リバーサイド 死について

ひかりちゃん

死について

 このあたりの河川敷は整備されて公園になっている。いくつかベンチもあって、学校帰りにお喋りするにはちょうど良い。

 今日も授業が終わると私は友だちの草加と一緒に川へ向かった。死について話しながら。

「草加は死ぬの怖くない?」

 川岸のベンチに腰を下ろしながら尋ねた。

「恐ろしくはないよ。死が迫ったら助かろうとするとは思うけど」

 私より先に座っていた草加は冷静な口調で答えた。

「何で、ってのも変だけど、やっぱり、何で、だな……。死が恐ろしくないということの意味が私には分からない」

「恐ろしくないというのは不正確な表現だったかもね。より適切には、恐ろしいとも恐ろしくないとも言えない。恐ろしかったり恐ろしくなかったりするのは全部生きている間にする体験であって、死はそういった全ての体験の終わりなんだから、それに対してあれこれ感想を語ることはできないよ」

 草加はいつもこういう言い方ばかりする。煮え切らない感じがするけれど、言葉の流れを追っている分には草加の言うことが正しいようにも思える。かといって私のモヤモヤは解消されない。

「でも、私たちは現に彼が死んだとか私が死んだらとかいったことを語るよね。死について何事も述べることができないわけじゃないみたいだ」

「他人の死も自分の死も、例えば医学的なレベルで客観的に記述できる。実際は定義が困難でーとか、そういう話じゃないよ。とにかく、自分のこの意識とか存在とか、そういう神秘的な用語を使わなくても、身体のレベルで死は記述され得る。第一にはそれが死について何かしら語れる理由だ」

 確かに、身体についての記述だけでも、社会生活上死について必要なことはあらかた語れそうだ。私の大切な友だちが死んだら、彼女の身体は動かなくなるから、私はもう彼女と話したり一緒に遊んだりできない。私に叶えたい夢があるとして、志半ばで倒れたのなら、身体の全体が機能しない以上、その夢を私が実現することはできない。

 しかし、それだけで良いのだろうか。私は死ということで身体が動かなくなる以上のことを言っている気がする。それは何だろう?

「草加。信じてもらえないかもしれないけど、私にはものが見えたり聴こえたりしてるんだよ。言葉の問題じゃなくてね。何というか、私の場合、全部本当にあるんだよ。で、私が死んだら、その本当にあるもの全て無くなっちゃうんじゃないかってさ……」

「それは水城にしか分からないこと?」

「うん」

「じゃあそういった意味を死という言葉に込めることはできないよ。言葉というのは少なくとも可能的には客観的じゃなきゃダメなんだから」

「でも、私にしか分からない独特の『存在するという感じ』ということで客観的に規定すればいけるんじゃないかな。つまりね、可能的にはあらゆる人にそういう感じがあって、死にはその独特のものの喪失が伴うって」

「するとその『独特』は全人類に共通のものになっちゃうけど、いいの?」

「とりあえず、いいよ。心の喪失が当人にとって何を意味するのかってことだよ」

 草加は珍しく考え込んだ。すぐに答えが思いつかなかったのか、私の言葉に何か思うところがあったのか。ともかくも、若干の沈黙を挟んで草加は口を開いた。

「ナンセンスだと思うよ。あたしたちは本当の無というものを考えることができないんだよ」

「本当の無って?」

「あたしたちが日頃『無い』って言っているのは、本当は『不在』のことなんだ。鞄に入れておいたはずのプリントが無い。それはここに無いという意味だ。家にはある。ここには無いものも、どこかにはあるんだよ。どこにも無いもののことなんて考えることはできない」

