〝いいね!〟の数や、リツイートが多い。私の本名は、中西沙希だけど、Twitter上では、色之丞というハンドルネームで活動している。

因みに、二次創作は、本来違法だけど、『沓水さん』は、独自のガイドラインを設けていて、SNS上での公開に限り、許可している。これは、優秀な二次創作が、ファンを増やしていることが背景にある。実際、腐女子に火を点けたのは、二次創作だ。二次創作者たちに大儲けをされない限りは、公式制作陣も、恩恵を預かりたいのだろう。

私たち二次創作者としても、人気のあるコンテンツの二次創作をしていると、反響が大きいので有難い。私は以前、別の漫画の二次創作をしたこともあるけど、反響は何十分の一程度だった。

『沓水さん』関連の創作を定期的にするようになって、二年と少しの間に、私のフォロワー数は五千人を超えた。これほど多くの反響を集められているのは、私の実力ではないと分かっているけど、多くの人に見てもらえるのは、やっぱり嬉しい。

このように、一見、Win-Winに見える、『沓水さん』公式とオタクの関係だけど、傍からは批判もある。二次創作OKという姿勢が、腐女子やオタク女子に媚びているようで気持ち悪いと、嫌悪する人は少なくないようだ。「腐女子製造機」「オタクを養分にして巨大化したコンテンツ」など、ネット上には悪口雑言が飛び交っている。

話題作だから仕方ないのかもしれないけど、『沓水さん』の界隈は、愛情と憎しみが渦巻いている。

「色ちゃん、今日、ご飯何食べる?」アンゲに訊かれた。

「スンドゥブは?」

「いいね! 私、美味しい店知ってるよ」

 アンゲは、日本に留学中の韓国人。私と同じ、二十五歳。本人は、まだまだと謙遜していけど、日本語はネイティブレベル。それどころか、日本人でも知らないような表現も知っている。韓国でも、『沓水さん』人気は、広まって来ているらしい。

 私たちは、オタク兼腐女子。且つ、沓水さんという、同じ対象を推している。いわゆる、同担(同じ担当)だ。

アンゲは、韓国語の霧という意味で、Twitter上でのハンドルネーム。本名は、イム・ハユン。韓国人だけあって、肌がとても綺麗。『沓水さん』の話をしていない時は、スキンケアやコスメの情報を教えてもらっている。

私たちは、二年前に、Twitter上で知り合った。その一年後に、アンゲが日本へ来て、リアルで会うようになった。私も、アンゲも同担歓迎派だから、すんなり仲良くなった。今では、ほとんどの推し活を一緒に行っている。

アンゲは、手先が器用だ。裁縫やら料理やら、何でもサクサクできてしまう。例えば、アンゲは、沓水さんの生誕祭には特に力を入れていて、去年は、韓国のホテルの部屋を取って、どこかのイベント会社のプロデュースかと思うほど完成度が高い祭を開催していた。

インスタグラムに投稿されていた写真を見たのだけど、沓水さんのイメージカラーである青と白を基調にしたバルーンの飾り付けや、沓水さんの顔が描かれたお手製のケーキまで用意していた。セルフプロデュースだと聴いた時には、びっくりした。アンゲは、「一瞬でもいいから、沓水さんに参加して欲しい」と笑っていた。

それに、もの凄ーく、絵が上手い。プロ並みだ。アンゲも、Twitter上で、二次創作活動をしている。

Twitter上では、絵師と呼ばれる、セミプロのイラストレーターたちが活動している。特に、漫画やアニメなどの人気コンテンツを専門とする絵師は多い。『沓水さん』は、今最も人気のキャラクターの一人であると言っても過言ではないので、当然、専門の絵師は多い。

私はアンゲの作品に射抜かれた。何と言っても、絵が綺麗。タッチが瑞々しい。

Twitter上では時々、ワンドロと呼ばれる、与えられたお題に対し、一時間で表現するイベントが催される。例えば、「視線」というようなお題に対して、絵師たちは妄想を膨らませ、作品を作ってアップする。解釈は人それぞれなので、様々なタイプの作品が上がる。私は、それを見るのが、大好きだ。ギャグ路線に走る人もあれば、エロの要素が強い人もいる。

アンゲの作品は〝優しさ〟が滲んでいる。いつも、沓水さんの優しさが、表情や仕草に、絶妙に表現されている。

私は、『沓水さん』を推すようになった半年後に、アンゲの作品を見つけ、ファンになった。それで、メッセージを送り、フォローさせてもらうと、アンゲもフォローバックしてくれた。そこから、Twitter上で交流が始まった。何とびっくり! アンゲも私の作品のファンだったようだ。

創作物は、本人のエッセンスを反映するので、リアルで会う前から、アンゲは優しい人なのだろうと思っていたけど、実際、アンゲは、本当にいい子だった。

「あ! グッズの再入荷だって! 見て行く?」アンゲが、グッズ売り場を指差した。

 その方向を見ると、多くの女性たちが群がっていた。

オタク女子の、推し対象へ向けるエネルギーは強い。下手したら、世界で最強のパワーを持っているかもしれない。惜しげもなくお金を投入するし、イベントなどあろうものなら、死に物狂いで食らいつく。

濃い愛情を抱いているオタクの振り切った言動は、傍から見ると、不思議で、面白く、幸せそうに思える。最初は、〝傍から見ていた人〟も、知らず知らずの間に、沼に引きずり込まれることが多い。『沓水さん』のファンは、こうして増えて行った。

今、私たちが、『沓水さん』の映画を楽しめるのは、先輩オタクたちの濃い愛情と尽力のお陰だ。当初、中心となって布教活動をしていた女性は、ハンドルネーム=ヒイラギさんというらしい。三年前に、一度、取材を受けたことがあるようで、記事のバックナンバーを読んだ。〝目標は、『沓水さん』の映画化〟と語っていた。その夢は、今現実になっている。

ヒイラギさんは、優しそうで、爽やかで、綺麗な人だった。隣のお姉さん的と言うか、ごく普通に生活していそうな人だと思った。最近は、オタクと言っても、ほとんどの人が、見た目も良く、コミュニケーション力も高い。一昔前みたいに、分厚い眼鏡を掛けて、ダサいファッションに身を包んでいる人なんて、ほとんど見ない。

私たちは、初期オタたちに、足を向けて寝られない。

だけど、オタクたちが盛り上げれば盛り上がるほど、アンチであるヘイターたちも盛り上がるのが、人気コンテンツの宿命だ。

沓水さんは、昔は、顔は綺麗だけど、ちょっと変な人、という設定だった。だけど、今は、作務衣から覗く筋肉と、セクシーな唇にスポットライトが当たり、男性同士の意味深なやり取りの多さが目立つ。明確な同性愛者という描写はないけど、沓水さん本人が、「女性と一緒にいるより、男性と一緒にいるほうが落ち着く」と言っている。

沓水さんは、武術を嗜んでいるため、鍛えられた身体でも、おかしくはない。小説版では、描写されていなかっただけかもしれない。だけど、徐々に、細マッチョを強調する度合いが濃くなっていることは、確かだ。

初期オタの中には、変化に抵抗感を持ち、ファンを辞めた人もいるようだ。ヒイラギさんの仲間も、だいぶ去ったみたい。

確かに、ところどころ変わっている点があるので、受け入れられない人もいるかもしれない。人間は、愛が強くなればなるほど、自分の頭の中で、幻想を抱く。それが汚されると、許せなくなる。

だけど、私は、沓水さんの、仲間想いで、心が強くて、優しいところが好き。その部分は、昔も今も変わらない。

「私、Tシャツの黒あったら、欲しいな」アンゲが呟いた。

「私も! あるといいね」

 私とアンゲは、グッズ売り場に向かった。

Tシャツは再入荷されていなかった。だけど、ポストカードが見えた。私は、持っていないバージョンのものだ。

私が手を延ばし掛けた時、横からドンと押された。私は、よろめいた。

 私以外の手が、ポストカードのほうへ伸び、掴んだ。

 ラスト一つだったポストカードが消え、ポストカードの棚は、すっからかんになった。

「色ちゃん、大丈夫?」

「痛かったぁ。何、あの女」

 私は、謝りもせず、ポストカードを持ってレジへ向かう女の後ろ姿を、腹立たしく見つめた。かなりガーリーな格好をした女だ。

「あの子、多分、月猫だよ」

 聴いたことがあるハンドルネーム。

「夢女?」キャラクターと自分の恋愛を妄想する女だ。

「そう。しかも、同担拒否派」

 つまり、アンゲと私のように、同担同士で仲良くなったりしないタイプ。同じ推しの人は、ライバルと見做すタイプ。

 フリフリした衣装。鞄に付けられた、沓水さんのぬいぐるみ。何だか、無性に腹が立って来た。

「私、ああいう女、嫌い」

「Twitter上でも、あの子を好きな人は少ないよ。悔しいけど、ここにいても、もうグッズはないから、スンドゥブを食べに行こう」

 腹立たしい気持ちは燻っていたけど、ポストカードを返せ! と、殴り合うわけにもいかない。

 私は、アンゲに連れられ、映画館を後にした。

 たまに誤解されることがあるけど、私は熱狂的なオタクである一方、沓水さんと自分の恋愛を妄想したことは一度もない。とてもじゃないけど、そんなおこがましいことはできない。

でも、沓水さんが、女性といちゃつく姿は見たくない。許せるのは、沓水さんの傍にいて、沓水さんのことを大切に思ってくれる男性と結ばれるパターンのみ。

よく、国民的俳優とか国民的スポーツ選手に対して、チャラついた芸能人ではなく、地元の幼馴染と結婚して欲しいと願望を抱く人がいるけど、あれに似ていると思う。ただ、その場合、理想の伴侶は異性である確率が高いと思うけど、私の沓水さんに対する期待は、同性の恋人だ。何なら、外国に行って、同性結してくれると、更に良い。

沓水さんと自分の恋愛は妄想しないけど、時々、沓水さんと同性の恋人の物語の中に、自分をモブキャラとして登場させることはある。沓水さんたちの恋路の踏み台にされる役だ。これは、私の願望とも言える。

こういう話は、同じ匂いを感じる人以外の前では、絶対に口にできない。声にした瞬間に、引かれるだろう。キモイと思われるかな? だから、私には、Twitterの世界が必要だ。こういうイカレた話を呟いても、必ず賛同者がいる。むしろ、もっと凄まじい妄想を繰り広げている人もいる。

世界が、もう一つあるような気がする。

一つだけ言えるのは、もう一つの世界ができてから、私はずっと心が健康になった。



一週間後。

 今日から、特定の劇場・特定の日にちに、応援上映が始まる。つまり、声を出して、映画の中の人物たちを応援していい。沓水さんたちへの想いを声に出して叫べるのは、最高だ。しかも、同じようなファンたちが集うので、ちょっとした交流の場になる。

 私とアンゲは、公式グッズの白いTシャツを着て、キャラクターたちの顔のお面を着け、団扇とペンライトを持って参加した。お面は、沓水さんの顔と興梠君の顔と小牧原の顔、全て用意した。団扇には、〝その唇は罪の味☆沓水さん〟〝ベビーフェイスで叱って☆興梠君〟〝涼しい目でウインクして☆小牧原〟と書いた。

興梠君は、IKUIの討伐に動く探偵事務所に勤めている。その事務所が、沓水さんに協力を依頼しているので、興梠君は、沓水さんの助手として派遣されている。趣味は、ランニングとバードウォッチング。

興梠君は、可愛い顔して、結構Sっ気が強い。素直で、思っていないことは、口にできないタイプ。その真っすぐさが、沓水さん×興梠君カプが人気の理由でもある。

小牧原は、自身で探偵事務所を開いており、興梠君の事務所と同じように、IKUIの討伐に動いている。武術には長けているが、特殊能力は使えない。色気があり、ダンディー。趣味は、ヨット。やや俺様気質なところがあるけど、根はいい奴。沓水さんに対しては、屈折した想い――敵わないという気持ちと、負けたくないという気持ちと、尊敬、など――を抱えている。

 映画館のロビーは、私たちと同じような格好をした人たちで、溢れかえっていた。応援上映ともなると、オタクは、普段にも増して気合が入る。

 少し先に、見覚えのある姿が見えた。月猫だ。

 相変わらず、フリフリした服を着ている。だけど、私たちと同じように、インナーに公式Tシャツを着て、頭にお面を着け、手に団扇とペンライトを持っている。敵対しているはずなのに、ここまで同じ格好をしているなんて、滑稽だ。

 その時、月猫の横を、背の高いお姉さんが通った。高いヒールを履いていることもあって、百八十㎝くらいありそう。日本人の顔とは少し違う。中国人だろうか? 格好は、ほぼ私たちと同じ。

「あの人、イエリンじゃない?」アンゲが私に耳打ちした。

「あの伝説の?」私は、まじまじと背の高いお姉さんを見た。

 確かに、Twitter上で見た写真と姿形は似ている。顔は隠していたから分からないけど。

 イエリンは、熱狂的な『沓水さん』ファンの中国人だ。金持ちらしく、しょっちゅう日本と中国を行き来している。しかも、来日した時は、一日に三回くらい観るようで、視聴回数は、既に三十回を数えているらしい。

 日本語も結構できるようで、Twitter上に、日本語で投稿していたりもする。

Twitter上に流れてくるタイムラインを何度か見たことがあるけど、豪快で行動力がありそうなお姉さんだ。

「彼女、応援も激しそうだよね。色ちゃん、私、飲み物買いたい」

「私も買う! 応援すると、喉が渇きそうだもんね」

 私たちは、売店に向かった。

 アンゲは、ファンタオレンジを、私は、ジンジャーエールを頼み、ポップコーンは二人で半分こすることにした。

席に着くと、一列後ろに、イエリンが座っていた。一人で来ているようだ。ポップコーンを食べながら、携帯をチェックしている。

私の心には、期待と不安が入り混じった。期待は、イエリンの激しい応援を聴く楽しみ。不安は、その激しさが、嫌な方向性かもしれないこと。応援上映は、好きに応援していいので、時々、野次や、不快な言葉が聴こえるケースがある。

アンゲも、私と同じ気持ちを感じていたようで、私たちは、黙って目を見合わせた。

予告が始まる少し前に、月猫が入って来た。私たちの一列前の、左側に座った。私たちの周辺は、キャラが濃いメンバーで占められているようだ。

暗くなった。上映が始まる。

初めに、制作の会社名が表示された時、「ありがとう」という声が上がった。

この声は、『沓水さん』に限らず、応援上映では、おなじみで、〝この作品を鑑賞させてくれて、ありがとう〟という意味だ。

私は、この声を聴くだけで、泣きそうになる。鑑賞者は、お金を払っているわけだから、映画を観ることができるのは、当たり前だ。それでも、感謝する。誰に強制されるわけでもなく、ただ、ありがとう、と伝えたくなる。美しい世界だと思う。推し文化が創り出す、優しい世界。

『沓水さん』

タイトルが表示されると、早くも拍手と甘い悲鳴が上がった。

「待ってました!」後ろから、映画館中に響き渡るくらい、大きな声が聴こえた。

イエリンだ。ボッチ参戦で、このボリュームの声を張れるのは、凄い。

私も負けずに、大きくペンライトを振った。

冒頭。殺人現場。人気Youtuberのアリサックスが殺された。

興梠君に連れられた沓水さんが入って来る。何度も観た、美しい顔。ぷっくりとした唇が今日もセクシーだ。

館内全体から、ギャァァァァァァという、断末魔の叫びのような声が聴こえた。

断末魔とは、本来、死ぬ間際に苦しんで上げる叫び声だけど、ここにいるオタクたちは、推しが尊過ぎて、精神的なご臨終を迎えようとしている。尊過ぎるものを、思いっ切りぶつけられると、オーバーキャパシティーになる。

こういう時、オタクが発することができる言葉は、一つしかない。

「もう無理!」

 言うまでもなく、これはある種のプレイだ。無理と言いながら、心の底から喜んでいる。まるで、性感帯を責められた時の〝受け〟のように。

「しんどい」アンゲが呟いた。アンゲは、早くも泣いている。この〝しんどい〟もまた、「気持ち良すぎて、しんどい」と同義だ。

「一成さま~♡」人魚が歌うような、ソプラノボイスの声援が聴こえた。多分、月猫だ。プロフィールに、声楽科出身と書かれていたのを見たことがある。

 実は、今日、私は生理痛で、ちょっと頭が痛かったのだけど、美しい推しを見たら、吹っ飛んだ。〝推しの美は万病に効く〟。これは、この世の真理だと思う。

 その後、シリアスなシーンが終わり、しばらくは、ほのぼのシーンが続く。沓水さんがいるお寺は、秋田県にある深白寺。秋田県の鳥海山ろく線上に実在する寺がモデルとされている。実際、写真で見る限り、階段の様子などが、そっくりだ。

 境内で、お寺で飼っている秋田犬の雪太や地域猫と戯れるシーンでは、「可愛い♡」の大合唱。推し×動物の組み合わせに、外れなんて、あり得ない。オタクを仕留めに来ていると分かっていながらも、その甘い罠に嵌る。

 沓水さんは、動物から好かれる。他にも餌をあげる人はいるけど、雪太は、沓水さんの言うことを一番よく聴くし、地域猫は、沓水さんにだけ、触るのを許している。

 ほのぼのシーンが終わり、アリサックス殺害の背景に、IKUIがいそうだと判明する。

IKUIは、自分では戦わずに、餌食にした人間を操ることで、犠牲者を増やしていく。アニメ放映が始まってから四年間経っているが、IKUIが登場した回数は少ない。

たいていは、後ろ姿だった。黒い袈裟と法衣を身に纏い、黒い布を頭に被っていた。

一見、人間のようだけれど、四十五度くらい振り向いた顔が映る時があった。被り物によって、顔の上半分は隠れているものの、口だけは見えた。大きな金色の鋭い牙が生えていて、鬼のような口だった。

IKUIは、愛を食えば食うほど、巨大化していく。でも、愛で溢れている人は、陽のパワーが強過ぎて狙いにくいようで、愛を拗らせた人を狙う。拗れた愛、つまり、腐った愛が大好物だ。

本人が戦わないので、弱点は明らかになっていない。ただ、一度食った人間を、誤ってもう一度食うと、共食いとなり、吐き気を催す。一度食われた人間は愛がなくなり、ただの肉の塊となる。ゴムを食べるようなものらしい。

 分かっているIKUIの情報は、それくらいだ。

IKUIは、映画にも一瞬出て来たけど、やっぱり、後ろ姿だけだった。

後ろのイエリンは、終始声を張り上げていた。事あるごとに、キャラクターたちを、煽る煽る。でも、心配していたような、嫌な感じの煽り方ではなかった。

開始から三十分くらいに、枯山水の庭園で、IKUIの気配を感じるシーンがある。沓水さんは、枯山水を乱さないように、三つの石をジャンプして移動する。身軽な身のこなしに、キャーキャー悲鳴が上がる。

イエリンは、それを絶妙に例えた。

「蝶のように舞い、忍者のように――」

沓水さんは、重力を感じさせない着地を決めた。

「止まる!」映像と煽りのリズムがピッタリ合っている。流石、三十回以上観ているだけのことはある。

 開始から五十分くらいには、IKUIのような全身黒い恰好をした人間に、人気YouTuber・ふわわが攫われそうになるシーンがある。沓水さんは、必死でそれを追いかける。普段は、淡々としている沓水さんだけど、この時ばかりは、呼吸が乱れた。息遣いが荒くなる。

 沓水さんは、犯人に追いつき、間一髪のところで、ふわわを取り返した。

 イエリンが、堪らない! というように、声を上げる。

「これが、八十億の男の本気だ! 見たかっ!」

 私も、叫びたくなって、「見たかっ!」と呼応した。すると、館内から同じように呼応する声が聴こえた。

私は、嬉しくなった。今日の会場は、一体感がある。応援上映は、会場の雰囲気によって、当たりと外れがあるけど、今日は間違いなく、当たりだ。

 イエリンも、周りのノリがいいので気を良くしたのか、終いには、音頭まで取り出した。イエリンが、「せーのっ!」と煽り、皆で、『沓水さん』の名台詞「愛は食わせない」と叫ぶ。館内のボルテージは、全開になった。

途中、私は何度も笑いそうになった。他の観客たちも、イエリンの煽りに笑っていた。もはや、一種の芸だ。煽り芸。

こんなに叫び通しで、イエリンの声帯は、いったい、どうなっているのだろう?

最近のオタクは、何かに突出した力を持っている人が多い。突き詰める力が人並以上に高いオタクという生物は、バイタリティも人並み以上なのだろう。だけど、そうかと言って、仕事でその力を発揮しようとは思わない。モチベーションを感じないことには、力は発揮できない。極めて現金な生命体なのだ。

イエリンは、シリアスなシーンでは、ちゃんと静かにするマナーも持ち合わせていた。みーなんが拉致され、緊迫した状況が続く時には、一切煽らなかった。

沓水さんは、不利な状況下でも、冷静に相手を読み、勝ち方を考える。

 相手が、多勢に見えても、本当に団結しているか?

 相手が、強力に見えても、本当に弱点はないか?

沓水さんが、真剣に考えている時は、イエリンも邪魔しないつもりなのだろう。応援団長のイエリンがメリハリのついた声出しをすることで、他の人も倣った。

映画が終わった後には、私はすっかりイエリンのファンになっていた。

これも何かの縁。私は、イエリンに声を掛けた。

「めっちゃ、面白かったです」

「ありがとう。私は、李翠蓮。イエリンって呼んで。あなたは?」

「色之丞。この子は、アンゲ」

もしかしたら、知っているかもしれないと思い、敢えて、ハンドルネームを伝えた。アンゲは人見知りなので、こういう時は、私が纏めて紹介してあげる。

「え? あの、Twitterで活動している、色之丞とアンゲ?」

「そう。私は、腐エロ小説家。アンゲは、絵師」

 アンゲは、ちょこっとお辞儀をした。

「うわあ。私、あなたたちの作品のファンだったんだ! いつも作品の投稿が待ち遠しくて」

 嬉しいことを言ってくれる。でも、ちょっとだけ予感はあった。私とアンゲは、『沓水さん』界隈では、結構有名だから。

「私も、イエリンの煽り芸のファンになった」

「ねえ、今から一緒に、ご飯に行かない?」

「いいね。行こう!」

 イエリンの希望もあって、寿司を食べることにした。

 私たちが、ワイワイ話していると、誰かが私にぶつかった。また月猫だ。

「痛っ!」今度は、大きな声を上げてやった。先週の分も込めて。

「通路で話をされていると、通行の邪魔になります」

 こともあろうに、月猫は謝るどころか、私を非難して来た。

 顔を見たのは初めてだけど、名前に猫と着けるだけあって、引き込まれるようなキャットアイの持ち主だ。どっかのアイドルグループに所属していると言っても通用するレベルのルックス。気が強そうだけど、顔立ちに幼さが残っているので、多分二十代半ば。私やアンゲと同年代くらいだろう。

「あんたさ、人にぶつかっておいて、謝りもしないわけ?」反論したのは、私ではなく、イエリンだった。

 イエリンが私を守ろうとしてくれたのは嬉しかった。だけど、私は、このまま戦うのを躊躇った。

 イエリンは、五㎝以上のヒール込を履いていて、百八十㎝近くある。対して、月猫は、三㎝くらいのヒールを履いているものの、百五十㎝台だろう。

私は、スニーカーを履いているので、盛りはないけど、百六十五㎝ある。アンゲは月猫と同じくらい。背の低い女に対して、三対一の状況は、傍から見ると、いじめているように見えるかもしれない。

 私は、子供のころからボーイッシュな見た目のため、女同士の戦いみたいなものは、ずっと苦手だった。相手に泣かれようものなら、無条件に私が悪いみたいになった。

 だけど、月猫は、意外と気が強かった。

「あら。まずは、道を塞いだことを謝ってほしいわ。道を塞がれなかったら、ぶつかることもなかったでしょうから」

「何だって!?」

イエリンが、声を上げると、館内にいた何人かが、私たちを見た。

私は、居た堪れなくなった。

「イエリン、やめて。私のために言ってくれて、嬉しかった。でも、私が、通路を塞いでいたのは、本当だから」

 私は月猫を見た。

「通路塞いで、ごめん」

 月猫と反対に、私は、見た目の割に、空気を読んでしまうタイプだ。

 月猫は、ちょっと驚いた顔をした。その後、ふん、というようにそっぽを向き、その場を去った。



「あの女、マジで許せない!」

 寿司を食べている間も、イエリンは怒り心頭だった。お皿に醤油をじゃぶじゃぶ入れ、敵のように寿司を次々と頬張った。

 もう五皿食べている。しかも、大トロとか、華やかな色のお皿ばっかり。私は、三皿、アンゲは二皿。

 イエリンは、タッチパネルで、また何かを注文した。あら汁を啜りながら、私を見た。

「何で、色は、そんなに落ち着いていられるの? 腹が立たないの?」

「腹は立ったよ。でも、イエリンが、怒ってくれたから、私は落ち着いていられた」

 これは本当だ。理不尽なことが起きた時、自分のために怒ってくれる人がいると、不思議と心は軽くなる。もし、イエリンがいなかったら、今頃悔しくて、やけ食いをしていたかもしれない。

 イエリンの顔の険が、少し和らいだ。

「沓水さんってさ、ああいう女、苦手そうだよね」

 アンゲが頷いた。

「沓水さんは、怒っている女性が、この世で一番苦手だからね」

「ああいう女に巻き込まれないようにするために、男性同士でいることが多いんだろうね。男性同士でいる時は、楽しそうだもんね」

 これが、沓水さんが、腐女子の心を擽る要因でもある。あんな綺麗な顔の男性が、こんな思考を有していたら、こっちは妄想が捗ってしまう。

余談だけど、沓水さんが、興梠君や小牧原などと、ワチャワチャやっているシーンは、オタクたちの人気が高い。仲が良さそうなシーンを観るとほっこりする。相乗効果でますます、キャラクターたちを好きになる。

 これについては、以前にアンゲと語ったことがあった。なぜ、仲が良さそうなシーンを観ると、よりキャラクターを好きになるのか? 答えは、実生活では、人といい関係なんて簡単に築けないから。羨ましいんだと思う。

これまた余談だが、沓水さんは、‶日本の腐女子の人口を0.2144%に上げた男〟という別名がある。2(ふ)14(じょ)4(し)の語呂合わせなので、事実ではないと思うけど、日本の人口と掛け合わせると、約二百七十万人。意外といい線は行っているのかもしれない。

「哀れ、月猫!」イエリンは、また、口に新しい寿司を突っ込んだ。

むしゃむしゃ食べる姿を見て、こんなに食べてよく太らないな、と思った。イエリンは、骨格はしっかりしているけど、無駄な贅肉はあまりなさそうな体型をしている。一見、オタクという生き物とは違う種族のようだ。

でも、最近のオタクは、美人や可愛い子が多い。アンゲも可愛い顔をしているし、褒めたくないけど、月猫もアイドルのような目をしていた。

「そう言えば、今度、沓水さんが登った山に、聖地巡礼行きたいんだけど、どこだか分かる?」

「アニメ版で、頂上に立って、遠くの山々を見つめていたシーンでしょ? 奥穂高岳だよ。長野県と岐阜県の境にある」

「行ったことある?」

「ないよ。難しいコースだから、初心者には無理。私とアンゲも、いつか聖地巡礼に行きたくて、今、トレーニングをしているんだ。半年前から、クライミング・サークルに通っている」

いつか、沓水さんが登った山に登って、シーンを再現するために。アンゲとは、『沓水さん』に対するガチ具合が同レベルくらいなので、こういう計画を一緒に立てられる。

「凄いね、二人共。オタクなのに、登山なんてできるんだ?」

「私は、全然ダメだけど、色ちゃんは、凄いよ。多分、もうすぐ登れるんじゃないかな」

「そんなことないよ。私は、出身が、長野っていう山が多い県だから、山登りは子供の頃によくしてたんだ。だから、ちょっとアドバンテージがあるだけ」

 イエリンが、まじまじと私を見た。

「色ってさ、漫画とかに出て来る男装の麗人ってかんじだよね」

 いきなり、極端なことを言われて、びっくりした。

「よくそんな言葉を知っているね」

「私、日本の漫画オタクだから。日本語もほとんど漫画で覚えたし。ヤンキー漫画が好きだから、言葉遣いは上品じゃないみたいだけど」

「『沓水さん』に嵌る前も、日本で推し活をしていたの?」

「うん。流石に、こんなに毎週のようには来てないけどね。数か月に一回くらいは、来てたかな」

「イエリンの経済事情ってどうなってるの? ていうか、何歳? 働いてるの?」

「私の家、大きな病院を経営してるんだ。私はそこで、週三~四回働いてる。二十五歳」

「え? 私たちと同い年?」アンゲが驚いた声を上げた。年上だと思っていたのだろう。

「そうだったんだ!? ますます親近感沸くわ」

「凄いよね。毎週、『沓水さん』を観るために、日本に来るとか。もう、何回観てる?」

「え~っと……三十五回かな」

「そんなに観ても、まだ観るところってある?」

「あるよ。瞬きとか、息遣いとか。沓水さんは、普段は、ほとんど変化を表に出さないけど、追い込まれると、息遣いが少し荒くなるんだ。最近は、そのリズムをチェックしている」

 これには、私も、驚いた。そんなところまで観ているなんて……。本当の通だ。

「色とアンゲは、何やってるの?」

「私は、日本語学校で勉強中」

「私は、ライター。でもそれだけじゃ食べていけないから、コールセンターでバイトもしてる」

「エロ系のライター?」

「違う。普通の記事」

「な~んだ、エロの記事だったら読みたかったのに」

 イエリンが残念そうな顔をしたので、私とアンゲは噴き出した。素直で宜しい。女だって、エロが好きだ。

「アンゲも、エロい絵描かないの? アンゲの綺麗な絵で、エロい話読みたいのに」イエリンが、アンゲに強請った。

「私はそういうの苦手で……」アンゲは顔を赤らめた。

「無理だよ。何回かコラボ誘ったけど、ことごとく断られている。アンゲは清純派だからね」

「私なんかとコラボしなくても、色ちゃんは界隈の中で、大人気作家じゃない。私は、色ちゃんほど有名じゃないし、足を引っ張っちゃうよ」

 私は、アンゲの発言が気になった。だけど、イエリンがすぐに言葉を重ねたため、意識を持って行かれた。

「なーんだ、つまんないの。私なんて、二次創作作品を見る時に出て来る、〝十八歳以上ですか?〟っていう質問にYESって答えまくっているから、最近は、普段の生活でも、質問を見ると、あやうく全部、考えもなしに、YESって回答しそうになる」

「それ、凄い分かる」私は、首が捥げそうになるくらい、頷いた。

 十八歳以上ですか? という質問は、創作にエロが含まれている場合に、設定される。

「それは、私も、同じ」アンゲが、おずおずと手を挙げた。

「なんだ、アンゲも清純派じゃないじゃん」イエリンが笑い、アンゲが顔を赤らめた。

 やむなし。繰り返すけど、女だって、エロが好きだ。

「でも、Twitterの神たちも、意外と普通の生活しているんだね」

「神って、大袈裟だな」

「大袈裟じゃないよ。私、色のお陰で、右・沓水さんに目覚めたんだよ」

 右は、腐女子用語で、〝受け〟の意味。つまり、抱かれる側だ。

「完全に、沼落ちさせられた。私にとっては、神以外の何物でもないよ」イエリンは、興奮気味に捲し立てた。

 私やアンゲは、ただの二次創作の創造神だ。だけど、オタクたちは、私たちでさえも、神と呼んでくれる。

 イエリンの言葉が、ちょっと面白かった。イエリンの言う通り、私たちは、普段は普通に生活をしている。ごく普通の顔をして、ごく普通に仕事をしている。

でも夜になると、別の姿になる。本来の姿とでも言おうか。Twitter上に創作物を上げ、Twitter上を徘徊し、時に、同担と交流する。その時間こそが、生きる意味を感じる。

日中は無味乾燥な日々でも、夜は輝きに満ちている。ちょっとのこと――例えば、素晴らしい沓水さんのイラスト――を見つけただけでも、感謝の気持ちで一杯になる。幸せが溢れる。創作物を褒められたり、ハートマークが沢山着いたりすると、全能感を抱く。

日中に、原稿を書いても書いても赤ペンを入れられる悔しさを癒してくれるのは、フォロワーの皆様だ。

日中の生活は、誰かの顔色を伺って生きなければならない。ともすると、不平不満に塗りつぶされていく。

だけど、推し活の時間は違う。キャラクターに愛を与え、仲間と共に、愛を分かち合う。人生が、バラ色で塗られていく。ここは、ユートピアだ。だから、推し活は止められない。



 アンゲとイエリンとの食事会を終えた後は、家に帰った。これから、活動を始める。まずは、Twitterチェック。早速、今日の応援上映に関する呟きが沢山上がっていた。トレンドにも、『沓水さん』が入っている。

 呟きをチェックしていくと、イエリンの煽り芸が面白かったという意見が、ちらほら見られた。〝煽り姫〟というニックネームまで着けられている。すっかり人気者だ。あとで、イエリンに教えてあげよう。

 何だか私まで嬉しい気持ちになっていたけど、テンションがだだ下がりする呟きを目にした。

『沓水さん』に対する、ネガティブ・コメントだ。

 賛否両論あるのは仕方ない。どんな名作だって、批判する人は絶対に存在する。だから、気にするべきではないのだろう。

だけど、コメントが荒々しいのが、引っ掛かった。


沓水氏のキャラクターは、明らかに最初の頃と変わった。愚かな腐女子たちから人気が出て、制作側が色気づいたのだろう。金儲けに走った作品なんて、見る価値がない。まるで、身売りのようだ。


 全身棘だらけのコメントだ。ハンドルネームは、ノコギリ。自分の正体を明かさない、捨てアカウントを使っているのだろう。

ノコギリは、『沓水さん』の関係者や、ファンたちを傷つけようとしている。嫌なら見なければいいのに。他にも娯楽作品は沢山ある。

私は、Twitter上で、ネガティブ意見は、ほとんど言わない。中には、ちょっと反発したくなるような呟きや創作物もあるけど、ここには言論の自由があると思っている。

何だか、ちょっと腹が立って来た。案の定、ノコギリの呟きに対して、反論しているコメントも多々あった。だけど、賛成するコメントもあった。

悔しい。私は、見ないことにした。せっかく楽しかった今日という日を、汚されたくない。

気を取り直して、創作活動を始めた。イエリンから、結腸開発系の作品が欲しいとリクエストがあったので、作ってみよう。

エロの世界に入り始めると、腹が立っていたのが治まった。〝推しの美とエロは万病に効く〟。創作に没頭し、気づくと、午前三時を過ぎていた。

まずい! 明日、バイトだった。急いでシャワーを浴び、三時間ほど睡眠を取った。



 翌日。流石に、三時間睡眠で働くと、しんどい。コールセンターで電話受けをしていても、ボーっとした頭だと、お客さんの話に集中できない。三杯コーヒーを飲んだので、胃がちょっとキリキリする。

 集中力を欠いていたバチが当たったのか、質の悪いお客さんに当たった。

 電話口に出た瞬間に、悪い気を感じた。黒い気、とでも言おうか。これを感じると、ほぼ確実に面倒臭い事態に巻き込まれる。

そのお客さんは、最初から怒っていて、一方的に怒鳴られた。

自分が悪いわけではないとは言え、罵声を浴びていると、精神的に堪える。

 ようやく終わった時には、ぐったりしていた。

ちょうど退社時間になったので、早々に切り上げた。

コンビニでお弁当を買って家に帰る。『沓水さん』関連の物や事に、極力全振りしたいので、節約は大事だ。

帰ったら、また昨日の続きの創作活動をしよう。そう思うことで、さっきのストレスが若干和らぐ。

 家に着いて、スマフォを開くと、イエリンからメッセージが届いていた。『結腸開発まだ?』だって。気が早いな。昨日約束したばかりなのに。

イエリンは、今朝の便で中国に帰ったようだ。にも関わらず、今週末も日本に来ると言っている。まったく。どれだけ金持ちなんだよ。

Twitterのトレンドをチェックすると、〝秋田聖地巡礼〟とあった。ほのかな予感がしたので、クリックすると、『沓水さん』の映画の聖地巡礼に関してだった。

沓水さんは、秋田県の寺で住職をしている設定だ。寺のモデルは明言されていないけれど、ファンはとっくに当たりを着けている。鳥海山ろく線上にある寺のようだ。

その寺が、今、聖地巡礼者で賑わっているらしい。予期せぬ来客に、その地域も驚いているようだ。観光局のインタビュー記事のリンクも貼られていた。

私も、映画を観るたびに、行きたいと思っていたけれど、秋田は遠いから、実行できずにいた。でも、『沓水さん』推しを名乗るなら、行かないわけには、いかないだろう。

早速、アンゲとイエリンに連絡を取った。昨日作った、三人のチャット・グループに、『聖地がトレンド入りした』と、投稿する。二人からは、直ぐに返事が来た。アンゲも同じ記事を見ていたらしい。

『そのうち、聖地巡礼に行かない?』提案する。

『そのうちじゃなくて、今週末行こうよ』流石、イエリン。その行動力、あっぱれ。

『そう言えば、今週の土曜日は、五月十八日だね。映画版の物語が始まった日だね』

アンゲの言う通りだ。つまり、この日に行けば、推しと同じ日に同じ場所にいられる。

 もう、これは、行くしかないだろう。今、『沓水さん』より優先されることなど、ないのだから。

『私、ちょうど今週休みがあるから、グッズ作って行くね』

『え? 超嬉しい。アンゲのお手製グッズ、クオリティ高いから。何作ってくれるの? 気になる』

『作務衣』

「え! マジで?」私は、チャットでの会話中、且つ、部屋に一人にも関わらず、声を上げた。

 沓水さんは、お堅い格好が苦手なようで、普段は作務衣を着ている。その作務衣は、藍色のシンプルなものだけど、背中に亀の刺繍が入っている。あれを作ってくれるのだろうか?

