矯正

星雷はやと

矯正



「……うっ……」


 体を揺られた振動で、意識が浮上する。ゆっくり瞼を上げると、停車した電車内であった。昨晩は残業を終え、終電に飛び乗ったことを思い出す。窓の外には青空が広がっている。随分と長い時間を寝てしまっていたようだ。家に帰らなくては、鞄を持ち立ち上がった。


「海か……」


 開いた扉から簡素なホームへと出る。すると潮の香が鼻を擽り、思わず顔を顰めた。眼下には、全てを飲み込むような黒い海が広がっている。俺は海が嫌いだ。脈打つように寄せては返す動きに、嫌悪感を抱く。此処は山育ちには、落ち着かない場所である。


「読めないな……」


 電柱に貼られた時刻表を確認するが、文字は擦れてしまい読み取ることが出来ない。車掌や駅員を探すが、ホームと時刻表だけがあるだけだ。思わず溜息を吐きそうになる。


「村なら誰かいるだろう」


 視線をホームの先にある漁村へと向ける。海に近付くことは憚れるが、無駄に時間を浪費するのは得策ではない。鞄を再度握りなおすと、漁村へと続く石階段を降りた。





「誰も居ないのか?」


 鬱々とした気持ちを抱えながら階段を降り終えると、漁村には波の音が嫌な程響いている。慣れない砂に苛立ちを募らせながら、人を探し歩く。


「うっ……」


 海辺独特の湿気と塩分を含んだ風が頬を撫で、思わず身震いした。纏わりつくようなその風から少しでも身を守る為に、コートの襟を立てる。一刻も早くこの場を去りたい。


「お帰りなさい」

「……っ!?」


 急に声をかけられ振り向くと、初老の女性が微笑んでいた。突然の登場にも驚いたが、彼女の発言に疑念を抱く。俺と女性は初対面である。何故、出迎えるような言葉を俺にかけるのか理解出来ない。


「如何したの? 長旅で疲れているでしょう?」

「人違いをされているようだ。俺と貴女とは初対面だ」

 

 波の音と彼女の声が重なり、不協和音を紡ぐ。知人のように語りかける女性に、俺は知り合いではないと否定する。


「何を言っているの、哲也。ほら、お家に帰りましょう?」

「……なっ、違います!」


 知らない名前を口にしながら、女性の手が俺へと伸ばす。途端に悪寒が走り、無意識のうちに一歩後退する。


「おや、山田さん家の哲也くんじゃないか! 帰ってきたのかい」

「本当だ! 哲也くんじゃ! お帰り」

「お帰り、哲也くん」

「っ!?」


 四方の民家から、次々と老若男女が出来て来る。皆、薄気味悪い笑みを浮かべながら近づいてくる光景は異様だ。


「今朝獲れた新鮮な魚があるよ!」

「哲也くんが帰ってきたから、お祝いにとっておきの酒を開けよう!」

「うっ……」


 群衆の中には、手に魚や酒瓶を持つ者も居る。得意げにそれらを掲げるが、酷く濁り悪意を煮詰めたような色だ。到底、食料だとは認識することは出来ない。不快感から、思わず顔を逸らした。


「さあ、帰ろう」

「やめろ! 離せ! このっ!」


 人々は俺の両腕や肩を掴む。鞄を使い振り払うが、新たな腕に掴まれる。多勢に無勢だ。鞄が砂の上に落ちる。


「ほら、お家に帰ろう」

「大丈夫、皆一緒だからね」

「怖くない怖くない」

「帰ろう」


 忌々しい海と同じ色を湛えた視線が、俺に降り注ぐ。耳鳴りがする。頭が割れる程に痛む。叫びたい。酷く喉が渇く。逃げだしたいのに、足が砂に沈む。


 波が嘲笑うように鼓膜を揺らす。


「いやだ……俺は……」


 群衆が波のように俺を飲み込んだ。





「お帰り、哲也くん」

「うん、ただいま。みんな」


 透き通る美しい海、優しい波の音が心地良い。歓迎するかのように、風が柔らかく僕の髪を撫でた。新鮮な魚に、美味しいお酒。灰色の空の下、僕はみんなに向かって笑った。


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矯正 星雷はやと @hosirai-hayato

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