「でも、私たちは実在しない人物について考えることができるよ。桃太郎とか」

「どこにも無いってのは言い方が弱かったね。あたしの言う『本当に無』ってのは、あらゆる意味で無だってことだ。本当の無は想像することすらできない」

「まあ、そんな否定性で固めたような定義の仕方なら当然そうなるとは思うけど……。それが心の喪失としての死なの?」

「そうだよ。あたしたちは自分の心の外に出ることはできないでしょ? 何らかの形で自分の心の中にあるものについてじゃなきゃ考えることはできない。心は人のあらゆる体験がそこにおいて生じるところの場だ。そんな心が失われるという事態をあたしたちは想像することすらできない。心が無いなら、人にとって感覚も思考も無でしかないのだから」

「確かに、私が私の死について私の死後考えることはできないように思うけど、今考えることはできるんじゃないかなあ。私が死んだら両親が悲しんで、葬式では草加が微妙な顔をしてて……、って考えることはできる」

「それはそうだね。あたしたちの言語はあたしたち自身の不在という状況を表せるようにできている」

 草加はそう言うと喋らなくなった。私は私で言うべきことがまとまらなかったので、二人の間には静寂が流れた。河川敷公園では高校生カップルがキャッチボールをしている。

 考えよう。言語によって私自身の不在を表現できるのなら、私がここで私の死について語ることに問題は無いのではないか? しかし、そのとき私は、私を特別扱いすることはできない。自分の不在を語る以上、私は第三者の視点に身を置いている。私が死んだら世界が終わるとか、本当に見えているのは私だけだとか、そういうことを言語で表現することはできない。だから、私が私の死を語るとき、それは赤の他人の死を語るのとやり方としては変わらない。私が死んでも世界に何ら重大な変化は起きなくて、世界は昨日までと同じように続いていって……。

「じゃあ、私たちは他人の心の喪失についてどう考えているのかな」

「何かが失われること、としか言いようがない。確かにあたしたちは表情や振る舞いからだけでは計り知れない他人の心というものを考えるけど、そもそも計り知れないものが失われるのだから、他人の心が失われるということの意味も具体的には分からない」

 変な感じがする。私たちは他人の心について、表情や振る舞いを通してある程度は知ることができる。そして死んだ人はもはや表情や振る舞いを見せてくれないのだから、そういう意味でその人の心は失われたんだって言うこともできる。でも、それだけじゃないはずだとも思える。私には知り得ないその人の心というものがあって、それが失われるというのはその人にとってかけがえの無い何かが失われることで、私と二度と話せなくなることと同じ意味であるはずが無くて……。

「ひとつ注意しておきたいのは、『他人の心は計り知れない』というのは、あたしが今見ているベンチの裏側は見えていないとか、ここじゃない自宅の様子は知り得ないとか、そういうのと同様の話だってことだよ」

 草加はそう続けた。

「嘘だ。だってそれじゃ、私は適切な手段さえ手に入れれば他人の心について何でも知り得ることになっちゃう」

「いや、それでいいんだよ。他人の心から神秘的な感じがするのは、あたしたちが他人の心にアクセスする特権的な手段を常に欠いているからなんだ。それは想起だ。あたしたちは他人の体験したことを端的に思い出すということができない。これが必然的なことなのかどうかは置いておいて、ともかくも事実問題そうなんだ。でも、それだけだよ。原理上当人にしか知り得ない心の状態なんてものは無いさ。知り方の違いがあるだけ」

「本人が言うのと周りが言うのじゃ説得力が違う気がするけど……」

「それはだいたいの場合においてそうであるってだけの話さ。自分でも憶えていない過去の行動を他人はよく憶えていたりするものでしょ」

「でも、実際に感じた痛みや喜びは本人にしか分からないじゃない」

「もちろん、実際に感じることのできるのは本人だけだよ。でも、それを語る時点では本人も他人も同資格だな。どちらも過去の客観的な事実を構成しようとしていることに変わりはない。あのときはものすごく痛かったように記憶していた注射が今刺してみると痛くなかった。自分は過去の痛みを誇張して記憶していたんだ、なんてこともあり得る」