手先が器用なアンゲなら、刺せないこともないだろうけど、三人分となると大変だろう。

『めちゃ、欲しいけど、重労働じゃない?』

『実は、二人分は、もうほとんどできてるから、多分大丈夫』

 アンゲ様。こっそり作ってくれていたんだ。優しさに、涙が溢れそうになる。

 イエリンから、泣いている表情のスタンプが連打されて来ている。感動のあまり、語彙力を失ったようだ。

『何か私も用意しておくことがあったら言って。あ、電車調べて、ホテルも手配したほうがいいよね?』

『色は、それより、結腸開発!』文字が見えた瞬間、噴き出した。

もはや、取り立てのよう。流石、煽り姫。

『電車調べるとか、ホテルの手配なんて、私だってできるんだからさ。神様たちには、神様にしかできないことをやって頂きたい』

『私も読みたいww』アンゲまで。

 作務衣を作ってくれているアンゲに頼まれては、断れない。早いところ、仕上げよう。

 二人とのチャットがひと段落した後、私はまた机に向かって、昨日の続きを書き始めた。

 二人へのお礼に、今回は、うんとエロくしよう。

S字結腸は、直腸と下行結腸の間にあるグニャっと折れ曲がっている部分を指す。肛門からは、二十から二十五㎝の場所にあるので、そのサイズのものを持っている相手とでないと、開発できない。でも、アナルで得られる快楽の最上位とされている。

私は、S字結腸を開発された経験はないので、全て妄想だ。普通のセックスで得られる快楽と、どう違うんだろう……?

 私は、頭を悩ませた。なんとなく、アナルを触ってみた。定規を当ててみる。ここから二十㎝か。結構深い。

 道具でセルフ開発してみるという方法もある。だけど、流石にね……。生憎、今、手元に道具はないし。

 私の作品は、受けである右側は沓水さんで固定、攻めである左側は、固定ではないけど、興梠君が多い。今回は、左を興梠君にした。つまり、興梠君は、二十㎝以上という設定になる。童顔にミスマッチな気もするけど、ギャップがあるのもオツかもしれない。

 快楽を伝える方法として、沓水さんに頑張ってもらうことにした。普段のポーカーフェイスを完全に脱ぎ捨てて、喘ぎまくってもらおう。


「どうして、今日、バードウォッチングに来てくれなかったんですか? 今日は、オオルリが見えたのに」

 オオルリは、夏鳥として、初夏に渡来する。雄の背中は尾も含め光沢のある青で、腹部は白い。美しい声でゆっくりと鳴く。姿も囀りも美しい鳥と言われている。

 どことなく、沓水と通じるものがあるように思えるため、一緒に見たかった。

「悪かった。小牧原とどうしても話さなければならないことがあったんだ」

 興梠は、ムッとした。小牧原、小牧原。最近、いつも、それだ。恋人との予定より、優先すべきものなのか?

IKUIに関することではないはずだ。もし、そうだとしたら、沓水に協力を依頼している事務所に勤める自分が知らないはずがない。

いったい、小牧原と、どうしても話さなければならないこととは、何だったのだろう?

興梠は、双眼鏡で、沓水を見た。

「何をしている?」

「僕のオオルリが、どこで何をしているか知るために、観察します」

 沓水は、やや呆れた笑いを漏らした。

「観察しても、面白い話は出て来ないよ」

 あくまで、具体的には話さないつもりらしい。

 沓水は、時計を見た。午後八時。

「そろそろ、夜の見回りの時間だ」

 立ち上がろうとする。

 興梠は、沓水の腕を思い切り引っ張った。

 畳の上に落ちた沓水に、覆いかぶさる。

「何をする?」

「僕のオオルリが、囀る声を聴きたいんです」

 興梠は、沓水の作務衣を下ろした。

「夜の見回りの時間だ。今は、やめてくれ」

 だが、興梠は、止めるつもりはない。自らもズボンを下ろし、性器を解放した。サイズに、不足はない。今日こそ、結腸を攻める。興梠は、ローションを手に取った。

 沓水は、武術に通じている。その気になれば、興梠を躱すことなんて、容易い。でも、そうしないということは、沓水も、事態を受け入れていると捉えていいだろう。

 沓水の耳元で囁く。

「気持ちいいこと、してあげますね。小牧原さんには、やってもらえないと思います」


 アニメや映画で、沓水さんの声は、三十代前半の声優さんが担当している。柔らかいハスキーボイスで、沓水さんのイメージにピッタリ合っている。私は、声優さんには詳しくないけど、インタビュー記事を読んだところ、『沓水さん』を担当するまでは、売れない時期が続いたらしい。それもあって、ファンサービスが手厚く、オタクからの評判が高い。

 あのしっとりとした声で、喘ぐのを想像すると、エロ過ぎて震える。声優さんには、悪いけど。でも、イメージの中で喘いでいるのは、声優さんではなく、沓水さんなので、許してもらおう。

 日付を越えて、二時間くらい過ぎたところで、作品が仕上がった。アップする前に、まずは、アンゲとイエリンに送ろう。アンゲは朝方だから、あと三~四時間後くらいには、見るかもしれない。気に入ってもらえるかな?

 二人に送ると、急に眠気が襲って来た。今日は良く働いた。

 シャワーを浴びて、早々に眠りに着いた。

 いつの間にか、日中感じたストレスは、頭から消えていた。



 翌朝。

 目が覚めてすぐに、携帯をチェックすると、案の定、二人から歓喜の悲鳴が上がっていた。どうやら、気に入ってもらえたらしい。

『朝から良いものを読めて、健康にいい……』アンゲは、キャラクター崩壊を起こしている。

『私、ガッツポーズを決めた! 他人の色恋にガッツポーズしたのなんて初めて。推しの結腸開発は腐女子の夢!』

私は思わず、噴き出した。でも、イエリンの言いたいことは分かる。

腐女子と言う生き物は、どうして、他人の色恋で、ここまで幸せになれるのだろう? 例えば、さんざん見たドラマでの男×女は、どんなに好きなカップルでも、ここまで幸せを感じたことはなかった。ましてや、男×女の濡れ場シーンは、あまり好きではない。ごくたまに美しいものもあるけど、生々しいと、まともに見ることができない。

 二人の感想を読んでいると、沓水さんもさることながら、今回は興梠君が特に良かったとのこと。ギャップ萌えって、やつか。

 飾ってある『沓水さん』のポスターが目に入った。沓水さんと興梠君は、私の妄想の中とは違い、惚けた表情をしている。あまりの温度差に、ちょっと笑ってしまった。キャラクターたちも大変だ。オタクたちの餌食になっているなんて、知る由もないだろう。

 今日も、コールセンターのバイトが入っているので、朝ご飯にシリアルを食べて出掛けた。

眠いけど、あと三日過ぎれば、週末は秋田だ。アンゲの作務衣も楽しみ。それまでは、頑張って働こう。



 土曜日。

 イエリンの計画と手配は完璧だった。日本人ではないので、調べたり、手続きしたり、大変ではないかと思ったけれど、杞憂だった。

 新幹線の中では、駅弁を頬張った。普段は節約しているけど、こういう時は贅沢に行きたい。

「色の作品、最高だったよ」

 嫌な予感がした。ここは公共交通機関。イエリンは、NGな話題の線引きができるか?

「結腸――」私は、慌てて、イエリンの口を塞いだ。あぶなかった。間一髪。

 耳元で囁く。

「公共の場では、そういう話はダメ!」

 イエリンは、悪びれもせずに、笑った。

「中国語ならOK?」

「中国語でも、ダメ!」

「あ、そうだ! 作務衣を見せるね」アンゲが空気を読んで、提案してくれた。

 それで、私とイエリンの意識は完全にアンゲに向いた。

 アンゲがリュックサックから、美しい藍色の布を取り出した。手渡され、広げてみると、背中に見覚えのある亀の刺繍が入っていた。

「嘘? これ、本物?」

「違うよ。アン・オフィシャル」アンゲは、慌てて訂正したけど、どう見ても、本物だ。沓水さんが着ているやつ。

「すげえ、クオリティ! これ、めっちゃ高く売れるやつだよ。絶対に、売らないけどね」イエリンも、興奮している。

「喜んでもらえて嬉しい。これを着て、お寺の階段で写真を撮ろう」

 沓水さんが、よく作務衣を着て、掃除をしている階段がある。

「色がこれ着て、箒でも持っていたら、遠くから見ると、見本物の沓水さんに見えるかもね」

 確かに、私は、瘦せ型で背が高く、髪が短いので、ぱっと見は、沓水さんに似ているかもしれない。顔立ちは、全然違うけど。アンニュイな沓水さんに対し、私は、ハキハキしていそうと評されることが多い。実際は、オタクだし、そうでもないけど。

「いいね、私、色ちゃんの写真をアイコンにさせてもらおうかな」

「フェイク沓水さんで良ければ、どうぞ」

 私が冗談めかせて応えると、アンゲは本気で喜んでいた。本当に、実行するつもりらしい。イエリンもはしゃぎ、私まで素晴らしい計画のように思えて来た。

 推しと、同じ日に同じ場所で同じことができるのは、確かに貴重かもしれない。

 どんなに追いかけても、フィクションの世界の人間に会うことはできない。でも、だからこそ、オタクたちの想像力・創造力・行動力は磨かれる。



 秋田駅から羽後本荘駅まで行き、そこから鳥海山ろく線に乗り換えた。

 鳥海山ろく線には、おもちゃ列車という車種がある。昔懐かしい感じの、可愛くて温かみのある内装になっていて、子供用に、木で作られたおもちゃも置いてある。

アンゲやイエリンはもちろん、私も初めて乗った。

ハート模様をあしらった曲げ木のゲートが可愛くて、アンゲは写真を撮るのに夢中だった。

「映える! 沓水さんのお寺に行く前に、こんな素敵なスポットまであるなんて」

 私たちは、パノラマ席と呼ばれる、車窓に向かった席に座った。

 山々を彩る新緑が美しい。三人で並んで、ジュースを啜りながら、眺めていた。

 目当ての駅に着いた時には、午後二時を回っていた。駅舎は、木造の、窓が多い建物だった。レトロな日本を彷彿とさせて趣がある。

外に出ると、五月だけあって、気持ちのいい晴天が迎えてくれた。遠くまで広がる田園風景が目に染みる。日差しのせいか、キラキラ光っているように見える。

見覚えのある光景。映画やTV放送で何度も目にした。沓水さんは、ここで日々暮している。そう思うだけで、胸が一杯になる。

少し先のほうにも、『沓水さん』のアニメや映画に出て来た光景が続いている。感情が込み上げて来て、うっと口を押さえたくなる。もしかしたら、目を凝らせば、沓水さんが見えるかもしれない。そんな気さえする。

もしも、一瞬でも、沓水さんを見られる方法があるなら、私は多くのものを投げうってでも、それを実現させる。沓水さんは、私の人生を変えてくれた。沓水さんと出会わなかったら、こんなに煌めいている秋田の田園風景は、知らなかっただろう。

感無量で、暫く誰も言葉を発することができなかったが、ようやくイエリンが皆の気持ちを代弁した。

「推しと同じ空気を吸えているの……最高!」

「それだけで、幸せだね」アンゲの言葉がしみじみと響いた。

寺までは、駅から徒歩十分くらい。私たちは、駅のトイレで、作務衣に着替えた。服の上から着ても良かったけど、リアリティを出すために、肌着の上から着ることにした。

亀の刺繍が入った作務衣を着た三人組は、目立つらしく、道すがら何人かから見られた。同じように、聖地巡礼をしている女性たちは、羨ましそうに私たちを見ていた。

時々、聖地巡礼者とすれ違いはするけど、田舎だけあって、人気のない道も多かった。作中で、興梠君が、よくランニングしている道に入った。

長閑な田舎道。聖地巡礼で賑わうまでは、地元の人くらいしかいかなったのだろう。

三人でゆるく喋りながら歩いていると、向こうから、帽子を被ってランニング中の男性が来た。どことなく、見覚えがある。アンゲとイエリンは、お喋りに夢中で気づいていない。

私の心臓は、大きく音を立てた。

あの人、興梠君に似ている――。帽子を被っているので、顔ははっきりと見えないけど。数日前に、私の作品の中で、沓水さんを快楽の絶頂に連れて行った男。あの時、興梠君の特徴を掴むため、何度もアニメやグッズを見返した。たとえば、興梠君は、ランナーなので、脹脛が細い。そういう特徴が、悉く当て嵌まっている。

私の目は、走っている男性に釘付けになった。近くまで来た時、帽子の下から、顔が見えないだろうか?

だけど、運悪く、その男性は、顔に流れる汗を拭くために、タオルを当てた。それで、近くに来た時も、顔はよく分からないままだった。

 でも、似ている。骨格とか、肌の色とか。

 数秒後には、男性の後ろ姿しか見えなくなっていた。タオルはしまったようなので、今なら顔を見られるかもしれない。追いかけていって、覗き込もうか――?

「色? どうしたの?」

 イエリンの声に、ハッと我に返った。

 イエリンたちは、全く気付いていない様子だ。私は、今見た人のことを話そうかと思った。

だけど、何て言う? 今のランナーが、興梠君と似ていた? 

そう言ったところで、「えー、見たかった。残念」で終わるだろう。

でも、私が言いたいのは、そうではない。〝似ていた〟のではなく、〝興梠君だったかもしれない〟。だけど、そんなことを口にしたら、いくらオタク仲間のアンゲとイエリンといえど、私のことを頭がおかしくなったと思うだろう。

「何でもない」私は、笑顔を作った。

 きっと、創作に熱を入れ過ぎて、目が霞んできたんだ。どんなに追いかけても、フィクションの世界の人間に会うことはできない。

 気を取り直して、私は二人の会話に混ざった。

 そこから五分ほど歩くと、目当ての寺に着いた。 

寺には、数組の参拝者がいた。正面にある、十段の階段は、いつも映像で見る光景と酷似している。明言はされていないけど、やっぱりここが沓水さんの寺のモデルで間違いない。

 感極まって、深呼吸した。新緑の香りと、綺麗な空気が、鼻に入った。

沓水さんの解像度が上がる。沓水さんは、こういう場所で、日々暮しているんだ。だからあんなに、清々しいのかもしれない。

 今だけは、数日前に、エロ小説を書いたことが、恥ずかしくなった。流石のイエリンも、ここでは例のワードを口にしない。

 参拝後は写真タイム。

 寺側も、聖地化していることを分かっていて、箒の貸し出しをしてくれた。四十代後半くらいの感じのいい僧侶は、作務衣を、「良く出来ていますね」と褒めてくれた。実際に、僧侶が着ている作務衣には、亀の刺繍は入っていなかったけど。

寺側にも、聖地巡礼の恩恵があるのだろう。ファンサービスが良いと思った。オタクと寺、両方メリットがあるなれるなら、Win-Winの関係性だと言える。

箒を持って、階段を掃くポーズをすると、アンゲが歓声を上げた。

「色ちゃん、遠くから見ると、本当に、沓水さんみたい」

 凄い勢いでシャッターを押す音が聴こえる。イエリンだろう。

 私は、調子に乗って、いくつかお道化たポーズ決めてみた。だけど、それは不評だった。

「色! 沓水さんは、そんなことはしない!」

 あくまで、本人似せるのがいいようだ。

 私の後ろ姿は、本当に沓水さんに似ているようで、他の聖地巡礼者からも写真を撮っていいかと訊かれた。ちょっと恥ずかしかったけど、OKした。二人組の、私たちより少し上くらいの女性たち。真面目なOLさんという雰囲気。今回の映画で、沓水さんのファンになったみたいだ。でも、私のことも、アンゲのことも、イエリンのことも知っていた。

「いつも、Twitter見てます!」

 私は、ちょっと狼狽えた。あの話をアップした直後だから、特に。でも、〝きもい〟とか、偏見は、持たれていないようだ。

「フォローしていいですか?」

「喜んで!」

 私たちは、〝相互さん〟になった。〝相互さん〟とは、相互にTwitterをフォローし合う間柄のこと。沢口綾子さんと真野美穂さんというらしい。感じのいい人たち。

 次は、寺の名物である、亀の置物を触った。この亀が、作務衣の刺繍のモデルだ。石でできた置物だけど、よく見ると、なかなか愛嬌のある顔をしている。

その次は、絵馬。結んである絵馬を見ると、『沓水さん』絡みの願いで溢れていた。『映画『沓水さん』大ヒット祈願』『沓水さんグッズが沢山欲しいです』というものから、『沓水さんと興梠君が、結婚できますように』という、〝腐〟丸出しの願いまであった。

他人の願いとは思えず、私は、思わず絵馬を見入った。分かるわ~、と頷きたくなるものばかり。アンゲとイエリンも見入っている。

『沓水さんと興梠君に会いたいです』と書かれた絵馬を見た時、ふとさっきのランナーのことを想い返した。

 やっぱり、どう考えても、興梠君なわけがない。我ながら、思考がイッちゃってたな。

 私は、自分の絵馬に『興梠君に会いたいです』と書いた。沓水さんにしなかったのは、さっきのことがあったので。まあ、実際は、興梠君に会うことも、沓水さんに会うことも、できないんだけど。

「何で、沓水さんじゃないの? 推しを変えたの?」アンゲの、不思議そうな声が聴こえた。

「沓水さんは、シャイだから。会ってくれないと思う」本当のことは言えないので、誤魔化した。

「確かにね。じゃあ、私は、小牧原さんにしようかな」

「じゃあ、私は、IKUIを倒せますように! って書く。日本語でどう書くか教えて」

イエリンに頼まれたので、私は、紙の裏にお手本を書いて見せた。

 私の絵馬のすぐ傍に、月猫の絵馬があった。『いつまでも沓水さんのオンナでいられますように♡』という、〝夢女〟全開の願い。

 月猫らしい。まあ、願うのは自由だから、そっとしておいてあげよう。

 聖地は最高だったけど、一つ、気になったことがあった。境内にゴミがチラホラ見えた。沓水さんグッズの破片と思われるものもあった。恐らく、推し活者が落として行ったのだろう。

 私は、居た堪れない気持ちになって、ゴミを拾った。

 推し活者がマナーの悪い行いをすれば、『沓水さん』というコンテンツ自体の評判が下がる。それだけは、絶対に、止めて欲しい。

 アンゲとイエリンも、ゴミ拾いを手伝ってくれた。

 私たちは、満足して、寺を後にした。

 ホテルを手配していた秋田駅に着いたのは、六時近かった。

 もう今日は何もできないので、駅の施設で、比内地鶏の親子丼を食べた。きりたんぽ鍋と迷ったけど、今日は結構暑いので、鍋の気分ではなかった。親子丼は、卵がトロトロで、美味しかった。お酒も二杯飲んだ。私は、見た目に反して、あまり強くない。イエリンとアンゲは、同じだけ飲んでも、余裕の表情をしていた。

 ホテルは、各々の部屋を取っている。ほろ酔い状態で、部屋に着くと、一気に疲れが込み上げて来て、ベッドに倒れ込んだ。


 向こうから、帽子を被った男性が、走ってくる。

 近くまで来た時、男性は帽子を上げた。

 円らな瞳。ちょっと幼さの残る顔立ち。興梠君――?


 ハッとして、目が覚めた。

 夢か――。心臓が大きく動いていた。昼間の続きを、夢で見ていたらしい。

時計を見ると、十時近かった。二時間も眠っていたようだ。

 起き上がって、Twitterをチェックする。もはや、癖だ。寝ても覚めても、Twitter。

 創作に対する、様々な意見が届いていた。『すごくいい』とか『溶けた』とか。いいね! の数は、既に千八百件。過去最高レベルの評価かもしれない。

ただ、いくつかアンチコメントも来ていた。

『沓水さんを汚さないで! 下品で醜い淫乱女』

『沓水×興梠は、地雷だからやめてください。あなたが書き続けるなら、通報します』

『キモオタ! 消えろ! 世の中から消えろ!』

 最後のコメントは、ハンドルネーム=ノコギリだった。沓水さん界隈では、有名なヘイターだ。目立つ二次創作者は狙われ、アンチコメントでメンタル削られると聴いたことがある。私も、ついに、狙われたか。今後も、執拗な攻撃に晒されるかもしれないと思うと、ゾッとする。

 私だって、自分の作品が、全ての人に受け入れられるわけではないことは、分かっている。不快に思う人もいるだろう。でも、嫌なら見なきゃいいのに。

アンチコメントよりも感謝や賞賛のほうがずっと多い。それでも、どうしても、アンチコメントのほうに、心は引っ張られ、暗い気持ちになる。

 世の中に創作物を出して生活している人は凄い。もっと多くの、この手の意見が来ているのだろう。それとも、私が、あんな作品を作ったから、嫌われているの? あの作品は、世の中にとって、害なのだろうか?

 どんどん落ち込んできた。涙が出そうになる。ここは、せっかく見つけた居場所なのに。ここでも、不平不満に塗りつぶされないといけないの?

 数秒間、目を閉じた。

 これまで、『沓水さん』絡みで感じた愛を思い返す。

 不平不満に侵食なんてさせない。不平不満は、私の意識の外へ、追い出す。

 取り敢えず、シャワーを浴びよう。

 私は、ベッドから出た。


第二章  歪んだ世界



 秋田への聖地巡礼から戻って、一週間が過ぎた。

 週末は、もはや恒例の、『沓水さん』鑑賞。

 アンゲとイエリンと待ち合わせし、映画館へ向かった。今週は、興行収入八十億円突破記念で、特典として、沓水さんのステッカーを貰える。

 特典効果もあり、満席だった。

チケットの発券をしていると、見覚えのある姿。月猫だ。相変わらず、フリフリの服を着て、一人でいる。

私は、トイレに寄りたかったため、二人には先に入っていてもらうことにした。トイレは混雑していて、予想以上に時間を食った。あと数分で始まる。

急いで入口に行き、チケットを見せた。特典のステッカーを貰おうと手を出すと、衝撃的な言葉が聴こえた。

「申し訳ございません。特典は配布終了となりました」

「え? どういうことですか?」

「さきほど、上限枚数に達してしまいまして」

 こんなにショックなことがあるだろうか? 私の少し前の人は、貰えているのに。

 これは、誰が悪いわけでもない。仕方ないのだ。そう、自分に言い聞かせようとしたけれど、私の悔しさは、収まってはくれなかった。

座席に滑り込むと、早速、アンゲとイエリンに愚痴った。

二人は、ステッカーを手に入れていた。デフォルメされた沓水さんの顔。元々、可愛い顔が、更に、可愛くなっている。見れば見るほど、欲しくなる。

「特典なんだから、一週間分くらい用意してって、後で公式にクレームを入れよう」

私は、怒りの矛先を、『沓水さん』制作会社、通称・公式に向けることにした。

 こういうクレームは、子供じみている。特典なんて、サービスなんだから、なくても、文句なんて言えない。そう、理解はしていた。でも、期待していた分、失望も大きかった。私が、勝手に期待したのだけど。

 尚も、愚痴は止まらない。

「こんなに応援しているんだから、ファンの想いに応えて欲しいよ」

〝こんなに応援する〟のは、自分で決めたことだ。恩着せがましく言うのは、お門違い。でも、今、私は、ネガティブな感情に支配され、冷静になれない。

 アンゲとイエリンは、困惑した顔をしていた。私がグチグチ言っていたら、二人も困るだろう。それでも、自制できなかった。

 アンゲが、鞄から鋏を取り出した。

「色ちゃん、私のステッカーを半分あげる」

「え? そんな。悪いよ」予想外のことに、私は慌てて、止めた。

「いいの。私、色ちゃんにも、ステッカーを持っていて欲しいから」

 アンゲは、ステッカーに鋏を入れた。

「私のも、半分あげるよ。アンゲ、次、鋏貸して」今度は、イエリンだ。

「いや。そんな……」私は、しどろもどろだった。二人に、悪い。

 だけど、私に構わず、イエリンも、ステッカーに鋏を入れた。

「いいんだよ。私もアンゲも、色にもステッカーを持っていて欲しいから」

 私は、二人から、半分のステッカーを貰った。結局、私が、一番多くのステッカーを手に入れてしまった。

 それなのに、二人は、満足そうに、笑っていた。

 何で、こんなに優しいんだろう――。

 私は、胸が締め付けられそうになった。

お礼を言うと、すぐに映画が始まった。 



上映中、いつものように、ボケーっとスクリーンの中の沓水さんに見惚れていた時、突如大きな違和感に襲われた。

あれ? IKUIって、こんなに大きかったっけ――? 

映ったのは、後ろ姿だけど、私のイメージより、一・二倍くらい大きく見えた。でも、それだけだったら、私の記憶違いだと思っただろう。

ハッとしたのは、最後のシーン。

桃華が、興梠君を刺すシーン。私の記憶では、沓水さんが助けるので、興梠君は無傷だ。だけど、それが間に合わず、興梠君は、足を刺された。ドクドクと血が流れている。出血多量で死んでしまうのではないか? と思うくらい。

私は、怖くなった。

ただ、結末は変わらなかった。桃華は、沓水さんにお札を貼られ、IKUIの魔力は消えた。

興梠君が刺されたのは足だったので、命には別条はなかった。でも、出血量が多かったため、病院に運ばれた。この展開は、絶対になかった。

エンドロール上に、何か説明がないかと、目を凝らした。だけど、何も書かれていない。

館内が明るくなった時、私はアンゲとイエリンを見た。

私がおかしいのだろうか――?

アンゲとイエリンも、表情が固まっていた。シリアスな顔で、眉根が寄っている。まるで、未確認生物を目撃したかのように。

私は、少しだけホッとした。

「今日、話しちょっと変わってたよね?」

「だよね! だよね!」

「ちょっと修正を入れたのかな? それとも、こういうバージョンもあるのかな……?」

 私は、他のお客さんを見回した。皆、何事もなかったかのように、席を立って、出口へ向かっている。違和感は抱いていないようだ。

 やっぱり、何らかの事情で、修正が入ったのかもしれない。

 だけど、一人だけ、椅子に座ったまま、動かない人を見つけた。月猫だ。月猫も、顔が固まっている。変化に気づいたのだろう。

「公式ホームページには、何も書かれていない」アンゲが、スマフォを見ながら、怪訝な声を出した。

「問い合わせてみようか? 気持ち悪いもんね」イエリンが、気味の悪さを払拭するように言った。

 イエリンは、早速、公式ホームページのコメント欄を使って、問い合わせをした。

 心にザラザラしたものは残るけれど、今はこれ以上、できることはない。

 私たちは、映画館を後にした。



 三日後。

 イエリンは、公式から返事が来たら、すぐに教えると言ってくれたけれど、まだ連絡がない。ホームページ上にも、何の説明も上がっていない。それに、Twitterを見ても、同様の呟きをしている人はいなかった。もしかしたら、私たちが見たものは、幻だったのでは? という気になって来る。集団幻覚ってやつ?

 気持ち悪さは払拭されないままだったけれど、いつものようにコールセンターのアルバイトに出て、夜は創作活動に励む日々を送っていた。

 週中の水曜日になり、疲れも溜まって来たので、缶酎ハイを飲みながら、Twitter上を徘徊していた。

 すると、嫌なニュースが飛び込んで来た。

 つい十日ほど前に行ったばかりの秋田の寺で、置物が壊される事件が起きたようだ。私たちも見た、亀の置物。無残に壊された画像が張り着いていた。ハンマーか何かで、意図的に壊したのだろう。あの、愛嬌のある顔をした亀が、こんな姿になるなんて――。

 見覚えのある僧侶が、インタビューに答えていた。せっかく聖地巡礼で賑わったのに、こんなことになるなんて、思いもしなかっただろう。言葉は柔らかかったけれど、哀し気な表情をしていた。

 いったい、誰が、こんなことを? 怒りが込み上げて来た。

もしかしたら。沓水さんのアンチの仕業? 

こういうことが起きると、『沓水さん』自体の評判も悪くなる。最悪、映画打ち切りとかになるかもしれない。

 Twitterを見ると、誰が犯人か? という議論が、喧々諤々繰り広げられていた。私が考えた仮説と同じように、沓水さんのアンチの仕業説が多かった。ただ、聖地巡礼者の仕業説もあった。そんなこと考えたくないけど、ゴミが散らかっていた事態を踏まえると、ふざけて暴れたファンの仕業という説も、考えられなくはない。

 早く犯人が捕まって欲しい。

もしも、こんな事態を、沓水さんが知ったら、きっと心を痛めるだろう。

 アンゲとイエリンも、ニュースにショックを受けているようだった。

 今日は、どうしても創作する気になれず、もう一缶チューハイを開けた。私にしては珍しい。思えば、ここのところ、不思議なことや不可解なことがよく起きる。推し活に全力を注ぐあまり、知らず知らずのうちに疲れが溜まっているのだろうか?



 その二日後の金曜日に、公式から返事が来たようだ。だけど、私たちが予想していた答えではなかった。


 何度も観て下さり、ありがとうございます。

 話が変わるのは、面白いですね。二十回に一回くらいずつ、シークレット・バージョンが仕込まれているのかもしれません(笑)

これからも、映画『沓水さん』を、よろしくお願いいたします。


 完全に冗談だと思われている。こっちは真面目に質問しているのに。ちょっと、腹が立った。

でも、これで、意図的な変化である説は、消えた。

 あとは、集団幻覚か? それとも、私たちに何かが起き始めているのか?

 真実を確かめるためには、映画を観て確認するしかない。今回は、検証のバリエーションを増やすために、三人とも別々の映画館へ行くことにした。

 翌日。土曜日。

 朝から、地元の映画館に足を運んだ。

 緊張しながら映画を観ていると、やっぱり、IKUIは大きくなっていた。しかも、前回よりも更に大きい気がする。

 禍々しさに、背筋が寒くなった。

 その上、最後は、もう決定的だった。前回までは、桃華に狙われるのは興梠君だったけれど、桃華は咄嗟にナイフの向き先を沓水さんへ変えた。

沓水さんは、火渡りの直後に、桃華に刺された。沓水さんの腕からは、血が流れている。

 嘘でしょ――?

 その後、興梠君と小牧原が囮になることで、桃華の気を逸らせ、その隙に、沓水さんが、お札を貼った。

結果、魔力は消滅したけど、ちょっと危なかった。

今回は、沓水さんが、出血多量で、病院に運ばれた。

私は、腰が抜けそうになった。

沓水さんたちの力が弱まり、IKUIの力が強まっている気がする。まだ、辛うじて勝っているけど、そのうち負けるのでは――?

嫌な予感が頭をもたげた。慌てて首を振る。

でも、何かが起きていることは、確かだ。

 明るくなった館内で、急いでスマートフォンの電源を入れ、アンゲとイエリンに連絡した。二人共、まだ上映中のようで、すぐに返事は来なかった。

 Twitterをスクロールしていると、月猫が呟いていた。

『最近、『沓水さん』の話が変わっている。今日は、一成さまが、刺されていて、見るのが辛かった』

 同じだ! 私は、仲間を見つけたような気になり、思わず身を乗り出した。

 だけど、月猫のコメント欄には、辛辣な意見が書き込まれていた。

『前からずっと、そうだったでしょ。ストーリーが変わるわけないし』

『話が変わったとか、嘘は止めて下さい。混乱を生じさせようとしているのですか?』

 いったい、これは、どういうことだろう? 

映画館の人に促されて、私は席を立った。掃除の邪魔になっていたみたい。取り敢えず、どこかで、頭の中を整理しよう。

 近くのコーヒーショップに入り、コーヒーをブラックで頼んだ。もうすぐ、アンゲが行った映画館の上映が終わる頃だ。

コーヒーを一口啜った時、月猫に連絡を取ってみようと思い着いた。直ぐにTwitterで月猫を検索した。だけど、月猫はアカウントを非公開に変えていた。

さっきの一件があって、そうしたのだろう。参っていないといいけど……。

嫌な女だけど、今は同じグループにいる気がする。

私と違い、オタク仲間のいない月猫は、一連の衝撃を一人で受け止めている。しかも、呟いたら、厳しい意見に見舞われるし。普通の人間なら、嫌になるだろう。もしかしたら、『沓水さん』のファンを辞めてしまうかもしれない。

その時、アンゲから連絡が入った。

やっぱり、私が観たのと同じストーリー展開だったようだ。

アンゲも、相当ショックを受けている様子だ。心配になったので、待ち合わせることにした。イエリンの映画も、そろそろ終わるはずなので、イエリンの映画館の近くにする。

電車に乗っている時に、イエリンから連絡が入った。イエリンも、私やアンゲと同じストーリーが見えたみたい。

『ヤバいよ! ヤバいよ! ヤバいよ!』イエリンは、パニックを起こしている。

 映画館の出口で落ち合うと、イエリンは顔が蒼かった。大胆不敵な煽り姫と言えど、この摩訶不思議な現象には、着いて行けないらしい。

「これって、怪奇現象なのかな?」

「もしかしたら、お寺で何かに憑りつかれたとか……?」

 そのシナリオは、私も頭に浮かんだ。

 でも、憑りつかれたって何に? 調べてみたけど、あのお寺は、例の置物破壊事件以外、不穏な話はなさそうだ。

 私は、ふと、興梠君っぽいランナーを思い返した。

 いや。興梠君が、私たちに憑りつくわけない。そもそも、興梠君は、他人に憑りつくようなタイプではない。可愛い顔だし、内面はしっかり者だし。

「来週、応援上映があるでしょ? そこで、他の観客の様子を確認しよう」私は、頭の中の混乱を打ち消すように、提案した。

 口にしてから、「もう観たくない」とか言われるかな? と不安になった。だけど、二人共、そうは言わなかった。

「今日みたいな話だったら、上映中に悲鳴が上がりそうだよね」

「全力で応援すれば、元の話に戻ったりしないかな?」

 意外と図太い回答に、ホッとした。

 イエリンの言うように、元に戻す方法があるなら、戻したい。沓水さんが、傷つけられるのは、見ていて辛いから。



 翌週。応援上映の日。

 映画館は、今日も混んでいた。応援上映の日は、満席になる。公開から四カ月が経ったけど、『沓水さん』人気は衰えていない。それどころか、メディアなどでも多く取り上げられ、ますます人気が出ている。

 徐々に人気が広まっていく状況を見ると、嬉しい反面、どこか沓水さんを遠い存在に感じる時もある。

 本音を言えば、あまり多くの人に、見つかって欲しくなかった。同担歓迎派の私が、こんなことを考えるのは変だけど。

 今日は三人で同じ映画館に来た。

 いつもは、応援上映の時は、ペンライトとか、お面とか、準備万端だけど、今日はそこまで気が回らなかった。

 イエリンの正体に気づいた人たちが、「あの人、煽り姫じゃない!?」と噂する声が聴こえた。イエリンは、今日はオーラを消している様子だけど、スタイルがいいので、何もしなくても目立つ。多分、イエリンも聴こえていたと思うけど、反応しなかった。

 席に着くと、間もなく、上映が始まった。

 今日、煽り姫は静かだ。自分が騒いでいては、周りの反応を伺えないからだろう。

 初めのほうは、何も変化がなかった。

 三十分経った頃、IKUIが出て来た。その姿は、やっぱり更に大きくなっている。

 私は注意深く、館内の観客たちの声に耳を澄ました。変化に対する驚きの声は聴こえなかった。これではっきりした。私たち以外の観客たちは、話が変わっていることに気づいていない。

 終盤。今日も、沓水さんが、刺された。しかも、今回は、心臓の近くだ。ドクドクと血が流れている。その痛々しさに、私は、吐きそうになった。普通、エンターテインメント系の映画でこんなに血を流さないだろう。

「うっ!」観客席から、苦しみを帯びた声が聴こえた。

 館内は静まり返っている。通常のストーリー展開の時は一番盛り上がるシーンなのに、今日は、誰も声を発しない。

 無理もない。沓水さんは、刺されて蹲った瞬間に、桃華に蹴られた。何度も何度も、思い切り、踏みつけられた。この女、凶悪さが増している。それに、強くなっている。

興梠君は股間を蹴られた上、桃華が起こした風で飛ばされ、木に激突した。痛そうに顔を歪めている。

小牧原は、火に囲まれた。このままでは、小牧原は、すぐに火の海に溺れてしまうだろう。

 桃華は、笑っている。

「あちい!」小牧原のワイシャツに、火が点いた。

 私の背中には、悪寒が走った。もしかして、やられるの? IKUIたちが勝つの?

 館内からは、すすり泣く音が聴こえた。

「沓水さんを殺さないで……」絞り出したような声が出た。

 その時、飛ばされていた興梠君が戻って来た。ランナーなので、足が速い。

桃華に対して、呪文を唱えた。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

興梠君は、特殊能力を使えない。だから、呪文を唱えても意味がない。だけど、桃華は驚き、一瞬の隙を見せた。

それを見計らって、沓水さんが、呪文を唱えながら、桃華にお札を貼った。

IKUIの魔力が消えた。

小牧原を囲んでいた火も消えた。

 結果的には、沓水さんたちが勝った。

 だけど、今回は、かなり危なかった。それに、バイオレンスシーンがエグくて、見終わっても、爽快な気分にはならない。

 今回は、沓水さんと、火傷を負った小牧原が病院送りになった。

 エンドロールが終わり、館内が明るくなっても、どんよりとした空気が漂っていた。

 涙を流しながら、「もう観ない」と呟いている人が通り過ぎた。無理もない。これじゃあ、まるで、バイオレンス映画を観に来たようなものだ。

 私は、依然、気になっていることがある。なぜ、誰も、「話が変わった」と言わないのだろう?

 試しに、隣に座っていた女性に、訊ねてみた。彼女も、ショックを受けた顔をしている。お面を持っているくらいなので、何回も観ている可能性が高い。

「『沓水さん』って、こういう話でしたっけ? 私、観るの二回目なんですけど、三か月前に観た時って、こんな話じゃなかったような……」

「話は、変わっていません。でも、だんだん、辛くなってきました。私は今日で五回目なんですけど、推しキャラが痛めつけられる姿を観るのは、ダメージが大きいです」

 やっぱり、私たち以外は、話が変わっていることに、気づいていない。

 その後、何人かの人に同じ質問をしたが、「話が変わった」という人はいなかった。

 ぞっとした。

 私たちが、おかしいのだろうか? 一緒にいる時間が長くて、三人で変になってしまったとか? でも、月猫も、変化に気づいていた。

 私は、月猫のアカウントを見た。非公開になったままだった。大丈夫だろうか? 今日も姿が見当たらなかったし。心配だ。

 月猫のことは、ほとんど何も知らない。本名も年齢も仕事をしているのかどうかも。それでも、沓水さんに対する想いは、自分と同じレベルだと認めている。だから、月猫が、沓水さんファンを辞めてしまうのは、寂しい。

 アンゲとイエリンも、ファンを辞めてしまわないといいけど……。

『沓水さん』は、今や私の人生にとって、欠かせない存在となっている。コンテンツ自体もそうだけど、こうしてできた友達やフォロワーたち。同担仲間が、今、一番〝分かり合える〟存在だ。アンゲやイエリンはともかく、他のフォロワーたちとは、どっちかが『沓水さん』のファンを辞めた時点で、関係が消滅する。私たちは、『沓水さん』で繋がっているだけなのだ。

それに、観る人が減れば、映画の上演は終了する。『沓水さん』は上演開始から既に四カ月経っているので、客が来なければ、終わってもおかしくない。

沓水さんたちがやられる姿を見るのは辛いけど、映画を観られなくなってしまうのは、それ以上に辛い。

 映画館を出ても、今日は三人とも、口数が少なかった。いつもは、応援上映の後は、興奮冷めやらず、ベラベラ喋りまくっているのに。沈黙が、不安な気持ちを加速させる。

「明日、秋田、行かない?」イエリンが呟いた。

 私は、驚いて、イエリンを見た。アンゲも同じだった。

「この不気味な状況に関して、何か分かるかもしれない」

 私が息を呑んだのは、それがいいアイデアだから、だけではなかった。

「行く。私、月曜日は学校を休む」アンゲが乗った。真面目で、学校をさぼっているところなんて一度も見たことがないアンゲが。

 イエリンとアンゲは私を見た。

 心が一杯になり、出遅れてしまった。

「もちろん、行く」

月曜日は、コールセンターのバイトが入っているけど、仮病を使う。ていうか、仮病ではない。人生にとって大事な問題を解決しないことには、私の健康は保証されない。



 翌日。

新幹線とJRと鳥海山ろく線に乗り、沓水さんの寺がある駅に着いた。

前回は、楽しくお喋りを弾ませていた道だったけど、今日は戦いに向かうような気分だ。どんな小さなことでも、気になることがあれば見逃さない。

もし、今日、興梠君に似たランナーがいたら、止めて、確かめよう。人違いなんて気にしていられない。

でも、そういう時には現れない。これは、ある意味、お約束だ。

寺に行くまでも、寺に着いてからも、前回来た時から変わった様子はなかった。変に思ったこともない。普通のお寺だ。一つだけ違うのは、前回よりも暑いことくらい。もう六月も後半に入ったので、当たり前だけど。

壊された亀の置物の場所には、立ち入り禁止のロープが張られていた。物々しい雰囲気が、心をザラつかせる。

三人で並んで、本堂に向かい、手を合わせた。

何を願うかは、互いに口にしない。でも、想像は着いた。仕事仲間の願いは分からなくても、同担の願いは分かる。

 目を開けると、アンゲの声が聴こえた。

「絵馬も書く?」

「書く! せっかく秋田まで来たんだもん、できることは何でもやろう! 神頼みをし倒す!」イエリンが息巻いた。

「寺だから、神じゃなくて、仏のほうね」

「ムズイ! 中国人、ワカラナイ」イエリンが、お道化たので、私とアンゲは思わず噴き出した。

 そう言えば、今回の旅行で笑ったのは初めてかもしれない。

 絵馬には、願ったことと同じことを書いた。

 結んでいると、イエリンに背中を叩かれた。

「あいつ、可愛いところあるじゃん」

イエリンは、結んである絵馬を指した。

『一成さまが、心身ともに傷つきませんように。一成さまたちが、ずっと勝ち続けますように 二〇××年六月十四日 月猫』

 昨日の日付だ。月猫は、ファンを辞めたわけではなかった。

 嫌いだったはずなのに、アンゲやイエリンと同じくらい近い存在に感じる。

「月猫さん、ファン辞めてなかったんだね。アカウント非公開にしてたし、昨日の応援上映にもいなかったから、心配したけど」

アンゲの話に乗っかろうと思ったけど、留まった。月猫のアカウントを見ていたり、応援上映で探していたと認めたくない。何か、悔しい。それに、心優しいアンゲと違い、私はそういうキャラじゃないので、恥ずかしいし。

「まあ、あいつの沓水さんに対する気持ちだけは、本物っぽいよね」

 私は、既に結んでいた絵馬に、もう一つ願いを付け足した。

『同担仲間が消えませんように』

 書くスペースがなかったけど、何とか無理矢理ねじ込んだ。


第三章 界隈から消えたフォロワー



 月曜日に秋田から帰って来て、火曜日以降は普通の日々が始まった。

『沓水さん』の映画に関して以外は、何も変わらない。今は、記事作成の依頼が三件入っているので、バイトは抑えて、家に籠って書いていた。

 そう言えば、沓水さんの小説を作ったのは、もう一か月以上前だ。私は、一週間に一回くらいのペースで作って公開していたので、ご無沙汰になる。

 人気のコンテンツ界隈では、いくつもの小説や漫画が二次創作されるので、人気のある作者もうかうかしていられない。

 頻繁に公開しないと、私のことなんて、すぐに忘れられてしまうだろう。

 気になって、Twitterを開いた。一時、私のフォロワー数は、五千八百人くらいいた。結腸開発の話をアップした後だ。今は、どうだろう?

フォロワー数を見ると、五千六百人。

 ピーク時より、二百人以上減っている。この数字は、私に重く圧し掛かった。

 一か月以上、新作をアップしないと、こんなに一気に減るものだろうか?

 フォロワー数は、コツコツと作品を作ることで、少しずつ増やして来た。二年間の努力の結晶のようなものなので、胸に喪失感が広がった。

 スクロールして、フォロワーを確認する。人数が多いので、誰が消えたかは特定できないけど、ぱっと見た感じ、古参のフォロワーたちは、消えていないようだ。

 試しに、新参フォロワーをチェックしようと思った。五月の秋田旅行でフォロワーになってくれた沢口綾子さんと真野美穂さん。

 沢口さんは見つかった。でも、真野さんは、見つからなかった。

 真野さんのアカウントを検索してみたが、出て来なかった。

 もしかして、真野さん、Twitter辞めちゃったのかな? Twitter自体を辞めてしまえば、当然、フォロワー数にはカウントされなくなる。

 嫌な予感がした。真野さんは、映画『沓水さん』の話が変わったことで、ファンを辞めてしまったとか?

私は、何か情報が掴めればと、沢口さんにメッセージを送った。

 いきなり連絡して怪しまれないように、それっぽい理由着けをした。

『こんにちは! 次回作のテーマで悩んでいます。フォロワーさんたちにアイデアを募集しているのですが、もしリクエストがありましたら、お知らせ頂けると嬉しいです 色之丞』

 その日は、沢口さんから返事はなかった。翌日もなかった。

 返事をもらえると思ったのは、甘かっただろうか?

 沢口さんに会ったのは、一回だけ。話したのは、五分くらいだ。たったそれだけの関係の相手からメッセージが届いたところで、律儀に返事をしてくれる人ばかりではないだろう。

 関係の薄さを思い知らされる。私たちは、所詮、Twitter上での知り合い。縁が繋がったように見えても、実際は繋がれていない。

 翌日。心は半分、諦めていた。

 だが、沢口さんから返事が来た。

『返事遅くなってごめんなさい。最近、Twitterを開いていなくて。色之丞さんの作品は、とても面白かったのですが、今、沓水さんへの気持ちが停滞中で……』

 私の心は、返事を貰えた嬉しさと、最後の一文への不安で、せめぎ合った。両方とも勢いが強く、情緒が大きく乱れる。

『どうして、停滞中なのですか?』想像は着いていたけど、何も分かっていない体で訊いた。

『最近、観るのが辛くて。沓水さんが、ボコボコにされるのが……。美穂は、それで、沓水さんファン辞めちゃったんです』

 やっぱり。そういうことだったんだ。真野美穂さんが、フォロワーから消えた理由が、はっきりした。

 私は、もう一つ、はっきりさせたいことを訊いた。

『急に、辛くなったんですか? 前に会った時は、大丈夫そうでしたよね?』

『そうなんです。おかしいんですけど、前は大丈夫でした。何回も観ているから、情が移って、辛くなったのかな?』

 話が変わった、とは言わなかった。その点については、気づいていないんだ。

 もう一通、メッセージが送られて来た。

『でも、最近、そういう人、多いみたいですね。沓水さんファンが減っているみたいです』

 最後の一文が、心に突き刺さった。自分のフォロワーが減った以上に哀しい。

 せめて、沢口さんには、ファンを辞めないで欲しい。

『もしかしたら、少し経てば、また楽しく感じるかもしれませんよ。私も、暴力なしの、ちょっとエッチな小説書くので、よかったら見て下さい』

 今、私にできるのは、これくらいだ。痛かったり、辛かったりしない、幸せな話を書こう。そうすれば、少しはファンが戻って来てくれるかもしれない。

『それは楽しみです(笑)』

 まだ、希望はありそうだ。



 土曜日。

 秋田に行ってから、明日で一週間だ。

今日も三人で『沓水さん』を観たけど、状況は良くなっていない。寧ろ、沓水さんのやられようが、更に痛々しくなっている。あんなに美しい顔を、刃物で傷付けられていた。流石に私も、目を逸らした。

座席の埋まり具合は、随分とまばらになった。このままでは、上映終了に向けて、カウントダウンだ。

私たちは、重い空気のまま、席を立った。

最近は、Twitterをはじめ、SNSを使った口コミが、映画の興行収入を大きく左右する。SNSで評判が良ければ、観に行く人は増えるし、評判が悪ければ、減る。

『沓水さん』が興行収入八十億を突破したのも、間違いなくSNSのお陰だ。でも、今は、逆に、SNSでの評価に足を引っ張られている。『観ていて胸糞悪くなる映画』とか、散々な評価を喰らっている。

「ねえ! 見て!」アンゲが声を上げた。

 目の前に差し出されたスマフォを見ると、トレンド欄に『沓水さん恐怖症』と表示されていた。

トレンドに載るくらい、多くの人に呟かれているということだ。

 私たちは、顔を見合わせた。

「このトレンドは、数時間もすれば消えるはずだから、放っておいていいと思う。でも、今後も、同じようなワードがトレンド入りするかもしれない」

「映画『沓水さん』に興味があるけど、まだ観ていない人は、これを見て、足が遠のくかもしれないね……」

 アンゲとイエリンは、深刻な顔になった。

私は、二人に、提案した。

「自分たちで、ネガティブワードを追い出せるようになろう」

「どうやって? 多くの人に呟かれている以上、消えないよ」

「『沓水さん恐怖症』のツイート数は、一千二百くらい。トレンドに表示されているトピックの中では、一番少ないレベルだと思う。これくらいなら、力を合わせれば、越えられるはず。今後、『沓水さん恐怖症』がトレンドに上がったら、別のトレンドを作って、追い出せるようにしよう」

 アンゲとイエリンは、一瞬、驚いた顔をした。

「そっか。その手があったね。フォロワーさんたちに、リツイートしてもらえば、きっと達成できるね」

「フォロワーたちを、煽って煽って煽りまくってやろう!」

トレンドをコントロールできるようになるためには、なるべく多くのフォロワーが必要だ。フォローを取り戻すべく、創作活動に励もう。場末の作家にだって、できることはあるはず。



 私は、小説の方向性に頭を悩ませていた。

 エロのスパイスは苦しみだと思っている。苦しみを伴えば、エロは、より濃密さとパッションを纏うようになる。これまでの私の作品の傾向は、この線だった。

 でも、今回は、苦しみは避けたほうがいいだろう。仮令、快楽の過程の苦しみであったとしても、映画の辛さを思い出させてしまうかもしれない。

 色々考えた末、沓水さんと興梠君が、夏の夜に、障子越しにキスする話にした。


 乾いた紙越しにでも、沓水の豊かな唇の感触は伝わった。

 いや、媒介は、輪郭を強調させるのもしれない。普段にも増して、その柔らかく、湿った箇所から、濃い密度を感じた。

 深夜一時。月明りだけに照らされ、視覚から得られる情報は、ほとんどない。代わりに、触覚が研ぎ澄まされる。

 舌を入れたい。

 だが、一枚の紙が、それを許さない。

いっそ、食いちぎってしまおうか?

まさか。そんなことをしたら、明日の朝、秘密が明るみになってしまう。

 しかし、このまま互いに吸い付き合えば、いずれ、障子は破れるだろう。

 その時、障子越しに、沓水の吐息が聴こえた。それは、沓水が、快楽の刹那に漏らす声だ。

 今、自分たちは、身体を重ねていなければ、舌さえも入れていない。それなのに、沓水は感じているのだろうか――。

興梠の下半身が疼いた。

 今まで味わったことのない感覚に、胸が苦しくなる。

 この、脆い紙に隔たれているからこそ、感じるものがある。


 迷ったけど、センシティブな投稿として扱わないことにした。センシティブな投稿扱いになると、一般ユーザー向けには非表示となる。見ても大丈夫な閲覧者だけが、「表示」ボタンを押す。普段、私の投稿はセンシティブ扱いだ。

だけど、このワンクッションを挟むと、目に触れる機会は減ってしまう。今回は、なるべく多くの人の目に触れて欲しい。キスシーンはあるけど、これくらいであれば、クッションを挟まなくても、きっと許してもらえるだろう。

私は、オープンな投稿として投げた。

フォロワーに気に入ってもらえることを願って。



翌日。

目が覚めて、期待を抱きながらTwitterを開こうと、スマフォを手に取った。

だが、開く前から、嫌な予感がした。

何かが伝わって来る。空気に黒が混じっているような。負の気とでも言おうか。

メッセージが届いていた。開くと、不穏な文字が躍っていた。

『なぜ、センシティブ扱いにせずに、あんな投稿をしたのですか? 深刻なマナー違反です。色之丞さんが、そんなことをする人だとは思いませんでした。がっかりです』

 しまった――。

 判断をミスったかもしれない。これくらいなら大丈夫だと思っていたけど、そういうのに厳しい人はいる。

 他にも七件メッセージが届いていたが、一件を除いて、センシティブ扱いにしなかったことへのクレームだった。

 辛辣な意見が並んでいた。『こんなことをするなんて、恐怖を感じる』『もうあなたの作品は見ない』『公開性交と同等の犯罪だ』等々。中でも、一番堪えたのは、『お前のせいで、沓水さん自体が嫌いになった』。

 まるで逆効果だ。沓水さんのファンを取り戻そうとしたのに。

 私は、コールセンターでバイトをしているので、受け止め方は人によってまちまちだと知っている。なのに、なんで、こんな初歩的なミスを犯してしまったのだろう。

 私は、すぐに、センシティブ扱いに設定を変えた。でも、「いいね」の伸びは、普段よりも鈍かった。やっぱり、私の投稿を良く思わなかった人は、多かったのだろう。

 タイミング悪く、今日は、家で記事を書く日だ。コールセンターで仕事をしているほうが、まだ気が紛れたかもしれない。一人で籠っていると、思考は悪いほうへ流されていく。

 私って、最低な人間なのかな? いないほうがいいのかな――?

 グルグルと、同じ問いが胸の中で回り続ける。フォロワーの数を増やして、『沓水さん』のために貢献したいと思った。でも、これじゃあ、足を引っ張っている。

 もう、アカウントを消してしまおうか? こんな面倒臭いことに巻き込まれるくらいなら、いっそのこと。

 そうすれば、色之丞としての人生はリセットできる。新しいユーザーネームを作って、Twitter上で生まれ変わればいい。芸名みたいなものだ。

 でも、色之丞のアカウントを消せば、今までのフォロワーとの繋がりは消える。私の作品の熱心なファンの方には、新しいアカウントを教えるにしても、全員には無理だ。

フォロワーを失いたくはない。これまで、私の作品を評価し、励ましてくれた人たちとの繋がり。私の生きる希望。

 お昼を過ぎても沈んだ気持ちのままだったので、アンゲとイエリンにメッセージを送った。

『今日、ちょっと会話できる?』

『色、大丈夫? ちょっと炎上しているみたいだったから、心配していたよ。私は、大丈夫だよ。時差も一時間だし、六時以降なら、何時でもOK』イエリンからすぐに返事が来た。イエリンの家は北京にあるので、時差はほとんど感じなくて済む。

 心配していた、という言葉が、嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。こんな失態を友達に見られ、心配までさせてしまった。

 少し経つと、アンゲからも返事が来た。

『私も、七時以降なら大丈夫だよ』

 アンゲは、心配していたとは言わなかった。それを、アンゲらしい優しさだと思った。アンゲは、人の心にそっと寄り添う。

イエリンにはイエリンの優しさがあり、アンゲには、アンゲの優しさがある。

ただ、二人に共通するのは、仲間想いだ。私たちの友情を、大切に思ってくれていることは伝わる。

仲間想いは、沓水さんのパーソナリティでもある。推しの人格は、推す側の人格にも影響を与えるのかもしれない。

そう言えば、『沓水さん』の中でも、興梠君は、積極的に心配するタイプで、小牧原は、そっと見守るタイプだ。私たちの関係に、似ているかもしれない。

 ふと笑みが零れた。今日、初めて笑った。

 推し仲間がいて良かった。『沓水さん』という媒体がなければ、出会わなかった三人。国籍も違うのだから、友達になったのは、凄い確率だ。

 大人になったら、友達なんてできないと思っていた。だけど、そんなことなかった。同じ人を推していれば、同じ想いを共有できる。

 もしも、いつか、遠い将来、『沓水さん』に対する興味を失う時が来たとしても、二人とは友達でいたい。

少しだけ、元気になった。



「まあ、地雷女って多いからね」

 七時になり、音声通話で、今日あったことを説明すると、イエリンは普段よりももっと太い声を出した。

「私のところにも、時々来るよ。あなたの作品は、沓水さんを冒涜している、とか」

「え? アンゲの作品にも、そんな声が届くの? あんなに、素晴らしいのに?」

アンゲを持ち上げよう、とかそういうんじゃなく、純粋に驚いた。アンゲの作品には、同性愛設定はあっても、性的な描写はほとんどない。どこに非難する余地があるのか? と突っ込みたくなる。

「ありがとう。でも、来るよ。私も落ち込む。ネットって、顔が見えない分、好き放題言う人もいるからね。泣いちゃう時もある」

 知らなかった。アンゲとは一年半以上の付き合いだけど、こういう話をしたことがなかった。友達だと思っていても、私は、まだ二人のことをよく知らないのかもしれない。

「そういう時って、どうするの? 取り下げる?」

「ううん。取り下げたことはないよ。私ね、投稿する前は、いつも、読んでくれる人の顔を思い浮かべて、チェックするんだ。気に入って貰えるかな? って。だから、クレームを言って来た人には気に入ってもらえなかったとしても、私の作品を気に入ってくれる人はいる、って思って、そのままにする」

 アンゲは、意外と強い。

「色ちゃんの顔は、真っ先に浮かぶよ。ずっと、私の作品を、好きだって言ってくれているから」

 私は、胸がキュンとした。

「でもさ、それだけ、二人の作品が注目されているってことでしょ? 凄いよ。攻撃している奴らは、不謹慎狩りしかしてない。そんな奴らに、潰されないで欲しい。私からすれば、二人は、神絵師と神作家なんだから。もし、二人が潰されるようなことがあれば、次は私が、そいつらを狩りに行く!」

 私たちは、笑い合った。

 イエリンの励ましが、嬉しかった。

でも、物書きの習性か、私には、頭の中でもう一人の私が、客観的に物事を考える癖がある。

こんな風に、誰かが誰かを傷つけ、また別の誰かが敵を取る。ネット上に、憎しみが蔓延する。もし、IKUIが現実に生きていたら、大変だった。つけ込まれる隙が沢山ある。

 愛で一杯のはずの推し活だけど、愛が強すぎる故に、争いが生まれ、憎しみも生まれる。

 私は、ふと月猫を思い返した。元気だろうか?