「とすると、他人の心が無くなるってのは、本人を含めた誰もが、その人に関する個人史を構成できなくなることだってわけ? その人はもう何も感じず、何も考えず、何も行動せず、何も語らないのだから、個人史を紡ぐ材料はもう手に入らなくなってしまったと。そういうこと?」

「その通りだよ。そしてそこまでが、死について語れることの全てなんだ」

 結局語れるのは客観的に言えることだけで、私が感じている死の重大さみたいなものは言葉では表せないのだろうか。それともこの深刻な感じ自体がある種の錯覚で、私は迷信を恐れている人間と変わらないのだろうか。

「ねえ、草加。こう言ってはなんだけど、この世界は私が構成しているんだよ。ここにあるものも、ここに無いものも、銀河系も、自然科学も、私も、他者だって私の心に思い描かれたことなんだよ。そんな私が死ぬってことは、何だか世界内の一事件として片づけられないような重大さをもっていないかな」

「あたしも、世界はあたしが構成していると思っているんだけどね。多少誠実でないのは承知の上で、水城、あなたは世界を無から創造クリエイトしているわけじゃないでしょ? 全世界があなたの表象だとしても、そんな表象を生み出すようあなたを触発するものは、表象としての世界のいわば外から与えられるよりほか無いね? 世界の原材料。あなたが死んでも、そういった意味での質料、簡単に言えば物質は無くなったりなんかしない。そう思わない?」

「それはそうなんだろうけど、でもどうでもいいことだ。私の思い描くこの世界が無くなってしまったら、世界の原材料だって材料としての意味をもてない。私が死んだ後に何が残ると言われてもそれは私には無縁なこととしか言いようが無い」

「あなたの知っているものだけがあなたであるわけじゃないんだよ」

 草加の言うことは理解できなかった。私は思わず聞き返した。草加はすぐに続けた。

「あなた自身もあなたの表象に過ぎないのだとしたら、あなたの構成するあなたという表象にも何か対象があるはずだ。あなたは現に今あなたに対して現象している限りのものではない」

「でも、私が私として認識しているのは私に現象する限りでの私だよ。この体の通時的同一性がそれのもとでのみ認められるもの。この心がそれにのみ属すると言われるもの。私の材料なんて私は知らない」

「水城が恐れているのは単なる無ではないね。あなたの言う死とは世界が現象しなくなることだ。世界の統一が失われることだ。あなたの表象でなくなった存在はあなたにとって何ものでもない。だとすればあなたの人生は一度きりのものだ。世界がただひとつであるというのと同じ意味で一度きりなんだ」

「そういうことかな。それにしても、どうして皆あんなに呑気なのだろう? 皆、自分が死ぬことを知っている。こんなにも恐ろしい死が避けられないものとして宿命づけられていることを知っていながら、どうして」

「死を世界の終焉として捉えていないからじゃないかな。つまり、死までも現象するものとして構成しているんだよ。まあ、これは避けられないことだろうね。最初に言った通り、あたしたちは本当の無としての自分の死について考えることはできない。だから死について語るとき、それが世界内の一事件として扱われるのはやむを得ないことだ。そして語られることによって死の深刻さは薄められてゆく。言葉の虚構する力は、ほっといたら人間をどんどん現実から遠ざけるものだからね。しかし、水城。あなたはそういう語りをすることに抵抗は無いの? つまり、自分の死と他人の死が対等であるような語りは適当だと思っているわけ?」

「どうなんだろう。まず、言語で表現される以上、自分の死と他人の死は対等だ。私は他人の死を我がことのように受け取って悲しみ、一方で私の死を他人の死のように考えて、自分が死んだ後の世界について平然と語る。だけど、私の死だけは特別なんだという思いもある。他人の死はそれこそ世界内の一事件に過ぎないけれど、私の死は世界の終わりなんだって。しかし更に! あなたの死も世界の終わりなんだよって言いたくなるときもある。私は、言語を通して言語以外のところでコミュニケーションをとっているような、言葉じゃ絶対に表現できないようなことを言葉で伝えているような、そんな気がする」