 アンゲとイエリンの話を聴きながら、月猫のアカウントを検索した。

 公開に戻っていた。無性に嬉しかった。スクロールすると、ついさっき投稿があった。

『私は何があっても、一成さまを応援し続ける♡それが、一成さまのオンナの生きる道だから♡♡私にできることは、何でもやる! たとえ、同担がゼロになっても。たとえ、一成さまが破れる日が来ても。一成さまの骨を拾いに行く!!』

 音声通話中だということも忘れ、噴き出してしまった。

「色ちゃん、どうしたの?」

「ごめんごめん。今ちょっと面白い投稿が目に入って」

「どれ? 私も見たい」

「月猫のアカウント開いてみて」

 少し経つと、イエリンの笑い声が聴こえた。

「何こいつ! 完全に喧嘩売ってるじゃん。いい根性してるわ」イエリンは、主に漫画から日本語を学んだため、よくヤンキー口調になる。

「凄いね。この前、炎上したばかりなのに……」

「もしかして、わざとなのかな?」ふと思った。

「炎上商法ってやつ?」

「沓水さんのファンとしての覚悟を示したとか?」

もし、そうなら、それこそ、ヤンキーのような心構えだ。

「まさか。あんなに、あざとそうな女が?」

「でも、このタイミングで、ここまではっきり宣言できるのは、凄いよ。私なら、心ではそう思っても、呟けない」アンゲは、心から感嘆しているようだ。

「月猫、仲間になる気ないかな……?」

「え? 色! 正気!?」

「だって、少しでも仲間は多いほうがいいでしょ? 今は。月猫は、私たちと同じくらい、沓水さんが好きそうだし」

「でも、月猫さんは、同担拒否派だからね……」

「本心かは、分からないよ」

同担拒否派が、こんな同担を煽るような投稿をするだろうか? もしかしたら、月猫は、友達が作れないだけかもしれない。

「あ! 今週、入場特典が配られるみたい」イエリンが、声を上げた。

 タイムラインに、公式のアカウントから、情報が流れてきたようだ。

「しかも、沓水さん特製・御朱印だって。絶対に欲しいやつだ!」

 私も慌てて、公式のアカウントを検索した。

 感謝の文字と、深白寺と書かれていた御朱印グッズ。背景には、『沓水さん』と朱印が入っている。ああ、これは、何が何でも欲しい。離反者が増えたからか、公式も気合の入ったグッズをぶつけて来た。

「このデザイン、凄く好き。字も、沓水さんっぽい」アンゲが、魂を奪われたような声を出した。

アンゲの言う通り、文字は、沓水さんぽい。真っ直ぐで、端正で、無駄がない。沓水さんが書いた字は見たことないけど、らしいと思う。

「これで、人気盛り返すかな? 上演終了の足音を吹き飛ばしてくれるといいけど」

「これが欲しくて、一日に何回も通う人もいそうだよね」

 オタクとは、この世で最もチョロい生き物だ。推しをチラつかせれば、目をハートにして、飛び込んでいく。財布が解決してくれるなら、いとも簡単に財布を開く。

「鑑賞用と保存用と携帯用。最低三枚は必要。あとは、できれば、それぞれのスペアと――」

「でも、イエリンが独占すると、多くの人には行き渡らないよ」

「そっか! じゃあ、我慢する。でも、せめて、二枚は……」イエリンが、未練がましく、呟いた。

 月猫も、特典ゲットのために、今まで以上に、映画館に足を運ぶだろう。次の週末に、会えそうな気がする。



 土曜日。応援上映。

 いつもの銀座の映画館に行くと、見覚えのある姿が目に入った。

 月猫だ。以前と同じように、フリフリの服を着ていて、キャットアイを強調したメイク。どことなく殺気立った気配を漂わせている。恐らく、緊張して身構えているのだろう。

それでも、逃げも隠れもする気はないようだ。やっぱり、月猫は、見かけによらず、かなり根性がありそうだ。

 私は、月猫に向かって、歩いた。

「ちょっと、色。どこ行くの?」

目の前まで行くと、大きな猫目に見詰められた。

「以前もお会いましたよね? 月猫さん。私、色之丞っていうハンドルネームでTwitterしています」

 月猫は大きな目を更に見開いた。表情にはすぐに警戒の色が混ざった。次第に、反抗的な色が加わる。

「何か用? まだこの前のこと、根に持っているの?」

「違うよ。月猫さんが、沓水さんのファンを辞めないって、Twitterで宣言しているのを見て、自分と同じだなと思ったんだ」

 私の言葉を理解するのに数秒掛かったようだが、その後、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。

「私も、何があっても、沓水さんを応援し続ける。だから、同担はゼロにはならない」

「少なくとも、三人は、絶対にいるよ」後ろから、イエリンの声がした。

 振り向くと、今度はアンゲが口を開いた。

「沓水さんが破れる日が来てもファンを辞めませんが、敗れる日が来ないように応援します」

 一瞬、月猫の表情に安堵の色が浮かんだ。いつもの強気な顔の裏から覗く、傷つきやすい女の子の表情。月猫だって、一連の出来事を経て、無傷でいたわけではないだろう。瞳には、微かに光が宿ったように見えた。

 でも、次の瞬間、ハッとした表情になり、いつもの生意気なキャット・フェイスに変わった。表情が良く変わる女だ。

「ご自由にどうぞ。私は、同担拒否派ですから」

 くるっと向きを変え、その場を後にした。

「やっぱ、月猫は月猫だったね」

「でも、月猫さん、嬉しそうに見えた」アンゲも、私と同じことを感じたようだ。

 月猫の後ろ姿は、さっきほど殺気立っていなかった。

「入場しよう。早く特典欲しいし」

 入口で、念願の御朱印を手にした。ただのグッズだと分かっているけど、神聖な気持ちになった。モデルとなった寺で貰った御朱印と並べて飾ろう。



 応援上映中は、声の限り叫んだ。これまでの流れを踏まえると、今回、沓水さんたちが破れてしまう可能性がある。

 もしかしたら、応援で結末が変わるかもしれない。そんな奇跡のようなことを信じるなんて馬鹿げているけど、元々、状況はおかしい。何が起きても不思議ではない。

 イエリンはもちろん、声が細くて小さいアンゲまで、時々咽ながらも叫んでいる。月猫の高い声も聴こえる。

だんだん、声が枯れて来たけど、構っていられない。明日、ヘリウムガスを吸ったみたいな声になったとしても、今が大事だ。

 沓水さん。私たちが、あなたを守ります。

終盤。桃華が逆ギレして暴走するシーン。スマフォが刃物に変わるところで、私は言葉を失った。

刃物ではなく、銃になった。胴体が黒く光る。

「やめて!」私は大声で叫んだ。

「やめろ、クソ女!」

アンゲからは、「あぁ……」という悲痛な音だけが漏れた。

「一成さま、逃げて!」月猫の悲鳴が響き渡る。

 銃口が沓水さんに向けられ、沓水さんのどアップが映し出される。このシーンは、今までになかった。

 美しい。

 こんな時にそんなことを考えている場合ではないけど、沓水さんの顔はとにかく美しかった。こんな場面でも、沓水さんの表情はほとんど変わらない。焦ったり、怒ったりしていない。全てを悟っているかのような澄んだ瞳に、画面越しに射抜かれた。

これは映画だと分かっているけど、直接見られているような気がして、私の心臓は暴れた。

「顔がいい……」思わず、呟いていた。

それほど大きな声ではなかったと思うけど、館内はしーんとしていたので、響き渡ってしまった。

恥ずかしくなったと同時に、「顔がいい」と呼応する声が聴こえた。

その後、あちこちから、「顔がいい」の大合唱が起きた。

応援上映で、こんな連帯感は、久しぶりかもしれない。沓水さんのアップは、誰も抗えない力を持っている。

「一成さま、顔がいい! 負けないで!」月猫の高い声が轟いた。

 私は、反射的に呼応した。

「沓水さん! 負けないで」

 それを機に、前や後ろや横から、同じように呼応する声や拍手の音が聴こえた。

 館内の空気が変わった。暗くてよく見えないけれど、その分研ぎ澄まされた他の感覚でそう感じた。

 この会場には、一体感がある。

 心が、じーんとした。不利な状況下では、仲間がいることが、どんなに心強いか。

 私は、自分が心細さを感じていたことに気づいた。私にはアンゲやイエリンがいるけど、それでも、同担仲間が離れて行くのは寂しかった。

 もしも、この声援を沓水さんたちが聴いたら、嬉しく思うかな? きっと、思ってくれるよね。

 その時、スクリーンの中で、新たな展開が始まった。

 何と、熊が出て来た。秋田の山の中なので、あり得なくはない。桃華と熊は目が合った。桃華は、驚きと恐怖で、銃を落とし、逃げ出した。

 桃華は、IKUIの魔力に操られているので、ターゲットの人間や、自分の邪魔をする人間に対しては、躊躇なく攻撃する。

 だけど、熊は、その対象から外れているのだろう。普通の人間が、熊を見た時のような反応になった。

 熊は、桃華を目掛けて突進する。熊と桃華の距離がもうあと、一mというところまで迫った時、銃の音が聴こえた。

 熊は、倒れた。

 銃を持った沓水さんのカットが映し出された。

「すまない」沓水さんは、もう一発、熊に銃を打ち込んだ。熊の瞳が閉じた。

 沓水さんは、熊に向けて、手を合わせた。

 驚きのあまり、引き攣った表情の桃華が映された。

 沓水さんは、その隙に、桃華にお札を貼った。

「熊に襲われた時、逃げるのは良くないって聴いたことがありませんか? お嬢さん」

 桃華はへたり込んだ。

 魔力が消えた。

 館内から、拍手の音が聴こえた。

 どうやら、今回は、いい終わり方をしたらしい。

応援の力で、結果が変わったのだろうか?



「さっきの沓水さんのアップ何? マジで心臓が止まるかと思った」

イエリンは、もともと低い声が更に潰れていた。ガラガラした声は、イエリンの発言に、より迫力を齎せた。

「私、あの顔見るためだけに、映画代を払い続けられる。次回からも、今日のストーリーにしてほしい」アンゲは、声を掠らせながらも、夢の中にいるような顔をしている。

 興奮冷めやらぬ中、帰りに寄った喫茶店で。六月にしては効き過ぎたエアコンも、沢山氷の入ったアイスコーヒーも、熱を冷ましてくれることはなかった。

 私の脳裏からも、さっきの沓水さんの顔が離れない。

 あの目。夢見心地になり、コーヒーのストローを掻き回した。

 でも、今は、現実に戻って、今後のことを考えないといけない。

「今日、応援で内容が変わったような気がした。二人は、どう思う?」

「私もそう思った。顔がいい、からだよね」

「だけど、今までも、顔がいいコールは起きていたのに、どうして今日だけ、変わったんだろう?」

「一体感?」私は疑問形を使ったけど、心の中では確信していた。

 二人は、やや驚いた顔をした。

「確かに、あの時は、会場全体が一体になっていた気がするけど」

「ファンが一致団結すれば、沓水さんが勝つってこと?」

「私も、まだ、はっきりとは分からない。でも、映画のストーリーを変える力が、現実にはあると思う」

アンゲもイエリンも、笑わなかった。

 家に帰って、Twitterを開くと、月猫からフォロワー申請が届いていた。すぐに承認し、フォローバックした。この流れは、全然、驚かなかった。

 鞄から、沓水さん御朱印を取り出し、モデルとなった寺の御朱印の隣に並べた。アンゲが作ってくれた作務衣も、近くに置いた。

 手を合わせる。

 私たちに、沓水さんを守らせて下さい。

 祈ってから、何かちょっと変な祈りだったな、と思った。

 その晩、私は夢を見た。

 私は、沓水さんの寺にいて、一匹の亀が境内をノロノロと歩いていた。

 沓水さんの背中の亀だ。

 そう思って、追いかけると、突如、亀は凄い速さになった。置いて行かれないように、私は必死で着いて行った。

「ちょっと待って!」

 だけど、亀は止まってくれない。ますます早くなる。

「ちょっと待ってったら!」

 離された。亀は小さいので、姿を見失った。

 その時、一枚の紙が落ちているのに気づいた。拾って、見ると、文字が書かれていた。

 一体感。

 見覚えのある字。『沓水さん』御朱印に書かれた字だ。

 ハッとしたところで、目が覚めた。

 自分の心臓の音が聴こえる。

今のは、もしかして、啓示的な――?

『沓水さん』御朱印に目を遣る。あの字だった。〝感〟に覚えがある。

 やっぱり、一体感が何かのヒントになりそうだ。

 私は、スマフォを手に検索を始めた。応援上映は、映画館によって、土曜日にやるところと、日曜日になるところがある。

明日実施する映画館に行き、今日みたいに一体感を作り出そう。

 翌日。朝から音声通話で、アンゲとイエリンに夢の話をすると、二人共、真剣に聴いてくれた。

「今日も、一体感を生み出せばいいのね? 音頭取りは私に任せて!」

 イエリンの声は、ほぼいつも通りに戻っていた。一日で戻すなんて、流石、煽り姫だ。

「私も、全力で続くね」アンゲの声は、まだ擦れていた。それでも、引く気はないようだ。

 私たちは、狂っている。狂ったオタク仲間がいてくれてよかった。共通言語で話せる仲間の存在は、立ち向かう勇気をくれる。

 もう一人、月猫にもメッセージを送った。

『私、もう、今日の上映の席を取ってる』流石の返事だった。

『じゃあ、私たちも同じ会場にする』

『ご自由にどうぞ』

やっぱり、月猫は月猫だ。私は、ちょっと笑った。

でも、フォローをしてくれた。口にすることと思っていることは違うタイプなのだろう。

 月猫は、何で私をフォローする気になったんだろう? 正面から訊いても、本当のことは応えてくれないと思うけど、いつか、訊いてみたい。

 六月最後の日曜日。

 外は晴れていて、既に暑そうだ。



 池袋の映画館。

 初めて来る映画館なので、入り口で待ち合わせた。今日は、作務衣にお面にペンライトというフル装備で来た。

 イエリンは、弟さんの誕生日プレゼントを買っていて、少し時間に遅れて到着した。

「遅れて、ごめん!」

 大きなスーツケースを引っ張って、私たちのほうへ来る。

「イエリン、そんなに大きなスーツケースを使っているんだね」

「普段は、ホテルに預けているんだけど、今日は、プレゼントを入れるために、持って来た。端の席にして良かった」

 私たちは、館内に入った。

 ストーリー展開は昨日と同じだった。桃華が、銃口を沓水さんに向ける。

沓水さんのドアップが映し出された。

私は、二回目にも関わらず、思わず息を呑んだ。

沓水さんは、今日も神懸って美しい。少し憂いを帯びた表情には、艶があり、色気がだだ漏れている。昨日は、びっくりし過ぎて、ちゃんと見られなかったけど、今日はじっくり味わえた。一瞬、瞳が動いたように見えた。気のせいだろうか?

 私は、一瞬我を忘れ、ただ見惚れていた。

「顔がいい……」

 計画的ではあったけれど、ほとんど無意識に口から零れた。

 今日も、「顔がいい」の呼応が始まった。

「一成さまぁ♡ 顔がいい! キャー」月猫の叫び声が上がった。

甘い悲鳴は、ウェーブを発生させた。皆が順々にキャーっと声を上げる。まるで、映画館の空気がぐわんぐわん揺れているようだった。黄色い空気で、身体が浮きそう。

 その時、画面の沓水さんが手を合わせた。

「応援に感謝」

 私は、目を見張った。えっ!?

 次の瞬間、身体が浮いた。ジェットコースターに乗っている時のように、強く激しい力で、全身が前に運ばれた。


第四章 ミッションは、特典コンプリート



気づくと、視界に、青い空と木が見えた。日の眩しさに対抗しながら、少しずつ目を開いていく。ここは、どこ?

起き上がり、辺りを見回す。見覚えのある光景。

「うぅー……痛い……」イエリンの声が聴こえた。

「あれ? ここって……」アンゲは、私と同じように、首を回していた。

「秋田のお寺だよね? 聖地巡礼に行った」

「でも、私たち、東京で映画を観ていたはず――」

 寺には、全く人気がなかった。参拝客どころか、僧侶もいない。

 状況に着いて行けずに唖然としていると、息の弾む音が聴こえた。誰か来る。

 音のほうに目を向けると、またしても見覚えがあった。帽子を被っている。ランナーの格好をした男性。

「色之丞さんとアンゲさんとイエリンさんですか?」聴き覚えのある声。

 男性は、帽子の唾を上げた。

 円らな瞳。ちょっと幼さの残る顔立ち。

 私は驚きで固まった。

 興梠君だ。興梠進。沓水さんの助手の――。

 何で、私たちの名前を知っているの? いや、いていうか、その前に、何で、物語の中のキャラクターのはずの興梠君が、目の前にいて、私たちに話し掛けているの?

 私は、目を擦った。でも、興梠君が見える。

「沓水さんじゃなくて、申し訳ありませんでした」興梠君は、拗ねたように口を尖らせた。

何か誤解をしている。沓水さんじゃなくて、とか、そういう問題じゃない。

でも、次の瞬間、私はハッとした。

「沓水さんもいるんですか?」三人の声が被った。

私たちは、興梠君に襲い掛かるような勢いだったと思う。興梠君は、その迫力に、一瞬身体をびくっとさせた。

「そりゃあ、いますよ。ここは、沓水さんの寺ですもん。今は、不在ですけど」興梠君は、何を当たり前のことを? という表情をしていた。

 嘘でしょ? 揶揄われているのだろうか? だけど、そもそも興梠君がいること時点で、普通ではない。

 私は、境内にある看板を見た。深白寺と書かれていた。モデルとなった寺は、別の名前だ。

 おっとりしたアンゲが、珍しく、切羽詰まった声を出した。

「じゃあ、沓水さんに会えるんですか?」

「皆さん、沓水さんのことは良く知っているんじゃないですか? あの人、ファンの女性とは会いたがらな――」

「いるなら、何が何でも、会わせて下さい! 必要なら、お金は幾らでも払いますから、言い値で!」イエリンは、誘拐犯に対するような交渉の仕方をした。

 興梠君は、すっと真顔になった。

「もし、皆さんが協力してくれるのであれば、沓水さんも会ってくれないことはない、かもしれません」

「何をすればいいんですか? 境内の掃除とかですか?」イエリンは、食い気味だった。

私だって、沓水さんに会えるなら、何でもする。でも、この世界に来たからには、それなりの理由があるはずだ。境内の掃除で済むはずがない。

「IKUIの征伐です」興梠君が、厳かに口にした。

予感は当たった。

「え? でも、IKUIって、魔物だし、私たちが戦って勝てる相手では……」

身を乗り出していたアンゲだったが、達成が非現実的なお題の前で、怯んだようだ。ガチで褒章が欲しい時には、目標達成の現実味に拘る必要がある。

「もちろん、皆さんだけで、IKUIを征伐して欲しいとは言いません。沓水さんが、勝てるように、沓水さんをパワーアップさせ、IKUIの力を弱めて欲しいのです」

 私たちは、顔を見合わせた。何をすればいいか分からないけど、何とかなるかもしれない。

「やります!」私たちは、一斉に答えた。

「流石です。あなた方は、特に熱心な推し活者のようでしたので。私の目に狂いはなかった」

「私たちの活動を知っていたんですか?」

 私は、ハッとした。最初に秋田に来た時のランナーは、もしかして――。

「ええ。五月十八日に秋田にいらした時から、チェックしていました。その時も、その作務衣を着ていましたよね?」

 やっぱり、興梠君だったんだ。

「私、興梠君を見たかもしれない……。寺の途中の道を走っていた」

「気づかれそうになって、ちょっと焦りました」興梠君は、頷いた。

「嘘!? ちょっと、色! 何で言わなかったのよ?」

「だって、まさか、本物だとは思わないじゃん」

 私の胸には、心配なことが渦巻いた。私たちの活動をチェックしていたということは、興梠君はもしかして、私の小説を知っている? あの結腸開発の……。二十㎝を越えるペニスを、沓水さんの尻穴から突っ込ませたやつとかも……?

 私は、生まれて初めて、クラスの女の子をおかずにして、翌日その子とばったり会った男子高生の気持ちが分かったような気がした。気まずい。後ろめたい。でも、この経験も、物書きとしては、美味しいかもしれない。いつか何かの創作活動に活きるかも……?

 興梠君の顔がまともに見られなくなった。せっかく可愛い顔が目の前にあるから、じっくり観察したいのは山々だけど。

 その時、梵鐘が鳴った。

 興梠君は、やや慌てた表情を浮かべた。

「ゆっくりお喋りしている時間はありません。もうすぐ、イベントが始まります。皆さんには、イベントに参加し、特典をゲットして頂きます。特典をコンプリートできれば、沓水さんをパワーアップさせることができます」

 想像していなかった展開に、やや面喰った。

 イベントとか特典とかって、オタクにとっては、馴染みのある言葉だ。だけど、そんなことで沓水さんをパワーアップさせることができるの?

「特典って、何が貰えるんですか?」

「写経用紙です。三つのイベントがあって、三枚共、違う文字が書かれています。三枚揃うと、パワーアップの呪文が浮かび上がります」

 そういうことか。『沓水さん』の世界と、オタクの世界が、絶妙に交わっている。

「早速、行きましょう」

 着いていくと、興梠君は、本殿の前に来た。鰐口を鳴らし、二礼二拍手一礼する。私たちも慌てて、二礼二拍手一礼を倣い、目を開くと、本殿の扉が開いていた。

 興梠君は、中に入って行く。

「入っていいんですか?」

私は、マナー的なことを気にして訊いたのだが、興梠君は、呆れたような声を出した。

「沓水さんは、不在です」

 私が、この中に、沓水さんがいると期待している、と思ったようだ。そんなこと思っていないのに。まるで、私たちが、沓水さんを取って食おうとしているような扱いではないか。あんまりだ。反論し掛けたが、目の前の光景に驚いて、それどころではなくなった。

 掛け軸に、『お題その一 ワンドロ』と書かれていた。

 ワンドロって、あのワンドロ? Twitterでよく開催されている、一時間(ワンアワー)で描く絵(ドローイング)のこと?

「なるほど……。この担当は、アンゲさんですかね?」

 今の興梠君の言葉で、二つのことが分かった。一つ目は、興梠君も何がお題かを知らない。二つ目は、興梠君は私たちの得意分野を把握している。

「絵を仕上げれば、特典をゲットできるってことですか?」アンゲが訊いた。

「いえ、単に仕上げるだけなら、誰にでもできます。投稿してから一時間で、最も多くの‶いいね!〟を貰う必要があります」

「誰からですか?」

「そんなの決まっているでしょう。Twitterの閲覧者たちからです」

「現実とリンクしているってことですか?」私は、思わず口を挟んだ。

「そうです」興梠君は、当然のように頷いた。

「でも、Twitterには、私より人気のある絵師は沢山――」アンゲが不安げな声を出した。

 確かに、Twitterには、プロやセミプロがゴロゴロしている。でも、絵の上手さで言えば、アンゲも負けていない。

ただ、一つ懸念は、アンゲの作品は、絵の上手さの割に、‶いいね!〟が少ない。少ないと言っても、アップすれば、毎回数千件の‶いいね!〟は着くけど。より多くの‶いいね!〟を獲得する絵師は何人かいる。アンゲ本人も、それを気にしているようだった。

アンゲは、もっと多くの‶いいね!〟を貰ってもいいと、私は思っている。思うように伸びない背景は、多分、作品の意外性があまりないからかもしれない。書き手の性格と似て、作品も真っすぐだ。一方、多くの‶いいね!〟を獲得している作品は、捻りがある。

だけど、アンゲが無理して、読み手に受ける作品を作るのも、どうだろう? 描き手の持ち味が消えてしまうかもしれない。

「特典は、コンプリートしなければ意味がありません。各イベントで、特典をゲットできなければ、イベントへの参加は、終了です。それは、沓水さんをパワーアップさせられないことを意味します」

 興梠君は、口調にSっ気を覗かせた。そう言えば、いつも、沓水さんに対して、こんな感じで叱咤激励している。

 私は、念のために訊いた。

「もし、沓水さんをパワーアップさせられないと、どうなるんですか?」

「丸腰のまま、IKUIと戦うことになります」

 私たち三人は、蛙が潰れたような声を出した。沓水さんに、そんなことをさせられない。

「私――、頑張る!」アンゲが、見たこともないほど思い詰めた顔をした。

「では、入って下さい、と言いたいところですが、心配なので、一つ、トレーニングを受けてもらいましょう」

「このタイミングで?」肩透かしを食らった気分になった。

「このミッションでは、自分の気持ちをコントロールする力が求められます。それができないと、主催者側にいいように釣られます」

「流石に、私たちだって、そんなバカじゃ――」

「例えば、こういうものがあったとします」

興梠君が一枚の紙を取り出した。

そこには、なんと、水墨画で沓水さんが描かれていた。水墨画の持つ儚さが、沓水さんの雰囲気にマッチしていて、一目で吸い込まれた。しかも、どことなく、愁いを帯びていて、エロい。

私は、知らず知らずのうちに、口を開けた状態で、絵のほうに身を乗り出していた。腕を伸ばして掴もうとする――。

「いくらで売ってもらえますか?」三人の声が揃った。

 ハッと我に返ると、アンゲとイエリンも、同じ格好をしていた。

「三人とも、失格です」興梠君は、呆れたような声を出した。

「いくら何でも、チョロ過ぎですよ。全く、自分の気持ちをコントロールできていないじゃないですか」

 恥ずかしくて、情けなくて、穴があったら入りたい。

「今のは、対象が悪いよ。他のことだったら、コントロールできる」

「残念ながら、主催者側は、参加者のウィークポイントを良く知っていて、そこを狙われます」

「邪悪な奴らだ……」

「どんなに魅力的な提案をされても、ミッションをコンプリートすることを優先してください」

 私たちは、叱られた子供のように、声を揃えて「はい」と返事した。

「それでは、アンゲさん、準備はいいですか? 入ったらすぐに始まります」

 興梠君が、掛け軸の奥の襖に手を掛けた。

 アンゲが、力強く頷くと、襖が開いた。



 襖の中には、アンゲだけが入った。私とイエリンと興梠君は、外でお留守番。

全く中が見えないわけではなく、小さな覗き窓から覗ける。

アンゲは、用意されていた机のところへ行き、座った。下は畳で、机も日本式だ。机の上には、絵の具など、沢山の絵の道具が置かれている。道具に不自由はなさそうだ。

 アンゲは、机の上に置いてあった白い紙を裏返した。恐らく、お題が書かれているのだろう。それを見た瞬間、悩む顔をした。

 ワンドロは、与えられたお題との相性も重要だ。ワンドロと似た、ワンライ、つまり、ワンアワーライティングという企画もあって、私は時々それに参加している。でも、苦手な分野(=得意なエロが活かせない系)が来ると、どうにも、筆が乗らない。

 お題の紙には、何と書かれていたんだろう?

 横から、イエリンと興梠君の声がした。

「私たちから、アンゲに声を掛けられるの?」

「それは止めたほうがいいです。ただでさえ一時間という短い時間なので、外野が口を出すより、描き手に集中させたほうがいいです」

「なるほど。それも、そうだね」

 見る側は、楽しむだけでいいけど、よく考えると、ワンドロって凄い。あのクオリティの絵を一時間で仕上げるのだから。

 アンゲの絵は、色が着くと、更に素敵になる。完成した絵を見るのが、楽しみだ。

 ふと横を見ると、興梠君が、覗き窓から覗いていた。

この間だけ、私は興梠君の横顔を観察できる。普段は、沓水さんの隣にいるので、どうしても霞んでしまうけど、興梠君も、とても端正な顔立ちをしている。こんなイケメンなら、沓水さんをめちゃくちゃにしても、許せる。私は、今後、左は興梠君で固定になるかも。

 こんなイケメンを目の前にしたら、普通の女子なら、自分との妄想をするのかもしれない。だけど、私は、ミクロもそんなことは考えない。腐女子の腐女子たる所以だ。

 うっかり、思考がトリップしていた時、興梠君と目が合った。

 興梠君は、眉を歪めた。私の考えていたことを見透かされたのかもしれない。

「いや、違うの、別に私は――」慌てて言い訳しようとしたけど、何を言えばいいんだろう?

 興梠君に、不審な顔をされた。

「あの、興梠君って、私たちのことを、どこまで知っているの? Twitterも見れるの?」

「我々からは、Twitterは、プロフィール情報しか見れません」

 ホッとした。あの小説は見ていないようだ。

 プロフィール情報って何を書いていたっけ? 『沓水さんに狂っている、腐女子でオタクで二次創作(小説)者』だったかな。それくらいなら、まあ、いいか……。

イエリンが声上げた。

「今、ちらっと、お題が見えたよ」

「何だったの?」

「‶裏切り〟って見えた」

 アンゲからは一番遠い言葉。相性悪そう……。

 案の定、アンゲは、下書きをしながら、頭を抱えていた。そうしている間にも、時間は過ぎてゆく。

 私だったら、恋人がいるにも関わらず、別の人と寝る、みたいな展開をいくらでも考えられる。でも、アンゲには、そういうレパートリーはないはずだ。

 アンゲは、机の上にある、もう一枚の紙に気づき、それを見た。

その瞬間、顔色が大きく変わった。まじまじと紙を見ている。

何て書いてあるのだろう? 私からは、見えない。候補がもう一つあるとかだったら、いいのだけど。

 アンゲの表情に、逡巡の色が混ざって来た。やっぱり、候補がもう一つあって、迷っているのかな?

 アンゲは、もう一度、紙を見詰めた。

 その後、紙を裏っ返して置き、何かを描きはじめた。

 私もイエリンも、覗き窓を食い入るように見た。

 アンゲの筆は、スラスラ進んでいる。

 いつものアンゲのタッチが見えてきた。縁側らしきところで、猫と戯れる沓水さんが描かれているように見える。猫は、首輪に見覚えがあるので、深白寺で飼っている地域猫だろう。お腹を出して、沓水さんに撫でられている。これは、相当に気を許している証拠だ。この猫が一番気を許している人間は、沓水さんだけど、アニメでも映画でも、ここまでの描写はなかった。

‶裏切り〟という言葉とは、凡そ結び着かない。

 三十分が経った頃には、ほぼ線が完成されていた。

「何か、‶裏切り〟っぽさが見えないよね」イエリンも同じことを思ったらしい。

とは言っても、まだ吹き出しに文字は書かれていない。あの爽やかな絵で、実は恐ろしい展開になる可能性もある。そしたら、ギャップがあって、いいかも。

 心配性の私は、気になったことを興梠君に質問した。

「もしも、万万が一、沓水さんが負けたら、どうなるの?」こんなことを口にするのは嫌だったけど、ワースト・シナリオは知っておいたほうがいい。主人公が死ぬパターンの世界線になるのだろうか?

「沓水さんが死んだら、物語も消え、全てなかったことになります」

「嘘っ!? でも、そしたら――」

「『沓水さん』が存在しなかった場合の人生を歩むことになります」

 アンゲやイエリンとは、『沓水さん』を通して、出会った。三人で推し活をした記憶も消えてしまうの――? 

私とイエリンは、顔を見合わせた。同じことを思っている。

 オタクで腐女子という同族だから、もしかしたら、『沓水さん』がなくても、どこかで二人には出会っていたかもしれない。でも、『沓水さん』がなかったら、まったく同じ日々ではなかったと思う。

日本・韓国・中国と言う違う国で生まれ育ったのに、『沓水さん』を通して、こんなに親しくなった。推しに対する想いに、国境なんて存在しない。こんなに尊い縁は、そうそうないだろう。

 それに、聖地の活性化や、声優さんのブレイクなど、『沓水さん』が多くのファンに愛されたからこそ、生まれたポジティブな変化も、消えてしまうなんて、あんまりだ。

 私だって、『沓水さん』の二次創作を通して、多くの人に自分の作品を人に喜んでもらえる幸せを味わった。

『沓水さん』という媒体を介して人と人が出会い、世の中に変化を齎せた。

『沓水さん』のファンの多くは、若い女性で、オタクで、腐女子という、社会的には強くない属性だ。0.2144くらいの割合かもしれないけど、推し活をする人間のエネルギーは尋常じゃない。推しのためなら、多くのものを差し出せる。

熱狂的な声が、現実を作った。その陽のエネルギーを、消滅させたくない。

「代わりに、IKUIが主人公のサイコ・ホラーができるでしょう。沓水さんは、もしかしたら、やられ役として出て来るかもしれません」

 観たくない。一秒たりとも、観たくない。

「サイコ・ホラーの作品は、他にも多く存在しますし、スリルを味わうために観る分には問題ありません。ですが、IKUIは、愛を拗らせた人を取り込む力に長けています。そういう人を操り、現実に負のエネルギーを生むとも限りません」

 ゾッとした。これ以上、ヘイターたちを活発化させるわけにはいかない。IKUIを野放しにすれば、インターネットの未来を危険に晒す。

「絶対に、沓水さんを勝たせよう」イエリンと、頷き合った。

 興梠君は、ポケットから、双眼鏡を取り出した。

「持っているんなら、早く言ってよ」

「僕が、普段から双眼鏡を持ち歩いていることは、皆さんご存知でしょう?」興梠君は、しれっと言った。

 そうだ。興梠君の趣味は、バードウォッチングだった。オタクとしたことが、基本を忘れるなんて、恥ずかしい。

「まずい……」双眼鏡を見ながら発せられた声は、シリアスさを帯びていた。

「何? あまり‶いいね!〟を貰えなさそう?」

「僕たちは、アンゲさんに裏切られます」

「意味が分からないんだけど? ‶裏切り〟は、お題でしょ?」

「時々、ジョーカーが入っているんですよ。一つだけ願いを叶えるから、ワンドロのお題と違うものを描け、っていうカードが」

「え!?」私とイエリンは、完全に声が被った。

 私は、ハッとした。

アンゲは、沓水さんの生誕祭には、並々ならぬ意欲を注いでいて、「一瞬でもいいから、沓水さんに参加して欲しい」と言っていた。この願いを叶えてもらえるなら、理性を保つのはかなり難しいだろう。オタクの心が、完全に読まれている。

「だって、アンゲさんが今書いている漫画、どう見ても‶裏切り〟ではないですもん」

 双眼鏡を借りて見る。裸眼で見た時の認識通り、ほのぼのとした絵だ。縁側で、夏の柔らかな光に包まれる、沓水さんと猫。双方とも、幸せそうな表情をしている。

‶裏切り〟という題のワンドロには、投稿はできない。

「アンゲは、沓水さんと会うために、私たちを裏切ったの?」

 心がギュッとなった。アンゲと過ごした、数か月間の推し活の日々がフラッシュバックして来た。

 私は、アンゲが、どれくらい沓水さんのことを好きか、よく知っている。

 もしも、沓水さんに会わせてもらえるなら、私もジョーカーを選んでしまうかもしれない。所詮、私たちは女。同担歓迎なんて言っていても、好きな男と天秤に掛けたら、好きな男を選ぶのが健全だ。

 でも、胸には、鈍い痛みが走る。

 アンゲは、私たちとの誓いを忘れてしまったのだろうか――?

 残り、十分。アンゲは、集中して絵を描いている。

「アンゲの奴、沓水さんに会えるからって――」イエリンの声に悔しさが滲んだ。でも、それだけじゃない。寂しさも滲んでいる。

「特典コンプリートどころか、一つもゲットできずか……」

 特典をコンプリートできなければ、沓水さんは、丸腰のままIKUIと戦うことになる。アンゲだって分かっているのに、それでも目の前の誘惑には勝てなかったのか。

 こっちから中は覗けても、中から外は見えないようだ。アンゲを冷静にさせることはできない。

 五分前。アンゲは、作った絵を少し持ち上げてチェックしていた。少し浮いたことで、私からも、良く見えるようになった。絵は出来上がっていて、あと、吹き出しを入れたら、完成になる。

やっぱり、綺麗な絵だ。アンゲの絵だ。

今以外のタイミングでこの絵を見たら、私は感動しただろう。‶いいね〟の数とか、特典ゲットとか、そんなの考えなくていい状況で、この絵を見たかった。

アンゲは、今、何を考えているのだろう――?

心の中で、かつてアンゲが、私に言ってくれた言葉が響いた。


 いつも、読んでくれる人の顔を思い浮かべて、チェックするんだ。色ちゃんの顔は、真っ先に浮かぶよ。


 その時、アンゲの顔色が変わった。表情に、焦りのようなものが浮かぶ。

 突然、黒い絵具を手に取り、筆に着けた。

この絵に黒を足すのは、合わないだろう。

「どうしたんだろう?」

 もう、残り時間五分を切っている。作品を完成させないと、何も得られなくなる。

 アンゲは、時計を見た。時間がないことに気づいたようだ。

 筆を足そうか、迷っているようだ。

 もしかしたら、やっぱり、‶裏切り〟を描こうと思っている?

「アンゲさん、もしかして……。でも、今から、テーマ変更は、無茶ですよ」

 アンゲは、必死に何かを考えている。

 もうすぐ、残り時間三分になる。アンゲの手は、黒い絵の具を着けた筆を持ったまま、動かない。

 緊迫した時間が過ぎた。時々、私か、イエリンか、興梠君が、唾を飲み込む音だけが聴こえた。

 残り二分になった時、アンゲの手が動いた。黒い絵の具を着けた筆を置き、代わりに、白い筆を取った。何か書き始めた。沓水さんの手に、紙を握らせたようだ。そこに、文字を書き始めた。

 興梠君が、双眼鏡で見る。

「IKUI討伐に関する協力依頼」今、アンゲが書いた文字を読み上げた。

 アンゲは、筆を置き、今度はペンを手に取った。吹き出しに文字を書く。

 興梠君は、その文字も読み上げた。

「幸せを祈っている」

 私は、ハッとした。アンゲの絵の中で、沓水さんは、危険な場所に向かおうとしている。

つまり、沓水さんは、いなくなってしまうかもしれない。

 猫がお腹を見せることなんて、滅多にない。よっぽど、その人を信頼しているサインだ。それなのに、もう二度と、沓水さんに会えないかもしれない。私が猫なら、こんなに無防備に甘えた後に、置いて行かれたら、許せないだろう。

 ほのぼのした印象だった柔らかい絵は、この一言で大きく印象を変えた。切なく、物哀しい絵に見えるようになった。

 セリフ一つで、こんなにも印象が左右されることは、衝撃だった。私も、創作者として、重要なことを学んだ気がする。

 アンゲは、提出ボックスに、絵を置いた。

「アンゲさん、よく分かっていますね。沓水さんの周りの人……猫の気持ちを」興梠君が、呟いた。

「アンゲは、人一倍、感受性が豊かなんだよ」だから、あんなに美しい絵が描ける。

「評価の時間はどれくらい?」

「すぐに出ます。運営側がTwitterにアップして、現実の時間軸で一時間分の評価が集計されますが、こっちは、その一時間を早送りできます」

 私とイエリンは、両手を合わせ、祈った。

 どうか、多くの‶いいね〟が貰えますように――。

 アンゲの部屋の襖が開き、掛け軸が出て来た。‶結果発表〟と書かれている。

 私もイエリンも興梠君も、身を乗り出して、小窓を覗いた。

 アンゲが、掛け軸を捲った。


 一位 アンゲ 八百三十二いいね!

 二位 美漫 五百八十三いいね!


 私は、息を呑んだ。

二位は有名な絵師だ。この人は、だいたい、いつも、一番多くの‶いいね〟を貰う。

でも、アンゲは、その人を、約二百五十も上回っている。一時間で、八百台は、快挙と言っていいだろう。

「凄い! アンゲ! ダントツだ!」

 アンゲは涙を拭っていた。

 また、掛け軸が捲られ、出口と写経用紙の引き渡し場の説明が書かれていた。

 アンゲは、特典をゲットした。 



「危なかったですが、とりあえず、最初の特典は、ゲットできたようですね」

「アンゲは?」

「イベントを終えた人は、イベントが全て終わるまで、別の場所で待機です」

 アンゲを労いたかったけど、まずは目標達成が先のようだ。

「さあ、次のイベントに向かいましょう」

 襖が開き、また掛け軸が用意されていた。

『お題その二 お面舞踏会』と書かれている。

 これには、私たちも、頭の中に?マークが浮かんだ。

「そう来たか……」興梠君だけが、ブツブツ言っていた。

「これって、何するの?」

「文字のままです。お面を着けて、舞踏会に出ます。仮面舞踏会のお面版だと思って下さい」

 私は、頭の中に、イタリアの中世貴族が踊っているシーンを思い浮かべた。あんな洒落たことをするのか? オタクの世界とはかけ離れている。

 だけど、興梠君の次の言葉で、想像していたものと違うことを知った。

「お面は、皆さん、持っていますよね?」

 確かに、鞄には、お面が入っているけど……。

「私たちが持っているお面って、沓水さんの顔をネットプリントして、切り抜いて作ったお面だけど?」

「それですよ。お面と言ったら、それしかないでしょう」

「マジで? それ着けて踊るの?」

「色之丞さんとイエリンさんは、どっちが体力ありますか?」

 私とイエリンは、目を見合わせた。

「競ったことは、ないけど……」

「では、ダンスが得意なのは、どっちですか?」

「私、ダンスって、学校の授業以外で踊ったことないや」

「私は一応、子供の頃、習ってた」イエリンは、流石にお嬢様だ。

「では、イエリンさんで行きましょう。お面を着けて下さい」

「でも、踊るのなんて、大学生の時以来だよ。踊れるかな……」

「ステップは簡単です。但し、次から次へと現れるお面を被った相手の中から、沓水さんを見つけなければなりません」

「え!? 沓水さんと踊れるってこと?」

「それは、イエリンさん次第です。ルールはこうです。舞踏会が始まると、次から次へと、お面を被った相手が出て来ます。その中から、沓水さんだと思った人に、何か、イエリンさんが大切にしているものを渡して下さい」

「そんなの、簡単だよ。推しくらい余裕で見分けられる」

「本当にそうでしょうか? 顔はお面で隠れてますし、喋ってはいけないというルールなので、声を聴くこともできませんよ」

 イエリンの顔に、やや戸惑いの色が浮かんだ。

「でも、スタイルとか、雰囲気とかで、分かるでしょ」

「スタイルは、似た人が集められています。それに、イエリンさんは、沓水さんに会ったことがないので、例えば、匂いなどの情報からも判断できない。その上、次から次へと相手が入れ替わるので、瞬時に判断しなければなりません。もし、本人を見逃せば、違う相手とずっと踊り続けることになります」

 イエリンの顔が蒼くなった。

「どうすれば……もう、勘しかないじゃん。でも、ここで私が失敗すれば、特典コンプリートはできないんでしょ?」

「そうなります」

 イエリンは、明らかに動揺している。もしも、ここで失敗すれば、アンゲの頑張りも無駄になってしまう。プレッシャーを感じているのだろう。

 私にとっても、他人事ではない。次は、私だ。しかも、イエリンが特典をゲットできれば、尚更失敗できなくなる。

 でも、私たちは、沓水さんのためなら、何でもすると誓い合った。

 私は、自分に言い聞かせるように、イエリンに言った。

「イエリンなら、大丈夫だよ。何回も、『沓水さん』を観てるんだもん。細かい情報で、本人を見分けられるよ」

「そうだよね……。私、だてに三十五回以上も観てないし」

 イエリンは、鞄から、お面を取り出した。

「それと、もし、見事、沓水さんを当てられたとしても、ダンスの時以外は、接触禁止、必要な会話以外禁止、お面を取ることも禁止、です。これらを破った場合は、特典はゲットできなくなります。まあ、その前に、警備員が止めるでしょうけど」

「えー! 何それ? モチベーションが下がる~」

「もう始まりますよ。準備はいいですか?」

 私は、イエリンの足元に気を留めた。五㎝くらいのヒールを履いている。イエリンはいつもヒールで、今日は寧ろ低いくらいだけど、ヒールで踊るのはキツイだろう。

 だけど、代わりの靴がない。私のスニーカーと代わってあげたいけど、私は身長の割に足のサイズが小さいので、入らないだろう。

「その靴で大丈夫? 代わりはないのかな?」

「生憎、女性用の靴の代わりはありません。僕の靴で良ければ貸すことはできますが、慣れない靴のほうが、足に合わない可能性もありますし……」

「大丈夫! 私、普段からヒールで歩き回っているから」

イエリンは、頼もしく答え、お面を着けた。

 興梠君が、掛け軸の奥の襖に手を掛けた。

「では、扉を開けますね」

「おう!」イエリンは、煽り姫らしい、強気な声を出した。

 襖は開かれ、イエリンは、向こう側へ立ち向かって行った。

 イエリンも、本当は怖いのだろう。肩が少し震えているのが見えた。だけど、自分を鼓舞することで、打ち勝とうとしている。流石、私たちの応援団長だ。

 誰かの勇気は、他の人にも伝染する。私も、負けていられない。

 覗き窓を覗くと、今度はダンスホールが見えた。

 大勢の人間が、沓水さんのお面を被り、作務衣を着ている。作務衣から覗く筋肉で多少は選別できるかもしれないけど、それくらいしか情報がなさそうだ。

 イエリンは、画面に映し出されたステップのレクチャーを見ている。

 間もなく、場内アナウンスがあり、参加者たちは所定の位置に着いた。音楽が始まり、イエリンも踊り始める。曲は、映画『沓水さん』のサントラだった。ステップは、難しいものではなさそうだ。

 沓水さんのお面を被った人と、沓水さんのお面を被った人が踊っているのは、何だか奇妙な感じだ。まあ、実際は、本人ではないのだけど。あ、でも、一人、本人が混じっているのか。

沓水さんと踊れるかもしれないってこと? 手を取り合う場面もある。いいな。イエリン。

「今、自分が、出れば良かったって思いましたね?」

 興梠君に図星を指され、私は思わず飛び上がりそうになった。何と返していいか分からず、口をパクパクさせる。

「色之丞さんは、案外、分かりやすいですよね。皆さん、本当に沓水さんが好きなんだなと、よく分かります」

 興梠君は、やや冷めた目をしていた。興梠君は、私たちみたいな女が苦手なのかもしれない。私たちっていうのは、つまり、オタクだ。創作物は読んでいなくても、私がどんなことを書いているかは、ある程度想像できているのかもしれない。

内心では、キモイとか思われているのかな?

 オタク活動をやっていると、時々、我に返る時がある。人から、どういう目で見られているか、冷静に考える時だ。

最近は、オタクもだいぶ市民権を得られるようになってきたけど、今だに、世間には偏見がある。私たちは、光を浴びる人間ではない。影に生息する人間なのだ。

「でも、このイベントはかなり大変です」興梠君のイケボが聴こえた。

 隣にいるイケメンは、光を浴びて生きる人間。私たちとは、住む世界が違う。

 その後、長い間、イエリンの踊る様子を見ていた。長い間と言っても、十数分くらいだろう。だけど、ただひたすらに単調な踊りが繰り返されるだけなので、やたらと長く感じた。踊っているほうは、更に長く感じていることだろう。

 イエリンを観察していると、相手の顔のほうに耳を寄せているように見えた。不意に漏れる声でも拾おうとしているのだろうか?

 興梠君の言葉の意味は、二十分を経過した頃に分かった。

 踊り続けるのは、相当にハードそうだ。イエリンの身体から、疲労の色が見える。

 小窓から覗く限り、誰も彼も沓水さんに見える。イエリンは、どうやって違うと判断しているのだろうか?

 三十分を過ぎた頃には、イエリンの足元は、ふらついて来た。無理もない。いくらイエリンが元気だからと言って、普段、三十分もぶっ通しで踊り続ける機会なんてない。ましてや、私たちは、オタクだ。映画を観たり、Twitterを徘徊したりしている身に、こんなリア充みたいなイベントは荷が重い。

 それでも、イエリンは、踊り続けた。見ているだけで、苦しくなる。

 四十分を過ぎた頃には、私は声を出して応援していた。イエリンには、届かないと分かっているけど。

「イエリン、頑張れ! もう少しだ! 沓水さんも見てるよ!」

「イエリンさんには聴こえませんよ?」興梠君は、不思議な顔をした。

「分かっている。でも、友達があんなふらふらになってまで頑張って踊っているんだから、せめて応援くらいはしたい」

 興梠君は、驚いた顔をした。

イエリンに、勝算はあるのだろうか? それとも、判断力を失って、ただ踊り続けているだけ? 

その後、五分くらい経った時、イエリンが、よろけた。もう、足が限界なのかもしれない。

それでも、イエリンは、立ち上がった。

 私は、視界が滲むのを感じた。

「イエリン! 流石だ! 誇りに思う!」

「イエリンさん、頑張れ!」隣から、男性の叫び声が聴こえた。

 驚いて興梠君を見ると、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。

 その相手とのダンスが終わり、次の次の人になった時、私はイエリンの様子に違いを感じた。

 あれ?

 身体にキレが戻ったような気がする。しかも、密着度が高いようにも思う。それに、今まで以上に、相手の口の位置に、耳を近づけているように見える。

 私は、ピンと来た。

 イエリンは、相手の息遣いを確認しているんだ!

 イエリンは、映画『沓水さん』を三十五回以上も観て、瞬きの数や息遣いまでチェックしていた。もしかしたら、息遣いで、沓水さんを特定できるのかもしれない。

 沓水さんは、呼吸法を身に着けているので、滅多に呼吸を乱さない。でも、流石に、緊迫した場面では、呼吸が荒くなってくる時がある。

 いくら沓水さんと言えど、こんなに長時間踊っていれば、呼吸くらいには変化が出るだろう。

今、だいたい五十分。映画のシーンで言うと、有名YouTuberのふわわが桃華に拉致されそうになり、沓水さんが必死で追いかけるシーンだ。沓水さんの呼吸は、荒くなっていた。

 その時、イエリンが、ポケットから何かを取り出した。『沓水一成』と名前の入ったペンライトだ。

 今踊った相手に差し出す。

 私は、息を呑んだ。隣からも、同じ音が聴こえた。

 相手は、受け取った。

「よく分かりましたね、お嬢さん」

聴き覚えのある声が聴こえた。何度も耳にした。低音で、柔らかい声。声からすら、アンニュイな色気が漂う――。

背中が、ぞわっとした。

 沓水さんの声だ。

「あああ! 沓水さん!」イエリンは、今までの疲れが演技だったかのように、興奮状態で、目の前の男性に手を延ばそうとした。

 だが、白いお面を被った警備員らしき人に、止められた。イエリンが暴れるので、二人掛かりで、抑えられた。

「ダンスの時以外、接触禁止です。必要な会話以外も禁止です」

「じゃあ、せめて、お面を取って顔を見せて下さい」

「それも、禁止です」

 会場に、放送が流れた。

「これにて、お面舞踏会を終了します。またのご来場をお待ちしています」

 別の警備員が、沓水さんを反対側の出口に誘導した。

「せっかく本物の沓水さんが目の前にいるのに~! あんたたち、末代まで呪ってやる!」

イエリンの悔しそうな声が響く。低い声が更に擦れ、悲壮感が漂う。

「イエリンさん……。ちゃんとルールを教えたのに。もし、ルールを破れば、特典は取り消されてしまうんですよ」興梠君は、唖然としていた。

 イエリンだって、ルールは覚えているはずだ。だけど、目の前に沓水さんがいるという事実が、冷静な思考を失わせている。

 推しが目の前にいるのに。その推しのために、力尽きるまで踊ったのに、顔を見ることすらできないなんて――。あんまりだ。私は、イエリンに同情して、涙が出そうになった。

沓水さんは、誘導に従い、反対側の出口のほうへ歩いて行った。

 イエリンの、無念が滲み出た声が聴こえた。

 その時、沓水さんが振り返り、イエリンを見た。

 イエリンが渡したペンライトをお面の口元まで持って行くと、キスする仕草をした。

 小窓から覗いていた私でさえ、心臓が止まるかと思った。

 イエリンも、言葉を失ったようだった。

 沓水さんは、再び、出口のほうを向き、警備員の誘導に従い、会場を後にした。

「まあ、確かに、推し活者から貰った物にキスをしてはダメ、とはルールに書かれていなかったですね」興梠君の声が聴こえた。

 私の目からは、ついに涙が溢れた。

「沓水さんの、そういうところですよ」

尊い。あまりにも、尊い。尊過ぎて、寧ろ、狡い。

「色之丞さんまで泣かなくても……」

 興梠君に、引かれたかもしれない。でも、仕方ないや。キモイと思われているかもしれないけど、自分が感じることを、誤魔化すことはできない。

「熱心な推し活者がいて、沓水さんも幸せですね」

 予想外の呟きが聴こえ、私は、一瞬理解が追い付かなかった。

 今の、本心?

 興梠君は、目を合わせてくれなかった。でも、私は知っている。興梠進は、思ってないことを口にできないタイプだ。

 イエリンは、白いお面を被ったスタッフらしき人から、写経用紙を渡されていた。

「二つ目の特典、ゲットですね。さあ、最終ラウンドです。お題を見ましょう」

 私は、力強く頷いた。二人が繋いでくれたバトンを、絶対に無駄にはしない。



掛け軸には、『お題その三 ○○しないと出られない部屋』と書かれていた。

「何これ!?」

‶〇〇しないと出られない部屋〟というのは、Twitter界隈の、創作の設定の一つとして、割と頻繁に出て来る。一番有名なのは、‶セックスしないと出られない部屋〟だ。誰かと二人きりになり、その相手とセックスしない限り部屋を出られない。その相手が、嫌いな人だったり、実は憎からず思っているけど、それを出せない相手だったり……まあ、相手次第で色々な妄想が膨らむ。

 でも、それは、あくまで創作活動としてだ。自分にそれが来たら、困る。めちゃくちゃ困る。私は、わけのわからない男と、いきなりセックスができるほど、奔放ではない。

 だけど、それより更に困るのは、相手が沓水さんだった場合だ。私は、作家としては、興梠君や小牧原といった‶攻めの男性〟を使って沓水さんをめちゃくちゃにしているけど、自分なんかが沓水さんと、そういう真似をするのは許せないタチだ。

 沓水さんとセックスするくらいなら、切腹する。あんな神聖な方と、私なんかが交わってはいけない。許されざる背徳行為だ。キャラ同士の絡みは妄想するけど、私は、沓水さんを邪な目で見ていない。

これは、命にかかわる性癖だ。私は、受け付けられない設定――つまり、地雷が少ないタイプだけど、沓水さん×自分という組み合わせは、受け付けられない。

 それに、創作者としては、沓水さんの性的な方向性を知るのが怖いというのもある。普通にストレートで、女を抱くのに慣れているかもしれない。意外と、荒々しいかもしれない。結腸開発なんて、夢のまた夢かもしれない。事実を知ってしまうと、もう妄想小説が書けなくなってしまう。

 沓水さんとセックスするくらいなら、どこの馬の骨とも分からない男のほうが、まだマシだ。

だけど、ミッションをクリアしないと、特典は貰えない。どうしよう……。

「あの、何かをお考えのようですが、残念ながら、〇〇が何であれ、相手が沓水さんであることはないです」

「え!?」不意を突かれて、大きなリアクションを取ってしまった。

「推しが直接相手になることはないんです。イエリンさんのケースのように、大勢の中から見つけるくらいはあっても」

 それは良かった。でも、‶残念ながら〟という言葉が引っ掛かった。

 興梠君は、少し言い難そうな顔をした。

「だって、ほら、それじゃあ、ご褒美になってしまうじゃないですか。推しと、そういう展開を迎えるなんて……」

 興梠君は、大いなる誤解をしている。多分、私が沓水さんと、‶セックスしないと出られない部屋〟に入れるかもしれないと妄想して喜んでいた、と思っている。

「いや、めちゃくちゃ、誤解しているよ! 私、全然、そうしたいと思っていなくて! 寧ろ逆で!」

 興梠君は、私のことを色狂いとか、痴女だと思っているのかもしれない。あんな小説書いているから、そう思われても仕方ないけど、私、これでも、かなり分別を持っているのに。心の中を見せられないのが、悲しい。

「もう一枚、掛け軸が出て来ました」

 興梠君の声で、我に返った。

『お題その三 ライバルを一人蹴落とさないと出られない部屋』と書かれていた。

 意表を突かれた。

 セックスが来ても困ったけど、この設定も同じくらい困る。

「ライバルって、沓水さん推しのこと? 蹴落とすって、どうやって?」

「界隈から、追放するんです」

「でも、推し活は、本人の意思でやっているんだから、第三者が追放しようとして、できるものではないでしょ?」

「簡単です。沓水さんから嫌われるように仕向ければいいんです」

 そうだ。私たちのアキレス腱は、沓水さん。もしも、沓水さんに嫌われたら、失意のうちに、推し活から引退する。

「沓水さんが苦手なモノは知っていますね?」

ハッとした。沓水さんは、ヒステリックに怒っている女性が、この世で一番苦手だ。

「この場合、蹴落とす相手は決められています。誰でしょうね。間違いなく、強火のファンだと思いますが。相手は、部屋に入った後に分かります」

 嫌だ。私、相手が誰であれ、同担を蹴落としたくなんてない。このミッション、やりたくない。

 だけど、ミッションを遂行して、特典をゲットしなければ、沓水さんはパワーアップできない。アンゲやイエリンの繋いでくれたバトンも無駄になる。二人共、自分の想いを抑えてまで、遂行してくれた。

 それなのに、私だけ、やりたくないとか言っている場合ではない。

 でも――。

「ここに、ルールが書いてあります。Twitterで捨て垢を作って、相手を煽る、だそうです」

〝捨て垢〟とは、〝捨てアカウント〟を指す。遠からず消すことを念頭に置き、自身の素性は明かさないようにして用いられるユーザーアカウントのことだ。

匿名で人を攻撃するなんて、ますますやりたくない。

「そのアカウントは、特別な力により、相手からは、ブロックできないようです」

 私は、この酷いミッションの穴が思い浮かんだ。

「でも、仮令、ライバルがヒステリーを起こしたとしても、沓水さんが、嫌っているという態度を取るかな?」

沓水さんは、感情をめったに表に出さない。

「それに、そのライバルが、沓水さんに嫌われたって知る必要があるんでしょ? どうやって? このミッション、不具合があるんじゃない? 他のミッションに代えてくれないかな?」私は、期待を込めて言った。

「推しに嫌われるであろうライバルの情報が入手出来たら、捨て垢にアップするだけでいいようです。推し、つまり、沓水さんが、それを見て、一瞬でも不快な印象を抱けば、センサーがそれを感知して、ライバルにその情報を届けます」

 ゾッとした。そんな情報が届いたら、ショック過ぎる。

「やりたくはないでしょうけど、アンゲさんやイエリンさんの課題と比べ、やろうと思えば、どうにかできるミッションです。さあ、色之丞さん、覚悟は決まりましたか?」

 興梠君は、襖に手を掛けた。

覚悟なんて、全くできていない。だけど、襖は空き、私は中に進んだ。

アンゲが使った部屋と似ている、畳の部屋だった。中央に、一枚の写真が落ちていた。拾って見ると、見覚えのあるキャットアイ。月猫だ。

蹴落とす相手は、月猫ってこと?

 無理だよ。だって、あの子も、本当に沓水さんのことが大好きで――。

 もし、沓水さんに嫌われなんてしたら、深い傷を負うだろう。

 でも、ミッションを遂行しないと――。

 私は、無理矢理自分を動かし、Twitterを開いた。月猫のページを見て、どうやって、ヒステリックに怒らせるか考える。

 月猫は、顔こそ隠しているけど、沓水さんグッズと一緒に撮った写真などをよく載せている。二次創作者ではないので、作品はない。ただ、いかに沓水さんが好きかを叫び続けている。まるで、沓水さんと付き合っているかのような妄想ツイートも多い。

『桜の木の下で、一成さまと着物デート♡私を見つめる一成さまの甘い目で、桜さえも恥ずかしがって、散ってしまった』とか、正直、ちょっと意味が分からない呟きも少なくない。

 でも、独りよがりだけど、他人に対するヘイト・ツイートはない。Twitterをやっていると、うっかり文句を言ったり、悪態をつきたくなる時があるけど、月猫は制御できるタイプのようだ。

 私は、月猫の顔を思い返した。月猫は、本当に可愛い顔をしている。小柄で華奢で、小動物のよう。ああいうタイプは、守ってあげたいと思う男性は多いだろう。

ファッションセンスと性格は直したほうがいいけど、沓水さんオタク以外の生き方もできたはずだ。もう少しシンプルなファッションに身を包み、生身の男性の前で小首でも傾げていれば、大抵は落とせると思う。

何で、推し活なんてしているんだろう?

 最近は、オタクも美人や可愛い子が多いことは、私も知っている。アンゲやイエリンもそれに当て嵌まる。

でも、特に月猫は、もっと他の生き方もあったのではないかと思ってしまう。

それでも、月猫は、ボコられるのを覚悟で、一成さまのためなら何でもする! と言い切る。

その不器用な純粋さを、愚かだと思った。でも、だからこそ、腹が立つようなことをされても、友達になりたいと思った――。

やりたくないミッションだからか、心がセンチメンタルのほうへ流れて行く。

私は、頭の中をリフレッシュするために、首を振った。ミッションに集中しないと。

捨て垢を作り、色之丞でも、本名の中西沙希でもない、〝WWSSM〟というハンドルネームにした。ミッションに魂を売った女(The woman who sold her soul to a mission)から来ている。今の私にぴったりだ。いい意味でも悪い意味でも。

私は、さっき見た、桜の木の下でどうたらこうたら、というツイートにコメントを着けた。

『こういう痛い妄想って恥ずかしくないんですか?』

 私も、時々、こういうコメントをもらう。嫌なら見なきゃいいじゃん、と思っているのに、自分が人に対して、このコメントをする日が来るとは。無視しても、本当は、結構傷つく。月猫だって、傷つくだろう。

 こういうやり取りを何回か続けて、じわじわとナイフで傷つけて行くと、相手は、どこかで爆発する。その部分だけ、スクリーンショットして、切り取って、沓水さんに見せれば、月猫がヒステリーを起こしたように見えるはずだ。

 返信コメントが来た。

『全然恥ずかしくありません。愛は、尊いものなので♡』

 月猫らしい回答に、思わず笑った。真正面から受け取って、堂々と返している。月猫は、めちゃくちゃ意思が強いのか? それとも、ただの天然なのか? いずれにしても、もう少し強めに攻撃する必要がありそうだ。

『月猫さんが恥ずかしくなくても、見ている側は、吐き気がします。Twitterの環境汚染です』

『そういうヘイトのほうが、よっぽど有害だと思うけど?』

 流石の月猫も、苛立って来ているようだ。私は、相手が苛立つパターンをよく知っている。なぜなら、自分がやられたことがあるから。

『私は、沓水さん界隈の人たちを代表して言っています。月猫さんという、排気ガスを見逃すわけには行きません』

 まるで、Twitter上の環境活動家だ。倫理観を盾に、人を攻撃する。私が最も嫌いなタイプ。でも、やるしかない。

もう一つ、爆弾を投下した。これは、きっと、月猫に致命傷を負わせるだろう。

『月猫さんは、いつも独りよがりなツイートばかりしているので、友達がいなさそうだと思いました。だから、周りの迷惑に気が着かないんですよね?』

 最低だ。自分で自分を殴りたい。

『どこの誰だか知らないけど、あなたに何が分かるのよ!! あなたみたいな最低な人間に、とやかく言われたくない! もう出て行ってよ! 消えてよ! 私の世界から。もしこれ以上私に構うなら、あなたの顔を思いっ切り引っ搔いてやる!』

 予想通り、月猫は、荒れた返事を寄越した。私は、それをスクリーンショットした。

 あとは、これをアップするだけでいい。

 でも、手が動かない。

 何をしている? 早くしないと。

 沓水さんの顔を思い浮かべて、沓水さんのためだと思って、実行しよう。

 私は、目を閉じた。


愛を失えば、苦しみしか残らない。


沓水さんのセリフが、頭の中で響いた。

そうだ。私は、沓水さんの仲間想いなところが好きだった。

仲間同士でワチャワチャやっているシーンは、見ているだけでほっこりした。その関係性が、羨ましかった。

やっと手に入れた仲間。それなのに、非のない相手を蹴落とすなんて――。

「ごめん、アンゲ、イエリン。私、やっぱり、同担を蹴落とすなんてできない」

 目から涙が零れた。アンゲやイエリンが、どんな想いで繋いでくれたバトンか。想像すると、心が苦しい。二人との友情は、これで終わってしまうかもしれない。

 でも、私は、捨て垢を消した。

 失格。と書かれた紙が降って来た。

 特典コンプリートならず。これで、沓水さんは、丸腰で戦うはめになった。巨大化したIKUIが脳裏を掠める。映画で見た以上に、沓水さんがボコボコにされる日がくるかもしれない。私の判断のせいで――。

 もう、会わせる顔がない。アンゲにも、イエリンにも、興梠君にも、沓水さんにも。


第五章 チケット戦争



 出口を出ると、寺の境内に戻った。

アンゲ、イエリン、興梠君が立っていた。

 三人と目が合う。乾いた目で見つめられ、居た堪れなかった。

「色! お前!」イエリンが私を目掛けて走って来た。

 殴られる――。

 でも、それは寧ろ、有難いシナリオだった。何も言われないよりも、何倍もマシ。それで罪滅ぼしになるとは思わないけど、ほんの少しは、皆の気持ちが晴れたら。

 覚悟して、目を閉じた時、聴き覚えのある声が耳に入った。

「ちょっと待て」低音で、切れ味があり、ちょっとイケイケな感じ。

 この声は――。

 目を開くと、大きな背中が見えた。

「えー! 小牧原!? さん……」イエリンの叫び声が上がった。瞬時に顔が赤くなる。

 確かに、この背中は見覚えがある。着ている高そうなジャケットも。匂いは嗅いだことがないけど、セクシーな感じの香水が鼻を掠めた。まさに、小牧原のイメージ。後ろ姿を見るだけでも、格好良さが分かる。

「どうしたんですか?」一人、興梠君だけは、当たり前のように小牧原に声を掛ける。

「このお姉さんを責めるのは、間違っている」

「だけど、特典コンプリートできなかったから、沓水さんは丸腰で戦うはめに――」

「特典コンプリートすれば、沓水はパワーアップできただろう。でも、お題三をクリアすることは、IKUIのパワーアップにも繋がった」

「どういうことです?」

「皆知っての通り、IKUIは、愛を拗らせて、憎しみを抱いた人間を食って大きくなる生き物だ」

 まさに小牧原の口調が聴こえ、全身が痺れた。本物だ。本物が、目の前にいる。

「つまり、憎しみが増えれば、力が強まる。月猫という推し活者の、沓水への愛情は、かなり大きい。ああいう人間が、愛を拗らせれば、IKUIの格好の餌食になる」

 小牧原は、くるりと私のほうを向いた。

「いい判断だった」

 精悍な顔つきとダンディーな雰囲気を目にし、心臓が止まりそうになった。

 興梠君も格好いいけど、小牧原も格好いい。ご尊顔を拝するだけで、オタクは全身の力が抜けて、ふにゃふにゃになってしまう。全身から発する雄臭さ。まさに、攻めの男! 私は、今後、左は小牧原派になるかもしれない。

 最推しではない人を目の前にしてもこんな感じなら、もしも、沓水さんに会えたら、いったいどうなるんだろう? 命の危機も考えられるから、会わないほうが身のためかもしれない。

「あのぉ。では、IKUIが巨大化した理由って、もしかして――」アンゲの声が聴こえ、ようやく我に返った。

「沓水推しから、アンチになった者たちが、喰われたためだ」

「でも、IKUIって、こっちの世界の生き物ですよね? 現実には存在しないのに、現実に存在する沓水さんのアンチたちを喰ったんですか?」

「ネット上で、沓水の界隈は、負のエネルギーが渦巻いていた。だから、IKUIに狙われた。IKUIは、愛を拗らせた人を取り込むのが上手い」

 ハッとした。『沓水さん』のファンからアンチになった人は、なかり執拗に『沓水さん』を叩いている。嫌いなら、見なきゃいい、と思うけど、彼女らの中には、それでは整理できない気持ちがあるらしくて、攻撃を続けている。

彼女らは、オタク属性なので、自分の興味の向くことにたいするバイタリティは人並み以上だ。彼女らが餌になれば、IKUIが巨大化したのも、頷ける。

 でも、元々は、彼女らは、私たちの仲間だった。同じ‶推し〟を推した者同士。それなのに、敵味方に分かれている。その事実が切ない。

「じゃあ、現実でも、殺人事件が起こるってこと?」

「俺の知る限りだと、まだIKUIも、そこまで現実の人間を操ることはできない。だが、喰われた人間は、ヘイトが止まらなくなる」

 ゾッとした。

「それに、秋田の寺で、置物破壊を起こしたのは、恐らく、IKUIに操られた人間の仕業だ。あれには、俺も焦った。IKUIは、少しずつ、取り込んだ人間に対する影響力を強めているようだ」

 身体が震えた。何か、とんでもないことが起きようとしているのかもしれない。

「沓水はこらから、IKUIと戦う。でも、その前に、IKUIの勢力を弱める戦をしてほしい」

「何か私に、できることがあるんですか?」思わず、身を乗り出して訊いた。

仲間を傷つけることでない限り、私にできることは、何でもやる。仮令、自分を犠牲にしても。今回は絶対に、沓水さんや興梠君やアンゲやイエリンの役に立ちたい。

「チケット戦争だ」

小牧原の低音イケボがその言葉を発した時、異国の勇敢な騎士たちが、剣などを使って戦うような戦が思い浮かんだ。

だけど、チケット戦争という言葉には耳馴染みがある。オタクにとって、親しい言葉とも言える。

「あの、私たちがいつも、倍率が高いイベントで参戦しているやつ?」イエリンが、ようやく普段のイエリンに戻った。

 チケット戦争とは、イエリンの言う通り、行きたい人が多いイベントが開かれる時、チケットを巡って、オタクたちが仁義なき戦いを繰り広げることを指す。仁義なき戦いと言っても、オタク同士が素手で殴り合ったりするわけではない。チケットを入手できるように、ひたすらにインターネットにアクセスし続ける。オタクの生息地は、あくまでネット上。

「いつもは分からないが。ここのチケット戦争では、時間内に、スタンプラリーを完成させた上で、チケットを手に入れなければならない。その間、敵であるIKUI陣営が、様々な妨害をしてくる」

「勝ったら、IKUIの勢力を弱められるんですね?」

「ああ。チケットは、願いを叶えてくれる」

「やります!」私は、間髪入れずに答えた。

 特典コンプリートのことを考えると、今回も一筋縄ではいかないだろう。ただ、ネットにアクセスしていればいいという話では済まないはずだ。でも、どんな戦いになろうと、今度こそ、皆の役に立つ。

 アンゲとイエリンと興梠君の視線を感じた。

「私もやります」アンゲの声は普段通り小さかったが、芯に力強さがあった。

「私も」イエリンの声は、まだ微かに擦れていた。

「僕も参加できれば、いいんですけどね」興梠君が呟く声が聴こえた。

 私たちは、一斉に興梠君を見た。

 すると、興梠君は、照れ隠しのように、視線を外した。

「いや、まあ、チケット戦争がどんなものか知るために。ただの興味本位で」

「餅は餅屋に任せておけ。オタクの世界に、素人が首を突っ込んでも、戦力外だろう」

 小牧原に、オタク呼ばわりされて、鈍い痛みが走った。いや、自他共に認めるオタクではあるので、間違ってはいない。だけど、こんな色気たっぷりのリア充イケメンに言われると、委縮してしまう。アンゲとイエリンも、一回り縮んだ様に見えた。

 オタクは既に市民権を得ていると思っていたけど、憧れの人にそう呼ばれると、差別されたような気になる。沓水さんも、私たちのことを、そう呼ぶのかな?