 私が言うと草加はため息をついて笑った。

「大変だよね。水城がやろうとしているのは立体図形を平面上に描こうとするような、あるいは、紙に空けた穴を紙に描き込もうとするようなことだ。ひとつの綻びも無しに十全に表現することなどできない」

 よく分かった。言いたいことが伝えられないという感じは常にあった。しかし、草加の語る意味が分かるというのも不思議といえば不思議だった。

「しかし、それでも、恐れることはないのだと言いたい」

 草加ははっきりと言った。

「水城、あなたは全世界が自分の表象だと宣言することで、そして表象としての客観的な世界を構成することで、自分自身をも現象として構成した。あなたはあなたの表象の中で、他の内面世界をもつ他者も、そういう現象として構成している。その中であなたがもっているのは存在の感じ、ある種の現実感だ。それが失われるというのは比類無きことだから、他者の死とは初めから比べようもないことだから、あなたは恐怖するのだろう。でもね、。それは世の始まりから、何でもいい、何かによって与えられていたんだよ。だから、あなたが死ぬことによってそれが失われたりはしないさ。いや、失われるかもしれないけれど、少なくともそういった本当の消滅はあなたの死とは無関係なんだ」

 私は考えた。確かに、私にとって一番大切なこの現実感は私が与えたものじゃない。逆に、私が死ぬくらいではそれに対して何の影響も及ぼせないのかもしれない。その点では、私の死は本当に、これまでこの地球に現れた無数の生命の死と何も変わらないのかもしれない。だけど……。

「それって、一周回って何だか普通の実在論じゃない?」

「そうかもしれない。でも、一周回る意義はあったと思うよ。だって、現代の多くの人は実在論の世界を生きていると思うけど、それでも『私』の消滅に恐怖するでしょ。一方で、あたしたちの実在論では、あたしたちが本当に恐れているのは『私』の消滅なんかじゃないって言える。言語的な客観的世界を普通に生きているよりは、死の恐怖に無駄に怯えずに済みそうじゃない?」

 正直、草加の言葉は、救いになりそうな気はする。私はこの話を始める前より死を恐れてはいない。だけど、それでも私の死は特別なんだって言いたい気持ちはまだ無くなっていない。

「でも、でもね、私に現実感を与えるその何かも、その現実性のもとで私が世界を構成しなきゃ何ものでもないでしょ。だから、私の死はやっぱりそんな現実性が失われることなんだよ」

「そうだろうか。現実感はあなたの表象ではないんだ。あなたが世界を構成しなくても、ここは初めから現実的などこかなのかもしれない。それでもあなたの世界の消滅が恐ろしいと言うのなら、あなたはあなたの世界の個性を愛しているだけなんだよ」

「そうなのかもしれない。失われて欲しくないと私が思っていたものは、この身体と、この土地と、この太陽と……、そういう具体的なものだったのかもしれない。それは今この瞬間が一度きりのものなんだって言うのと同じ話なのかもしれない。感傷かな……。草加は? 草加はどうなの?」

「あたしは……。この現実感が怖いんだよ。何をやってもただ事じゃないって感じがするんだ。今こうして『この現実感』なんて言葉で水城とやりとりできているというのがやっぱり不思議でならないよ。いや、本当はできていないのかもしれないな……」

 草加は立ち上がった。

「客観的世界なんてものは信じ切れないな。でも、この現実感は深刻だよ。何なんだ、この現実は! って思いがするな。ねえ、もう帰ろうよ」

 日が傾き始めていた。確かにそろそろ帰った方がいい。

 川は右から左へ流れていた。私たちは向きを変えて、流れを遡る形で土手を歩いた。

 草加が最後に言ったことはよく分からなかった。私はこの風景が好きだし、草とかを触って本当に在るなあと思うと何だかほっとする。だから去るのは寂しいって思う。

 陽光がオレンジ色になり始めるちょっと前に私たちは橋を渡った。

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