「分かってますよ」興梠君は、口を尖らせた。

 小牧原は、私たちを見た。

「俺たちは、チケット戦争に参加できないので、ここで退散するが、その前に、この戦争の概要を説明しておく。さっきも言った通り、IKUIに取り込まれた者たち、つまり、沓水推しから、アンチになった、ヘイターたちから、攻撃を受けることが想定される」

「どんな攻撃なんですか? まさか、本物の武器を使うとか?」

「ああ、銃を使う。火力が強いので、当たると、身体が炎上する。だが、そうなっても、こっちの世界から消えて、お姉さんたちが生きている世界に戻るだけだ。お姉さんたちが生きている世界には、無傷で戻るので、安心しろ」

「一度でもやられたら、もうこっちの世界には、戻れないってことですか?」

「そうだ。それに、戦争に勝てずにお姉さんたちが生きている世界に戻ったら、こっちの世界での記憶は消滅する」

 私は、固唾を飲んだ。

「チケット戦争に参加している者たちは、現実に存在している沓水ヘイターの中の、ごく一部だ。現実には、その数万倍くらいいる。現実とリンクしているので、現実のヘイターが減れば、チケット戦争に参加する者も減る」

沓水さんヘイターって、何人くらいいるんだろう? チラホラとアンチを見るようになったので、胸に不安が渦巻く。

「妨害して来る相手は、IKUI陣営だけではない。転売ヤーがチケットを狙っている」

「転売ヤーって、あの、チケットとかを入手して、高額で転売する人のことですか?」

「そうだ。IKUI陣営と戦っている間に、転売ヤーにチケットを取られたら、そこで終わりだ。だから、奴らからも、目を離してはいけない。奴らは神出鬼没で、どこから出て来るか分からない」

 普段、オタクたちを悩ませる転売ヤーたち。こんなところでも、邪魔して来るなんて。奴らは、自分さえ得すれば、他の人の気持ちは考えない。チケットが入手できずに泣いている人がいることなんて、お構いなしだ。本当に腹が立つ。

「お姉さんたちにも、銃を渡しておく。転売ヤ―が邪魔していたら、これで撃て。相手も、現実に戻ると無傷だから、安心しろ」

私たちは、それぞれ銃を受け取った。サイズは小さいが、銃だけあって、手に重みを感じる。

「更に、チケットまでの道には、地雷が埋まっている可能性が高い」

「え! そんな物騒な……」

「地雷は、一見、素晴らしいものの姿形をしている。それに騙されて近づき、地雷を踏むと、即死はしないが、ダメージを受ける」

「どうすれば、地雷を避けられるんですか?」

「お姉さんたちは、詳しいんじゃないのか? 自衛だよ」

 確かに、地雷も自衛も、オタク用語だ。地雷は、受け入れられないジャンルの創作。例えば、私は、推しが死ぬ話が受け入れられない。地雷への対抗策は、見たくないものをブロックして、目に触れないようにする自衛。

「でも、チケット戦争の地雷は、道に埋まっているんですよね? どうやって、自衛すればいいんですか?」ただの、ネット上のブロックとは違う。

「沓水の犬の雪太に、地雷探知犬の役割を担ってもらう。お姉さんたちも、だんだん慣れて来たら、嗅覚が利くようになるだろう」

「雪太が地雷を踏んだら、どうなるんですか?」

 地雷探知犬は、命と引き換えに地雷を探す。雪太に、そんなことをさせたくない。

「安心しろ。地雷は、人間にしか効かない。だが、地雷探知犬は、そこでチケット戦争から退場となる」

 雪太が痛い想いをしないのは、良かった。

「ルールはだいたいこんなところだが、何か質問はあるか?」

 具体的なイメージが湧かないので、質問も思い浮かばない。ただ、意外と、本物の戦争っぽいということは、分かった。

「これは、聖地巡礼マップだ」

 小牧原は、一枚の地図を渡してくれた。右側に深白寺と、その付近のマップが描かれ、左端には塔とチケットが描かれているが、その間は白紙だ。深白寺の周りは、橋や池や枯山水など、見覚えのないものが描かれている。

何から突っ込もうか迷ったけど、とりあえず、見覚えのないものから。

「深白寺の周りに、橋や枯山水なんて、ありましたっけ?」

 見回してみたけど、そんなものは見当たらない。

「これから、深白寺がチケット戦争のエリアに移動する」

「そんなことがあるんですか!?」

 私たちは、驚いた声を上げたけれど、小牧原は、相手にしてくれなかった。

「これを見ながら、チケットのある場所へ進むんだ。描かれていない部分の地図は、進んでいるうちに、浮かび上がって来る」

 もう一つの謎が解けた。そういう仕組みか。

「スタンプラリーを完成させることも、忘れるな」

 確かに、所々に、スタンプを押すスペースが設けられている。

「その場所へ行けば、スタンプを貰えるのですか?」

「そんな簡単なはずがないだろう。名シーンの再現をして、Twitterにアップしたら、スタンプを貰える」

「再現って、推しと同じ場所で同じことをする、あの‶再現〟ですか?」

「そうだ。お姉さんたちは、深白寺で、沓水さんと同じ格好をして、箒で階段を掃いている写真を撮ったことがあるようだから、一つ目のスタンプは既に押されている」

 そう言えば、そんなことをした。まさか、ここで役に立つとは……。

聖地巡礼マップをよく見ると、確かに、深白寺の階段の横にあるスタンプを押すスペースには、既にスタンプが押されていた。

「スタンプラリーを完成させて、チケットを手に入れるまでの、制限時間は二時間だ。始まったら、この時計が進む」

 小牧原は、ストップウォッチを差し出した。私は、代表して受け取った。

「ちなみに、死に至らない傷を負った場合は、こっちの世界に留まっていられる。但し、痛みは感じる。どうしても辛かったら、リタイアもできる。その場合は、もちろん、こっちでの記憶は消滅する」

 想像したくないけど、質問した。

「例えば、誰か一人が、重傷を負って動けなくなった場合、残りの二人がチケットをゲットしたらどうなるんですか?」

「その場合は、重傷を負った人の記憶も保たれる」

 三人が、この世界の記憶を保ったまま現実に戻るためには、全員が生き残り、且つ、チケット戦争に勝つ必要があるということか。

「あと、もう一つ、重要なことを。チケット戦争中も、Twitterは使える。ただ、他のアプリやWEBサイトには接続できない」

 オタクの生命線であるTwitterが使えるのは嬉しい。チケット戦争に参加しているヘイターたちは、現実に存在しているヘイターたちと、リンクしているようなので、状況が確認できるだろう。

「俺たちは、チケット戦争に参加はできないが、必要なものがあったら、届けることはできる。本殿に入ると、部屋に通されるが、下のほうを見ると、小さな引き戸がある。そこから手紙のやり取りが出来るから、何かあれば、知らせてくれ」

 小牧原や興梠君との接触手段があるのは、心強い。

「後で、雪太は連れて来る。では、健闘を祈る」

「これ、良かったら、使って下さい」興梠君が、双眼鏡を渡してくれた。

 小牧原と興梠君は、寺を後にした。



 私とアンゲとイエリンは、三人だけで残された。とりあえず、本殿の中に入る。

 これから、何が始まるのだろう?

 緊張して来た。

でも、それ以上に、三人の時間が気まずい。

二人共、怒っているよね? やっぱり……。

「小牧原さんも、イケメンだったね」

アンゲが沈黙を破った。重い空気を感じての気遣いかもしれない。

 感情を表に出すイエリンと比べ、アンゲの想いは測りかねる。でも、間違いなく、怒ってはいるだろう。自分の想いを殺してまで特典をゲットしたのに、私がそうしなかったのだから。怒ってもらったほうが、まだ気が楽だ。

「実物は、想像以上だった。でも……」イエリンは、含みを持たせた。イエリンも、最後のオタク呼ばわりが気になっているのかもしれない。

 その時、突如、外で銃声が聴こえた。

急いで襖を開ける。

そこには、深白寺の周りとは違う光景が広がっていた。

 まるで京都の観光地のように、雅な日本の風景。橋があって、池があって、枯山水もある。更に遠くには、塔が見える。多分、あそこにIKUI陣営はいるのだろう。小牧原から受け取った聖地巡礼マップの通りだ。

 チケット戦争中でなかったら、ゆっくりと散歩したいような場所だ。

でも、この美しい地のどこかに、地雷も埋まっているのだろう。雪太が来るまで、うかうかと外に出られない。

「そう言えば、二人の地雷は何? 私は、推しの死」

「私も、それは嫌だ。あとは、あまりにも、グロテスクなのは、ちょっと……」アンゲは顔を顰めた。

「私は、自分のことを雑食だと思ってたけど、推しの死は、確かに嫌だ。あと、暴力も」

意外だ。イエリンは、ヤンキー漫画が好きだったはず。私が驚いた顔をしたからか、イエリンは説明を添えた。

「いや、別に暴力全般NGというわけではないんだけど。拳と拳の戦いは好きだし、正義の鉄拳はOK。でも、理不尽な暴力は嫌い。逆恨みとか」

 なるほど、それなら理解できる。イエリンは、正義感が強いから。

「お互い、地雷には、気を付けないとね。私たちは、三人しかいないから、誰かがこの世界から消えたり、ダメージを受けたりしたら、チケット戦争の勝利は難しくなるはず」

 アンゲとイエリンが内心怒っていても、今は三人で協力するしかない。

 イエリンが腕を伸ばし、私とアンゲの肩と組んだ。アンゲも同じように腕を伸ばし、私とイエリンの肩と組んだ。

 肩に感じる重みが、胸をじーんと震わせた。

「ほら! 色も!」

「あ、うん」私は、慌てて、二人と肩を組んだ。

「推しを全力で守るぞー!」イエリンが、煽り芸の時と同じ声量で声を上げた。

「おー!」私とアンゲも、負けじと声を張り上げた。

 二人が怒っているだろうと気にするのは、一旦、止めようと思った。

 きっと、チケット戦争に勝つことが、最大の罪滅ぼしになる。



 気合を入れたところで、再び鉄砲の音が耳に入った。

 興梠君から借りた双眼鏡で、塔のほうを見る。

多くの人たちが、こっちを目掛けて、銃を発砲している。あれに当たると、炎上するのか。

今は、距離があるので、届きはしない。恐らく、脅しだろう。

パッと見える範囲では、全員女性だ。IKUI自体の姿は見えない。ここでも、IKUIは出て来ないのかもしれない。

 私は気が重くなった。小牧原は、‶沓水さん推しから、アンチになった者たち〟が、IKUIに取り込まれていると言っていた。

塔には、結構な数の人がいそうだ。数十人くらいは、いるかもしれない。チケット戦争に参加している人たちは、現実に存在している沓水ヘイターの中の、ごく一部。現実には、数十万人のヘイターがいるのか――。

 ここまで、『沓水さん』は嫌われていたのか?

確かに、ポツポツとアンチはいた。だけど、ここまでとは思わなかった。これでは、女性差別発言で炎上した人より、アンチが多そうだ。沓水さんは、女性が得意ではないものの、女性に対して優しい。傷つけるような発言なんて絶対にしない。それにも拘わらず、こんなにアンチがいるのは切ない。可愛さ余って憎さ百倍なのだろうか?

「多いね……」アンゲの呟きが響いた。

 一人の女性が、拡声器メガホンで叫んだ。

「沓水のアンチはこんなにいるんだ。怖気づいたら、とっとと引っ込め!」

 顔ははっきり見えないけど、多分、知らない人だ。

 それでも、彼女たちと戦うことになる。

「何だ、あの女!?」イエリンが、いきり立った。

「沓水さんファンの根性を見せてやる! チケットを取りに行こう!」

「待って! このまま突撃しても、多勢に無勢だと思う」

「色! さっき、IKUIの力を弱めるために戦うって言ったでしょ?」

「もちろん、そのつもり。だけど、これは、戦争だから、負けたら終わり。チケットは貰えない。だから、まず、負けないように作戦を練ったほうがいい」

 イエリンは、口を噤んだ。

「色ちゃん、何か考えがあるの?」

「ごめん、まだ私も、思い浮かんでない……」

 私は、特別に頭がいい人間というわけではないので、こういう時、すぐにいい戦略なんて思い着かない。頭がいい人だったら、どう考えるかな? 頭のいい人って誰だろう?

 脳裏に現れたのは――沓水さんだ。

 私は、沓水さんになったつもりで、思考を巡らせた。

不利な状況下でも、冷静に相手を読み、勝ち方を考える。

 相手が、多勢に見えても、本当に団結しているか?

 相手が、強力に見えても、本当に弱点はないか?

「そうだ! ヘイターたちは、多いように見えるけど、戦闘力が高いとは限らない。まずは、戦闘能力を図ろう」

 アンゲとイエリンは、真剣な表情で受け止めてくれた。

「確かにね。でも、どうやって図る?」

 三人とも、しばし黙って方法を考えた。

「あ! 打草驚蛇」イエリンが、閃いたように呟いた。

 耳馴染みのない単語だ。中国語かな?

「どういう意味?」

「兵法の第十三計」

 兵法って、中国の有名な歴史上の人物が書いた戦術書だっけ? 私は読んだことがないけど、アニメで、沓水さんが、そんな本を抱えていた。

「どういう意味なの?」

「さぐりを入れて、相手の動きを察知すること。草を打って、蛇を驚かせる、っていう意味で、こっちから何か仕掛ける」

 私は、少し考えた後、思い着いたことを口にした。

「チケットの場所に、囮を向かわせれば攻撃して来るかな?」

「でも、誰が囮になるのよ? こっちは三人しかいないのに」

「三人しかいないって情報は、相手は知らないでしょ? それに、私たちが相手をはっきり見えないように、相手も私たちをはっきり見えないはず。だから、人形を作る。その人形に、沓水さんのお面を着けて、作務衣を着させれば、私たちと同じ熱狂的なファンに見える」

 イエリンとアンゲは、ハッとした顔になった。

「流石、色ちゃん」

「問題は、どうやって人形を移動させるか?」

 人間が、近くまで運ばないと、無理か……?

 三人で数秒黙り込んだ。口を開いたのは、イエリンだった。

「そうだ! ドローンを使ったら?」

 私の発想の斜め上を行くアイデアだった。画期的で、面白い。

「でも、ドローンが運べるのって、せいぜい五㎏とかそのくらいまでだよね?」

「いや、最近は、数百㎏を運べるドローンもあるよ。まだ一般的に普及はしていないと思うけど。実は、私のスーツケースの中に、百㎏運べるドローンが入っている」

 これは、予想の斜め上どころか、九十度上だった。

「何で、そんなの持ち運んでいるの?」

「弟の誕生日プレゼントに買ったんだ。日本製だから、中国だと手に入らなくて」

 そう言えば、イエリンは、弟さんの誕生日プレゼントの話をしていた。

最新技術に疎い私は、百㎏運べるドローンが存在しているなんて知らなかった。確かに、それなら、女性一人運んでいても、おかしくない。

実際は人形だから、そこまで重くないけど、人も運べるドローンのほうが、リアリティは出るだろう。

その時、IKUI陣営の銃声が耳に入った。

「もしたしたら、相手の攻撃を受けて壊されるかもしれない……」

 人と同じように、物も、現実に戻ったら、無傷なのかな? その辺りが、はっきりと分からない。

「別に。物は壊れたら、また買えばいいよ」

 イエリンは、さも当たり前、というように口にした。イエリンのようなお金持ちには、ドローンなんて大した出費ではないのかもしれない。だけど、まだ一般的に普及はしていないくらいだから、それなりの金額がするだろうし、入手も困難な可能性がある。

 それだけ、このミッションに賭ける想いが強いんだ。

 私たちは、イエリンのアイデアに乗り、まず初めに、人形を用意した。材料と道具は、引き戸から小牧原に依頼した。すぐに届いた。

等身大の人形を作り、イエリンの作務衣を着させ、お面を着けた。イエリンの作務衣を選んだのは、一番大きなサイズを着させたほうが強そうに見えるだろうから。アンゲがまた作務衣を作ってくれると約束し、イエリンは寄付に頷いた。

 ドローンに関してはすんなりとOKを出したイエリンだったけど、作務衣に関しては、手放すのが辛そうだ。気持ちは分かる。この作務衣には、数か月分の推し活の思い出が詰まっている。それに、アンゲが作ってくれたものを、ボロボロにされたくない。

 辛そうな顔をしながらも、作務衣を人形に着させてくれ、準備が完了した。

 イエリンがスーツケースから取り出したドローンは、見るからに、頑丈そうだ。

 人形をがっちりと掴ませて、試しに、境内でリモコンを操縦した。

 作務衣を着て、お面を被った人形が、ふわりと浮き上がる。遠目に見れば、人間だと思うだろう。

「おおー!」思わず、声が上がった。何だか無性に感動する。

 イエリンは、ドローンの操縦には慣れているようで、スマートな手付きだった。

「じゃあ、本番行きますか」

 人形が、飛んで行く。離れるほど、本物の人間に見えなくもない。

 しばらく、人形の後ろ姿を見守っていたが、突然、大きな発砲音が響いた。

 幸い、人形は無事だ。

 その後も、三~四発、音が続いた。人形は、相変わらず、ぶら下がっている。直撃した様子はない。

 私は、一つ、重要な気づきを得た。相手の銃の腕は、大したことがなさそうだ。

人数に怯えていたけど、相手はあくまで、私たちと同じ、オタク女子たち。オタクは、基本的に、アウトドア系には疎い。

 その後も、IKUI陣営は、下手な鉄砲を撃ち続けた。明後日の方向に飛んで行く弾も多い。下手糞に、遠距離砲は無理だ。

 観察しているうちに、もう一つ、気づきを得た。

この後、私たちが鉄砲を撃つ時が来ても、似たようなレベルだろう。だとしたら、相手との距離を近づけることが、何よりも重要になる。

その時、一発の弾が人形に命中した。

 人形は、燃えた。

 これが、炎上か。

「あ~あ……」残念そうな声が上がった。でも、燃えたのが自分たちでなくて良かった。

 三人で、顔を見合わせた。二人共、さっきよりも、表情に自信が漂っている。きっと、私も、そうだろう。

 兵法十三計:打草驚蛇は、私たちに重要な情報を与えてくれた。



 イエリンに、兵法には、他にどんな作戦があるのか訊ねた。

「私も全部暗記しているわけじゃないけど、兵法は基本的に、‶戦わずに勝つ〟を目指しているんだ。だから、上手く敵から逃げたりとか、敵のやる気を削いだりとか、そういう作戦が多い」

 戦わずに勝つか。沓水さんの考え方と似ている。傷つけ合うことなんて無駄だって、沓水さんは思っている。

「あと、自分を大きく見せて、相手を怖気づかせる、っていう作戦もあったな」

頭に、ふとアイデアが浮かんだ。

「‶沓水さん〟を、Twitterにトレンド入りさせよう」

 前に一度、やろうとしたことがある。計算上はイケるはずだ。

「私たちの勢力を大きく見せるために?」

「そう。相手もオタクだから、私たちの情報はTwitterから取得するでしょ? トレンド入りさせたら、プレッシャーを掛けられる」

 相手が、自分とは正反対の人種だったら、分からない分、怖さがあっただろう。でも、同類だから、手に取るようにわかる。

 私とアンゲは、自分の端末に溜まっていた数点の作品に、‶#沓水さんに届け!〟というハッシュタグを着けて投稿した。本当は、いつか、少しずつリリースしようと思っていたけど、今は、出し惜しみをしている場合ではない。

‶リツイート乞食〟と呼ばれる、リツイートを促すコメントを着けたツイートをするとアンチが増えそうなので、代わりに、このハッシュタグを着けた。こういうハッシュタグを着けると、ウェーブのように、賛同者が乗ってくれる可能性が高い。

‶沓水さんに届け!〟は、二回目の秋田訪問の際に、願ったことと同じだ。


ファンの想いが、沓水さんに届きますように――。

 

あの日の願いは、今も、変わらない。

私たちの投稿を、イエリンにリツイートしてもらった。煽り姫らしく、情緒的に煽ってくれた。

『七夕の願いは一つ。私の想いが、沓水さんに届きますように! ベガとアルタイルにはなれなくても、地上から、沓水さんという星を見つめています』

 そう言えば、もうすぐ七夕だ。すっかり忘れていた。私と選べ、イエリンは意外とロマンチックな面がある。

 トレンド入りしているワードのツイート数を見ると、二千百件。これくらいなら、越えられるだろう。

 案の定、拡散はすぐに始まった。月猫も、すぐにリツイートしてくれた。

添えられた呟きを見て、驚いた。

『沓水さんの素敵なところ:

カッコイイ、沈着冷静、頭脳明晰、普段はちょっと不思議ちゃんで、いざという時とのギャップがある、優しい、可愛い、美しい、仲間想い』

 月猫は今まで、自分がどんなに沓水さんを愛しているかを表現する呟きが多かった。それが、今回は、毛色が違う。それに、呼び方も、‶一成さま〟だったのが、‶沓水さん〟になっている。

 推しへの愛を語るツイートは、あまりに主観を推し付けているようで、ウザいと感じる人も少ない。実際、月猫のツイートは、それでアンチが多かった。

 だけど、今回のツイートなら、ウザさは感じない。それに、沓水さんのいいところを思い返せるので、賛同者は増えるだろう。強力な援護射撃になる。

「月猫も、少しは大人になったのかもね」イエリンが、ぼそっと言った。

やっぱり、月猫を蹴落とさなくて良かった。月猫は、沓水さんのために、自分を変えた。沓水さんへの想いは、本物だ。

 その時、ワン! という鳴き声が聴こえた。

 振り向くと、円らな瞳をしたモフモフの秋田犬が走って来た。

 雪太だ!

 人見知りもせず、私たちのほうへ近づき、クンクン鼻を鳴らしている。撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じた。可愛い。首輪には、深白寺と彫られていた。

 興梠君、小牧原に続き、本物の雪太にも会えるなんて――。もう、感極まって、涙が出そう。

「よろしくね、雪太」涙が零れないように、目を閉じて、雪太の背中に顔を埋めた。

 微かに、清涼感のあるお香の匂いを感じた。沓水さんが炊いたお香だろうか?

 一しきり、雪太を愛でた後、再びTwitterを開くと、早くも、トレンドに、‶#沓水さんに届け!〟が表示された。

「もう? 早くない?」

「そう言えば、ワンドロの時も、向こうの一時間をスキップできたから、今回も同じなのかも」

 トレンド入りできたのは、有難いし、心強い。ここには三人しかいないけど、Twitterの向こう側に、多くの仲間の存在を感じる。

 その時、下のほうにある小さな引き戸が開き、一枚の巻物が出現した。小牧原たちからの連絡かな?

巻物を手に取り、開いてみる。


トレンド入りにより、ボーナスを与える。

 現実にいる人の中から一名、情報局に任命できる。

 情報局には、調査などを依頼できる。

                             チケット戦争運営事務局


 思わぬ副産物だった。IKUI陣営の情報を、なるべくリアルタイムで取集したいものの、これから外に出るので、Twitterと睨めっこしている時間はなくなる。この補強は、有難い。

ただ、人選は大事だ。この戦いの行方は、情報が鍵を握るだろう。そんな大役を任せられる人といったら――。

「誰を選ぶ?」アンゲが訊ね、三人で顔を見合わせた。

「月猫」三人の声が揃った。

 巻物をさらに広げると、続きが書いてあった。


 決まったら、名前を記載せよ。


 私は、『月猫』と書き、念のため、彼女のアカウントも添えた。

 突然、何も操作していないにも関わらず、月猫との音声通話が始まった。

「月猫? 聴こえる? 今、色之丞とアンゲとイエリンでいるんだけど」

 話しながら、この状況を月猫に何て説明すればいいんだろう? と思った。いくらなんでも、物語の世界の中にいるという話を信じてもらえるとは思えない。

「聴こえる。『沓水さん』の公式から、あなたたちをサポートして欲しいって連絡があった。何をすればいいの?」

 そういう設定になっているんだ。良かった。無茶な説明をする手間が省けた。

「沓水さんのヘイターたちの動きを観察して、何か変化があったら、すぐに知らせてくれない?」

 月猫は驚いたようで、暫し沈黙が流れた。いきなりこんなことを頼まれ、不審に思っているのかもしれない。

「……分かったわ」

 思わず、安堵の息が漏れた。

「ありがとう。実は、今、私たち、ちょっと立て込んでいて、しばらく返事を返せないかもしれないけど。連絡できるようになったら、また連絡するから」

「分かった。他にも調査が必要だったら、言って」

 私は、不覚にも、ちょっとキュンとした。こんな唐突に、意味の分からない調査を依頼されて、素直に従ってくれるなんて。月猫が、普段、‶一成さまのためなら、何でもする〟と、豪語していた決意は、本物だった。

「……ありがとう。沓水さんも、きっと喜ぶと思う」

 今起きていることを話せたら、どんなに良かっただろう。月猫の協力は、本当に沓水さんの役に立つんだって、伝えたい。

「一成さまのためだけじゃない……」

「え?」

「私、嬉しかったの。友達になってくれて。推し活友達ができるの、初めてだったから……」月猫の声は、恥ずかしさで尻すぼみになっていった。

 私とアンゲとイエリンは、言葉を失った。でも、心は湯たんぽを抱えたように、ぽっと温かくなった。

「それは、私たちも同じだよ」

 何だか、愛の告白よりも照れた。

推し活は、私に様々な経験を与えてくれる。



月猫との音声通話を終えた後、私は、ストップウォッチを見た。既に、二十分近く経過している。 

いよいよ、寺の外に出る時が来た。

 ここからは、攻撃を喰らったら、すぐにゲームオーバーになるかもしれない。そしたら、もう、沓水さんたちを助けられない。

「もし、誰かがやられても、残った人は全力で戦おうね」

「当たり前だよ!」

「でも、私たち三人だし、これ以上、味方が減るのは嫌だね」アンゲは、少し顔が強張っている。

「三人じゃないよ、寺に戻れば、興梠君や小牧原に助けてもらえるし、あっちの世界には月猫や、多くのフォロワーもいる。それに、雪太もいるしね」

 雪太は、クンクンと鼻を鳴らしながら、澄んだ目でアンゲを見上げた。

「そうだね」アンゲは雪太を撫でた。

動物には癒しの効果があるからか、アンゲの表情は和らいでいった。

「それじゃあ、行こうか」

 戦いに向かう意気込みだけど、外に出ると、場所はまるで素敵な観光地だ。何なら、写真に撮りたいくらい。いまいち、緊張感が高まらない。

 まずは、スランプラリーを集める必要がある。聖地巡礼マップを見ると、寺の近くにある枯山水が、スタンプラリー・スポットになっている。あそこで、再現するのか。

 枯山水の中には、三つの大きな石が、点在している。

 映画の中で、沓水さんは、敵と戦う際、石伝いにジャンプして、三つ目の石まで移動していた。つまり、枯山水は乱れさせていない。

 だけど、実物を見ると、飛んで移動するのは、かなり難しそうだ。届かない距離ではないかもしれないけど、よろけて枯山水上に落ちる可能性は高そう。そうなったら、再現できない。沓水さんのように、身軽な身のこなしができるだろうか?

「再現って、誰か一人でいいんだよね? 階段の写真も色だけだったし」

多分そうだろう。そうであれば、一番成功する可能性が高い人からトライするのがいい。この場合、一番身長が低いアンゲは、候補から外れる。更に、イエリンは、お面舞踏会のダンスで足に疲れが溜まっているはずだ。ここは、私が適任だろう。

「私が、やるよ」

「ありがとう。色ちゃんが一番可能性がありそうだから、助かる」

 私は、リュックサックをアンゲに預けると、深く息を吸った。

軽く助走をして、最初の石を目掛けて、飛ぶ――。

着地! と思った瞬間、軸足である右足が揺れた。私は、両手を広げ、懸命にバランスを取った。やじろべえのように左右に揺れた。

 アンゲとイエリンの息を呑む声が聴こえる。

 落ちそうになっては堪え、落ちそうになっては堪え、を何度か繰り返した後、ようやく、身体が安定して来た。どうやら、持ちこたえたようだ。

 今のは、ちょっと勢いをつけ過ぎた。その分、着地の衝撃が大きかったのだろう。次は、助走できないけど、石までの距離は短い。ふわっと飛べば、届くだろう。

 私は、再び、深く息を吸い、ふわっとジャンプした。

 今度は、見事に、ピタッと着地した。

「色、凄い! 体操選手になれるよ!」煽り姫は、乗せるのが上手い。

 でも、まだ、一番の難関が残っている。

 最後の石までは、今よりも、距離がある。でも、石の上にいるので、助走はできない。

 さて、どうするか?

 私は、学生の時に、体育の授業で立ち幅跳びの測定をやったことを想い返した。脚の力だけで飛ぼうとしても、記録は伸びなかった。身体を大きく反ってから、膝を九十度に曲げ、手を大きく振って、飛んだ瞬間に膝を引き上げる。

 やってみよう。

 私は、頭の中でイメージした通りに、飛んだ。

 自分でも、さっきより長く飛べている感覚があった。

 一番大きな石に、蛙のように足を着けた。着地できたようだ。

 口笛を吹く音と拍手の音が聴こえた。

「色! オリンピックに出られるよ!」

 沓水さんのようにスマートにはできなかったけど、目的地に辿り着けたようだ。

 私は、二人に向かって、ピースした。

「ポーズ違う!」

「分かっているって」

 沓水さんは、ここで、両耳に手を当て、敵の気配を察知しようとしていた。

 私は、同じポーズを取った。

 アンゲがシャッターを押す音が聴こえる。

「撮れたよ! シンクロ率百パーセントじゃない?」

「本当だ! これなら、スタンプ三個くらいもらえるかも」

 アンゲが、早速、Twitterにアップした。

 イエリンは、聖地巡礼マップを広げた。

「いつスタンプは押されるのかな? 審査とかあるのかな? あ! もう押された!」

イエリンは、私とアンゲに、聖地巡礼マップを見せてくれた。確かに、枯山水の横にあるスペースに、スタンプが押されている。

 一つ目の、ミッションをクリアしたようだ。

 後は、戻るだけ。さっきと同じように飛べば大丈夫だろう。

 一つ目のジャンプが成功し、二つ目のジャンプも成功し、もう大丈夫だろうと思って最後のジャンプをすると、バランスを崩した。油断が、失敗を招いた。私は、石の上に着地すると同時に、大きくよろけ、枯山水の上に落ちた。

「色ちゃん! 大丈夫?」

 高さはないので、手を着いた時に、少し擦りむいた程度で済んだけど、恥ずかしかった。

でも、それより、やっちまった。枯山水を乱してしまった。再現はもう終わっているので、成果とは関係がないけど、美しい庭に危害を加えてしまった。

「私は大丈夫だけど、聖地破壊しちゃった」

 私は、マナーを守らない聖地巡礼者が嫌いだ。推しと同じ空気を吸える聖地は、世界遺産並みに大事にして欲しいと思う。それなのに、自分が破壊者になるなんて。

「整えよう」イエリンが、傍にあった、道具を持って来た。野球のグランドを整備する時に使うトンボのようだ。

「私がやるよ」アンゲが名乗り出てくれた。

 私は、急いで、枯山水の外に出た。

 アンゲも、枯山水を整えるなんて初めてのはずなのに、器用にトンボを扱った。器用な人は、何でもできる。私とイエリンは、感心して、思わず息を漏らした。

乱れたところから、端まで、トンボを引く。

 アンゲが引き終わった時には、ほとんど元通りになっていた。

 良かった――。

 私たちは、ハイタッチをし合った。これで本当に、第一ミッションをクリアした。



 枯山水から少し歩くと、橋の先に、大きな『沓水さん』のポスターが置かれているのが見えた。

「見て! あのポスター! 凄い!」アンゲも気づいたようだ。

 ファンとしては、生唾モノだ。

繰り返すが、オタクとは、この世で最もチョロい生き物だ。推しをチラつかせれば、目をハートにして、飛び込んでいく。

 私は、駆け寄りたい衝動を抱いた。だが、すぐに自制心を働かせた。なぜ、あんなところに、ポスターが?

「もしかして、地雷かな?」

 小牧原は、地雷は、一見、素晴らしいものの姿形をしている、と言っていた。

 私は、雪太を見た。

 だけど、雪太は何も反応していない。地雷ではないのだろうか?

 地図を見ると、チケットまでには、この道と、もう一つ別の道がある。距離は同じくらい。

 地雷ではないなら、ちょっとポスターを見て行ってもいいのでは?

 その時、頭の中に閃きが宿った。ポスターの写真を撮って、Twitterにアップしたらどうだろう? 多くの‶いいね!〟が貰えそうだ。

「雪太が反応していないから、地雷ではないと思う。道は二つあるけど、橋のほうを通ろうか?」

「やった!」いくらチケット戦争中とは言え、沓水さんのグッズは、オタクのアキレス腱だ。アンゲもイエリンも、顔をほころばせた。

 橋は、だいぶ古いもののようだった。それが趣になっているが、ギシギシ言っていて、ちょっと怖い。

慎重に橋の上を歩いたものの、雪太は何も反応しなかった。これなら大丈夫そうだ。

 橋を渡り終わり、ポスターの前に来ても、雪太は反応していない。良かった。やっぱり大丈夫なんだ。

 私は携帯をカメラモードにして、写真を撮る準備をした。アンゲとイエリンも、同じことをしようとしていた。

 その時、近くで、大きな音が聴こえた。

 音のほうを見ると、橋が崩れ落ちていた。

「嘘!?」

 気づいた時には、既に遅かった。私たちは、寺への道を絶たれた。

興梠君や小牧原との連絡が取れなくなる。

 しまった――。

「これって、もしかして、上屋抽梯じゃない?」イエリンが耳慣れない言葉を口にした。

「それも、兵法?」

「そう。敵が喰いつきそうな餌を撒き、梯子を外して、後続部隊との連携を絶たせることを意味する」

 きっと、それだ。まんまと引っ掛かった。

「また味方が減っちゃったね……」アンゲが不安そうな声を出した。

 確かに、興梠君や小牧原と接触できなくなったのは、痛い。

 だけど、私は、自分を鼓舞するように言った。

「とりあえず、進もう」

 今回は地雷ではなかったけど、自分たちにとって嬉しいモノには、罠が潜んでいる可能性が高い。そこにつけ込まれないようにしないと――。

 三人とも、ショックを受けていたので、無言で歩いた。

しばらくして、後ろでドスッと音が聴こえた。

「痛っ!」イエリンの叫び声が上がった。

 振り向くと、帽子を被った男性が、走り去って行く姿が見えた。

 今なら、距離が近い。

 私は咄嗟に、銃を構え、撃った。

 銃から飛び出た弾は、男性に命中すると、火になった。

男性は燃えた。〝炎上〟している。

 現実に戻ったら無傷らしいけど、男性が熱がって声を上げたので、ちょっと心が咎めた。

 ほどなくして、男性は消えた。

「イエリン、大丈夫?」後ろで、アンゲの声がした。

「足を挫いたかも……痛っ~」

 振り返ると、イエリンは地面に座って、右足を摩っていた。さっきの舞踏会の疲れも、足に来ていたのかもしれない。

「色、やっつけてくれて、ありがとう。あいつ、IKUIの仲間かな?」

「多分、転売ヤーじゃないかな? IKUIの仲間は女性が多かったから」

「そっか。そういう奴らもいたね……。てことは、色が撃たなかったら、チケットを取られてたかもしれないね」

 イエリンのことがなければ、私も、あんなに思い切って撃てなかっただろう。なにせ、銃を扱うのなんて初めてだから。

 イエリンの足首は青くなっていた。痛そうだ。休ませてあげたいけど、ここでイエリンが離脱するのは大きな痛手だ。

「ハンカチ持っている? 足首を固定したい」

 イエリンの言葉に、心を揺さぶられた。イエリンは、全く、引く気はないようだ。

 私は急いで、鞄を漁った。

 ハンカチはないけど、代わりに目に入ったのは、『沓水さん』タオル。ちょうどいい。『沓水さん』タオルなら、普通のハンカチより、イエリンの痛みを癒してくれるだろう。

「これを使って。あと、冷やした方がいいな」

「じゃあ、水を持て来る」アンゲは、さっき壊れた橋のほうへ向かった。

 私は、適当な石を運んできて、イエリンの足の位置を高くした。タオルで患部を圧迫する。その間にアンゲが、水を入れた袋を持って、戻って来た。

 イエリンは、声こそ出さないけど、顔に脂汗が滲んでいる。痛いのだろう。だけど、ここで時間を食い過ぎると、タイムオーバーになる。

「イエリンは、少しここで休んでいて」

「え? だけど――」

「離脱するわけじゃない。少し良くなったら、追い付いて来て」

 私の意図が伝わったようで、イエリンは力強く答えてくれた。

「分かった!」

「アンゲ、行こう!」

 今みたいに、転売ヤーに襲撃される可能性も考慮しないといけない。ますます、気を引き締めないと。

 私とアンゲは、雪太を連れて、再び歩き出した。

 相変わらず綺麗な風景は続いていたけど、もう、心を留めないようになった。淡々と道を歩く。

 その時、女性二人組が見えた。

 また、転売ヤーだろうか? 気を張った。でも、さっきの男性とは、だいぶ様子が違う。華やかな格好をしているし、急いでいる様子もない。おっとりした雰囲気で、二人話しながら、こっちへ来る。

見覚えがある。よく映画館で見掛けた、典型的な沓水さんファン。

 二人は、私たちに気づき、少し離れた場所から、声を掛けてくれた。

「こんにちは。お姉さんたち、もしかして、沓水さんファンですか?」声からも、敵意は感じない。

 私とアンゲは、顔を見合わせた。

 もしかしたら、味方だろうか? だったら、ウェルカムだ。でも、まだ信じられない。とりあえず、確認してみよう。

「そうです。お姉さんたちもですか?」

「ええ。沓水さんを助けるため、チケット戦争に参加するんです」

「誰から頼まれたんですか?」

「小牧原さんです」

「どうやって、こっちの世界に来たんですか?」

「興梠さんが連れて来てくれました」

 私たちと同じだ。本当なのかもしれない。

 アンゲが私を見た。

「色ちゃん、あの人たち、本当の仲間だよ。言っていること、合っているもん」

 アンゲの顔には、安堵の色が宿っていた。ただでさえ人数が少ないのに、イエリンとも一時的に離れて、不安だったのだろう。

 仲間が増えれば、確かに心強いけど……。

 私が考えを巡らせている間に、アンゲは一歩踏み出した。私は、慌てて着いて行った。

 その時、一瞬、微かに、黒い気を感じた。

 これは、何だろう――? 覚えがある。

そうだ! コールセンターで、一方的に怒鳴って来る客が電話口にいる時に感じる‶気〟だ。声を発する前から、伝わってくるものがあり、どんな話になるか想像が着く。それに、Twitterが炎上する時に感じる‶気〟でもある。Twitterを開く前から、何が起きているのか分かる。つまり、負の気だ。

 突然、雪太が吠えだした。

 雪太が勢いよく身体を振るったため、私が持っていたリードは手から外れた。雪太は、そのまま、数歩前を歩くアンゲの前に出た。

 その瞬間、雪太は消えた。

 地雷だ。地雷が埋まっていたのだ。

 雪太が目の前で消えたことに驚いたアンゲは、固まったため、地雷を踏まずに済んだ。

「ちっ!」女性二人組が、舌打ちした。さっきとまるで別人だ。

 逃げようとした二人を目掛けて、私は銃を構えた。

 距離が近かったこともあり、一人目は一発目で、二人目は三発目で消滅させた。

「雪太ぁ!」アンゲは、消えてしまった雪太を探している。

「残念だけど、雪太は退場になったと思う」

「私のせいで……」アンゲは泣きそうだ。

「チケット戦争から退場しただけだから、雪太は大丈夫だよ。それに、仲間なんだから、‶せい〟とかないよ。雪太の分まで、私たちで頑張ろう。私、今、地雷の臭いが分かったんだ。だから、次に地雷の傍に来た時は、私が教えるね。私が前を歩く」

 私は、アンゲの前に出た。

「色ちゃんは、強いね」

「さっき、皆に迷惑掛けたから。その分、ちゃんと働かないと」

「迷惑とは思ってないよ。ただね……」

 私とアンゲは目が合った。

「ううん、何でもない。私も、今、迷惑掛けた分、頑張る!」

 アンゲは、吹っ切れたようだ。 

 その時、スマフォが振るえた。月猫から連絡が入った。

『〝#沓水ヘイター〟もトレンド入りした。三千ツイートだって』

 私たちに対抗したのだろう。驚きはしないけど、敵に、トレンド入りされると心を乱される。相手の、人数が多いことは確かだ。

 今、チケットにダイブすれば、人海戦術で滅多撃ちにされるかもしれない。いくら銃の扱いが下手でも、数を撃たれれば当たるだろう。こっちは二人だし。真っ当に戦っては、ダメだ。

 兵法じゃないけど、何とか、戦わずに済む方法はないだろうか? イエリンが傍にいないのは、痛い。

 私は、イエリンの発言を思い返した。

そう言えば、〝敵のやる気を削いだりとか〟と言っていた。

「まずは、相手の人数を少し減らそう」

「どうやって? 寝返らせるとか?」

「気勢を削ぐ。私たちのような、沓水さんを応援したいという強い気持ちを持っているファンと比べ、アンチは、自分の気が晴らせればいいだけ。だから、自分に不利になりそうだと分かったら、離脱すると思う」

「なるほど……ヘイターでいることの、デメリットを伝えればいいのかな」

 アンゲは、少し考える顔をした。

「だったら、私が漫画を描いて、プロパガンダを投稿するのはどうかな? ヘイターによって、傷つく人がいることとか。人を傷つけると、いずれ自分に返ってくるとかを、漫画で表現する」

「漫画で表現するのは、名案だね。文字だけだと、スルーされる可能性が高いけど、漫画なら受け入れやすいだろし。でも、内容が説教クサいと、抵抗を持たれるような気がする」

「確かにね……聴く耳を持ってくれなさそうだよね……」

「ヘイターたちにも、ヘイターたちなりの正義はあるだろうからね」

 アンゲは、少し考える顔をした。

「私ね、本当は、ヘイターたちの気持ちも、ちょっと分かるんだ。彼女たちは、元々、沓水さんが大好きな人たちで、エネルギーが大き過ぎる故に、コントロールできずに、おかしな方向に暴走させちゃったんだと思う」

「そうだね。私も分かるよ、その気持ち」

 私は、特典のステッカーを貰えなかっただけで、公式にクレームを入れそうになった。勝手に期待して、勝手に失望して。アンゲたちがいなかったら、私も負の感情をコントロールできなかったかもしれない。

「本当は、愛で溢れた活動なのにね、推し活って」

 私は、ふと思った。

「もしかしたら、彼女たちも苦しいのかもしれないよ。本当は、沓水さんをヘイトしたくないのに、負のエネルギーの暴走を止める術を知らないのかもしれない」

 アンゲは、ハッとした顔をした。

「そうだね、きっと、そうだよ。でも、どうすれば、彼女たちを救ってあげられるんだろう?」

「何かを好きになることの尊さ――人生が煌めき出し、何でもない景色でも、特別な意味を持つことを、もう一度思い出してもらうとか?」

 私も時々、マイナスの感情に支配されそうになる。だけど、プラスの感情を味わった時の素晴らしさが、それを宥めてくれる。

「そうだね! 私、何か描ける気がする」

 アンゲは、大きな石を机と椅子代わりにし、漫画を描きはじめた。ワンドロの時と違い、色を着けずに、さっと描くだけなので、十分くらいで描けるだろうとのことだ。

 私は、大人しく見守ることにした。

 数分が経った時、首に何かを巻いた猫が、私たちのほうへ向かって来るのに気づいた。

 どこかで見たことがあると思ったら、沓水さんの寺によく遊びに来ている地域猫と似ている。大きな特徴はない普通の黒猫だけど、鈴の着いた首輪に見覚えがある。その首輪に、お守りも着けられ、紙が挟まれていた。

 一瞬、地雷かもしれないと警戒した。でも、変な臭いはしない。

 猫は、私に寄って来た。

私は、敢えて猫には触れなかった。この子は、沓水さん以外に触られるのを、まだ許していない。極力接触しないように気を着けながら、首輪から紙を抜き取った。開くと、文字が書かれていた。


 特典コンプリートで、アンゲさんとイエリンさんがゲットした写経用紙を、物々交換(求:お守り 譲:写経用紙一&二)して、このお守りを手に入れました。

 僕にできるのはこれくらいですが。検討を祈っています。

                                     興梠


これは――! ‶求・譲〟は、よくTwitterでもやり取りされている。こっちの世界でも、できたんだ。多分、ただのお守りではないのだろう。

「興梠君……」胸に温かいものが流れた。

 さっき、「僕も参加できれば、いいんですけどね」と呟いた興梠君を思い返した。

 感動する私の横で、ミャーっと猫が鳴いた。私は、また触れないように注意しながら、首輪を外し、お守りを手にした。〝健康守〟とだけ書かれていて、寺の名前などは何も書かれていない。

私は、お守りをギュッと握りしめた。

 猫はくるりと私に背を向け、どこかへ行ってしまった。首輪を外したままだったから、着けてやりたかったけど、待ってはくれなかった。雪太もそうだったけど、動物は、こっちの世界の住人でも、チケット戦争に参加できるようだ。

 アンゲにも早く見せたい。私は、ソワソワしながら、必死にペンを動かすアンゲを見た。

鈴の着いた首輪は、リュックサックに仕舞った。お守りは、リュックサックに着けた。



 アンゲの漫画に、沓水さんたちは出て来なかった。出て来たのは、三人の女の子。


三人は、地球の上に座って、煌めく星を指差して、うっとりしている。

 一人が、「あの星を近くで見たい」と言い、三人は、体力作りを始める。自転車を漕いだり、ランニングをしたり、筋トレをしたり。汗をかき、疲れた表情を見せながらも、真剣に取り組んでいる。

 でも、一人がランニングの途中で、倒れ込み、「もう出来ない!」と泣き始めた。

他の二人は、泣いている子を慰めた。「あの綺麗な星を、一緒に近くで見ようよ」

 すると、その子は、涙を拭いて、もう一度、走り出した。

 最後のコマでは、煌めく星の近くを遊泳する三人の姿。「頑張って良かったね」と、微笑み合う。


 この三人って――。

「私たちがモデルだよ。推し活って、対推しだけじゃなくて、横の繋がりも、尊いんだよね」

 危うく、涙腺が緩みそうになった。アンゲの優しい絵が、私の情緒を揺さぶる。

「私ね、推し活って、ある意味で、おもちゃだと思っているんだ。どんなに気に入っていても、いつかは、推しに対して心が動かなくなる日が来る。古いおもちゃのように、埃を被っていく。でも、夢中になった時間を共有した友達がいれば、一瞬で、その頃の思い出が蘇る」

 その通りだと思った。いつか、沓水さんに対する、この感情が消えたとしても、推し活で充実していた日々だけは、心に残り続けて欲しい。そのシーンには、いつも、アンゲとイエリンがいる。

「私、さっき、ワンドロのお題で、色ちゃんたちを裏切りそうになったけど、出来上がった漫画を見返した時、色ちゃんたちの顔が浮かんだんだ。いつも、色ちゃんたちが、気に入ってくれるかな? って考えるから。だから、自分が間違ったことをしようとしていたことに気が付いた」

 アンゲの瞳が潤んだ。多分、私たちは今、同じ目をしている。

「でも、アンゲは、最終的に、私たちを選んでくれた。それなのに、私は……」

「本当は、ちょっとショックだったよ。色ちゃんが、私たちより、月猫さんを選ぶなんて。でも、きっと、そうじゃないんだよね。色ちゃんは、私たちを選ばなかったわけじゃない。ただ、同担に対して、酷いことができなかっただけ。沓水さんと同じで、色ちゃんも、仲間想いだから」

 私は、アンゲをハグしていた。

「ありがとう」

 友達に対してハグなんかしたの、生まれて初めてだ。

私は、沓水さんたちが、ワチャワチャやっているシーンが好きだった。実生活では、人といい関係なんて簡単に築けないから、羨ましかった。

でも、いつの間にか、私は、欲しかったものを手に入れていた。

 アンゲもハグを返してくれた。百五十五㎝、私より、十㎝低い。アンゲが、私の背中を優しく二度叩いた。

 さあ、切り替えて、戦闘モードだ。

 アンゲは、漫画をTwitterにアップした。

 多くのヘイターたちが、ヘイト活動から降りてくれますように――。

「色ちゃん、そんなお守り着けていたっけ?」

「このお守り、興梠君が地域猫を使って届けてくれたんだ」

 私は、アンゲに、リュックサックに着けたお守りを見せた。

「沓水さんのお寺のお守りじゃないんだね?」

「興梠君からの手紙には、写経用紙と物々交換で手に入れたって書かれていたから、普通のお守りじゃないんだと思う」

「心強いね。流石、興梠君」

 そこから少し歩いたところに、スタンプラリー・スポットがあった。鍾乳洞だ。

 これは、映画ではなく、アニメのシーンだが、沓水さんは、蠟燭を手に、暗い鍾乳洞の中を入って行った。深白寺ではなく、別の寺(ファンにより、ある寺をモデルにしている、と特定されていた)の中にある。鍾乳洞の中に、壁に掘られた文字があり、そこが写真スポットだ。

 鍾乳洞は、昼間なのに、真っ暗だ。入り口には、未使用の蠟燭が沢山と、火の着いた蝋燭が一本、置いてあった。それに、ヘルメットも用意されている。ヘルメットを被る必要があるほどの危険がある、という事実が、背中に冷たく圧し掛かる。

 踏み込むには、勇気がいる。でも、やるしかない。

 火の着いた蝋燭から、未使用の蠟燭に火を分け、アンゲと一本ずつ持った。予備の蝋燭も数本ポケットに入れる。

「いざ」思わず、武士のような掛け声が出た。

 足を一歩、踏み入れる。中は、ひんやりと冷たかった。

 足場はしっかりしているけど、鍾乳洞だから濡れている。滑らないように注意が必要だ。蝋燭の明かりでは自分の足元くらいしか見えないから、何が起きるか予測できない。何か落ちてくるかもしれないし、何かにぶつかるかもしれない。一歩足を進めるのすら、勇気がいる。ゴキブリや鼠が出て来るかもしれない……。

「色ちゃん、怖いよ……」後ろから、アンゲの声がした。声は、震えていた。

「私に捕まっていいよ」

 本当は私も怖いけど、こういう時、強がる癖がある。子供の頃から、ボーイッシュな見た目で、身長も高かったので、頼りにされることが多かったからだろう。人から頼りにされるのは、嬉しいし、応えたいと思ってしまう。本当に強いわけではない。

 本当に強いのは、沓水さんのような人間だ。よっぽど緊迫した場面以外は、泰然自若としている。

 でも、本当にそうなのかな? ふと思った。もしかしたら、沓水さんも本当は怖いのかもしれない。それでも、頼りにしてくれた人を守るために、強くあろうとしているのかもしれない――。

 静かな空間の中、水音がやたらと耳に響いた。

 アンゲが、私の服を強く掴むのを感じた。

「何か、楽しいことを考えよう! そうだ! もし、沓水さんに会えたら、どうする? 興梠君や小牧原や雪太に会えたんだから、沓水さんにも会えるかもしれないよ」

「まず、ファンだって伝える。それから、沓水さんのファンになって、幸せだって伝える。それから、もし許されれば、一緒に写真を撮ってもらいたい。あと、私が企画した生誕祭の写真を見て欲しい」

 声だけしか情報がないけど、声は震えていない。弾んでいるように聴こえる。いいぞ、その調子だ。

 こんな時でも、推しの存在が光となって、心を明るく照らしてくれる。いや、辛い時や苦しい時ほど、私たちを勇気づけてくれるのかもしれない。

沓水さんがこれまで、私たちに見せてくれた勇気が、頭の中に蘇る。

 推しが心の中にいさえすれば、どんな困難にも立ち向かって行ける気がした。

 話しているうちに、私の服の裾を掴むアンゲの力が弱まって行った。

 その時、先のほうに、明かりが見えた。

「あそこ、フォトスポットじゃない?」

 蝋燭の明かりだけでは、心霊写真のようになってしまうので、フォトスポットには、ライトが用意されているのかもしれない。

 目的地が見えると、私たちの足取りは、途端に軽くなった。

 近づくと、案の定、小さなライトが着いていて、壁には文字が書かれていた。ちゃんとは読めないけど、「争いがなくなって欲しい」と、昔の人が詠んだ歌のようだ。

 私とアンゲは、交代で、写真を撮り合った。蝋燭の明かりを翳し、文字を読んでいる横顔の写真。ライトは、写真に写らないように注意する。

「よし、再現達成! これで、スタンプが貰えるね」

 私はふと、この後の展開を思い浮かべた。他の再現スポットも、こんなに来づらい場所なのだろうか?

「私たちの推しって、変わったところに行き過ぎだよね。もっと、映えスポットとかに行ってくれればいいのに。ハワイのビーチとか」

「でも、それじゃあ、沓水さんじゃないでしょ」アンゲは苦笑いを浮かべた。

 確かに、ハワイのビーチでアロハしている沓水さんは想像できない。一瞬、想像し掛けて、噴き出しそうになった。

「それも、そうだね。変わった人を推しにしてしまった、私たちの宿命か」

 二人の笑い声が洞窟の中に転がった。幸せそうな声に聴こえた。

 沓水さんと同じ空気を吸えるなら、私たちは、どこへでも行く。

 出口へ向かう道は、また暗くなったけれど、アンゲも行きほど怖がらなかった。

 日の光を感じると、程なくして、外に出た。

 すぐに、写真をTwitterにアップした。

「ミッション・クリアだ!」

 聖地巡礼マップを見ると、鍾乳洞の横にあるスタンプを押すスペースに、スタンプが追加された。

 更に、続きのマップも現れた。スタンプ欄は、あと一つ。横に、山の絵が描かれていた。

 嫌な予感がした。沓水さんが登った山と言ったら、日本でも有数の難関コースだ。いつか再現したいと思って、少しずつクライミングのトレーニングを積んでいたけど、こんなに早く、その日を迎えるなんて――。

 ストップウォッチを見た。

 しかも、残り時間、五十分。



 スタンプラリー・スポットに行くと、想像していた通りの山だった。

 長野―岐阜間にある、穂高連峰。

 説明が書かれた看板とヘリコプターが待っていた。

看板を読むと、今回の再現スポットは、標高三千百九十mにある奥穂高岳の頂上。

ヘリコプターで、馬の背と呼ばれる場所の手前までは、連れて行ってくれるようだ。

つまり、私たちのミッションの範囲は、馬の背から奥穂高岳までの、約十五mになる。早い人だと十数分くらいで登れる距離だ。

だが、この〝馬の背〟は、急峻な痩せ尾根で、日本屈指の難所と評されている。一歩間違えると、谷底へ一直線、確実に重症以上、らしい。

ストップウォッチを見ると、チケット戦争の残り時間は、約四十七分。

聖地巡礼マップ上は、まだ先があるので、ここで時間を使い過ぎると、クリアは絶望的になるだろう。最大でも、三十分か。それ以上は、いられない。

アニメ版『沓水さん』で、沓水さんは、奥穂高岳の頂上に立って、遠くの山々を見つめていた。私は、それを見た時に、いつか行きたいと思って調べたので、若干の知識はある。それ故に、想像するだけで、身体が震えてくる。

〝馬の背〟は、ナイフリッジと呼ばれている。その名の通り、ナイフの刃のように切り立った尾根だ。距離は短くても、足場を確保できるルートを探すのは、大変なのだろう。それに、サクサクは歩けるはずがない。だって、左右がないのだから。どれだけ怖いだろう? 想像を絶する。

 看板には更に、〝止まったまま数分が過ぎると、リタイアと見做す〟と書かれていた。

ヘリコプターの中には、ヘルメットとグローブと登山靴が置いてあった。

「何で、私たちの推しは、こういう場所ばかり行くのかな……」

 さっき結論が出たけど、また同じ問いを繰り返した。この山を登らないといけない恐怖が、沸々と疑問を沸かせた。

 アンゲは、顔が強張っていた。無理もない。アンゲは私と違って、登山経験が浅い。いきなりこんなに難易度の高い山は無理だろう。止めさせてあげたい。でも、リタイアになってしまう。

「アンゲ、大丈夫? じゃ、ないよね……?」

 アンゲは、鼻から息を吸った。

「大丈夫。色ちゃんがいるんだもん!」

 可愛い。妹のようなアンゲ。私は、ヘルメットを手に取り、アンゲに被せてあげた。自分の頭にもヘルメットを被せ、靴を履き替え、グローブをはめる。

「じゃあ、行こうか」

 ヘリコプターに乗り込むと、自動運転で空に上がった。

 山を見ながらヘリコプターに乗るのは、心が弾む。標高三千級の山でも、ヘリコプターに乗っていれば、グングン進める。

「色ちゃん、綺麗だね!」アンゲの声も、今は恐怖に支配されていない。

 このまま奥穂高岳頂上まで運んでくれればいいのに。そんな甘くは、ないだろうけど。

 ちらっと、眼下を見下ろすと、だいぶ上に来ていた。途端に、また恐怖が襲って来た。

 一分くらいヘリコプターに乗った後、平らな場所に下ろされた。

足場はあるけれど、ここでも、既に高くて、怖い。

 ここが、奥穂高岳の頂上付近か――。青い空と白い雲と、向こうに連なる山々が見える。

 綺麗だけど、感傷に浸っている余裕はない。

 馬の背の方向を見た。噂に聴く難所が、目の前に広がっている。見えるのは、岩々の塊で、足場なんて、なさそうだ。

「アンゲ、慎重にね」

「うん」アンゲの声は、震えていた。身体も相当に固くなっているようだ。

 もしも、アンゲが動けなくなった場合、どうしよう。制限時間があるから、二人で止まっているわけにはいかない。それに、この場所では、二人でくっついては歩けないので、アンゲを支えてあげることもできないし――。

 アンゲが私を見た。

「色ちゃん、どっちか一人は、時間内に再現スポットに到着して、写真を撮らないといけないでしょ? だから、もしも、私に何かあっても、構わずに進んで欲しい。私も、自分のことは自分でどうにかする。沓水さんのために、チケット戦争に勝つことを優先しよう」

 私は、ハッとした。震えている声や身体に比べ、アンゲの目の力は強かった。

アンゲの覚悟を、受け止めないわけにはいかない。

「分かった」私が頷くと、アンゲは少しだけ、目元を緩めた。

「私、何があっても、リタイアはしないから。どんなに怖くても、少しずつは進む」

 私たちは、抱擁を交わした。

 アンゲの想いは、受け止めたよ。

 私は、馬の背に向かって、歩みを進めた。

 耳のような尖った岩が二か所ある部分が見えた。馬の背の入口だ。白い文字で、〝ウマノセ〟と書かれている。白い丸で記された、足場の印も見える。

 私は、覚悟を決めて、岩場を登り始めた。

 想像した通り、足場がない。一歩踏み間違えれば、谷底へ一直線、は事実だ。怖くて、手を着きながらしか、進めない。制限時間が、重く圧し掛かる。時々、リュックサックの中に入れた首輪に着いた鈴が、ちりんちりんと鳴る音だけが聴こえる。

 少し風が吹いた。それが、堪らなく怖かった。普段なら何でもないような風でも、ここで感じると、わけが違う。些細なことが、全てを壊わしてしまうかもしれない。

立っていられなくなって、四足歩行になった。もう、岩にへばりつくような密着度だ。格好悪いけど、今、私を守ってくれるのは、岩しかない。

自分の息が、緊張で荒くてなっているのを感じた。

でも、今は、進むしかない。

僅かな隙間に、指を入れ、足を入れる。足の置き場が小さいところは、足が抜けなくなる。力を入れて、引っ張る必要があった。バランスを崩しそうなので、本当に怖い。

うっかり、左右を見ると、高度感で、気を失いそうになる。馬の背にいる間は、二度と見ないようにしよう。

大きな一歩で登った岩が揺れた時は、もう、本当にダメかと思った。何とか、何事もなく、先へ進めたけど。

もし、無事に登り切っても、私は、百歳くらい老けているかもしれない――。

恐怖と戦いながらも無心で進んでいると、もうすぐナイフリッジを越えると分かった。前に見える景色に、ちゃんとした足場がある。

それに鼓舞され、心のギアも上がった。

もう少し――。

馬の背を越え、安定した足場ができると、恐怖は消えた。岩場なので、相変わらず登りにくさはあるけれど、それくらい、もう何ともない。

馬の背を振り返ると、ナイフリッジにしがみ着くアンゲが見えた。ちょうど、背中のくぼみの辺りにいる。一番怖い頃だろう。自分がそこにいた時も、もちろん怖かったけど、傍から見ると、別の怖さがある。

あそこから落ちるのも恐ろしいけど、あそこから動けないのも、生き地獄だ。

でも、よく見ると、アンゲは、ほんの少しずつ進んでいた。

アンゲの言葉を思い返し、目頭が熱くなって来た。

本当に心が苦しかったけど、私は思い切って、前を見た。

早く、奥穂高岳の頂上まで登り切って、再現しよう。

黙々と進むと、頂上に辿り着いた。ストップウォッチを見ると、登り始めてから、約二十八分。時間は掛かったけど、目標の範囲内には収まった。

リュックサックから自撮り棒を出し、遠くの山々を見つめる自分を撮った。すぐに、Twitterにアップする。

聖地巡礼マップを開くと、スタンプが浮かび上がった。

スタンプラリーを制覇できた。大きな達成感が胸に湧き上がる。

だけど、それを分かち合いたい人たちが、傍にいない。

ヘリコプターの音が聴こえ、私の傍でドアが開いた。私は、一人で乗り込んだ。後ろ髪を引かれたけれど、覚悟を決めたアンゲの目を思い出して、振り返らなかった。

私が乗るとすぐに、ヘリコプターは出発した。

聖地巡礼マップを見ると、チケットまでの道筋が描かれていた。

チケットを手に入れる準備が整った。



 ヘリコプターが、元の場所に着いた。

「色~!」後ろから、声が聴こえた。

 振り返ると、イエリンが、急ぎ足で来た。でも、歩き方がぎこちない。無理して追い掛けて来てくれたのだろう。

「遅くなって、ごめんね。アンゲは?」

「スタンプラリーのミッションで、時間制限があって――」

 イエリンは、状況を理解してくれたようだった。

「でも、二人がここまで繋いでくれて、良かったよ。私、ここから、頑張るから」

「足、痛そうだし、無理しないでね」

私が、イエリンの足を見ると、イエリンは、苦笑いを浮かべた。

「まあ、足はまだ本調子じゃないけど。それ以外のことで、貢献するよ。休んでいた分、足以外の元気はあり余っているから!」

 何はともあれ、イエリンの明るさと前向きさがあるだけでも、元気づけられるのは、確かだ。

「あ! あそこに、人力車がある! 前、浅草で乗ったことあるんだ。あれに乗ろうよ! 若いお兄さんだから、スピード出してもらえるかもしれないし」

イエリンが足を踏み出した時、例の臭いが、私の鼻を掠めた。

「イエリン、危ない!」私は、身を挺して、イエリンを庇った。

 突然、視界が真っ暗になった。どうやら、地雷を踏んでしまったようだ。

 映画『沓水さん』のシーンが見えた。

 沓水さんは、桃華にナイフで滅多刺しにされ、口から血を吐いている。

 私は、思わず、声にならない悲鳴を上げながら、口を押さえた。

 IKUIも出て来て、例の鋭い牙で、沓水さんにとどめを刺した。首に噛みつき、盛大な血飛沫が上がった。

「いやぁぁぁぁぁぁ――――――――」

叫び声を上げると当時に、目が覚めた。

どうやら、幻覚を見ていたようだ。

起き上がろうとしたけど、身体に異変を感じた。小牧原が行っていた〝ダメージ〟って、こういうことか。

「色! 大丈夫? ごめん、私を庇ってこんなことに――」

イエリンが、心配そうな顔で私を見ている。よっぽど、私の顔色は悪いのだろう。

 私は、強烈な吐き気を催し、口を抑えた。それに、酷い悪寒がする。寒くて身体が震えている。インフルエンザに罹った時よりも、体調が悪い。このままでは、チケットを目指して進めない。でも、手負いのイエリンを一人で行かせるわけにはいかない。

 私は、とりあえず、吐くことにした。リュックサックにビニール袋が入っているので、取り出そうとした時、手が、サイドに着けていたお守りに当たった。興梠君がくれたお守りだ。

 次の瞬間、お守りが自動的に結び口を開けた。

中から、半分に折られたB5サイズの紙が出て来た。お守りよりもずっと大きな紙が、結び口から出て来た。やはり、ただのお守りではなさそうだ。

手を延ばして紙を掴む。開くと、微かに墨の香りがした。

沓水さんの絵だ。以前に、興梠君がトレーニングに使ったもの。私は、思わず、絵に見入った。

美しく、エロい絵。水墨画ということもあり、初夏の新緑の中を流れる水のような清々しさ。それにも拘わらず、パーツパーツは、甘い汁を滴らせている。沓水さんのトレードマークの唇は閉じられているけど、逆に禁欲的な艶めきがある。色気溢れる流し目を見ていると、身体が火照ってくる。こんな時でさえ、私は、エロと美に反応する。

その時、光に包まれたような明るさを感じた。吐き気は治まり、身体を襲っていた悪寒は消えた。

いったい、どういうことだろう――?

「色、顔色が良くなったね。それ、もしかして、沓水さんの絵?」

 私は、水を飲んだ。自分でも急激な変化に驚いたけど、やっぱり、体調は戻っている。

一呼吸置いた後、返事をした。

「体調は良くなった。多分、地雷でダメージを受けても、推しのイケまくった絵を見ると、ダメージが緩和されるんだと思う。Twitterでも、そうじゃない? うっかり地雷を踏んで、見たくない投稿見て、精神的なダメージを受けた後でも、推しのイケまくった絵を吸収すると、命が助かるやつ」

「ある! 間違いなく、そういう時、ある!」

「地雷踏んだ時だけじゃなくて、仕事で面倒臭いことに巻き込まれた時とかも、トイレ行って、推しを吸収すると元気になるしね」

イエリンは、私の言葉に激しく頷いた。

やっぱり、〝推しの美とエロは万病に効く〟は、真理だった。

 水墨画は手元に残ったけど、お守りの袋は消えてしまった。一回使用すると、効力を失うのかもしれない。

 私は、丁寧に水墨画を畳み、リュックサックに仕舞った。後で、じっくり堪能させて頂こう。

 ふとスマフォを見ると、月猫からメッセージが入っていた。

『一成さまのヘイター、急に離脱者が増え出したみたい』

 ピンと来た。私は、イエリンを見た。

「敵は、離脱者が増えている。さっき、アンゲが投稿してくれた漫画が効果を発揮しているんだ」

 アンゲにも、この事実を伝えてあげたい。アンゲが描いた漫画は、愛を拗らせたヘイターたちの心を動かしている。ミッションをクリアしなければ、この事実は消えてしまうけど、ミッションをクリアすれば、伝えられる。

 私は、イエリンを見た。

「今が攻めるチャンスだと思う」

 イエリンは、ストップウォッチを見た。残り時間は、約十分。

「もう少し様子を観察しよう。こういう、相手が崩れ始めた時に仕掛けると、返って一致団結させる可能性がある。もう少し待って、敵がもっと減って来たら、一気に攻め込もう。兵法では、趁火打劫って言うんだよ」イエリンが、冷静に応えた。

 普段のイケイケどんどんのイエリンと違った一面で、痺れた。

「分かった」

 私は、敵の撃つ銃声に耳を傾けた。この数が、減ってくるはず。

「色。趁火打劫ではね、ここぞという時に、電光石火のごとく攻め込めるかが勝敗を分けるポイントなんだ。だから、先に、作戦を決めておこう」

 イエリンを見ると、意思の籠った目をしていた。さっきのアンゲのように。

 イエリンは、何か作戦を持っているようだ。私は、頷いた。

「兵法に、声東撃西っていう言葉がある。意味は、東に行くと声を上げて、西を撃つ。つまり、東に囮を仕掛けるってこと」

 私は、息を呑んだ。

「私が、囮になる」イエリンが、自分を指した。

 聖地巡礼マップを広げて、私に見せた。

「ちょうど、道は二手に分かれている。右側、つまり、東に私が進み、左側、つまり、西に色が進む」

「待って。その作戦は賛成だけど、囮役なら、私が――」

現実に戻れば無傷とは言え、炎上すれば、相当な痛みだろう。それに、すぐに死ねるとは限らない。熱さにのたうち回る時間があるかもしれない。

「私の足はこんなだから、早く走れない」イエリンは、挫いたほうの足を指した。

 私は、ハッとした。確かに、囮が敵の注意を引いている間に、チケットをゲットするには、スピードが必要だ。

 イエリンは、私を励ますように、口角を上げて見せた。

「炎上が怖くて、推し活なんてやってられるか! それに、私は、煽り姫だよ。声帯だけは、強い。声を上げるのは、私の専門」

 イエリンも、もう覚悟を決めている。

 やるしかない――。

「分かった」

 私が答えると、イエリンは、今度は顔全体で笑った。

「チャンスは一瞬。でも、色なら絶対に、チケットをゲットできるよ!」



 私とイエリンは、木の陰に隠れて、敵の様子を伺っていた。

 想像した通り、時間が経つにつれて、銃声の数は減って来ている。

残り時間、五分。

チケットまでの距離は三百mくらいだから、走れば一分も掛からない。だけど、障害がないとも限らない。これ以上待つと、時間切れのリスクが高まる。そろそろ、決行の時だ。

「じゃあ、私、行くね!」

 イエリンが、一歩、右の道のほうに出た。

「お願い!」

 私は、一歩、左の道のほうに出た。

 イエリンは、すぐに走り出した。足を挫いているはずなのに、走っている。

 次の瞬間、これまで聴いた中でも、一番大きな叫び声が聴こえた。

「ああああああああ―――――」

イエリンは、「私は、ここにいる」と、敵にアピールしている。

 左右から聴こえていた銃声は、右に偏り始めた。

 イエリンは、声を上げ続けている。

 次は、私の番だ。

 左の道に向かって、なるべく音を立てないように気をつけながら、猛ダッシュで進む。

 反対側では、イエリンの声と、激しくなる銃声が聴こえる。

 チケットが見えた。あと少しだ。

 その時、イエリンの苦し気な声が上がった。撃たれたのだろう。だけど、今は、横を見てはいけない。

 そのまま、前を見て走った。

 チケットは、すぐそこだ。手を延ばした。

 その時――。

 大きな風力に、吹き飛ばされた。

 そのまま地面に叩きつけられるように転がった。

 目を開けると、見覚えのある黒いマント。金色の鋭い牙。

 IKUIだ――。

 大きい。五mくらいあるかもしれない。牙も、まるでナイフのような大きさだ。

 映画でもアニメでも、IKUIは、後ろ姿か斜め四十五度くらいしか描かれていなかった。だから、正面からは、初めて見る。

 ずっと、マントの下は、鬼のような生き物がいるのだと思っていた。だけど、違った。ブラックホールのような黒い背景の中に、口だけが浮かび上がっている。

 あの口に喰われたら、私もIKUI側の人間になってしまうのだろうか?

 操られて、沓水さんと戦うことになるの? それだけは、絶対に嫌だ。

IKUIは近づいて来る。

圧倒的な迫力に、私は、後ずさりした。吹き飛ばされた時の衝撃で、リュックサックが肩からずり落ちていたけど、直している余裕はない。ポケットに入れていた銃は、少し離れた場所に転がっている。

チケットはすぐそこに見える。でも、私は、こんな化け物と対峙できる力を持っていない。何かで気を逸らしたいけど、もう、私の傍には、仲間がいない。

どうすれば――。

IKUIは、もう、私の十mくらい近くまで来ている。

チケットを手に入れられないなら、自分を消したほうがマシなのだろうか? IKUIの力は弱められないけど、このままだと、間違いなく、喰われる。ワーストケースは、チケットを手に入れられず、且つ、沓水さんの敵が一人増えるというシナリオだ。自分を犠牲にして私を進ませてくれた、アンゲやイエリンのためにも、そんな事態だけは、何としても避けなければならない。

でも、自分を消すためには、何かしらで、自分を始末しないといけない。銃が手元にない今、私が使えるものは、リュックサックの中にあるものだけ。自分に致命傷を負わせられるような道具なんて、ない。

頭の中で、あれこれ考えながらも、立つことすらできない。尻餅を着きながら、足を動かすのが、精一杯だ。

間の悪い事に、リュックサックが肩から、地面に落ちた。

IKUIは、もう、私の五mくらい近くまで来ている。

もうすぐ、喰われる。

私は、後ろ手で、リュックサックを漁った。何かで、自分を消さなきゃ。

固いものが手に当たり、チリンという音が聴こえた。

目の前では、IKUIの口が、大きく開いた。飲み込まれる。

私は、どうなってもいいけど、沓水さんの負荷を、これ以上増やしたくない――。

強い風力を感じ、思わず、目を閉じた。

だけど、すぐに風力を感じなくなった。

恐る恐る目を開ける。

すると、何かの力に邪魔されて、前に進めないIKUIの姿が目に入った。

どういうこと――?

私は、ハッと気づいた。私の周り半径三mくらいに、結界が張られている。

何が起こったか、すぐには理解できなかったけど、ピンときた。

さっきの、チリンという音。沓水さんが可愛がっている地域猫が着けていた鈴。あれは、魔除け鈴だったんだ。

でも、鳴ったのは、今だけではない。リュックサックの中に入っていたので、何度か音がしていた。どうして今だけ、結界が張られたのだろう?

疑問が頭を過ったけど、私は、我に返り、急いで立ち上がった。制限時間があった。それに、結界は、ずっと張られているわけではない。早く、チケットをゲットしないと!

チケットのほうに走り、ダイブしようと飛んだ時――。

ズドン!

大きな音が聴こえた。

私は、チケットに手が届かずに、地面に落ちた。

撃たれた――。

幸い掠っただけのようだけど、足が火傷した。

銃声のほうを見ると、見覚えのある女性が立っていた。

あの人は、確か、伝説の沓水さんファン。ハンドルネーム=ヒイラギさん。

記事で見たことがある。小説『沓水さん』の連載が始まった頃からのファンで、当時はまだ人気がなかったので、熱心に布教活動をしていた人だ。

ヒイラギさんたちが声を大にして沓水さんの魅力を叫んでくれたから、アニメの関係者の目に留まり、アニメ化に繋がった。そして、現在の人気に至る。

後輩ファンの私たちにとっては、足を向けて寝られない存在。

そのヒイラギさんがどうして――?

私は、驚きのあまり、ヒイラギさんから目が離せなかった。

「何故、沓水さんのファンが、私に銃を向けるの? って顔しているわね」ヒイラギさんは、好戦的な声をしていた。

「あなた、ヒイラギさんですよね?」

「違う! 今は、ノコギリ」

 また、聴き覚えのあるハンドルネームが出て来た。有名なヘイターだ。私も攻撃されたことがある。

「柊の葉って、ギザギザしているでしょ? だから、ノコギリ。私は、変わったの」

 私は、ショックを受けた。あのヒイラギさんの正体が、ノコギリだなんて。

「どうして?」

「あの人が、私を裏切ったからよ」

〝あの人〟って、沓水さんだろうか? でも、裏切るも何も、沓水さんは、二次元のキャラクターだ。裏切りようがない。

「あの人は、昔は、あんなキャラクターじゃなかった。話自体も、もっと骨があった。それなのに、腐女子の餌だか何だか知らないけど、どんどん商業的な受けがいいほうへ落ちて行った。私は、あんな彼を、見たくなかった――」

確かに、当時からのファンの中には、『沓水さん』が腐女子向けコンテンツに偏ったせいで、怒ってファンを辞めてしまった人もいると、聴いたことがある。

特に、私がファンになった二年半前、アニメ版で、沓水さんの過去が描かれていた。過去に助けてくれた男性がいて、沓水さんは、その人に憧れて、魔物から人を助けるようになったというエピソードだった。そこに、ほんのり恋愛的な要素を匂わせていた。

私たち、腐女子の火を点けた話だけど、昔からのファンは、ご都合主義の捏造もいいところだと、怒っていた。

 もしかしたら、ヒイラギさんも、そのエピソードが気に入らなかったのだろうか?

 だけど――。

「そんなことで?」

思わず口にして、直後にしまった、と思った。熱心なファンほど、愛を拗らせるとマイナスの方向に大きく振れる。

ヒイラギさんの目つきが変わった。目には、憎しみが宿っている。

「あんたたちみたいなキモいオタクのせいで、あの人は変わってしまったの。必死に応援したのに、見たくない沓水一成を見せられ続ける私の気持ちが、あんたに分かるはずがない!」

 ヒイラギさんの主張は、自分勝手だ。応援すると決めたのは、自分なのだから。

でも、複雑なことに、私は、ヒイラギさんの気持ちも理解出来た。一生懸命応援すればするほど、理想の推しと違う姿が許せなくなる。私も、学生時代に嵌ったバンドの歌手に、同じ想いを抱いた記憶がある。

誰にでも、愛を拗らせる日が来る可能性はある。彼女は、私だったかもしれない――。

「これ以上、醜態を晒されるくらいなら、沓水一成を始末する。だから、その前に、まずはあんたを消す」

 不思議なことに、こんな状況にも関わらず、私は、ヒイラギさんに関心を抱いていた。

「沓水さんの、どんなところが好きだったの?」

 ヒイラギさんの顔は、余計に険しくなった。

「そんな黒歴史の話、するわけがないでしょ」

 言い方に腹が立ったけど、ここで、揉めている場合ではない。

「ヒイラギさんの気持ちも分かるけど、元・推しを恨んだって、何もいいことなんてないよ。他の推しを探すとか、もっと、自分のためになることをしたら? あれだけ、熱心に推し活できる人だもん、そのほうが絶対に楽しいよ――」

「黙れ! 私は、すべてを沓水一成に捧げたんだ! その時間を、そんなに簡単になかったことにできるわけがないだろ!」

 ヒイラギさんは、再び、私に銃口を向けた。

 執着。ヒイラギさんの、沓水さんに対する今の気持ちは、それだ。話が通じる状態ではない。

「ヒイラギさんには、感謝している。本当は、戦いたくない。だけど、私は、沓水さんを守るって決めたんだ」

 私の傍には、さっきポケットから転がった銃が落ちていた。それに手を延ばし、ヒイラギさんに向けた。

 ヒイラギさんは、一瞬、ビクッとした。

「それに、私は、同担仲間の協力があって、ここにいる。負けるわけにはいかない」

 鼻で笑う声が聴こえた。

「同担が嬉しいのは、最初だけ。女同士が、同じ男を巡って、仲良くなんてできるわけがない」

 私は、アンゲやイエリンの勇気を思い返し、つい、カッとなった。

「そんなことない! 皆で協力したから、ここまで来れた!」

 ヒイラギさんは、癪に障ったような顔になった。

私の、火傷した足を見ながら、挑発して来た。

「その足、痛い? せっかく、痛みに耐えて、沓水一成を守っても、あの男は、何も返してくれない」

 私が、反論しようと、口を開きかけた時、ヒイラギさんは、反対側の私の足を目掛けて、銃を撃った。

 寸でのところで躱したが、こっちの足も火傷を負った。すぐに水を掛ける。

 激しい痛みが走り、私は、持っていた銃を落とした。思わずしゃがんだ。

「あんたに、それを、分からせてやる!」残忍な顔が見えた。

「そんなに、仲間仲間って言うなら、あんたも、ヘイターになろう!」

 足の痛みより、怒りが勝った。私は、ヒイラギさんを睨みつけた。

「次は、顔かな」ヒイラギさんは、私の顔に向かって、銃を向けた。

 心臓が、大きく揺れた。いくら、現実に戻った時には無傷とは言え、顔を燃やされるのは、怖過ぎる。

 でも、アンゲとイエリンが示してくれた覚悟が、頭に浮かんだ。

 引かない。

 私は、立ち上がり、ヒイラギさんのほうへ一歩出た。

 私の覚悟が伝わったのか、ヒイラギさんが少し怯んだのが分かった。

 その隙を見計らって、ヒイラギさんの腹に渾身のパンチを喰らわせた。

 見事決まり、ヒイラギさんは、呻き声を上げながら、仰け反った。

 今だ!

 私は、ヒイラギさんの先にある、チケットのほうへ走った。

 だが、足を掴まれた。身体が地面に叩きつけられた。勢いで、リュックサックに入っていたものが散らばった。さっき、ファスナーを最後まで閉められていなかった。

 チケットまで、あと、三十㎝くらいだったのに。

 力強く、足を引っ張られる。抵抗しながら、ヒイラギさんを見ると、鬼の形相だった。私を、魔界に引きずり込むつもりだ。

 何故、ここまで?

 もう、私の理性も、吹っ飛んだ。

「あなたは、沓水さんに対して、〝してあげた〟って言うばっかり。推しから、〝貰った〟ものだってあるはずなのに」

 突然、私を引っ張る力が弱まった。

 ヒイラギさんは、私のリュックサックから落ちた、沓水さんの絵を手に取り、開いた。

「あの人が、このまま壊されていくくらいなら、全て白紙に戻して、なかったことにしたい。だから私は、IKUIに協力したんだ」

 ヒイラギさんの目から、滴が零れた。

「こんな絵、こうしてやる!」

 ヒイラギさんは、思いっ切り、沓水さんの絵を踏みつけようとした。

 私の身体は、勝手に動いた。

 ヒイラギさんに、沓水さんの絵を踏ませてはいけない、と思った。今は、絵よりも、チケットを優先させるべきだったかもしれないけれど。

 絵の代わりに、私の背中が踏みつけられた。

 容赦なく力を入れられたので、私の口から呻き声が漏れた。

 それでも、私には、言わなければいけない言葉があった。

「沓水さんのコアな部分は、全然、変わってない。仲間想いで、心が強くて、優しい。あなたが、ちゃんと見ていないだけ」

 ヒイラギさんの目が大きく開かれたと同時に、視界の端で、何かが弾けた。

 ハッとした。結界が破られたんだ。

 IKUIがこっちへ来る。

 今度こそ、喰われる。私は、優先順位を間違えた。

 IKUIが口を大きく開いた。

 ごめんなさい。アンゲ、イエリン、月猫、同担の皆、興梠君、小牧原、沓水さん――。

 その時、視界に、人の姿が映った。

 その人が、IKUIと私の間に立ち、IKUIに飲み込まれた。

 途端に、IKUIは、気持ち悪がって、苦し気な声を上げ始めた。

 私は、ようやく、何が起こったか理解した。

 ヒイラギさんが、私の代わりに、IKUIに喰われた。

 ヒイラギさんは既にIKUIに喰われたことがあるので、二度目は、共喰いになる。IKUIにとっては、相当に気持ち悪いことらしく、吐き気を催す。

 予想外のことが起こり、一瞬、唖然としたが、私は、我に返った。

 チケットを目掛けて走り、しっかりと掴んだ。

 ストップウォッチを見ると、残り一秒だった。

 チケットを手に入れた! チケット戦争に勝った!


十一


 次の瞬間には、IKUIは視界から消えていた。

 私の手は、チケットを強く握りしめていたが、手以外の全身は、一気に脱力した。

 後ろから、声が聴こえた。

「色ちゃん!」

「色」

「色之丞さん」

「色之丞」

 アンゲ、イエリン、興梠君、小牧原の声だ。

 振り返ると、皆が私に向かって、走って来た。アンゲとイエリンは、私に抱き着いた。

「やりましたね!」

「ギリギリじゃないか。心配させるなよ」

「ごめん。IKUIも出て来ちゃって――」

「IKUI!? あんな化け物と、どうやって戦ったの?」

 答えようとした時、地面に、柊の葉が落ちていることに気づいた。ノコギリのようにギザギザしているので、間違いなく、柊だ。

 頭の中に、沓水さんの言葉が蘇って来た。


いつか、もう一度、自分の中に、愛を取り戻すんだ。愛を失えば、苦しみしか残らない。


 ヒイラギさんの苦しみは、和らいだかな――?

私は、チケットを小牧原に渡した。

 小牧原は、受け取り、私たちに向かって、深く頭を下げた。

「色之丞、アンゲ、イエリン、感謝する」

 興梠君も、それに倣った。

「いやだ、やめて下さいよ。推しのためなら、これくらい、当たり前ですよ」

「本当は、沓水に、会わせてやりたかったんだが――」小牧原は、申し訳なさそうな顔をした。

 正直なところ、仄かな期待があった。だけど、私は、残念に思う気持ちを、ぐっと抑えた。理解を示すために、明るく訊いた。

「一推しには会えない、みたいなルールがあるとかですか?」

「いや、そんなルールは、ない。ただ、沓水が、推し人とは会わないと言っていて……」

 そう言えば、沓水さんは、物語の中でも、寺まで来るファンから隠れていた。本人曰く、シャイらしい。

 私は、思わず、笑った。

「沓水さんらしいですね」

「あー、会えないかぁー、残念……」

「仕方ないよね。でも、やっぱり、ちょっと残念……」

 イエリンとアンゲは、心の声が外に漏れていた。

「すみません。ここまでして頂いたのに。僕からも、沓水さんに交渉したんですけど、あの人、マイ・ルールみたいなのは、絶対に変えないんで……」興梠君は、自分も悔しい、という顔をした。

 それを見て、残念な気持ちが少し和らいだ。一推しには会えなくても、二推しや三推しと、ここまで交流できたんだもん。十分すぎるほど、幸せだよ。

「ぽい、ですよ。沓水さんぽい」

「まあ、そうだね。それに、本物の沓水さんの顔なんて見たら、心臓が止まっちゃうかもしれないし」

「夢は夢のままが、いいのかもしれないね」

 私もアンゲもイエリンも、無理矢理、自分を納得させようとしている。自分たちのことながら、健気だ。

「あのさ」小牧原が照れくさそうに、口を開いた。

「さっきは、オタクって言って悪かった。いや、そっちは、気にしていないかもしれないし、俺も悪気はなかったんだけど……。あの後、沓水に注意されたよ。人は皆、少しずつ変わっている。ラベル分けなんて、する必要ない、って」

 胸が、キュンと言い、視界がじんわり滲んだ。

 やっぱり、私の一推しは素敵だ。それに、三推しも、素敵だ。

 アンゲとイエリンも、涙を拭っていた。

「そう言えば、どうして、私たちが選ばれたんですか? 沓水さんファンなら他にも沢山いたのに」

 興梠君が、答えた。

「ずっと、自分事のように沓水さんを応援してくれていたからです」

 確かに、『沓水さん』に嵌ってからは、沓水さんのことは、他人事ではなくなった。ある意味で、誰よりも身近だった。推すことで、自分も励まされ、心の中にずっと沓水さんがいた。

 推しって、不思議な存在だ――。

「現実に戻ってからも、『沓水さん』を応援し続けて下さい。間違いなく、沓水さんの力になります」

「当たり前だよ!」三人で声を揃えると、興梠君と小牧原は、ふっと笑った。

 その笑顔にじーんとしていると、次の瞬間、映画館の座席に座っていた。


十二


 映画は終幕していた。

 館内には、私とアンゲとイエリンだけが残っていた。

 掃除の人から、〝早く出て行ってほしい〟というオーラを感じ取り、ようやく、我に返った。

 私たちは、顔を見合わせるとすぐに、席を立った。

 館内を出ると、東京・池袋の空が広がっていた。高い建物が、視界の端々に入る。

 足を見ても、無傷だった。リュックサックの中も覗いたけれど、魔除け鈴も、水墨画も入っていなかった。

現実に、戻って来た。


第六章 決戦の時



 現実に戻ってからの一週間は、あっという間に過ぎた。

 まるで、あっちの世界にいたことが幻だったかのように、ごく普通の日常が流れている。

 でも、私とアンゲとイエリンは、同じ記憶を共有している。集団幻覚にしては、完全一致しているし、鮮明過ぎる。幻なんかじゃなかったと思う。

 その答えは、明日、分かるはずだ。恒例の応援上映。

でも、Twitterを見ていると、時間が経つにつれて、ますます『沓水さん』ファンが離脱しているようだ。

 ヒイラギさんを共食いして、IKUIは吐き気を催していたけど、あれは一時的なものだ。巨大化しているのは変わりないので、沓水さんは苦戦を強いられるだろう。前回以上に、ボコボコにされるかもしれないし、もしかしたら、今度こそ、負けてしまうかもしれない。

 それでも、私たちは、興梠君や小牧原と約束した。沓水さんを応援し続ける、と。きっと、ファンの想いは、沓水さんに届く。

 逆に言えば、もう、今は、それしかできないんだけど――。

 アンゲとイエリンと、音声通話で話していると、二人共、応援上映の座席が埋まっていないことを気にしていた。

「興梠君が言っていたように、応援が沓水さんの力になるなら、座席が埋まっていないのは、ヤバくない?」

「Twitterを見ると、沓水さんは負けると思われているみたいだね」

「勝っても負けても応援するのが、本当のファンってもんだろうよ」イエリンは、悔しさを滲ませた。

 それにしても、奇妙だ。『沓水さん』は上映から五カ月も経っているのだから、結論は、ほとんどの人が分かっているはずだ。なぜ、負けると思われているのだろう? まるで、私たち以外のファンは、『沓水さん』をマルチエンディングだと思っているようだ。

 私は、ハッとした。

「もしかしたら、本当に、マルチエンディングなのかもしれない」

「どういうこと?」

「ファンの応援によって沓水さんに力を与えられれば、勝てる。そうじゃなかったら、負ける、みたいな」

「そんなこと……あるかもしれないね。この状況なら。もう、何が起きても、おかしくない」

「だから、興梠君は、応援が沓水さんの力になるって言ったのかな? 間違いなく、沓水さんの力になります、って言っていた。あれは、本当だった?」

「だったら、ますます、席埋まっていないとか、ヤバいよね。Twitterで、煽ろうよ」

 イエリンは、早速、投降した。

『ファンの想いは、沓水さんに届く。

 諦めないで、最後まで、沓水さんを応援しよう。』

 すぐに、返信コメントが着いた。

『本当に、そんなことをして、意味があると思っているんですか? 私は、沓水さんのファンなので、沓水さんが負けるのを見るのは耐えられません。』

 気持ちは分かる。この人も、苦しいのだろう。

 だけど、イエリンは、真っすぐに向き合った。

『思っているよ。私が応援すれば、沓水さんの力になって、勝利に近づくって。推しの背中を、推して推して推す! 意味がある・ないなんて、考えない!』

 言い切った。いや、書き切った。

 もしかしたら、炎上するかもしれない。でも、イエリンは、今、そんなことを気にしていないのだろう。

 私も、周りの空気なんて、気にしない。

 明日の応援上映では、声を出しまくる!

 私たちは、どうやって応援上映を盛り上げるかについて、作戦を練った。



 翌日。

 銀座の映画館。

 ホッとしたことに、昼頃、映画館のサイトをチェックすると、客席はほぼ埋まっていた。

 イエリンのツイートが功を奏したのだろう。イエリンは、フォロワー数四千人を抱えているし、私とアンゲもリツイートした。月猫も、リツイートしてくれた。

 イエリンの想いが、離脱し掛けていたファンを繋ぎ止めた。

〝沓水さん御朱印〟は、今日も貰えるようだ。ただし、転売を防止するため、映画を観終わった人だけに配る、事後形式を取るらしい。私たちにとっては、事前でも事後でも、問題ない。もう一枚手に入れられるなら、嬉しい限り。

 トイレで作務衣に着替え、お面を着け、手に団扇とペンライトを持った。フル装備で、座席に着く。

 月猫も、来ているらしいけど、私たちの席からは、だいぶ離れているみたいだ。

 館内が暗くなった。上映が始まる。

制作の会社名が表示された時、私は、「ありがとう」と、大きな声で叫んだ。

この作品を鑑賞させてくれて、ありがとう。心から、そう思う。

私に続き、館内から「ありがとう」の声が次々と上がった。

ここで、私が大きな声を出し、会場をリードすることは、予め計画していた。私は、イエリンほど声帯が強いわけではないので、声を出し続けていれば、途中で枯れるだろう。

だから、ここに勝負ポイントを定めた。

ここでの、〝ありがとう〟は、推し文化が創り出す、美しく、優しい世界。それを観客たちが感じられたら、今日の応援上映は上手く行くと思った。

私は、手応えを掴んだ。

続いて、タイトルが表示される。

『沓水さん』

いつものように、拍手と甘い悲鳴が上がった。

「待ってました!」イエリンの喉は、いつもにも増して、調子が良さそうだ。

私も負けずに、大きくペンライトを振った。

冒頭。殺人現場。人気Youtuberのアリサックスが殺された。

興梠君に連れられた沓水さんが入って来る。何度も観た、美しい顔。今日は、顔を見るだけで、泣きそうになる。

 途中で映ったIKUIの姿は、私が対峙した時よりも、小さくなっていた。チケット戦争で手に入れたチケットが、願いを叶えてくれたのだろう。通常サイズよりは大きいけど、まだ、勝てる可能性がありそうだ。

 応援にも、力が入る。

 私たちは、がむしゃらに声を出した。序盤は飛ばし過ぎないほうがいいとか、そんなの関係ない。

 私たちの熱量が伝染してか、会場全体も、活気のある雰囲気になった。

 一体感がある。これなら、勝てるかもしれない。

 前向きな空気で館内が満たされる中、物語は終盤へと突入した。

桃華と対峙するシーン。

「お嬢さん、あなたは、今から、自分の犯した罪を悔い改める必要がある。そしていつか、もう一度、自分の中に、愛を取り戻すんだ。愛を失えば、苦しみしか残らない」

「うるさいんだよ!」

 常軌を逸した桃華が、スマフォを持って、沓水さんに向けた。

いつもはここで、桃華は、魔物の表情になる。

だが、今回は、それを飛び越え、桃華はIKUIになった。

私は、衝撃で息を呑んだ。

IKUIが出て来た。あの化け物が――。対峙した時のことを想い返し、身体が震えた。

 これには、映画館にいる観客たちも、驚きの声を上げた。

沓水さんは、一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに冷静な顔に戻り、構えた。

 興梠君と小牧原も構えたけれど、一瞬でIKUIに吹き飛ばされた。

 IKUIの狙いは、あくまで沓水さんのようだ。

 IKUIって、どうやれば、やつけられるんだろう?

 対峙した時、魔除け鈴の結界は効いた。つまり、お札も効くのかな?

 沓水さんは、素早い動きで、IKUIに向かって行った。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

IKUIのマントの部分にお札を貼った。

 だが、お札は直ぐに取れてしまった。

 IKUIは、マントを翻し、沓水さんを吹き飛ばした。

 沓水さんは、木にぶつかり、思い切り背中を打った。

 館内は、静まり返った。重い空気が伝わって来る。

 IKUIは、興梠君と小牧原を見た。二人共、立ち上がってはいたが、動けずにいる。

 IKUIは、口を開けた。興梠君と小牧原を喰おうとしている。

 その時、鈴の音が聴こえた。

 沓水さんが、魔除け鈴を手に、戻って来た。

 興梠君と小牧原の周りには、結界が張られた。IKUIは、先に進みたくても、進めない。私の時と同じだ。

 私は、ふと気づいた。結界を張れる条件。それは、きっと、鈴が鳴るタイミングと、〝誰かを助けたい〟と願う気持ちが、一致した時だ。沓水さんは、今、興梠君と小牧原を助けたいと思ったのだろう。

 私は、ハッとした。つまり、陽のエネルギーが魔物に勝つ秘訣なのでは?

 私は、大きく息を吸った。

「沓水さん! 頑張れっ!」あらん限りの声で叫んだ。

 静まり返っていた館内に響き渡る。

 すると、呼応する声が聴こえた。

「沓水さん、頑張れ!」「IKUIに負けるな!」「沓水さんなら、勝てるよ」

 館内に溢れる、声、声。

皆、自分事のように、真剣に応援している。

私は視界が滲み、涙が溢れた。

その時、スクリーンの中で、何かが光った。

沓水さんが着ている作務衣のポケットの辺りだ。何だろう?

よく見ると、白い棒の先が見えた。

 あれは!

 私は、手に持っていたペンライトを見た。同じものだ。

 きっと、イエリンが、渡したもの。

 隣から、嗚咽の漏れる声が聴こえた。イエリンだ。

 私は、イエリンの腕をポンポンと叩いた。

 良かったね、イエリン。

 私も、嬉しかった。

 沓水さんは、ペンライトの明るさに気づき、ポケットから取り出した。

 館内から、驚きの声が上がった。私たち以外は、一連の裏話を知らないのだから、無理もない。まさか、沓水さんが、ペンライトを持っているなんて、思わなかったのだろう。

 私は、涙で一時的に声を出せなくなった煽り姫の代わりに、また叫んだ。

「沓水さんには、私たちが着いています!」

「そうだ! そうだ!」館内が、反応した。

 館内が盛り上がれば盛り上がるほど、ペンライトの光は強まっていく。

 私は、胸が一杯になった。ファンの想いは、沓水さんに届いている。

 その時、光が、眩しく照らしたため、IKUIが仰け反った。

 沓水さんは、その隙を見計らって、IKUIにお札を向けた。今度は正面、口を狙っている。口が急所と判断したんだ。

 だけど、これは、一か八かの賭けだ。下手したら、沓水さんが、喰われる。

 それでも、沓水さんは、躊躇わずに、向かって行った。

 私は、堪らずに叫んだ。

「沓水さん!」

 他の人の声も重なった。恐らく、館内にいる全員の声だったと思う。

 IKUIが口を開けようと、唇を動かした。

 だけど、その瞬間に、沓水さんが、お札を貼った。

 IKUIの口の動きは止まり、恐ろしい口は、黒い背景に侵食されて行った。

 赤い口が見えなくなると、黒い背景は、蒸発するように消えた。

 勝った――。

 私の胸には、安堵と達成感が広がった。

 良かった。

 目から、涙が零れた。

 沓水さんが口を開くと同時に、私たちも、同じセリフを発した。

「愛は喰わせない!」


 

 興奮や安堵や様々な感情で、まだ頭がボーっとしている。

 係の人に促されるままに劇場を出た。

出口で、〝沓水さん御朱印〟を渡された。

ようやく少し、我に返る。二枚目だけど、嬉しい。

 その時、仄かに墨の香りがした。字の部分を持っていた手が、微かに黒くなった。

 まさか、本物の墨?

 でも、前回は、ただの印刷だった。公式のホームページにも、特に、前回から変わったという説明はなかった。

 立ち止まって、呆然としていると、アンゲとイエリンが、私を見た。

「どうしたの?」

「この御朱印、墨で書かれている」

 アンゲとイエリンは、自分の御朱印を確認した。

「本当だ! 触ると、手に着く」

 私たちは、驚いて、顔を見合わせた。

「沓水さんが、くれたのかな?」アンゲが呟いた。

「私も、そう思った」

「私も」

 事実は分からないけど、私たちの心の中では、それが事実になった。

 私は、御朱印に顔を近づけて、墨の匂いを嗅いだ。

いい香り――。

〝感謝〟の文字が、心に染みた。



 映画館を出ると、既に日差しが落ちていた。

もう七月。夏の夕暮れの匂いがする。もうすぐ、暑くなりそうだ。

「今日は何を食べる?」

「パーッと、焼肉は?」

「いいね!」

 その時、後ろから、覚えのあるソプラノボイスが聴こえた。

「あの。ご飯に行くなら、私も、一緒に行ってもいい?」

 振り返ると、月猫がいた。

「もちろん」

 私とイエリンは、間にスペースを作った。月猫は、そこに来た。

「今日の『沓水さん』も最高だったね!」

 私たちは、目当ての店へ、軽い足取りで向かった。

(完)

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